はてなキーワード: 心理とは
一つ目の論文は、統合失調症スペクトラム障害(精神病性障害 Psychotic Disorder という言葉のほうが日本では一般的)の患者 n=121(少ない)を対象とした研究で、陰性症状とフェリチンに相関関係がありましたと書いてある。
アブストラクトは「示唆された」「更なる研究を」と締められてるよね。
つまりこの研究単独で「因果関係がある」とは言えないってこと。根拠としては非常に弱い。
統合失調症の陰性症状と自律神経失調症はまったく別の概念なので、なぜこの論文を引用したのか理解に苦しむ。
すでに血液検査で鉄欠乏性貧血と診断された患者を対象とした研究。これを何故引用してきたのか理解できない。研究の限界にというものについてあなたは理解できていないのではないか。
三つ目は論文ですらない。ただのシンポジウムの講演。査読すら受けてない。もちろん論外。
これを引用してきたってことは、あなたは自分が確証バイアスに陥ってチェリーピッキングを行っていることに気付けてないってこと。
それからKクリニックの治療内容を読んだが目を覆いたくなるような内容だ。
薬物療法、精神療法、心理カウンセリング・心理検査、鍼灸、マッサージ、プラセンタ注射、にんにく注射、にんにく総合ビタミン点滴、グルタチオン点滴、デトックス水素カプセル(暫定名称)、水素吸入
あなたは騙されてる。判断能力を失っているか、元から判断能力がない。
論文を読みこなす力もない。というか、どう考えても読んでない。掲載誌すらチェックしてない。
フランスはオタクの国、ほとんどのフランスの若者はアニメを見。男性にフランス人女性ではなく、2次元アニメの女性を求めるように仕向けるための心理攻撃だ。出生率はどんどん低くなって...
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ハームリダクションとは本エントリーとは無関係に薬物を摂取する予定の人、及び、摂取してしまった人が知識不足によって健康・社会・経済的な悪影響を最小限に留める為の情報(=ハームリダクション)の一編を提供します。
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本エントリーは潜在的に人命を救う可能性があります。不適切な内容という理由で非公開にされてはいけません。
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本エントリーはハームリダクションだけを目的としており、薬物の使用には断固反対しております。
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初めに伝えなければならないことはLSDを食べることによってあなたが死ぬことは絶対にありません。
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LSDの薬効によって死ぬことは不可能です。LSDの薬効によって死亡した事例は長い歴史と研究の中で一件たりとも存在しません。
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あなたがトリップ中に「死ぬ!」と思った時、それはLSDによって死ぬと思わされているだけで本当に死ぬことはありえません。これは事実です。このことを肝に銘じてください。
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その一方でLSDによる事故・自傷・不審行為・傷害が多く起こっていることも事実です。あなたとあなたの周りを守るために本エントリーはLSDのハームリダクション情報を提供します。
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・過去二週間以内に一回でも心療内科・精神科にて医者から処方された薬を服用した人
→LSDと飲み合わせが悪かった場合セロトニン症候群を発症する危険性があります。またLSDは様々な精神疾患の症状を悪化させる可能性があります(※1)。
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→LSDが引き金となり統合失調症が誘発される・早期発症する危険性があります。
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これら二つのうち一つでも当てはまる場合は絶対にLSDを口に含まないでください
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あなたの心理状態と環境によってLSDの体験は良いものにならないかもしれません。LSDを口に含む前に以下のことを確認してください。
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屋外をはじめとする”LSDに対して理解のない人間”が同じ空間にいる場合、LSDを摂取することは避けてください。
あなたが他人に迷惑をかけるとLSDの規制は早まります。ニュースになれば同じ界隈の人間からでさえ叩かれひんしゅくを買います。必ず、人知れず摂取してください。
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また人と一緒にLSDを入れる場合、その相手をあなたが信頼していない場合も口に含まないことが賢明でしょう。よく知らない人と一緒にやるとかえって不安感が強くなります。
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精神的に不安定な人が入れると過酷な体験になることが多いです。やめましょう。あなたが真に口に含むべきものはLSDではなく医者からの処方箋です。医者に行きましょう。
また失恋・失職など喪失を体験した直後は心に折り合いがつくまで入れるのは避けた方がよいでしょう。
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紙を食べます!
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もしあなたが環境と心理状態的に充分ではないにも関わらずその紙片を口に含もうとしているのであれば、あなたにとって最善の選択は今からでもその紙片を冷蔵庫に戻すことです。
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しかし、あなたの状況によってあなたがその紙片を口に含まなければならないことを私は一定の文脈で理解しています。極力、計画的に摂取してほしいと筆者は願っていますが口に含まなければならないあなたに最低限、留意しなければならないことを説明します。
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そして何度でも唱えなければならないことは「あなたは死なない」ということです。冒頭にも書きましたがLSDの薬効によって死亡することはできません。死ぬと思ったとき、それはLSDに死ぬと思わされているに過ぎません。あなたは死にません。
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Q.はじめてやります
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A.1枚を超える量を入れないでください。
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1枚を超える量は慣れている人にとっても過酷な体験になります。よくわからず2枚入れた人が路上で全裸になり発狂する。はよくある話です。もし心配な人がいたら0.5枚(75mcg)からスタートしましょう。私から言わせるとはじめての人は1枚もかなりハードです。
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Q.どのくらい続くの?
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A.完全にLSDが抜けるまでおよそ10時間かかります。丸一日潰れるものと考えてください。
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口に含んでから効果が現れ始めるまで30分~120分かかります(カムアップ)。
効果が最も現れる時間はピークに入ってから3時間~4時間続きます(ピーク)。
その後完全にLSDが抜け切るまで更に3時間~10時間かかります(カムダウン)。
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LSDはプロドラッグとされ効果の発動まで時間がかかります。なかなか効果が現れないからと追加でLSDを口に含むことは絶対にしないでください。
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Q.大麻吸っていい?
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A.大麻に関わらずあらゆるドラッグを一緒に入れてはいけません。
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LSDは単体で摂取することが基本です。アルコールやカフェインを含む他の物質と一緒に入れるとトリップが予測困難なものとなり良い体験にならなくなったり、思わぬ飲み合わせによって身体的危険性が高まります。
トリップ中に大麻を吸った途端バッドトリップに入ったはよく聞く話です。
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Q.帰ってこれますか?
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これは事実です。血中の分子は必ず抜けます。いつか必ず終わります。しかし一度入れた物質は代謝・排出されるまで抜くことはできません。LSDにリタイアはないのです。少ない量からはじめましょう。
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Q.死にそうです。
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A.死にません。
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再三伝えている通りLSDによって死亡することはありません。しかし万一身体的不調がありヤバくなった場合は救急車を呼んでください。幸いにもあなたが口に含んだものは合法のものです。あなたの命にはかえられませんのでいざという時は躊躇なく呼んでください。
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Q.またやりたいです。
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A.最低一週間は開けましょう。
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LSDをはじめとするサイケは頻繁にやるものではありませんよ。耐性は5日ほどでなくなるとされていますが通説では一週間~二週間をあけることが推奨されています。
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物心ついた頃からアニメや漫画の世界にもしも自分がいて、好きなキャラと仲良くなってあわよくば恋人になれたら…という妄想をしていた。にもかかわらず、約四半世紀生きてきて人と付き合ったことはおろか恋愛感情を抱いたことがない。
傍から見ればただのイタいオタクだし、自虐でそう言ってしまうこともあるのだが、最近この心理について言語化できてきたので思考整理も兼ねて少し真面目に書いてみる。
しかし私は推しを好きになればなるほど、えも言われぬ不安が膨らんでいくのを感じていた。そしてそれは推しが現実に生きている人間だからだと気付いた。
彼はアイドルとしてカメラの前では自分自身をプロデュースしていて、そうでない時は当然ひとりの人間として生きている。しかしマスコミはそんな彼らのアイドルらしからぬ面、カメラの向こうに見せようとしていない姿を白日の下に晒そうとする。もしも推しのそんな面が露呈してしまったとき、私は変わらず推しを好きでいられる自信がない。内容によっては嫌いになってしまう可能性すらある。それが嫌。
二次元のキャラクターはカメラに写っていない部分は無に等しく、作中で描かれていること以外は空白。その部分を想像して描いた二次創作は人によって解釈の違いはあれど全て妄想で真実ではない。
自分の頭の中でだけは100%自分に都合のいい推しを愛することができるのだ。好きな気持ちは自分の中で永続する。つまりは偶像化。
私はこれを生きている人間相手にするのが苦手なんだなと思った。自分と全く違う人生を持つ他人に理想の恋人を投影できない。どんなに初対面の印象が良くても関係を深めるうちに好きになれない、受け入れられない部分があるのは当たり前だ。そんな部分をコミュニケーションによってお互いにどう折り合いをつけるか探っていけるのが健全な人間関係だと思う。恋人という特別な関係であるならば尚更。
ただ、私にとってそれは恋ではないのである。
二次元キャラに対する恋は永遠に一方通行で、相手が実在しないからこそ自分の好き勝手な偶像を押し付けることができる。だから楽しくて、心にささやかな潤いをもたらしてくれるのだ。
(妄想を表に出すなら公式や見たくない人に見せない配慮は必要)
三次元の人間を好きになって、相手から同じ感情が返ってくることはどんなに嬉しいのだろうとたまに考える。おそらく恋人という関係を長く続けられている人たちは相手を偶像化した恋愛感情を取っかかりにして、偶像とは違う相手の嫌な部分にも折り合いをつける関係性にうまくシフトしていけているのではと思う。そうして人生のパートナーとして共に生きることを選ぶ場合もあるだろう。
感情の熱量で言えば燃え上がる炎のような恋愛を経て、蝋燭の小さな灯が揺れる穏やかな愛へ、といった感じだろうか。
冒頭でも書いた通り私は20代半ばなので同級生が結婚した、という話題もしばしば耳に挟むようになった。惚れた腫れただけの恋愛はほとんどの人が終わらせて、恋人をつくるならその先を考える年齢になってしまった。
そして私自身も、今から惚れた腫れたをしようとするには心を燃え上がらせる燃料、精神的な若さみたいなものを失ってしまったように思う。生身の人間相手の恋愛を経験し損ねてしまったのかもしれない、ということが少しだけ惜しくなる。
恋してみたいなー。
心理学のまあまあニッチな理論に、対象関係論というのがある。赤ちゃん目線から見たお母さんとの関係に関する理論、という多分心理学に興味が無い人からしたら意味不明な理論がある。
この対象関係論に、「原始的理想化」がある。これは、「自分の好きな人がやる事をなんでも良いと思う事」である。もう少し言うと、「好きな人が自分にとって嫌なことをしても、それをその人がやったと思わない」事である。
この概念はSNSでの喧嘩とか炎上とかそういうのにも適用できそうだなと思う。たとえば熱狂的なファンが、アイドルがなんかヤベー事しても、いや〇〇は悪くない悪いのは××だ! ってなる奴あるじゃないですか。あれ立派な原始的理想化だと思うんですよね。
で、その原始的理想化の更に面白いところは、赤ちゃんが何故そんなことをしているかと言えば、自我の形成過程において相手の理想的な部分を自己に取り込んでるからそうなるんですよね。対象関係論なんで科学的根拠とか無いんですけど、面白くないですか? つまり、原始的理想化が起こってる時、「好きな人」はイコール「自分」なんですよ。だから原始的理想化が起こっている時に、好きな人を否定するということは、自分を否定することになるんですよね。
何か有名人に問題が起きた時、それを凄く擁護するファンとか一定数いると思うんですけど、それってまあ有名人を守ろうとしている一方ファンが自分達自身を守ろうとしている行為でもあるって事なんですよね(対象関係論的に言えば)。
まあ赤ちゃんとお母さんの関係の理論なんで、そういう行為自体が言うなれば"ガキ臭い"となるのも、また二重におもろいなと思ったりしますね。
米誌が指摘。『ゴジラ-1.0』は、日本が米国に見捨てられる不安を描いている | クーリエ・ジャポン
https://courrier.jp/news/archives/359531/
米誌が指摘。『ゴジラ-1.0』は、日本が米国に見捨てられる不安を描いている | クーリエ・ジャポン
https://courrier.jp/news/archives/359531/
はてなー共は「作品の過程で成立させただけ」って言ってるけどな。
日本近海で大規模戦闘起こしたらソ連が「威力偵察」で海軍出すだろウラジオから。
露助だって原爆作ってるから使いたい時に使うんだよ、まだ威力とか問題点とか分かってねぇんだから。
(そういう意味ではノイマンの言う通り「明日の一番早い時間でモスクワを核攻撃する」べきだったんだが)
ぶっちゃけ。トランプが大統領になったらジャップ軍だけでシナ軍と戦うことになるんだよ。
「出撃すな。1兵も死ぬな。死ぬのはジャップだけだ」って大統領命令で完了だぞ。
その間議会が動くけど、それまでの間は全部ジャップ軍だけ。制海権は取られないかもしれないが、制空権は取られるし、米帝のいない基地は戦術核で潰される。
ウクライナ戦で学習してるだろシナは。で、外洋全面侵出を阻んでいるジャップ国土を制圧するのに一番簡単なのは、航空自衛隊基地をすべて戦術核で破壊すること。
(露助は宇戦でそれが出来なかった。でかすぎる賭けだけど、キーウへの戦略核の一撃で西側の腰砕けは確実。ポーランドやスウェーデンはものすごい勢いで西側に追いやるだろうけど、ハンガリーは確実に離反するだろうし。そっちがプーとしてもお好みだろう。敵は殺せばいいんだから)
核攻撃は間違いなく防御側に思考停止の時間を作る。特にジャップランドは間の抜けた片翼平和主義(非武装(笑))だし、核アレルギーだから一発で麻痺する。俺がくまプー主席なら間違いなく、米軍のいない自衛隊航空基地への確実な戦術核攻撃(港はやらん。上陸の時に使うんだから)。
それで民間の損害が出てない(出てもコラテラル・ダメージと認知される程度)だったら「この戦術核攻撃はノーカン(米軍&トランプ&親シナの議員)」ってなる。米本土(占領基地含む)攻撃じゃないし、日本国土への攻撃=民間の死傷者だからね。
そうなれば米軍は動かん。動きたくても動けない。次の攻撃される前に全軍撤退、グアム辺りまで前線下げるだろ。
まぁその後、シナの共栄圏(笑)に属国として収まるだろうけど(米帝が奪還してくれないと)、user20200405 みたいな反米並びに権威主義政体主義者はどう思うんだろうね。まぁ、米帝がやったのと一緒だからノーカンか。そういう精神構造してそう。
俺は嫌だけどね。シナとは一緒になりたくない。その気持ちは平時でも変わらん。仕事相手として優しくしたかったが、無理だよアイツラは。無理。
ジャップ企業よりケチだとは思わなかったよ、しかも人材で困ってるCEOがケチなこと言うんだから驚かされる(リードエンジニアを雇いたい→安くて月120万ぐらい→バカを言え!本土だったら月50万でも喜んで来るぞ!→(じゃあそうしろよクソが))。
挙げ句経営者としてのマネージもしないし彼の怠惰の失敗は部下のせい。心理安全性とかマジでバカにしてんだろうなアイツラ。国民全体にその精神性と価値観が生きてる連中とは一緒になれません。無理です。
そもそも盗難が日本より遥かに多いアメリカが置き配デフォルトで盗まれたら業者側が保証するシステムなんだから同じようにやればいいだけ。
有料化とか細けえことを考える必要はない。単に日本の場合は消費者側が「置き配ってなんか嫌だな」と雰囲気で嫌がってるだけ。現状でもなんかあったら保証くらいされるだろ。それでも嫌だっつー消費者心理なんだよ。
数年前に父が亡くなり、半年前に母も亡くなった。ずっと実家暮らしで、会社仕事の合間に農業をやっていたが、そろそろこの家ともお別れである。家族が俺一人になったので、土地と建物を売りに出して、会社の近くにある空き家ハウスに引っ越すのである。
相続が終わってから、遺品整理屋とかリサイクル屋とか解体屋さんと話をすることが多くなった。処分すべき財産はあっという間に片付いたが、最後に残ったのが……西暦で言うと2000年頃に亡くなった実弟の漫画だった。部屋を共有していたので、本棚には俺と弟の漫画が並んでいた。
その大半は、ブックオフでも1冊10円すらつかないモノだった。メルカリで売るにも手間がかかりそうだ。遺品整理屋も「今のご時世、紙のマンガは売れないんですよ」と引き取りを断った。ほかの価値のなさそうなモノは、タダ同然でも引き取ってもらえたのだが。
何か月か経って、今年の正月を過ぎた頃だった。
実家の本棚にあった俺の漫画を何冊か、手に取って読んでみた。うーん、これは……「懐かしい」という感情が僅かにあった。一番好きだった漫画、『天使禁猟区』『スカイハイ』『クロマティ高校』を読んでみたが、いまいちピンとこない。楽しい思い出が蘇ってこない。お楽しみの記憶は脳裏から消えてしまったのだ……。
ふとここで、亡き弟の漫画を手に取った。あいつは将来裁判官になりたいと言ってたっけ。『家栽の人』が本棚の目につくところに置いてあった。一番上の段だった。
そして、一番下の段に視線を移すと……ここで一番、ドーン!! と、当時の記憶が蘇った。それは、『まもって守護月天!』だった。弟が一番好きだった漫画。
家族で食卓を囲んでいる時も、旅行をしてる時の車内でも、何気ない団らんの瞬間でも、とにかく弟は、この漫画の話をしてることが多かった。
弟の死因は、自動車に轢かれた後の外傷から、内臓の疾患にかかったことにある。交通事故の原因の半分は弟にあり、当時は自業自得だと冷たいことを思ってたけど、まさか亡くなるとは……。病院でお見舞いをしてる時にも、弟はこの漫画を繰り返し読んでいて、ずっとその話の内容とか喋ってるんだよ。どんだけ好きなんだよって思った。
確か、アニメも観たいって言ってたかな。病室にテレビはあったけど、ビデオを再生できるものがなかった。弟は泣いて悔しがっていた。
さて、当時の俺は高校生であり、ガンガンコミックスの漫画を読むことはなかった。守護月天の漫画を読んでみたことはあったが、すぐに読むのをやめた。「稚拙だな」と思ったのもあるし、「絵がちょっとな~」という思いもあった。当時の俺は、CLAMPが描くような、Xとか聖伝とか、ああいう精緻な絵柄のエログロが好きだった。
とにかく弟は『まもって守護月天!』が好きだった。それを、この本棚を見ていて思い出した。この日は休日であり、時間がたくさんあった。せっかくなので、この日から一週間ほどかけて、全11巻を読んでみることにした。
読んでみた感想を、以下に綴っていこう。感想を交えつつ、各巻に1~2箇所ずつ、印象的だったところを抜き出して引用する。
ネタバレがあるように見えるけど、本当に大事なところは抜き出してない。隠してる。まあ、俺の人生で『まもって守護月天!』を取り上げるのはこれっきりなんだし、少しくらいは許してくれ……。
その前に、これはどういう漫画やねん、と気になった方はWikipediaでググってほしい。あらすじは、概ねこんな感じである。
~ブックライブ!から引用~
一人暮らしで寂しさを抱える少年と、ご主人様をあらゆる不幸から守る役目を持つ守護月天の美少女とのファンタジー・ラブストーリー。 一人暮らしの中学2年生・七梨太助(しちり・たすけ)は、中国を旅する父親から支天輪(してんりん)という八角の輪を送られる。
つまり、主人公の何気ない行動をきっかけとして、小璘(シャオリン)という女神様のようなものがやってくる。お互いに惹かれつつ、ラブコメディが進行していく。その中で、超えないといけない壁がいくつもあって、主人公である太助がシャオにふさわしい男になるために奮闘する物語である。
では、さっそく始める。
読み始めは、正直キツかった。絵柄が古いのもあるし、漫画表現が昔風なのもあるし、ラブコメを読んだ経験がない人間には何がどう面白いのかわからない。
あまり楽しめないのは、すでに四十を過ぎているからだろう。子どもの頃であれば、まだマシだったのかもしれない。ただ、まあ……コンセプトはいいと思う。すごく。
なんとなくだが、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を思い出した。某グルメ漫画でいうと、「うん こういうのでいいんだよ こういうので」を地で行く。
①シャオリンが「この平和な時代に、どんなものからご主人様を守るか」を決めたシーン
「太助様…」
「…え……」
「もし迷惑でなければ あなたの中にある「孤独」や「寂しさ」から あなたを守ってさしあげたいのですが それではいけませんか?」
シャオが歴代の主を守ってきた手段は、主に暴力である。星神を呼び出して使役し、主人を狙う者を撃退する日々を過ごしてきた。だが、平和な現代でそんな行為に需要があるはずもなく。シャオは、呼び出されてすぐにお役御免になってしまう。
ならば、主人である太助をどのように守ればいいのか――その答えが上記の台詞である。命を狙う敵がいないのであれば、孤独や寂しさから主人を守るのだ。太助には家族が3人いるが、全員家を離れて放浪の旅をしている。ネグレクトに限りなく近いものがあるが、ラブコメの都合というものだ。
このあたりは、まだだるかった。物語の登場人物は揃いつつあるのだが、展開が退屈でなかなか話が進まない。この巻から、慶幸日天の汝昴(ルーアン)という主人公の恋路を邪魔する、まさにお邪魔キャラみたいな人が出てくる。
別に、なんということはない恋愛妨害工作なのだが、この時代のラブコメは高橋留美子の影響がまだ色濃いのだろうか、暴力性が強い。この巻以外にも「死ぬやろ……」というシーンがけっこうある。昔は気にならなかっただろうが、やはり時代というものか。
②ルーアンの計略によりシャオが太助の元から離れようか迷っているシーン ※太助が駆けつける
「えーっと 今はうまく言えないけど… 俺はシャオにずっとここにいてほしいんだ ――それだけじゃここにいてもらう理由にならないかな……」
ルーアンがそれっぽい発言をして、「シャオは現代には不要ではないか」という意見を伝える(あなたなんて いても邪魔なだけなのよ)。シャオは真に受けてしまって、支天輪に帰ろうとするのだが……すんでのところで太助がやってくる。そして、ふたりきりの状態で上のような会話をする。
この場面は気に入っている。シャオの気持ちも、太助の気持ちもリアルに描いていたからだ。ストレートさがいい。
このあたりから恋愛路線に入ってくる。太助がシャオに愛情を意識する場面が出てくる。
ネタバレは避けるが、シャオには恋愛ができない事情がある。本人ですら認識できない事情が。
以下の山野辺というのは、最初の頃は万引きとかするキャラとして描かれていた。物語が進むにつれて応援キャラになっていく。
③シャオと山野辺が一緒に温泉に入っているシーン
「なあ シャオ…」
「…………」
「シャオ?」
「はい?」
「なんか元気ないけど七梨と何かあったのか?」
「翔子さん…………私 病気かもしれないです なんだか…ね 胸が苦しい… 太助様がルーアンさんと一緒にいると とっても胸が苦しくなります さっきなんか どうしてだか自分でもわからないけど そっけない態度とっちゃったし太助様が話しかけてくれたのに 太助様にきっと変に思われちゃった きっと悪い病気にかかっちゃったんです ――でも どうしたらいいのか わからなくて…」
(へえ…精霊ってのも 人を好きになったりするんだあ…)
うん。女性作者が描いてるラブコメってさ。女性側の心理描写がリアルだよな。女の子ってさ、好きな男性の目の前だと萎縮することがあるじゃん。意中の人を目の前にすると、体がつい後ろに下がってしまうとか、廊下を走って逃げだす子とかいるよな。
なんかこう、恋愛感情に対して不安になった時の女性心理というか。リアルさが伝わってくる。子ども時代に読んでも全く認識はできなかったろう。
この巻くらいになると、ストーリーの基本線が定まってくる。何らかの事件やイベントが起こって、太助とシャオが巻き込まれて、レギュラーキャラがそれぞれの立ち位置で動き回って、なんやかんかで解決して、ふたり(又はほかのキャラ同士)の間柄が深まって……という流れである。
基本は、太助~シャオの関係性がメインだ。この作品のうまいところは、ふたりばかりを推すのではなく、ほかのキャラクター間の友情とか愛情もガッツリ描いてる。
この巻だと、2つの場面が印象に残っている。いずれも、ルーアンがふたりの仲を妨害するための工作を試みて、やってしまった結果である。
④-1太助が高速道路を自転車で走行中にタイヤがバースト、そして前方車両(トラック)と自転車を括っていたロープが取れて転倒した後のシーン
「………え 太助様!? 太助様太助様!! 太…助様あ… ……う…」
「あ…あの小璘さん…」
「どうしよう…どうしようどうしよう ルーアンさん! ――太助様が 死んじゃったらどうしよう!!」
「あ…いや まさかそんなあ」
「どうして支天輪を車に乗せちゃったりしたんですか 私……太助様に何かあったら ルーアンさんのこと絶対許さない!!」
「…………」
「太助様に…太助様に何かあったら… 太助様… 太助様早く帰って来てください」
「小璘…………あんた」
④-2保健室で、シャオがベッドに横たわって寝ているシーン
「なあ…ルーアン」
「はい!?」
「…俺シャオのこと 好きにならない方がいいのかな…」
「………… あんたあのおじょーちゃんになんか言われたでしょ ――じゃあひとつ聞くけどなんでそう思うの?」
「――…」
「…………」
「…ねえ たー様 あたしは たー様のこと好きよ 考えれば悩みなんていくらでも出てくるけど 一番大切なのは自分の気持ちでしょ だからあたしはあんたみたいに悩まない 悩んでも変わらない想いなら 悩むだけ損だと思わない?」
気持ち、とでもいうのかな。かの有名な『BLEACH』でいうと、ウルキオラ・シファーの名台詞のひとつである、
心か
みたいな感じだ。登場人物の心境がさ、わかるんだよな。喜んでるのもわかるし、苦しんでるのもわかる。そんな中でキャラクターが足掻いている姿が印象に残った。
漫画を読む前に下調べはしなかった。今も一切してない。よって推測になるんだけど、この作者である桜野みねねっていう人は、この時(1998頃?)は大学生かそこらの年齢なんだよな。作者あとがきを読むと、若いんだなというのは伝わってくる。
俺が二十代前半の頃は、地面から出てきたばかりのカブトムシの如き勢いでスポーツをするか、水道工事の現場であくせく働くか、盛りのついた獣のように女を口説いて、年間に何人とセックスしたか記録を付けるとか……同じ会社の女の子と無理やりそういうことをした後でも、最後にベッドの上で「愛してるよ」と言ったら許されるから大丈夫とか、そんなことしか考えてなかった。人間性が動物レベルだった。
でも、この桜野みねねという人は、そんなどす黒い人間の対極を行く感性がある。この作者は凄い……と、いい年になったおっさんは感じた。※私個人と作者の年齢差は、干支0.5周り分ほどと思われる。
20年以上前の漫画なので、さすがに創作でも……というシチュエーションが生じることがある。作品内では、たまに登場人物がみんなで旅行とか海とか温泉に行くのだが、メインキャラがほぼ中学生で、20才以上は大変少ない。無理があるし違和感がある。
しかし、旅行とかでないと表現できないラブコメ的なシチュエーションもあると思うので……そこが創作の難しいところである。いや、文学作品の創作とかしたことないからわかんないけどさ。
⑤仲間と海に来ていて、ようやく夜の海岸で二人で話ができたシーン
「なんだかね………私 太助様ととってもお話したかったです 別にお話したいことがあるわけじゃないの… でも… 太助様とお話してるととっても落ち着くから…」
「……シャオ」
太助とシャオは、何度もこういうシチュエーションになっている。が、恋愛が進む気配はない。事情はあるのだが、あまりに絶望的な事情なのだ。
あと、文章量の都合で載せなかったが、クラス演劇(かぐや姫)の数話分も大変よかった。ルーアンと、ほぼサブキャラの乎一郎が主体の話なのだが、中学校の学芸会でかぐや姫をやることを通じて、「離れていても心は繋がってる」という要素を表現している。
この回は、大人ながらにしみじみときた。気になる人は、是非5巻を読んでほしい(ダイレクトマーケティング決行)。
大まかな流れを言うと、ラストのお別れシーンでかぐや姫役のルーアンが台本にないセリフを言う → 月の使者役のシャオがお迎えを中止発言 → 乎一郎がそれを制止 → その後の会話のやりとりで、離れていても心は繋がっていることを示唆~といった具合である。
ここまで五千字以上は書いている。一旦切ることにする。
文量の都合で2分割。
次に続きます。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
ペットショップで犬猫その他動物を買う事が本当に無理って考えてて
どう考えても理解できない
でもそこ場にいる犬猫たちも早く誰かに飼われて大事にされて欲しいと思うから、「買うな!」とは思わない
ただペットショップに生体が並ぶことが嫌い、そこで買ったら新しい別の命が犠牲になると考えてしまう。
ペット産業が地獄なのもあるしそれに加担しようとしていて、自分が買った一匹の命は大事にする考えが理解できなくて考えてみた。
そして、そういう命をお金買う人と違うのはわたしの考えがそもそも犬や猫をすぐ「個性として考えない」ということなのかもと。
ペットショップに行ったら複数の選択肢の中からすぐ「この子」となる
保護団体とかに引き取りに行ったら「この数の中からこの子を選ぶ」となる
わたしは良い意味でも悪い意味でも、目の前に現れた「動物」を「個性」としてすぐ考えないんだなと思った
だから、目の前に現れた動物が「どういう体調でどういう気持ちなのか」ということをすぐ考える
例えば犬なんて表情筋もあるから悲しんでるとか喜んでるとか人懐っこいとか人嫌いとかも当たり前にわかるって思っているし周りのわたしと同じような考え方も同じようなことは言っている(そして勘違いかもしれないけどねとオチになるけど)
また、人間も動物なのに、わたしが実際に会ったショップで買う人って人間と動物の区別がはっきりとついているんだなと思った。
今住んでる土地や家も今は近代文明がゴロゴロとあるけど、実際は全て「自然」でできてて、みんなの「場所」であるから、動物と暮らしているのを「お世話してる」と考えるんじゃなくて「一緒にこの家に住んでもらっている」って考えがないんだなと。
「この家に買われなければ今ごろ殺処分」とか「買われなければ野良になってた」とか自分の側に置かなかった場合の未来を想定して「うちの子にしてあげてる」っていう人間の方を優勢に考えてるのかなと思った。
かといってショップで買うな!とは思わない
ショップで買う人じゃなくて、ショップを嫌いになるべきなのにそのペット産業をどうにかするのもできないからどうも動物愛護が故に思い浮かべる殺意の矛先がショップで買う人に向きがちなんだと思った。
前に話したことがある男の人は「俺は犬買う時、毛色、大きさ、性別、顔の作り、全てにこだわって選んだ」って言ってたから
お金でなんでも選べるという考えより、
根本的な「命」や「生き物」に対して考え方が
「人間とそのほか」で分けてるんだなってその時思った
そういう人たちは数は少ないとは思うけど、何かしら犬や猫を飼いたいと思った時に保護が真っ先に出てこないのが教養の無さと知名度の低さなのかと思った
癌になったので臓器丸ごと手術で取ってきた。
診断直後に臓器丸ごと取るか腫瘍だけ取るかをちょっと悩んだものの、決めてからは結構さくさく進み現在はリハビリ中である。
手術前準備であらゆる科を回ったところ、だいたいのカルテに「気丈に振る舞っており極めて冷静」と書かれた。割と取り乱した側だと思っていたので頭をひねるも、そういえば自分には身近に比較対象がいないのだった。
術後の痛みの具合やどのくらい動けないかなど、体験談があれば参考に聞いてみたい。
身近にいなければネットの海だ!と軽い気持ちで検索し、難なく罹患者体験談を見つけることができた。
健康診断での疑いから診断確定までの動揺、これまでの生活の後悔、人生設計の見直しによるストレス、検査結果が出るまでの長期の不安感、癌のステージや終わりのない転移に振り回される疲弊。
体験談にはあらゆる負の感情が細かく記されており、時間が進むにつれ「これは人生の試練である」「自らの成長のきっかけである」という結論に集約されており、独特の明るさや精神的成長の記録に満ちていた。
苦手分野である。
術後のドレーンの痛み具合・退院後の一般的な療養期間・入院便利グッズなどが知りたかったのであって、他人の試練や心理的成長には興味がないのだ。
テキスト群でこれだけ感情が読み取れるのだから、医師や看護師の人たちの前ではもっと大きく感情が出るんだろう、と先のカルテの記述に思い至ったのである。
分かるんだけどね。
自分も罹患者グループ入りした手前、自分に降りかかった不幸に理由付けをしたくなる気持ちも、罹患によるメリットを体外的に示したい気持ちもよく理解できる。不安になって体験談を公開する心理は今まさに自分がやってることだし。
でも、そこまでの気分じゃない時に目に入る、セミナーめいたポエムたちはちょっと肌に合わなかった。
結局2〜3個の体験談を読んだあと、ドレーンが痛いか痛くないかの事前確認は諦めたのであった。
ちなみに、実際に入ったドレーンは痛くなかった。
ただし抜けた後の穴がなかなか塞がらず、その間に術創までの道が膿んでしばらく痛み、長く苦しみました。
精神疾患は仕事や学業に支障がでている状態なので,そうじゃない場合は医者としてはそういった対応になってしまうのかもしれないですね。
心理相談とかがよい気がするので,近くの大学附属の心理相談室などを探してみてはどうでしょう。
目次
「弱者女性は理解ある彼氏に助けてもらえるからイージー」が弱者男性に流行っている文言である。
総務省によると、日本の人口は男性が62,110,764人,女性が64,815,079人らしい。
女性全てに彼氏ができたとしても、必ず余りが出る人数差である。
女の寿命の方が長いため一概には言えないが、少なくとも私は生涯で一度も彼氏ができた事はない。
だからと言って、「弱者女性はイージー」を簡単に否定できない。
女性が本当にイージーだからではなく、助けを求めるまでが違いの本質だからである。
弱男にあって弱女にはない辛さを同性以外が語るのは公平ではないが、イージーと断じているのだから多少は聞いてほしい。
聞く限りの弱男の辛さの大半は、強さを求められる性に起因している。
多く見られる意見は、モデルケース通りになれない弱男が異性・同性に攻撃にされる、弱者嫌悪を内面化してしまったために助けを求められなくなる、セルフケアの実感を感じにくい、などである。
まず助けを求める心理ハードルが高く、大事にされた経験が薄いため助けてもらえたかも実感できない苦しみは、男性の方が多いだろう。
SNSではパートナーがいる発達女性が圧倒的に多いため、なおのこと「お前らは助けてもらえるからいいよな」と思うだろう。
女全体がそうであると思われるのは納得いかないが、「パートナーいるのになにが弱者だ」くらいは独身の弱女側も思っているので否定しない。
女全体が助けてもらえると思うのも無理はない。
というより、見た目も扱いも弱男とほぼ変わらない。
助けを求めるハードルは男性より低いかもしれないが、求めたところで追い返されるのだ。
まず、性別は役に立たない。
男より髪が長く、胸が大きく、腰は細くて尻から太ももにかけて大きい。体毛は少なくて化粧をしている。
所作は男性より小振りでおしとやか。ほどほどに弱く、助けたくなる魅力がある。
おそらく弱者男性のイメージする「イージーな女」とは上記のような女ではないだろうか。
性別が分からないレベルで小汚い女を想像する人は少ないと思う。
髪を綺麗にのばすのも、痩せるのも、化粧も所作も知識と時間と金に恵まれなければできない。
逆に化粧してるけど髪ボサボサ、変なこだわりがあるせいで服装はトンチンカンだったり、
外見が乱れても気付かなかったり、とどこかしらで異様な雰囲気を醸し出す。
男と違ってスーツノーメイクは許されないので、どう足掻いても異常性がまろび出る。
スーツノーメイクで行っても死にはしないが、ほんとうに死なないだけである。
せめて体型さえ綺麗であれば価値ある女として見られるが、健康面の知識がないので不可能である。仮に知識があっても金がないので反映できない。よって体型も変になる。
女なので胸は膨らむが、栄養の偏りでただ太るかガリガリに痩せるかの二択しかないのでどちらにせよ美しくはならない。
女というより、典型的な弱男に近い外見になる。
感覚過敏で髪を短く切るしかない弱女もいるので、ますます魅力的に見えない。
こうなると本当に優しくしてくれる存在がいなくなる。
女は小綺麗という世間的イメージも強いので、小汚い女は異性からも同性からも嫌われる。
弱男に攻撃的な一般女性は多いが、弱女に攻撃的な一般男性も同じくらい多い。
本当に何も持たない弱女は、子どもの頃から「女としてありえない」を前提にした扱いを徹底される。
罰ゲーム告白の的にされる、無理やり身体を触られた挙句吐く真似をされる
女の服着るなよと制服を引っ張られる、髪や脚などが他の女と同じくらい露出してるのが気持ち悪い・風のせいできもい女のパンツが見えてしまったという理由で暴力をふるったり暴言を吐かれる、いきなり顔を覗き込んで大声で採点する……
地域差もあるかもしれないが、こういう魅力的でない女に対する男のいじめはよくある。
女性が好みではない男性を拒絶するように、男性も女性を拒絶する。
男が関わる事、接近する事でアピール認定されて拒絶されるのに対し、
女は女っぽい形をしているだけで、要は視界に入るだけでアピール認定されて拒絶される。
こうなると、そもそも男に助けを求めようと思えなくなる。
仮に助けられたところで、優しくしてやっただけで調子乗ってきやがったと陰で笑われる未来が待っているからだ。
パートナーを持たない弱女の多くは、毎日ように女としての価値を否定される。
女として成功している同性が特別に扱われるのを見ながら、女として何の価値もない自分を異性の手で何度も突きつけられて罵られる。
それでもまだ異性にだけ嫌われる分には良い。
もちろん、絶対に体力で敵わない上に権力者には男性が多いので、異性にも嫌われない方がどう考えても良い。
(突撃してくる男性もいるが、それは犯罪を犯すタイプの特殊個体なので一般枠には入れていない。)
弱男にも覚えがあるかもしれないが、
異性には踏み越えられないラインも、同性なら踏み越えられるのだ。
同性の敵は同性という話ではない。
同じくらいの攻撃性を持つ存在でも、避けられないのは脅威であるという話である。
異性を徹底的に避けても生きられるが、同性を避けることはできない。
グループ分けはどうしたって同性同士になる。
一般女性からしてみれば、女なのに女の要素を持っていない、どちらかと言えば男っぽい何かが自分のコミュニティが混じっているのは異常事態なのだ。
女の世界は男とは対照的に一番可哀想な人が偉いため、「気持ち悪いがどちらかと言えば可哀想」な弱者女性は一度様子見される。
何も与え合っていないように見える一般人たちも、お互いに居心地の良い時間を提供するというギブアンドテイクを自然に行っている。
テイクばかりでギブができない人の相手ができるのは、余裕のある人だけである。
長い持論の果てに言いたいのは「弱者女性はイージーではない」だけではない。助けを求めているわけでもない。
そもそもハードだと思われたところで可哀想だねで終わりで、苦しみは何も変わらない。
ここまで読んだ人の中には、男女問わず
「そんな辛さは男性/女性だけじゃない」、あるいは「それでもこちらの性別の方が辛い」と思う人もいるかもしれない。
正直、性別を理由に特別扱いされる人は平均より上だけなので、目くそ鼻くそと同じである。
どっちが辛くても不幸自慢にしかならない。苦しみを否定されていい理由もない。
同じ境遇の誰かと傷を舐め合えれば、さみしさはマシになるかもしれない。
最後に、できれば男女問わずパートナーがいる人は弱者を名乗らないでほしい。
異性または同性でもいいが、他人と場所を共有できている時点でコミュニケーション能力と人間的魅力が保証されている。
平均より上の人より困難は多いかもしれない。
でもあなたには助け合える人がいる。
たとえそれがモラでも、見初められるくらいには価値がある。その人を捨てても次の人がきっといる。
自分に自信を持って、前を向いてほしい。
もし「俺/私は人に好きになってもらう努力をしたからパートナーがいるんだ!選ばれたみたいに言うな!」と思っているならもう一度2章から読んでほしい。
好きになる/好かれる土俵に上がれない人はたくさんいるんだよ。
隣に誰かがいる事で言われなくなる暴言がどれだけあるか、わかってるんじゃないの。
パートナーのいる弱者女性を見たくなくて同じ障害を持つ男性の著書を読んだら「苦難の果てに出会ったのが今の妻です」と書かれていて追い討ちをかけられた弱者女性からのお願いである。
私もパートナーができたら、潔く弱者を名乗るのをやめるつもりだ。
余談
「典型的な弱者男性」の外見として用いられている呼び名と画像については知っているが、絶対に使いたくなかったので徹底的に避けた。
他人に対して「低脳無能バカ」といった否定的な言葉を使う場合、それは異なる種類の精神医学的問題や心理的な動機を示唆する可能性があります。このような言動は、対人関係における問題、攻撃性、あるいは他者に対する過度の批判性や支配欲を反映していることがあります。
1. **攻撃性や敵意:** 他人を侮辱することは、攻撃性の表れであり、敵意や怒りの管理に問題があることを示しているかもしれません。これは、ストレスやフラストレーションの処理方法として、他人を攻撃することで自己の感情を解放しようとする心理的な機構かもしれません。
2. **対人関係の問題:** 他者を侮辱する行為は、対人関係の構築や維持において問題があることを示唆しています。これは、自己中心的な傾向、共感の欠如、または他人との関係における不安や恐怖から生じることがあります。
3. **自尊心との関連:** 他人を貶めることで自分を優位に立たせようとする心理が働く場合もあります。これは、実際には自尊心が低く、他者を下に見ることで自己評価を守ろうとする防衛機制の一形態であることがあります。
4. **学習した行動:** 家庭や社会環境で否定的な言動が常態化している場合、それを模倣する形でこのような振る舞いを学習することがあります。この場合、攻撃的言動は、問題解決や対人関係のスキルが不足していることの表れかもしれません。
5. **ナルシシズムやパーソナリティ障害:** 自己愛性パーソナリティ障害や反社会性パーソナリティ障害など、いくつかのパーソナリティ障害では、他者に対する批判や攻撃性が顕著に見られます。これらの障害は、自己中心的な行動、共感の欠如、他人への無関心や搾取的な態度を特徴とします。
このような振る舞いが見られる場合、精神保健の専門家に相談することが重要です。専門家は、背景にある原因や動機を理解し、適切な治療や介入を通じて対人関係のスキルを向上させ、攻撃性や敵意の管理方法を提供することができます。