はてなキーワード: 自尊心とは
アーティストやクリエイターになれるわけないし、大人物になれるわけがない。
そんなの両親の姿や周りの環境を見ていたらわかるし、学校の成績がそう物語っていた。
今32歳で非正規雇用。給料の手取りは17万。貯金もないし、未来もない。
なぜこうなってしまったのかを振り返ると、この「自分なんて大したことない」という考えだったような気がする。
自分が大企業や入りたい企業に入れるわけないから、入れそうな中小企業ばっかり受ける。
自分が特別な存在になれるわけないから、そもそも努力しない。勉強しない。凡庸でいいんだ、自分は。そうやってただ何となく過ごしていた。
差別と表現規制の話題を,人工知能学会誌表紙,キズナアイ,宇崎ちゃんポスターと追っているが,フェミニスト側の立論の雑さが目立つようになってきた.フェミニストによると,これらの表現は
という.
この2点について,多くの規制反対論者が「エビデンスはあるのか」と問うてきたが,フェミニスト側は真面目に答えようとしてこなかった.ここでは,市民にエビデンスを提供することが期待されているであろう,社会学者たちがいかに知的不誠実な態度に終始してきたかを見ていきたい.
ここでいう「エビデンス」とは evidence based medicine (EBM; 根拠に基づいた医療) や evidence based policy making (EBPM; 根拠に基づいた制作決定) におけるエビデンスで, 単なる「根拠」「証拠」より強い意味を持つ.例えば,EBMにおいては下記のようなエビデンスレベルというものがあり,一口にエビデンスといっても質の強弱がある:
I | システマティック・レビュー/RCTのメタアナリシス |
II | 1つ以上のランダム化比較試験による |
III | 非ランダム化比較試験による |
IVa | 分析疫学的研究(コホート研究) |
IVb | 分析疫学的研究(症例対照研究、横断研究) |
V | 記述研究(症例報告やケース・シリーズ) |
VI | 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見 |
もちろん,社会科学分野では完全なランダム化比較試験は難しいという事情はあるだろう.それでも,行動心理学の研究や,具体的な事例の紹介はできるはずだ.以下で指摘するのは,表現規制の議論において,社会学者たちが,質の高いエビデンスを提示せず,最も低い「VI 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見」相当の論考しか提示してこなかったという怠慢である.
宇崎ちゃん事件の発端となったのは弁護士の発言であったが,しばらくして,牟田氏による下記の論考が出た:
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。
たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。
上のエビデンスレベルに照らすと,条約や所見は最も低いVIに該当するであろう.もちろん,所見を作成する上で何らかの質の高いエビデンスが参照されている可能性はある.残念ながら,そのようなエビデンスがフェミニスト側から提示されることは現在までない.
と,有害性は明らかであるとする.自治体のガイドラインは炎上しないためのHow toであり,これに抵触したからといって即時に性差別にあたるわけではない.例えば,日弁連のポスターですら,形式的にはガイドラインに抵触することが指摘されている:
https://togetter.com/li/1425795
こういう立論の雑さが「お気持ち」と揶揄される一因になっているのではないか.
キズナアイ事件の発端となったのは千田氏による下記の論考である:
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/
「相槌」がなぜダメなのかと思うかもしれないが、社会学では「権力」は相互作用の場面からもつくられていくと考えられている。コミュニケーションの場において、どのような言葉が交わされ、どのように会話が達成されるのか。コミュニケーションは当然、社会システムのなかで行われ、そしてまたその社会システムを再生産するのだ。
このNHKのサイトで「キズナアイ」に割り振られた役割は、基本的に相槌である。それは、従来「女性」に与えられてきた役割である。ある意味で、性別役割分業を再生産していると言えるのだ。
「性別役割分業を再生産」というのが上の「1. 現実の性差別・性犯罪を助長する,あるいは直接女性を加害する有害性を持ち」にあたるだろうが,この点に対してエビデンスは示されることはなかった.問題になっているキズナアイのイラストのように,ポルノとは言い難い軽度の性表現がどの程度人の行動に影響を与えるのか,質の高いエビデンスを示してほしい.
https://twitter.com/chitaponta/status/1047386005139906560
ズナアイは可愛いし、別に愛でてくれていいし、ノーベル賞のサイトから引き上げてくれとか要求もしてなくて、今後、同様の企画を作るときは、少し考えてくれと言っているに過ぎないんだけれど、「誰も傷つけていない」「考えすぎ」というのは少し違うと思う。思春期の自分は、やっぱり傷ついたから。
自分が年をとると快適で、性的対象として見られることがときに女性をいかに傷つけるか、想像もつかないことは理解できる。自分の趣味にケチつけられたら、腹も立つだろう。
ここでも,氏の言う加害がどの程度普遍的に通常人に成立しうるのか,なおかつ公共空間から排除すべき加害性なのか,提示されることはなかった.もちろんこれが社会運動なら,こういった「共感」に訴えるだけで事足りるだろうが,当該分野の専門家としての発言が「共感」に終わるだけでは,なんというか残念.
千田氏自身は,法規制を求めているわけではなく「市民的公共性」から自主規制を求める立場であるとする.なるほど,権力の介入を避け,市民の議論によって線引がなされるべきというのは同意できる.その上で,学者として,市民の議論の補助となるエビデンスを提示してもらいたい.
今年の4月,フェミニストから称賛された上野氏の祝辞があった.
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
上野氏は祝辞という限られた環境ながら,種々の研究を紹介し,数字を引用し,現在の社会にある男女差別を提示してみせた.統計の扱い方には色々と難があるし,私とて上野氏の思想で同意できるものの方が少ない.しかし,ここで注目したいのは,エビデンスを提示しようとする上野氏の姿勢と,表現規制でエビデンスから逃げ回る社会学者たちの姿勢とのコントラストである.
俺もそう思ってたし、
なんなら今もそう思ってるし、
なんとか4年で卒業してからは1年半くらいニートやってたけど、
いざ働きだしたら自らの運命を受け入れて精一杯やってるわ
それなりに自尊心を満たしながらも、クソだなって毎日ブツブツつぶやきながら通勤してる
ひたすら飛んてくる火の粉を払いのけてると休日になってる
そんな感じだな
まぁ駄目な奴も居るだろうけど
一度労働者になると中々降りようという気になれないんだわ
今週末は丸々予定を空けて、一人を謳歌した。
銀座から秋葉原まで歩いたが、情報量が多すぎて俺の貧弱な脳内メモリ(256MB)がオーバーフロウした。
秋葉原の大通りにいるメイドさん、大学生の頃は何も思わなかったのに、歳を取って今改めて見るとかわいすぎて驚いた。
もう少し懐に余裕があったら、フラフラとお店まで行ってしまったかもしれない。
同じサークルの男子たちのキラ女(キラキラしてる女子)アレルギーがすごい。
サークルには隠キャ女子しかいない。みな黒髪で、巻いたりセットしたりせず、結ぶにしても後ろで一つに括るくらい。
服装もダサいわけではないが、とにかくみんなシンプルという感じ。
男性陣もみな陰キャ。絵に描いたような隠キャ。でもみんな話が面白くて、仕事もしっかりするし、真面目でいい奴である。
けれどそんな彼らが、キラ女という存在を目にした瞬間、何らかのスイッチが入ってとても性格が悪くなる。普段は悪口なんてほとんど言わないのに、活動中に大学構内を歩いていて、キラ女がたくさんいるカフェ付近を通り過ぎた後に後輩男子が「あそこにいる女共は全員馬鹿ですからね、話が通じなさそう(原文ママ)」と言い出したのを皮切りに、みんな口々にいかに「キラ女が馬鹿で、頭が弱く、我々のサークルがやっているような活動(ウチのサークルは日本の伝統芸能を研究している)を理解できない浅い人間なのか」を語り出す。
大学構内にいるキラ女なわけだから、みんな彼らと同じ大学なのである。さらに、サークルの隠キャ女子たちはみなそんなに偏差値が高くない学部だが、国際系とかのイケてる頭いい学部付近ではキラ女の観測率も上がる。
だというのに、彼らはキラ女は馬鹿だ馬鹿だと言う。キラ女も彼らと同じ入試を受かったというのに。
彼らはイケてる同性も憎んでいる。ウェーイって感じで金髪でテニサー入って酒飲んでいるような人たちである。でも、イケてる同性が嫌いなのは結構わかる。話しても話が合わないし、女子といつもギャーギャー騒いでるし、同じ男なのに自分と彼らの差がすごくあるように感じてしまうから。
でもイケてる異性が憎いという気持ちはよくわからない。イケてる異性は、遠くから眺めて、(ああイケてるなぁ)でいいではないか。(あの子可愛いな)(あの子エロい服着てるな)でいいではないか。イケてる異性なんてイケてる同性以上にどうせ関わらないんだから、何かしらの感情を抱く必要も、理由もない。
ではなぜ彼らがキラ女を憎んでいるのかというと、おそらく彼ら全員が、過去キラ女と関わってなんらかの傷をつけられ、それが理由でキラ女を見るとアレルギー反応が出てしまうからではないかと思う。
というか、逆にそうであってほしい。そういう過去があってほしい。関わったことすらない人たちを、ただただ憎んで馬鹿にして自分たちの自尊心を保つ、そんな醜い集団に自分がいると思いたくない。
こんばんは、アジです。
人間界では我々が懸命に生きた肉体の頭を落とし、半分にかっ割き、小麦粉からせっかく生成したふっくらパンをなぜか粉砕してできるというパン粉なるものを塗りたくり、水を沸騰させるのでは不可能なほどの常軌を逸した高温の油にぶち込んでできるというアジフライが、貧乏人の食べ物として貶められていると聞いて衝撃を受けています。
我々はかつて、イワシを嘲笑していました。イワシというのは漢字で「弱い魚」と表記されるそうで、しかもそれは弱肉強食の底辺に位置するということではなく、市場で弱い(市場価値が低い)という意味なのだと知って、顔を合わせるたびに「死んでからも弱いってざまあ、ゴミ以下だなおまえら」と嘲笑し、自尊心を保っていました。
しかし、アジフライ。貧乏人の食べ物なんですか。何かの間違いなんじゃないんですか。
人間界にはバラバラ殺人なる猟奇的犯行が世間に衝撃を与えることがあるそうですね。人は人を殺してはならないのにさらにバラバラにするなんてどうかしている、と。
だけど、こうは考えられないでしょうか。バラバラ殺人は犯行者の罪悪感を薄めるために敢行されると。殺してしまった死者の状態を人間としての実体から遠ざけるためにバラバラにし、ある者は焼却炉で燃やし、ある者は薬品で溶かし、ある者はあちこちの山川に各部位を遺棄するのです。
死んでしまった当該人間をバラバラにもせずにそのままにしておける神経のほうがどうかしているとは思いませんか。
そう考えれば、人間はマグロに対しては相当な罪悪感を持っていると言えます。各部位にバラバラにした後に喰らっているからです。逆に鮎には罪悪感を全く抱いていないようです。その姿のまま串に挿して焼くだけだからです。
さて、そう考えるとアジフライとは何なのでしょう。開いて、パン粉を付けて、揚げる。開くとは何とも中途半端な行為ではないでしょうか。このことについてはホッケも言及していました。半分にして塩焼きって何だね。
アジフライにパン粉を付ける工程は罪悪感からの隠蔽なのでしょうか。常軌を逸した高温に沈めることは? 我々の魂に気を遣っているという証左でしょうか。それとも、やはり貧乏人の食べ物として嘲っているのでしょうか。
唯一の希望は、アジフライが正三角形であることです。みなさん三角形が好きですね。それはおにぎりが綺麗な三角形であることからも一目瞭然です。みんな大好きはんぺんもわざわざ包丁で三角形にしてから調理しますね(はんぺんの原材料は「白身魚のすり身」であり、その苛烈さはバラバラ殺人を凌駕した事態です。はんぺんが美味しいのは実体からあまりにもかけ離れているからこそ食べれば動物を殺したという罪悪感が極度に薄まり、その快感が美味しいに昇華されていると考えることができますが、これはまた別の話)。
誰でも自分が持たないものを求めます。人は四足歩行の動物から進化して二足歩行になりました。決して三足歩行ではありませんし、そうなることはあり得ません。なぜなら、三足歩行というのは昆虫の領域だからです。物体は3つの支点があれば安定します。その考えに基づいて昆虫は3×2=六足歩行なのです。
人が不可逆である進化の遥か昔にノスタルジーを感じて三角形に執着しているのかどうかはわかりませんが、少なくともアジフライは三角形です。ホッケみたいに完全に半分にして、不格好な三角形とも言えないような形状にしても良かったであろうに、綺麗な正三角形以外のアジフライは見たことがありません。
この際、貧乏人の食べ物でも構いません。我々が命をかけて生きた肉体を三角形という愛らしい形状に調理してくださり、我々は感謝しています。そこには人間の私たちへの愛情が垣間見えます。それだけで充分です。
どうか今後アジフライを食べる際には、三角形の可愛らしさやパン粉のサクサク、醤油vsソース論争だけでなく、パン粉に隠された我々の生きた証をも味わって頂き、酒の良きつまみにしてもらえたらと思います。
この世代の人は学歴社会と実社会が不幸にもミスマッチしたせいなのか学歴に対する自尊心とその裏返しの低学歴への侮蔑感が強い。
という二点から心底軽蔑されたことがあり、あれは思い出すだに腹立たしい体験だった。
なんかああいう冷血な態度をとられると正直「あなたが新卒で希望の企業に採用されなかったのはその性格の問題なのでは?」と言い返したくなる。まあ言えないんだけど。
はてなブックマークにも氷河期世代のブックマーカーが複数いて、上述の経験に基づく個人的な執心から日頃彼らのブックマークコメントに着目しているのだけど、やはりと言うかなんと言うか学歴に対する拘りや、頭の悪い(と彼らが感じた)人に対する冷血な態度がちらほらと垣間見える。
個人的にはとても納得感があった。
もちろん自分の世代にも学歴差別する人はいるし、未だ日本は学歴社会なんだけど、大学進学率が高まって「大体みんな大卒」という普遍的感覚が共有されてるみたいで、自分の世代では高学歴よりもその人固有の稀有なスキルを持った人が称賛されてる感覚がある。
YouTuberなんか正にそれで、コンテンツ力?とでも言ったらいいのだろうか、そういう固有のスキルが高い人ほど羨望の眼差しを向けられ尊敬されてるイメージ。
だから当然同世代にとって高卒の自分など尊敬の対象ではあり得ないんだけど、逆に特段軽蔑もされないというか、割合的にむしろ無視されてる感じ。
高卒?ふーんみたいな感じ。
自分でも高卒にコンプレックスがないわけではないので、通信教育で学士を取得しようかな、と思ってはいるけど、それで周囲の扱いが高卒とそれほど変わるわけでもないんだろうな。
ほんのちょっぴりの自尊心を満たすために、料理、洗濯、掃除等の最低限の家事をこなした後は、
親が帰ってくるのに合わせて、好きな銘柄のお茶を注いで、料理をする。食後にお茶をまた淹れて、飲む。
22時くらいにはふかふかのおふとんでぐっすり寝て、6時に起きる。
そんな生活を1年半くらいしてたら自分のお金が無くなったから、バイトを始めて、自分の1時間はこの程度の価値しかないのか、と愕然とする。
少しでも時間あたりの貰えるお金を増やそうと思って転職等頑張っていたら、それなりにうまく行き、同世代の平均よりは貰えるようになっていた。
しかし改めて思うが、あのニート時代が一番文化的な生活を送れていた。
まず、仕事が人を成長させるなんて嘘だ。
新卒の時点で大体の人間性なんて決まっており、あとはその会社の中でどういう役割を演じるか、というだけだ。
所詮、会社の自分∈自分であり、演じ方が上手くなったに過ぎない。
それは私にとって全く本質ではない。
残業は30時間までで制限されているので、特別キツイという訳はないが、それでもストレスはある。
下らない、と思いつつ義務感のみでこなしていると、もっともっと仕事量を増やされる。
そんなことを繰り返していたら、役職に付けられた。
ああ下らない。
立場のせいで、辞めるに辞められない。