はてなキーワード: 美女と野獣とは
普段音楽を聴かないけど去年キャッチコピーにひかれてHey! Say! JUMPの SENSE or LOVEを買った。
でもアルバム全部を聴いても感覚で繋がってるのか愛で繋がってるのかわからんかった。
一年経って新アルバムが出るというのを知ったのでリベンジしたくなった。
テーマがはっきりしてるっぽいから音楽初心者でもわかるだろうと思ってまじめに聴いた。
以下思ったことを吐き出す。
※歌詞カードは見ていない。曲を耳で聴いただけ。タイトルは読んだ。
関ジャムで特集ゲストに登場してフレンドライクミー歌うらしいので
山ちゃんが吹き替えやネズミの国でやってるディズニーキャラ一覧をおさらい
実質アラジンだけで一人10役くらいしてると思うので2019年の実写版宣伝では山ちゃん出てきたけど
コンテンツに全く目がいって無くて気の毒じゃん
そこまでいわれるってことは彼女にとってどういう映画だったんだろ?
パパと同時にみてると気まずくなるような
彼女にとっての「女の夢のかたまり」みたいな映画だったんだろうか?
実際3次元ジャスミン姫がナイスバディでハーレム衣装きてるんだろうしな
ディズニーで言えばシンデレラと同じディズニープリンセス部類なんだよな
でもそこまでのものを作る気はしないんだが
こないだ50代女性(大学で講義もってる)が他の大人と雑談してたんだけど
わりと空いてる映画館で男性が一人でみててカップルでもないので気持ち悪いとおもったそうな
それを大学生男子の群れにいっちゃったら「先生それ差別ですよ!」ってつっこみ入ったそうな
コピーしながら全部聞こえちゃった自分はアラジンはアニメ版は見てるけど実写版そのものは見てないので何とも言えない
ただこの人には今後は連れ立ってプィキュアの映画みにいく大きいお友だちの話だしてはいかんとはおもったけど
きみならどうする
追記1
「おばさん1人もキモイ」
コンテンツに全く目がいって無くて気の毒じゃん
そこまでいわれるってことは彼女にとってどういう映画だったんだろ?
パパと同時にみてると気まずくなるような
彼女にとっての「女の夢のかたまり」みたいな映画だったんだろうか?
実際3次元ジャスミン姫がナイスバディでハーレム衣装きてるんだろうしな
ディズニーで言えばシンデレラと同じディズニープリンセス部類なんだよな
でもそこまでのものを作る気はしないんだが
正直実写はエマ・ワトソンの美女と野獣も金ローでちら見したレベルだしわかんね
追記2
「判定って何」
実写版アラジン見た人→「映画の表現方法がアニメに比べても一般的にも○○だった。したがって、その「気持ち悪い」コメントはアリ/ナシ」みたいの知りたかった。
俺(女性)にとって「耳をすませば」を映画館の自分の2つ向こうくらいで異性の一人客が食い入る様に見てたら
「やめろ!これは中学生のときの俺の妄想だ!直視するな!みなくていい!もうこれは夢だってわかったんだ!」
っていいたくなるくらい恥ずかしいだろうとは思う(実際には何も言わないのも彼女と同じだろう)。
翌朝以降に人に話すときには手短にいって「気持ち悪い」までいわなくても「男性はあれは見に来なくていいのに」って表現になってるかもしれない。
実写版アラジンが「耳すま」レベルの夢女映画かもしれないとおもうと余計に気になってきた。
異性が一人で食い入る様に「男の夢」みたいな映画を見てたらへんな気分にならない?
山里亮太さんと蒼井優さんの結婚について、コメントが炎上している宗美玄さんについて思うところがあったので書きます。
こちらは女性目線でもブサイク目線でもなんでもなく、ただの私目線での話です。
まず彼女の発言の真意。彼女の釈明ツイートを読んで、私が考えたことを書く。私自身を彼女に重ねてしまっている部分があり、こういう解釈もありなのでは?という話だ。
恐らく彼女は今まで自分の外見で損をしたり傷ついたりしてきた経験が多いのだと思う。彼女がツイッターのプロフィールに"外見ことに触れられると嫌がります。"と書いているのは、これ以上傷つきたくないからだと思う。
自分の外見が良くないことが原因で、外見に対するコンプレックスが原因で、死を考えるほどに思い悩んだことがある人はどれくらいいるだろうか。私は過去何度も自分の外見が嫌で散々悩み苦しんできた。彼女も私と同じなのではないかと考えて、彼女の発言を私はこう解釈した。
「私が結婚相手を探すとするならば、子供に私と同じ思いをさせたくないから見た目を求めてしまう。」そして「そういう考えをしないどころか浮かんでさえいなさそうな蒼井優さんが心の底から羨ましい。」
自分が多数の人に褒められるような外見ではないから、もし自分と同じように外見が良いとは言えないような相手と結婚をしたら子供が美しい顔を持って生まれる可能性は非常に低い。そうしたら子供は自分と同じことで悩み生きることになる。それは絶対に避けたいと思ってしまう、そんな自分の考えが見た目だけではなく心まで美しく見える蒼井優さんに対するコンプレックスとして現れた結果の発言のように私には思えた。
ツイッターを眺めていて、「自分もブサイクなのに他人のことをブサイクと罵るなんて…」というようなツイートを見かけた。彼女が山ちゃんに対して失礼な発言を、しかもテレビというメディアで不特定多数の視聴者に対して発しているのは決して良いことではない。映像を見て、そりゃ非難を浴びるだろうと私も思った。「女性目線でいくと」と彼女は前置きしていた。女性の代表のようにテレビであんな失礼な発言をされるのは、私は同じ女性として本当に嫌だ。しかし、彼女の外見まで非難していい理由はひとつもない。彼女の発言を非難するのは大いに理解できる。ただ彼女の外見に言及してしまったら、それはただの匿名の悪意に満ちた罵りだ。彼女のことをブサイクだと言っている人は何を考えているのだろう?自分が非難している相手と同じようなことをしていることが分からないのだろうか。
だいぶ言いたいことは書いたがもうひとつ思うことがあるので書く。
今回の発言をしてしまった彼女以外にも、その言葉を笑って受け止めてしまった周りのコメンテーターたちも良くないと思う。ただ、周りのコメンテーターたちも彼女の発言の相手が山ちゃんでなければ笑わなかったかもしれない。
今回の件で、私は日本のお笑い界の「外見イジり」自体を問題視するべきじゃないのだろうか…とも思った。
山ちゃんはブサイクではない。多くの人が言っているが、私もそう思う。なぜ山ちゃんがよしもとブサイクランキングで殿堂入りするほどブサイク扱いされているのか、それはあのメガネと彼自身のキャラ作りによるものだと思う。彼は自ら進んで"ブサイク"になっているのだ。日本のお笑い界では"ブサイク"の方が得をすることが多い。だから彼は自ら"ブサイク"を演じているのだ。
実際結婚会見でも「美女と野獣って言われるのは嫌じゃない」と山ちゃん自身が言っていた。ブサイクが美人女優と結婚、と言われて一番得をするのは山ちゃんだと思う。山ちゃんは自分の外見を武器に芸人として生きているから。(もし山里さんが本気で傷ついていたら心の底から申し訳ないと思います。)
日本のお笑い芸人を考えたら、自ら"ブサイク"を演じている芸人さんはすごく多いと思う。よしもとブサイクランキング、なんてものが存在する時点でお笑い界で"ブサイク"が得をするのは自明のように思われる。
別に外見イジリ自体がダメだとは思わない。自分がブサイクであることが笑いに変わることが嬉しい人がいて、それを面白いと思う人がいる。誰も損をしていない状況、芸人さんの世界ではそれが成り立っているから許されているのだと思う。ただ、現実世界ではどれだけ笑いが取れても"ブサイク"扱いされるのが嫌な人は間違いなくたくさんいるだろうし、上手く生きていくために自ら"ブサイク"を演じるようになってしまった人もたくさんいるだろうと思う。それはすごく悲しいことだし、早くそんな事態は無くなってほしい。
日本ではテレビの中の「外見イジリ」が浸透しすぎて、現実世界でも外見イジリをよく見かける。本当は"ブサイク"を演じたくないのに"ブサイク"を演じている人がいる現状、そしてただ外見を非難されるのが嫌な"ブサイク"より"ブサイク"を笑いとして昇華できる"ブサイク"の方が正義のように扱われる現状は早く無くなってほしいと思う。
宗美玄さんが匿名の悪意に傷ついて、また自分の外見に対するコンプレックスを深めていないことを祈っています。
オワリ
映画チラ見して当時の物申すみたいな勢いの美醜周りへの批判とか思い出して色々考えたから覚書き
その当時の批判の主流は心の美醜が見た目に繋がるような表現に違和感があるみたいなのでそこに繋がる感じで野獣が王子に戻ったラストに心云々言っといて結局それかよ、美男美女かよだとか野獣の方がかっこいいしとか野獣のままでハッピーエンドでいいじゃん的なのが付いて回っててその時はあんまよくわかねえというか最初の以外はそれ批判以前のただの感想やんけ!(感想は自由)ってなってて(最初の違和感にも違和感があったけどそのままにやってた)それで今改めて考えたのはそもそも美醜で人間を判断してた王子がベルという美しくはあるけどそれに囚われない知性ある女性と心で惹かれ合い醜い心の象徴とするその野獣の姿で愛を成就しなんてざっくり内容からして物語としての教訓は見た目で判断する事の愚かさ真の愛はそこに囚われない(ロマンチック)って事だろうしベルの美しさはディズニーにおいてのプリンセスやヒロインに課せられるメタ的なルッキズム的価値観によるものでも当然あるけれどそれは美女と野獣という作品への批判としては的が外れているように思うしむしろこの作品においては美醜を扱う上でベルが美しいとされ知性や冒険心と並び持つとする事でこそその中からベル自身が何を選び大切にするかの選択が意味を持ち生きてくるように思うから王子の美しさと共に決して物語に必然性のない美貌ではなく魔女のそれにしてもまさにルッキズム的な王子に対する皮肉としてで解ければそこを否定する事になる呪いを与えてるとこからもむしろルッキズムを悪としているようにしか見えなくて批判で言われてた違和感への違和感の正体はそこへの漠然とした何でこの話でそんな事思うんや…というやつだったんだと思う
それはガストンに顕著で元々アニメでヒーロー的な外見でハンサムという設定ではあったけど見ようにはそうでもないキャラクターデザインだったガストンに実写でルークエヴァンスがあてられた事で美しい見た目に美しい心が宿るというようなルッキズムを否定するキャラクターとして野獣との対比もよりはっきりとなってそのハンサムさはベルや野獣の心を引き立てる装置としてやっぱり皮肉的に使われたわけだから作品としてルッキズムに則るのならそれこそシンデレラの最初のアニメ(作品追うごとにそうでなくなっている)のようにガストンがルッキズム的美醜観において醜いか善い人間であるべきで敢えてそうしていないのはそれがメッセージの一旦であるという証拠でもあると思う(すごいぞガストン)
じゃあ何でそんな批判を思うのかとも考えて単純に物語としてじゃなく表現の部分部分に気を取られちゃう形になっちゃったのかなっていうのと後はそういう発想それ自体が単なる美醜じゃなく絶対的で客観的な美がカーストのように存在するというようなルッキズム的前提でもって無意識にでも恣意的になされているのじゃないかって事で冒頭で野獣のかっこよさを示す事を批判以前の感想としたのは王子という美しい存在に対する醜いとされる野獣という構図の上で野獣の見目を讃えて"美"であるとする事だけではただの作中における美醜の定義への抗議またはむしろ逆に作品がルッキズム的であるという批判内容を否定する(野獣を客観的に美しいとするのは作中の醜いという定義は外見を指すものではないもしくはキャラクターの主観を越えるものではないとする事で作品として見た目に心を比例させているという批判は当て嵌まらなくなるように思う)もので美を是とするルッキズム的であるという前提に立った批判として体を為してないのではないのかと思ったからだけどもでもそれが野獣をかっこいいとする価値観はルッキズム的な本来の(あるとしている)美醜観に沿うものではないのでそこ自体への反発の提示が批判の一旦になるのだという発想の元されたと考えれば批判としてはそこの意味に限るなら理解できるしまた野獣の姿を醜いと定義するそれこそをルッキズム的だという意味でのまずそこからの違和感であるならとも思うけど批判とやってそこに客観性を持ち出すのであれば野獣をルッキズム的美醜観による被害者であるとするのはその見た目を作品内での単なる主観的文化的役割としてでなくルッキズム的な定義によって作品を越えたとこで醜いとやっているわけで本来ルッキズム的美醜と美醜はイコールではなく真理として絶対的な美を定義するものでもないのに作品内での美醜についての価値観を語るのにわざわざそれを作品へ持ち込み批判材料としたのはその当人がそこにルッキズム的基準における美醜を見たからに違いなく美女と野獣はルッキズム的価値観において野獣を醜いものとしている、という批判はそういう事ではないのかという話で
それらは全部今回自分で当時を思っての単なる仮定であるんだけどそんな批判を挙げたのと同じ層からその後シェイプオブウォーターを美女と野獣のアンチテーゼだとする意見が出て(監督は否定してた)明らかにそれが"彼"をルッキズム的弱者とする前提の上で敢えて美しさと定義しているとやって監督がただ美しいと思うものを美しいと描いているというようなルッキズムとはまさに反対にある主観的美醜観という視点が丸々端から欠如した美しいものをそう描く作品とそうでないものを美しいとする価値観で描く対比の構図と捉えたものだった事を思うとあながち間違いでもないように見えるし(客観的な美しさを定義するとしているルッキズムに美しさは一概には定義できず個人的宗教的文化的なものであるという主観的美醜観で対するのならアンチテーゼとし得るけどそういう論理での批判は自分は見かけなかった)美女と野獣のラストを美醜に重点を置き"結局それかよ"と受け取るのも"見目の美しさは心の美しさに比例する"と判断するその過程でその醜さを作品における主観的な域のものでないとするまたそれを見出すのに野獣という存在が含む要素やその世界での立ち位置でなく外見のみに焦点を絞るその視点も(実際フランス版では王子の外見的な美醜より傲慢さが醜さの象徴としてフィーチャーされている)見た目が重要だとするルッキズム的価値観に左右されてのものにも思えるし王子の姿にしても野獣の姿からの解放は作品で醜い心を象徴すると定義されている以上心の変化を客観的に証明するためのもので言うなれば愛の象徴であって(野獣の姿はベルに真の愛が満たされていない事を示す)外見なんて関係ないのならそれこそ望まれるものであるはずなのにそこを否定するのは"王子の美しさ"という見た目に囚われその他の要素より重要視している事に他ならないのだしそれはまさにルッキズム的価値観に則ってまずわざわざ美醜を選り分けてそこからそれらを"美しいもの""醜いもの"という絶対的な前提において肯定否定する事がルッキズムの批判になるというような無意識のルッキズムというかそれは言うなら
美しいか醜いかなんて誰が決めたの?ルッキズムなんて!見た目で判断とか最悪!
というのに次いでの
という言い様で○○ちゃんと○○ちゃんを普通にかわいいと思う人間の美的感覚をルッキズム的基準でそうでないぞと正面から否定しカースト内の位置を告げるみたいなものでシェイプオブウォーターにおけるそれは
××くん○○ちゃんのこと好きなの?見た目じゃなく中身で見るんだね!いい事だよ!
もしくは
××くん"には"○○ちゃんがかわいいんだね!素晴らしいことだよ!
というようなやつでその上で自分は美醜で人を判断しない公平な人間だと主張するような話でそれは批判として果たしてというかルッキズムへの批判のためにはルッキズム的価値観においての美醜を踏襲しなきゃいけないというパラドックスを思ってなのか(そんな必要には特にない)それこそ考えれば考えるほど違和感でいっぱいになるという話で
要はルッキズムとか言ってないでふたりとも愛を見つけてその証に野獣は呪いがとけてハッピーエンド万々歳やんけ!でいいと思ったという話
元増田が本気で
と言っていた場合、この疑問には答えられない場所にいると思うので代わりに答えるよ
(わりと有名な話なので、わざとそう言ってみせて耳目を集めようとした可能性はあるけどね)
なお、ケモノ界隈は名探偵コナンのファンくらいには好むものや見ているものがバラバラだよ
「名探偵コナンファンは先の劇場版をどう思っているのか」と言われても「統一見解なんか出せるか!」「他のクラスタの反応なんか知らん!」となるのと同じくらいバラバラだよ
1. 異常体型やR18-G系アブノーマル嗜好との親和性について
言うほどやたらに多いとは思えないよ
ただ、通常ならその異常系カテゴリ名義で隔離されるはずだった嗜好が「やたら肉ついてるけどキレイなケモノ描くから」とか「はみ出すグロマンだけどエロいケモノを描くから」とか「切断グロネタばかりだけど同人やWebマンガでケモノ描くから」みたいな感じで「ちょっとアレだけど希少な優良ケモノ描きだから仕方ない」という形で摂取され続けた結果、耐性がついてそれでしか抜けなくなってケモノ描きの間でいち派閥に…みたいな蟲毒ルートはあり得ると思ってるよ
普通にケモノ絵探して暮らしていれば視界に入るものは普通の範囲内に収まってると思うんだけど、なんか特殊なところから特殊な観測の仕方してたりしない?
2. 擬獣化や美女と野獣系、または昨今とみに隆盛の女性向け人外/獣人作品とケモホモ男性クラスタの関係性について
お互いがお互いを意識してないと思うよ
いまだに(ああ、いまだにって言っちゃった)ケモノといえばオスケモ獣人のことだと思っている人は確かにいて、ちょっと取扱注意ではあるのだけど
あ、純粋ケモホモ文化圏(字面悪い)以外の、少年少女なケモノや女性獣人なケモノやドラゴンやポケモンと区別つかないケモノが好きな男性の人たちは特段敵視もしてないと思うよ、歓迎もしてないかもしれないけどもね