はてなキーワード: 昭和生まれとは
https://twitter.com/nhk_nehorin/status/951099083074056202
最後の腐女子用語辞典【解釈違い】キャラの受け取り方が自分と違うこと。イライラすることもある。例)「番組に出てた腐女子の話に納得いかない。完全に解釈違い!でもしょうがないよね、100人いたら100通りの腐女子がいるんだから・・・」ご視聴ありがとうございました🐽 #ねほりんぱほりん https://t.co/1sVh0dQNWf
マッッジで。
「男って~~だよね」「女には~~な傾向があるから」みたいな語り口で腐女子を語ろうものなら大炎上が約束される。
誰もが(この言い方も怖い)、「あなたはそうでも私は違う」を持っている。例え他者から見れば誤差の範囲だろうが、一人一人自分の腐女子としての輪郭をはっきりと持っていて、その差違をないがしろにされることを嫌う。
なんでだろうな、「男」「女」なんてカテゴリよりずっと狭いのに。
でも、もしかしたら、本来人をカテゴリで語るなんてのはこんくらいめんどくさくて然るべきなのかもしれないが。
なんで男同士に萌えるの?
と問われたとき、私にとって一番原点に近い表現をしてるのは下記の動画だ。
ここで言われているのは、端的に言って、
ホモが嫌いな女子なんていません!という平成も浅い頃の暴言があるが、
少なくとも女子の多くは、おっさん同士が無邪気になかよしだとわけもなく嬉しい。と、思う。
ヒロエさんは男性なので男性にもある程度は通じる感覚なのかもしれない。
でもまあ、人と人が仲良くしているな、と見てとれるとき、その多くは喜ばしい。
にこにこと仲良く戯れていたら、やっぱり微笑ましいしなんだかうれしい。
でも男女だと、そこに性の香りが漂うと、感想の種類はぐっとかわる。
終電前の改札前でいちゃいちゃしてる男女はまあまあ見苦しい。優しい気持ちにはならない。
でも、たとえおっさんのいちゃいちゃに喜ぶ人が世の中の何割であろうと、みんなが腐なわけではもちろんない。
だってみんなチームナックスを見ても彼らのセックスを連想しない。
(腐女子が全員セックスを連想しているかというとそうも言い切れないが…ここはややこしいがとりあえず話を進める)
そもそも前述の通り、人と人が仲良くしてるのは微笑ましくても、性的な要素は多くの人にとって微笑ましくない。
腐女子は微笑ましいものにわざわざ性の要素を見いだそうとする。
ようやくねほりんぱほりんの話をするが、あの30分間で一番私の心に刺さったのはこの言葉だった。
この、能天気な、使い古されたみたいな言い回しは、けれども「腐」というものの一面をとらえてるんじゃないかと私は思う。
そうなのだ。腐の世界は、すべての感情を、行動を、あるいは状態を、愛によるものだと意図的に読み違えることで成り立っているのだ。
だから、友情にもコンビにも兄弟にも愛を見いだすし、天井と壁にも愛を見いだす。
(ここでいう「愛」は「恋」である必要はないのだが、その辺は後述する)
そして、ここが重要なのだが、性欲とは愛に対して従であると、腐は思っている。
終電前の改札でいちゃいちゃしているカップルはあんまり微笑ましくないと書いた。
見知らぬ人たちが、泊まるか泊まらないかやるかやらないかの駆け引きをしているのを見るのは、何ならちょっと不快だ。
でも、それは、通りすがりの私の目には彼らの性欲しか見えないからだ。
彼らが「心から愛し合っているのだ」と認識したとき、その感想は変わる。
「逃げ恥」のじれじれしたベッド回りのあれこれを見たとき、あれを不愉快に思う人は多くなかったのではないか。
そこに愛を認識できれば、他者のものであっても性欲は不快なものではなくなる。
私もそう思う。
腐の妄想世界のなかでは、人は酸素を吸うように愛を吸っている。
話すのも食べるのも、笑うのも泣くのも、生きるのも、死ぬのも、すべて愛のためだ。
もちろん現実はそんなわきゃない。人は嫌うし憎むし見下すし嫉む。
でも、妄想世界のなかで、それらもみんな愛だと誤認する。意図的にする。
そこまでしてはじめて、恋について語れるし、性欲について語れる。
恋と性が大好きなわけではない。むしろ恋も性も汚い側面を有していることをよく知っている。
だからこそ、「この世のすべての感情は愛」な妄想世界にトリップしてやっとようやく、恋と性について語れるのではないか。
なんでだろうね。
天井と床の間に、唐揚げとレモンの間に、電車と駅の間に愛を見いだすとして、
どうして男女でもなく女同士でもなく男同士にたとえてしまうんだろう。
少なくとも私は、腐以外でこの手の「愛を見いだす遊び」をしている人たちを知らない。
「私とは違うなにか」でありかつ「同質に並び立つ二人(ふたつ)」が重要なのかもしれない。
私という現実の人間は愛じゃなくて酸素吸って生きてるので私に近い要素は必要なく、
彼岸の愛の世界で生きている人たちは同じ愛を吸う同じ種類の生き物だと思うのかもしれない。
やっぱ苦しいな。単にちんこすきなだけ!っていう清々しい腐のみなさんが一定数いることは書き添えておく。
ねほりんぱほりんでは、一人の出演者が男性にしつこく付きまとわれた過去を話した。
それがマジとか嘘とかマウンティングとか違うとかはどーーでもよいのだが、
ただ、そうなのだ。腐という趣味はその人の性的経験としばしば関連付けて語られる。
本人も、「私はなぜ腐女子なのか」と考えるとき、自身と男性との関係性について考えてしまう。
では、愛でくるまなければ恋も性も語れないというこの増田は、一体男性にどんなトラウマがあるというのか…!????
私は、そんなの聞かれなくていいし考えなくていいと思っている。
なぜ好きなのか?を考えて、趣味と過去の経験を結びつける必要はないのだ。ましてネガティブなものとなんてぜんぜんいらない。
何が好きなのか、どんなところが好きなのか、そんなことを考える方がずっといい。
でもなーーしちゃうんだよな!なんでだろうな!!
ねほりんぱほりんの三人の腐女子たちが自分はどんな人間かを語っているとき、私にとって目新しい言葉はひとつもなかった。
彼女たちの自己分析は、ネットに転がっている腐女子「たち」の語りの集大成のようだった。
どっかで見たことばっかだった。
腐女子は、「100人いれば100通り」であるにも関わらず、どこかで「私たち腐女子」という自意識を持っている気がする。
誰かの自己分析は私の自己分析で、自分について語る言葉は際限もなく膨れ上がる。
「私たち」は常に語らなければならないと思っている。
養老孟司が「いわゆるオカマの人は頭をよく使う」ということを言っていた。
マツコは「そうかもしれない」と応じた。「だってアタシ、トイレ入るときだって、自分はどっちなのか考えるもの。」
「私は何者なのか?」を考えてしまうのがマイノリティなんだと思う。
人はじぶんがマイノリティの側であると思ったとき、「私はなぜこうであるのか?」を考えずにはいられない。
腐女子もそうなんだと思う。「私はなぜこうであるのか?」それを語るために、「私たち」は「私たち」を語る言葉を溜めていく。
100人いれば100通りのはずの私たちは、似たような言葉を使って自分を語り、共感し、それでいていっしょくたにされることを嫌う。
私は何者であるのか。
私について私が語るとき、私は自分が女であることより、30代であることより、会社員であることより、腐女子であることを語るだろう。
「私たち」は問われ続けるし語りつづける。でもいつか、自分のネガティブな経験と腐を繋げて語る人がいなくなるかもしれない、と思う。
https://togetter.com/li/1187223
昭和生まれのオタクなんてなあ。定額小為替を郵便局で買って、一個ずつペーパー取り寄せて、お手紙書いてサークル一個一個に通販してたんだぞ
一ヶ月以上かかるの待ってたんだぞ
それに比べれば今なんてネットショップでほとんど買えるし天国だよ!
ふざけんなよ!!!
プリペイと知らないとか、わしらだって最初は通販の方法しらなくて、便せん破ったのつけてたり、定額小為替白い紙で包まないでやったりしてたわい!
はああああああ?!
コンビニなんて昔はなかったんだよ
ネットがなかったんだよ
サイトもなかったんだよ!
本なんて送られてくるペーパーでしか情報得ることできなかっったんだよ
中学生くらいに鳴って、やっと地元の小さいイベントに金握りしめて言って、大手の委託に列並んでたんだよ
当時は通販やってないサークルも多くて、そういうところは涙を吞んで諦めてたんだよ
昔より遙かに恵まれているくせに、田舎のオタクが死ぬとか、平成ゆとりが死ねよクソ!
田舎オタクがみんなこんな犯罪者と思われたらたまっったもんじゃねえ
久しぶりに本気で腹立った
悪いと良いとも思ってないことだけは信じてほしい。
ただただ、時代だなぁと。
この15年くらいでいろいろなことが変わりましたね。
今はまだ若者に分類される私。若いからか、スマホやパソコンをある程度使える。
しかしもう少ししたら平成生まれは古い人間になる。なんとなく、昭和生まれ=古い、平成生まれ=新しいと言われてきた人間です。これだから平成生まれはと職場の人のグループチャットみたいなやつに書かれた人間です。
平成が終わったら、平成生まれってどういう立ち位置になるのかなぁ…多分昭和生まれ=古いは一緒で、新しい元号の人が新人類になるんだと思う。新しい人間をパスする世代。
私は、出来れば昭和生まれの人から受けた嫌がらせを新人類にしない人間になりたいな。中途半端な人間として、世代の中間管理職になれたらいいな。
今の日本ではゲームの仕様があまりにごちゃごちゃしてる。遊んでみて狂ってると感じるはずだ。なぜこんなふうになるのかと言うと、ゲームを遊ぶ人が少なくなったから。だから、マンネリ化などが進み、ネタ消費をするようになった。
しかしそういうことをすることでゲームの人口は増えただろうか?実際にはもっと減っている。だから余計にネタ消費が増える。「基本料金0円のゲーム」とかも出てくる。しかしそれは、ネタで可視化される理屈で訴えることに必死すぎて、よけいにプレーヤーに嫌われているだけである。
普通のゲーム先進国であれば、ゲームとは非常に個性的でわかりやすく、体感的な印象がいいものである。ゲームにお金を使う人は、いますぐ買って遊びたいわけである。値段みたいな細かいことは気にしないのだから、このほうが売れるのだ。
昭和生まれの私は古きよきゲームを知っているが、家庭用と携帯機の時代は日本のゲームはやはりいかしたものだった。実はこれは現在も存在するので、よく知っているが、だからこそ今のソシャゲの汚らしさには辟易するのだ。
「若者のゲーム(そのもの)離れ」は確実にあるだろう。かつて若者の主力コンテンツといえばゲームだったが、そもそも今の若者がソシャゲすら遊んでいない。生まれた時からそこら中にゲームが過剰供給状態にあり、デフレ価格競争でゲームにありがたみが感じられない人たちを動かすには、UIやゲーム性の抜本改定しかないのだ。
くしゃみの音は人それぞれです。静かなくしゃみをする人もいれば、馬鹿デカいくしゃみをする人もいます。
馬鹿デカいくしゃみをする人は、中年以上の男性に多くないですか?一説によると、「クシュン」とクシャミをするよりも、「ハクショーン!!」と声を出しながらくしゃみをした方が爽快感があるようです。なんだかわかる気がします。
しかし、こういう馬鹿デカいくしゃみって側から見ると迷惑極まりないですよね。うるさくてびっくりするし、何より大量にツバが飛んでいるようで不衛生です。そんなとき、ついついお行儀の良い「ばあさんを見習え!」と思ってしまうのは、私が昭和生まれで男尊女卑の感覚を持ってしまっているからなのでしょうか。別にばあさんも馬鹿デカいくしゃみをしてもいいのにね。
ちなみに私は「ヘクシッ」派です。
朝ラッシュの終わりかけで、ちらほら立っている人がいるくらいの混み具合。
私は車両の中ほど座席の前に、隣に70歳くらいのおばさんがいる形で立っていた。
都心の駅で停車するうちに私の真ん前に座っていた人が降車。私は特に座る必要もないので立っていた。
すると、隣のおばさんが、私に対して腕を斜め下に出して、どうぞ、といったような素振りをする。
もともと座る意図もないので、どう反応していいのかもわからずそのままにしていたら、おばさんが席に座った。
といった出来事なんだが、いったいこのおばさんは何がしたかったのだろうと思った。
おばさんがもともと座りたかったのなら、私が立っている段階でそのまま座ればいいと思うし、丁寧にしたいのなら、私に声をかけて座ればいい。
もし、私が席をすすめる素振りに反応して座ったら、特に障害者でもない人に年長者が席をすすめるというよくわからないシチュエーションになる。
考えるに、このおばさんは、私が断ることを予想して席をすすめ、その上で大義名分を得て座ろうとしたのだろう。
まあよくある、払う気もないのに私が払いますという例のあれなんだろうけど、不特定の人間にもそれが通用すると思っていることに対しては愚鈍さと姑息さを感じてしまう。
この電車での話は笑い話で済みそうだけどそうじゃないパターンもある。
田舎でよく経験するけど、70過ぎのおばさん(というかおばあさん)が運転する軽自動車は、頭を下げればなんでもできると思っているところがあって、歩行者優先義務を丁寧に無視したりする。明らかにルールより身の回り1メートルの感覚を他人も共有している前提で運転していて危険でしょうがない。
こういうおばさんの感覚は昭和だよなぁと勝手に昭和生まれの私も思ったりするんだが、別の見方もあったりするんだろうか。よかったら教えて。
コンビニはコーヒーでもスターバックスよりいい豆つかってるし、いわゆる合成保存料ももう何十年もつかってない。地元の弁当屋さん・総菜やさんに仕事をあげて、産地直送(よほど遠くても隣県)で、もちろん髪の毛全部覆ってマスクして手袋してエアーフィルター通した空気の中で、非常に清潔につくってる。
家庭で毎回そこまでやってるかっていう話。均一さではプロに勝てる家庭料理なんてない。コンビニパンも、地方ではあなたのいう「地元のパン屋」さんが焼いて納入してることがあるからよくみてね。
追記
あと、「お母さんが無理したからおいしい」、って理屈は日本人特有の自己犠牲を尊ぶ精神がおかしいのよ。
母親の頑張りがとおといのは本当だけど、コンビニを使っても母親は母親、別のところでがんばってる。
大げさにいうと生んだあとも産褥熱で死なずに生きてるだけですでにがんばってる。
「コンビニ飯をつかう母親」の後悔、そして「コンビニ飯で育てられた上に後悔までされた子供」の自己否定につながりかねない風潮は早く消えてほしい。
「搾取側」=昭和生まれのことなら、そうとも、昭和生まれ率めっちゃ高いよ~。
なんでか教えてあげようね。
今40から上の人たちは、生まれたときにパソコンもインターネットもなかった。
高校でも学校に情報の授業がなかった。技術家庭で電気スタンド(わかる?あの机の上におくデスクライトだよ)つくっておわりだったんだよ。
ワープロ検定なんてものが書道よりいいんじゃないかなんて話もあった。
大学。25MBしかHDDのないパソコンでも、HDDそのものが珍しかった。
フロッピーディスクよりは読み込みが早いモノが搭載されているというだけで
そのパソコンを25万円で買ってる先輩がいていいなーって触らせてもらいにいった。
そういうなかでコンピューターに興味もってた人がふきだまったりあつまったのがniftyserve、そして移住先がはてな。
だからね、ぼくらも60代以上に年金クレクレって搾取されてるけどね、
やつらはもっぱら電話で「搾取した♪」って話してるのではてなにふきだまれるだけのIT知識はほとんどない。
(たまーにいるよ、70ではてな人力検索の回答者を無理にやってるけど難解度お経レベルなもんでガン無視されてる人とか)
で、僕ら40代くらいの指摘は本人たちにいつなにいってもつたわらないし。
やつらへの一番の対処は投票と着信拒否。なにをどう話してもネット出現以前では常識がかわってしまったから無駄。本当に話にならないんだ。
「ネクタイ送られて感謝でもやめたの会社」みたいなあんな理屈の通じるおじいちゃんなんて現実にはいないからね。
もちろんぼくらも搾取されてるってことがネットでコミュニケーションとる平成生まれまで伝わらないの。
最近は何でもスマホで済むから持ち物が少なくなった。手帳もいらないし財布もいらないし。そういえばパソコンも便利だ。パソコンがあれば色々調べられるからテレビもいらないし、辞書もいらないし漫画もダウンロードして読めるし。でもさ、そうやってシンプルになって物が無くなっていくってのは何だか物足りないんだよね。物がある方が落ち着く気がする。手帳とか現金とかスマホに集約できるけど、やっぱり手帳とか財布とか、手でそれらの物を触る、所有することで何だか心が満たされるんだよね。人には物を愛でる気持ちがあって、それらの対象物がスマホ一台というのは、人にとってあまりにも少なすぎるということなのかな。物に対する愛着、愛着の持てる持ち物の少なさが何か物足りなさを生むのかな。この感覚は昭和生まれならではなのかな。
オウムがあんな大事件をおこすとは思ってなかったけれど、なじみのない団体でもなかったんだよな。
かといってそこまで脅威も感じてなかった。
変なのーとかキモいwwwとか言ってたけど、人の生き死にに関わるとは思ってなかったから。
事件の内容はニュースやらなんやらで繰り返されるけど、そこに至るまでの間の一般ピープルの受け止め方っていうか。
時代の気分(?)ってどんどん再現するというか伝えるのが難しくなっていくのかもしれない。
これ読んで、ああ自分はちょうど吉田豪と春日太一の間に生まれたんだなーと。
(ああいう兄とこういう弟に挟まれたらスゴイwけどそういう意味じゃないよ)
テレビをそんなに見ない家だったので、とんねるずとか朝生とかに出ているのを詳しく見た覚えはないんだけど。
じゃあどこでオウムを見聞きしていたのかーって考えてもどうでもいい思い出しか出てこない。
多分、最初の記憶は小学校の頃に近所の誰かが入信したとかいう母親どうしのうわさ話。
70年代にじゃんじゃんばりばり造成した横浜の外れに住んでいたので、クラスの中でサラリーマン家庭じゃない家は商店街にお店を構えてる子1人しかいなくて。
一方で、新興宗教に入っている家の子は2人いたし、同じ学年じゃなくても近所にポツリポツリいたのね。
だから、受験に失敗した●●さんちのXX君がヨガにはまってオウムに入ったとか聞いても、なるほどなーくらいの。
入信してから生前分与を求めているとか聞いても、なあにそれ?みたいな。へぇ大変なのだねーくらいの。
中学の頃は真理党が選挙活動をしていたので、学校帰りに選挙カーを見た友達が「ショーコーショコー」って真似してて超笑った。
だから「しょうこ」って名前の友達の語尾を伸ばすとすごい嫌がられた。
ロングヘアの小汚い人をオウムっぽいって中傷するのもこの頃流行った。地味目の女子には非道い言い草だったと思う。
高校に通ってた時には、たまに最寄り駅のバス停に「原始仏典講義」という麻原の顔写真付のカラーポスターが貼ってあってギョっとした記憶も。
なんでギョっとしたかというと、ロータリーに立ってる案内板とか屋根とかの柱という柱に全部貼ってあったから。
同じポスターがある日、自分の住んでいる街中に貼られた事もあった。
さすがに人の家の塀には貼れないから、空き地や公園とかの基礎部分のブロックにまとめて5-6枚ずつ貼ってあって。
でも翌日には何もなかったように剥がされていて、母親に言っても「そんな事あったの?」と言われて狐につままれた気分だった。
この頃ずっと隣の駅に住む坂本弁護士一家が失踪したままだったけど、近所に住む子とは誘拐かなー怖いねーって言い合ってた。
大学では、貧乏な友達がマはポーシャのパソコンで研究をしていた。
なんたって安い。
起動する時に怪しい画面と音楽が流れるけど、変なサブリミナル効果で洗脳とかされてないといいなぁとか言って笑ってた。
どれもいろいろと変なんだけど、背後にどんな意図があって目の前にしているのが何の片鱗なのかちっとも分かってなかった。
今で言うならおもしろ画像とかビデオでわっと拡散して、ああまたやってるなぁキショいなぁって終わる感じと似ているかもしれない。
同じ新興宗教でいえば、家にやってきては玄関先でギターを弾くエホバの証人とか、
子どもにいろんな「しつけ」をする学会員の家に町内会の用事であがるのにどうするのか、とかの方が身近な脅威だったせいかもしれない。
下山して新聞を見て、あんまりの非現実ぶりと、距離の遠さで、クラクラした。
山に登る前にいたのと同じ世界に降りて来たのかなぁ・・なんて事を思った。
都内へ通勤・通学している家族が巻き込まれていたかもしれないとか、その時は思いもよらなかった。
家に電話して全員の無事を告げられてから「これで誰か亡くなりでもしていたら他の世界線に迷い込んだと一生信じただろうなぁ」とか思った。
10日後に国松長官が撃たれた時、心臓が三回止まったけど国の威信をかけて蘇生したみたいな話は新聞記者になってた先輩から聞いた。
国の警察トップがオウムにやられてたまるか、って現場はピリピリしてたとか。
なるほどー私みたいな一般人が間違って撃たれた場合は心臓1回止まったら死ぬんだろうなぁ、なんて思った。
どうでもいい思い出を連ねてみても、確かに何も出てこない。
そんなに受け入れていた気もしないけど、潰さなければ殺られる!といった危険を感じた事もなかった。
でもどこかに決定的に不味い兆候が見えていたはずで、それを乗りで見落としちゃったに違いないとも思っている。