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相撲の決まり手「けたぐり」をご存知だろうか。ポケモンの技で知っている諸賢も多いだろう。
この「けたぐり」。決まるとかっこいい。
押したり投げたりの相撲の中で、合気道のように相手の姿勢を崩す技だ。
実際には動画を見てもらうとして、非常な力学が働く「力士×力士」のダイナミズムの中で、意外な身体の動きになる。
立ち会いの際に決まると「けたぐり」になり、その後の攻防で決まると「けかえし」という決まり手になる。
力学としてはほぼ同じなので、ここでは併せて考える。
今日は俺の好きな、かつ動画でみんなで見られる「けたぐり」について紹介するぜ。
足技が得意な時天空。非常に綺麗な「けたぐり」を打つ。youtubeでは何個か時天空の足技を見ることができるが、個人的な「けたぐり」ベストはこれ。
https://youtu.be/KryP9tRyW48?t=329
時天空は立ち会いで「けたぐり」を仕掛ける可能性を匂わせておいて普通に正面から右を差しにいくことがある。
足技だけではない技量で小結まで登った時天空だが、病により2017年に亡くなる。天国でも力の神々にけたぐりを仕掛けていることだろう。
日本人ってのは身体が比較小さいから、小さな力士が大きな力士を倒すと否が応にも盛り上がる。俺は様式化されすぎて今はあまり好きじゃないけど。
小兵の栃剣は小錦の強烈な張り手に耐え、「ここぞ」という場所で小錦の足を動かす。小さな動きで大きな身体を揺るがす。「けたぐり」「けかえし」の面白さが凝縮された取り組み。
海乃山は小兵の曲者で、足技もそうだし、わりかし土俵態度も悪い。怪我のせいで立ち会いの所作も悪い。関脇まで進んだが、関脇には品格は求められなのだろうか。いいのだ。強ければ。
今までのけたぐりと違うのは、海乃山が取り組みの中で何度も「けかえし」を仕掛けるところ。決まり手になる「けたぐり」「けかえし」だけではなく、取り組みの流れの中での「けかえし」をぜひ見て欲しい。
この動画は多分日本相撲協会が平成期に出した『大相撲大全集』DVDのどこかの巻だと思うけど、もし良かったら他の部分も見て、海乃山の、取り組みで何度も仕掛ける「けたぐり」「けかえし」を堪能して欲しいと思う。
いろいろ話題になった「けたぐり」だが、まずは朝青龍の「けたぐり」のうまさを見てほしい。
https://youtu.be/KryP9tRyW48?t=279
朝青龍の運動神経というか身体能力というか相撲頭脳の高さというかが垣間見られる。朝青龍はけたぐりを多用しないが、使おうと思えば簡単に使える。
そんな彼の多芸ぶりを知ることができる。
この取り組みは「横綱の品格」を巡って問題になった。横綱審議委員会が、横綱らしくない取り組みだ、と苦言を呈したのだ。
けたぐりは、小兵力士の技というイメージがある。俺は横綱なんて品格も何も強ければそれでいいと思うから、朝青龍の技量の奥深さを知れて良かったと思う。
現在映像で見ることのできる「けたぐり」の個人的ベストはこれ。
https://www.youtube.com/watch?v=sO6fPrxcJso
この立ち会いでは、藤ノ川は手で相手に何かを積極的にしていない。「け」はしてるけど「たぐり」はほぼしていない。
ただ、さらによく見ると、藤ノ川は上半身でぶつかっていくようなフェイントをかけている。
「けたぐり」成立の最少限度の要件を満たした洗練された美しさがある。
藤ノ川の取り組みは見ていて面白いので他の動画もよければ見てみて欲しい。
なおyoutubeのアップロードに倫理的な問題を感ずる方は、『大相撲大全集』DVD全10巻を閲覧するといいだろう。図書館などでみられる他購入もできると思う。
あれは天才でなければ正しく理解できない、もしくは著者と同じ思考をしている人間でなければ正しく理解できないのだと思う。
しかし、凡才であっても、あの文章を参考にして天才的思考に近づけるのではないかと考えるのが人情である。
私は、初めてあの文章を読んで以来、何度も読み返し、また著者の当時のブログを読み進めて天才の思考に近づこうと試みている。
しかし、あの文章を読んで変化があったことは、文章を書くときの制約を取っ払ったということだ。
プログラミングと同様、文章を論理的に正確に書こうとすることは、文章量を制約することになる。
書けなくなるのだ。
正しく書こうとすると、書けなくなる。
例えば、この文章を書いているが、これは公開することを念頭に置いて書いている、すると途端に文章が走らなくなる。
失敗を恐れるからだ。
しかし、この文章は公開しないと決めると途端に文章は走り出す。
実際のところ、この文章は走らなくなっている。公開することが念頭にあるからだ。
正しく書こうとしてはいけない。
文章を日頃から書いている人には当たり前のことなのかもしれない。
まずはとりあえず書く。書けないと感じるときほど書く。
しかし、思うのだが、文章を書くときに、しかし、を何度も繰り返し使ってはいけないという文章作法があるが、それはおかしいと思う。
しかし、などという接続詞はある程度、込み入った文章を書こうとすれば、何度も登場させたくなるものである。
しかし、しかしは何度も連投してはいけなくて、しかしを何度も使いたいのであれば、言い換えをして他の接続詞に置き換えて、うまくやらなければいけない。
しかし、それでは本来、文章の内容において頭脳を使うべきであるところを、文章自体を構成することに使用するという本末転倒な現象が起こる。
本来、文章作法などというものはある程度の、読みやすさを担保すればよいだけの話であって、論理が破綻していなければ、厳密にこれはいけない、やってはいけないと制限するべきではないのだ。
そのような制限があるから活動が制約されて、成果も収縮してしまうのだ。
なぜかといえば、制限しないとミスやエラーを起こして、失敗して大事故を起こすからだ。
しかし、同時に私達は大抵のことを制限しなくとも、正しく実行できる。
しかし、アクセルとブレーキを踏み間違えると大変なことが起こるから、私達は運転に集中しなければならない。
大切なのは集中するということだ。
正しくは制限することではないのだ。
アクセルとブレーキを踏み間違えないためには集中することなのだ。
話が脱線した。
ミスを起こさないために、失敗をしたくないために、過剰に制限する。
社会的迷惑行為でなく、自分の範囲で収まることであれば、どんどんとやるべきなのだ。
これは文章を書きたいと思っているのだけれど、書けない人に読んでもらいたい。
別に間違っていても、あとから読んで恥ずかしくなっても、しかし、を何回使っても、別になんだっていいんだ。
こういった考えを公表すれば批判があるかもしれないし、あるいはなんの反応もなくて苦悶するかもしれない。
でも、それでいいのだ。
我々社会は間違いを許容できない。
これは正しい面も多々ある。
しかし、間違いを許容しないことは、制限をすることだし、そのことで何も生み出されない無を生み出していることは留意する必要がある。
ブレインストーミングでは間違いを気にしない、などといいつつ、絶対的に制約があって、正しくブレインストーミングを集団で行うのは至難である。
そのような状況は脱却するべきだ。
間違っている、間違っている、間違っている。
そうだね、間違っているね、だから、どうした?
シュワルツェネッガーとスタローンがバチバチ文句を言い合いながら筋肉映画に出演し、漫画といえば北斗神拳で敵が内臓破裂していた。遡ればチャールズ・ブロンソンが漢の代表として映画に出演し、梶原一騎が『愛と誠』や『あしたのジョー』、雁屋哲が『男組』の原作を務めるなど、男という存在は創作においてもクールでハードな像が求められてた。
中には北斗世代において『ウィングマン』『バスタード!』のようなH系のナンパな作品もあったものの、それらはメジャー作品とは言い難く、一部のファンが支えるものだった。実際その二つの作品は絵がアニメ風というだけでも当時の漫画作品の中では特異だったと思う。
ジョジョの承太郎は作者の荒木の初期作品にも見られるハードな男像を全面に押し出したもので、荒木自身がブロンソンやジョン・ウェインに対する懐古主義を持っていた。それと北斗世代が合致した最後の漢の時代と言ってもいい。やがてこの旧態依然とした男像はバブル期には時代にそぐわなくなってくる。
これゆえ後の荒木作品は筋肉質でハードな男像より、頭脳が焼け切れるまでフル回転させてヒリヒリした状況を生き抜く情報社会系マッチョへと変質してゆく。荒木がマッチョイズムである理由は対談にも現れる。故・宅八郎との対談で弱い内面を発露したエヴァンゲリオンの主人公シンジを全面的に否定している。
はっきり言ってこの文脈において鬼滅の刃はそこまで重要じゃないんだけど、要は生まれ変わりの話である。
鬼滅の刃は最終巻を除いて全て読んでいるし、一年以上前からジャンプ本誌を購読していて大体の展開は知っている。三島に関してはこれまで十冊くらい読んだ。仮面の告白、金閣寺、豊饒の海。そういうやつだ。
要するに生まれ変わりの話である。三島由紀夫は東大を卒業して官僚になった後で小説家に転身した。諸々の経緯を省くと最終的に自衛隊基地で生涯を終えることになる。この事件には様々な思惑が見られるのだけれど、それはそれとして三島由紀夫は生前生まれ変わりというものへの執着を小説において大いに語っていた。勿論、それはポーズだったのかもしれない。荒唐無稽でナイーヴな小説家としてのポーズを取ることで、あるいは自分の目的を推測されまいとしたのかもしれない。
いずれにしても、豊饒の海シリーズを読んでいる限りで彼はかなり真剣に生まれ変わりというものを信望していたように思われる。三島事件だってそうだ。彼が事件を起こしたのは彼の誕生日である一月十四日の四十九日前だった。つまり、事件から数えること四十九日後に、彼は改めてこの世に生を享けようとしたのである。少なくとも三島由紀夫の研究においてはそれが定説だ。
鬼滅の話どこ行ったねんというツッコミが聞こえてきそうなので言及しておくと、鬼滅は正直面白いと思っている。下弦連中の粛清とか柱合会議あたりから特に面白くなったよね。俺はかなり好きだ。上限の六の兄妹鬼のエピソードのラスト辺りとかも特に好きだ。
鬼滅の刃においては、人と人との因縁、因果、あるいは、極言すれば生まれ変わりについて表現が散見される。生まれ変わり、そんなものが本当に存在するのかどうかは確かめようがない。だから、この議論は率直に言ってナンセンスだ。そんなものは分からないのだ。このテの命題にそもそも述語を接続しようとすること自体間違っているのだ。そんなことは我々には分からないし、発言の余地はない。生まれ変わりについてはそれで話が即座に終わる。オーヴァ。本来なら。
とは言え三島由紀夫は明晰な頭脳を持ちながらに生まれ変わりをラディカルな部分で信じていたように思われる。少なくとも、自分の小説でそのようにアピールしている。生まれ変わりを自分は信じているのだと。どうやら、彼は周囲に口にしなかった個人的な体験によって生まれ変わりを信じるようになったのではないかと思われる。彼の遺作である『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』が脱稿されたのは三島事件の二日前で、つまり、彼は事件の後で『天人五衰』が出版されるように計らったのであり、『豊饒の海』シリーズにおいて「生まれ変わり」が大体的なテーマとして描かれていたことからも、彼が自身の存在を「生まれ変わり」の信望者として印象付けようとしたことは明らかであった。遺作のテーマは生まれ変わり――そして事件を起こしたのは誕生日の四十九日前であり、これまた生まれ変わりを示唆しているのだ。当然この二つの事象はリンクしている。
『豊饒の海』シリーズにおいて、主人公は松枝清顕と本多繁邦であり、本多は松枝と死別するが、生前松枝の身体に刻まれていた脇の下の三つの黒子を巡って彼は様々な生まれ変わりの事実に直面する。三巻『暁の寺』において登場する東南アジア某国の姫君ジン・ジャンは、本来知り得ようもはずもない前世の詳細な記憶を本多に向かって詳細に語ることで、少なくとも作中において生まれ変わりの事実が明確にされることとなる。
脇の下にある三つの黒子、というのがキーになっているこの連綿とした転生は、恐らくは三島本人の人生においても見られたのではなかろうか。三つの黒子とまでは言わずとも、身体的特徴の極度なまでの類似、そして死者と当事者しか知らぬはずの記憶が語られること。それらによって三島は生まれ変わりの事実を、自身の人生においても確認したのではないか――? 無論こんなことを考えるのはナンセンスだ。そんなことは三島当人にしか知る由はないし、重ねて、生まれ変わりに何らかの述語を接続してはならないのだから。
因みに、彼の遺作のタイトルである『豊饒の海』はミスリードを誘うもので、本来このタイトルは、ヨーロッパにおける月のクレータの異称を指している。
古来よりヨーロッパにおいては月に存在する巨大なクレーターのことを「豊饒の海」と呼ばうのだ。
それは、月に存在する一滴の水も存在しない茫漠とした荒野のことである。「豊穣」という言葉とは裏腹な、無益と徒労を象徴する荒野の存在が、彼の作品には浮かび上がっている。
そうですか
それとなく「詰(つ)める」を「詰(なじ)る」と修正できるように促してみましたが、そのことに気づいていただけなかったようです
それではマジに頭をよくする方がよいかも知れませんね
そのためにはたくさんNHKのテレビを見て、アナウンサーの話す言葉を完全に反復する訓練を続けるのがよいでしょう
ラジオでもよいのですが、字幕がある方が誤りに気がつきやすいですから、初めはテレビがよいと思います
次に字を読みます
なるべく印刷されたものが楽でよいと思いますが、ネットニュースでも構いません
訓練が目的なら新聞が理想的だと思いますが、営業めいてくるので詳しくは書きません
(最近はネットニュースに限らず、新聞や単行本でも品質が低下して、誤字が散見されるようになりました。それらを探すのも一興でしょう)
この訓練の目的は、書いてあること、話していることを完全に理解することです
もしこれができるようになったら、就業年齢に達しておられるようですから、あなたの知的能力は人生で最大値に達します
つまり限界まで頭が良くなってしまい、それ以上の改善は見込めないということです
これが達せられれば、業務の方は大幅に改善できると思いますが、もし改善されない場合、職業上必要な知識やスキルを身につけていないと考えられます
ちなみにフィン語では19年だそうです
訓練の効果が現れるまで早くて3ヶ月、遅ければ3年ほどかかると思います
3年やって何も変化がなければ、私を恨んで下さい
「うつ病九段」が白眉なのは、職業作家でもある先崎九段が赤裸々にうつ病体験談を書いていることと、著者の実兄が精神科の専門医なので、おそらくは医学的に最良の治療を受けた体験談であることだ。
一方で問題なのが、先崎九段は「うつ病九段」を上梓した時点で現役復帰しており、読者はうつ病回復記として安心して読める点(実際にどれほど回復しているかは知らないが、棋戦では少しは勝てている)。そして、作中で先崎九段が将棋を指しまくっている点である。入院明けから先崎九段ははっきりと現役復帰を目標に定め、苦しみながら将棋のトレーニングを開始する。
つまり、将棋指すとうつ病治るんだな、うつ病の治療には頭を使うといいんだな、復職も夢じゃないんだな、と読者は思ってしまう、懸念がある。
先崎九段の実兄である先崎章医師は上記をはっきり否定している。曰く、
『うつ病九段』精神科医の兄が語る「あの時、先崎学を救うには入院させるしかなかった」(https://bunshun.jp/articles/-/26353)の3ページ目(https://bunshun.jp/articles/-/26353?page=3)
誰がなんと言おうと、先崎九段の回復(専門用語として何というのかは知らない)が幸運の上に成り立っているのは間違いない。世の中には満足な治療を受けられず、あるいは治療がうまく行かない、そんなうつ病患者がもっと大勢いるわけである。「うつ病九段」はうつ病そのもの、うつ病患者の内面への理解を深めることができる良書だが、現実のうつ病患者やこれからうつ病になる人たちの救いになるためには、ドラマ化に際しては本のストーリーラインそのままではなく、よっぽどの丁寧な脚本が必要である。
そのへんどうなんかなぁ、と思うとおれは不安で眠れない。
仲良くなってすぐの頃に、たまたまご飯の帰りに通りがかった建物の前で、ここ私が行ってた学校なんだ〜って言われたことがあった。田舎者の私は、へーこんな都会のど真ん中にある学校だったんだ!いいなぁ!くらいしか思わなかったんだけど、後から知ったその学校は中高一貫の難関私立校だった。
もちろん彼女は大学も早慶上智クラスで、普通に生きてたら知り合いになれないような人だった。
変わってるなぁとは思ってたけど、趣味繋がりだったからなんとなく大学は上だけどあとは同レベルと誤認していて、本当に自分は恥知らずだった。
美味しいものもおしゃれなものも全部彼女から教えてもらったのに、大学上京で浮かれていた私は仲良くしてあげてよかった〜くらいに思ってた。世間知らずすぎる。
東京の山手線の中に実家があって、知識も教養もたくさんあって、進学や習い事や留学で得た豊かな人脈があって、なにもかも持っている彼女に縁を切られたのはある日突然のことだった。
突然とは言っても何回か私が無知で人との付き合いをするうえで大変失礼なことをしていたので、当然の結果ではあるんだけど、人格からなにから全て劣っていたと自覚した時は本当に辛かった。
私もあの家に生まれていたら、あの美貌と頭脳があれば、あの学校に通えていたら、私だってすきで今の親の元に生まれたわけじゃないのに。
知り合わなければよかった、あんな自己肯定感が高くて豊かに生きている人間を知らなければこんな劣等感に苛まれずに済んだのに、羨ましい、羨ましい、せめて出会った頃からやり直したい