はてなキーワード: 生産者とは
『日本は賃金が高いから国際競争力がない』というのは、Netflixの平均3500万円のようにアメリカの国際競争力がある一部を見ていると正しいように思える。
世界2位の中国の半分以下になってしまっているとはいえ、日本のGDPは世界第3位であり、賃金がより高い先進国よりGDPだけ見れば国際競争力はあるのだろう。
「賃金を上げれば消費が増えるので、内需も増える」というのは一部は正しいが、グローバル化で、生産者と消費者が分かれてしまった。
日本でモノを作って、それを自分で買いたいと思う人は今いるのか。国内メーカーのスマフォを設計している人もiPhone買い、AmazonやNetflixを使うのではないか。
ビットコイン騒動を考えると、お金を儲けようとする個人はまだお金を使うようだ。
アフィリエイトで儲けるために本を買ったり、モノを買ってレビューをしたり、カメラを買って商品写真を撮るといったように消費しているように見られる。
ふと思ったことだけど。
例の「生産者」発言のあと実際のゲイ(男性同性愛者)は比較的冷静に受け止めていて、別にどうってことない、自分たちは弱者じゃない、公的な支援なんて期待してないというような意見が出ていた。
もちろん全部とは言わないけど、少なくともある程度社会的地位のあってカミングアウト済のゲイは特に気にしてないような態度をしていた人が多かったように思う。
でもどちらかというと感情的に受け止めていたのはレズビアン(女性同性愛者)の方で、不要扱いして公的支援をしないとか切り捨てするのかといった意見があった。
こちらも数を数えたわけじゃなくただ主観だけど何となくそんなふうに思った。
で、本題なんだけど。
確かに地域やコミュニティの差はあっても同性愛者に対しての偏見や差別は以前よりかなり少なくなったと思う。
カミングアウトをしても仕事を続けられたり、公的な結婚はできないまでもその真似事のような結婚式や結婚生活はできる。
男性は。
例の医学部の話ではないがまだまだ日本では社会的に女性の昇進は厳しく、慣例とかで子供を生む生まないに関係なく管理職になれない人が多い。
データにも障害給与は女性の方が圧倒的に低い。これは間違いない。
だからもし同性愛者に差別のない社会が実現したとして、男性二馬力の家庭、男女二馬力の家庭、女性二馬力の家庭では女性だけの世帯の給与が最も低くなる。
そうなったとき、ふと思うがゲイは同性愛者の味方になり女性二馬力の家庭が男性二馬力に相当するような給与になるように協力をしてくれるだろうか?
それは男性全体の昇進のチャンスやキャリアアップを阻害することになる。
もしかしたらそうした問題が起きた時、ゲイはぷいっと「LGBT」という枠を捨てて男性社会の保身に走るのではないかと思うのだ。
今レズビアンが社会的に何となく受け入れられているのは異性愛者の男性が生ぬるく性的対象にしているから受け入れられているかのように見えるだけで、女性の社会的地位向上に対してなにか協力をしてくれているわけじゃない。
この記事を書いた増田だが、管理人が裁定する前にAが「もう来ないよバーカ」と捨て台詞を吐いて出ていってしまった。
後には普段発言しないROM専の人達の「Aはおかしかったよね」「これで平和になったね」「ルールを厳しくしようか」という発言が残った。
がっかりだ。
Aの大人げなさにもがっかりだが、ROM専の人達の発言にはもっとがっかりだ。
多少ルール違反があっても、Aは積極的に情報や作品を投稿してくれていたのに、
数少ない生産者を追い出して、いったいこのジャンルに何が残るのか。
「『作者が偉い、読者は下』というのはおかしいです」いや、おかしくないよ。
作者あってのジャンルだよ。
メジャーなジャンルだったら、その理屈も分からなくないけど、こんなマイナージャンルに来てくれる人なんて少ないんだよ?
そんな人を追い出して誰が作品を出すの?
「新作がない~」「情報がない~」って発言だけで埋め尽くされる掲示板が健全なジャンルの発展なの?
違うだろう。
つーか、そんな発言すらないよな?
情報提供スレが3カ月近く1レスもつかないことすらあったよな?
作者なしにジャンルは発展しないというのに、あの住人は分かってない。
色んなことが変わった。
取引先の態度が変わった。
知らない人が増えた。社員なのか来客なのか顔を見ただけではわからなくなった。
大きくなったところで良い待遇で鳴り物入りでやって来た人たちがいた。
刺激にはなる。
しかし今でも同士とは到底思えない。
安い給料で無名の会社でがむしゃらに居場所を作りながら、守って来た。
傾きかけた時もうダメかもしれないと思いながら必死に攻めながら耐えた。
どれも過去の話だと分かっている。
あの時必死になれた自分たちがいたから今があるという自負とプライド。
後からやってきた人たちはその頃の財を食いつぶしていく。
成果だけを刈り取り、用済みになれば無関心だ。
美味しそうな実を見つければ、自分の手元に置き、食べ終わったら見向きもしない。
見た目が不揃いなものにも興味はない。
綺麗に切り取られたその一瞬にだけしか価値がないと言わんばかりに。
手元に置いて成果が出なければ、平気で使えないと言う。
どんなに美味しくてもシェフがダメなら美味しく食べられないということを知らないんだろう。
自分の恥を晒していることにも気付かず、使えない、ただそれだけで片付ける。
仕事は好きだ。
近くで働く同僚も部下も上司も大切だ。
小生意気な部下もいるにはいるが、彼ら彼女らが数年後、数十年後、幸せに生きていくために一緒にどうしていくべきか真剣に向き合っているつもりだ。
疑心暗鬼になり、情報を隠したり、成果を独り占めしようとしたり、今までに感じなかった空気が流れてきている。
乱文失礼します。
男子フィギュアスケート日本代表選手の皆様、おめでとうございます。私も氷上の踊りを見るのは大好きなのです。心から祝福させて下さい。
でも私は世間に対してちょっと気に食わないことがあります。「羽生選手も宇野選手もゲームやアニメが好き」「宇野選手はガチゲーマー、携帯ゲームでは課金も」という報道です。どこか、まとめサイトかニュースサイトだったと思うのですが、はっきり覚えてなくてごめんなさい。
私は宇野選手が「ゲーマー」「ガチゲーマー」と読んで心が踊りました。私も生粋のゲーム好きでしたから。
しかし宇野選手が遊んでいるゲームとして挙げられたのは「ベイングローリー」「シャドウバース」「荒野行動」と言ったスマホゲーム。私はこれらを見てちょっと落胆してしまいました。その記事に「携帯ゲーム『では』」と書いてあっただけにスマホゲームしか紹介されていなかったのもえ〜っ…てなります。
まず「ベイングローリー」はMOBAと呼ばれるジャンルの戦略シミュレーションゲームアプリで、競技性の高さが人気のいいゲームなのですがスマートフォン向けということで少しだけカジュアルな作りになっています。というのも元々MOBAはパソコン発のジャンルであり、基本的に画面の小さなスマホでパソコンゲームのフォロワータイトルを開発しようにも少しずつ要素をオミットすることが必要なのです。実際ベイングローリーは人気PCゲーム「LOL」「DOTA2」に似ている面もあり、どうせ「ガチ」ならPCゲームを挙げて欲しかったです。ベイングローリーは確かに良いゲームですが、スマートフォン向けのゲームで「ガチ」などとまるでコアゲーマーであるかのように報道されるのには疑問符が付きます。まあ「もっと本格的なゲームが、素晴らしいものがあるから注目してほしい」という感情的なものからでた言葉に過ぎませんが。
また「荒野行動」。これは2017年に空前絶後の大ヒットを記録したPC/TVゲーム「PUBG」のフォロワーです。「PUBG」は「100人で撃ち合い、残った一人が優勝」という、ゲームとしては本当に面白いルールの銃撃戦ゲームなのですが、中国のスマホアプリ「荒野行動」はこれをパクったものです。ゲーム性はもちろんのことグラフィックやインターフェースまで酷似している完璧な丸パクリゲームなのですが、スマホゲーマーには馴染みの薄い銃撃戦ゲームということ、スペックの低い端末でも動作するということ、そもそもスマホゲームプレイヤーはPCゲームなど知らないということなどが重なりこちらも日本で大ヒット。「荒野行動」は今一番流行っているアプリの1つなのではないでしょうか。
私も「荒野行動」を遊んでみたのですが、やはり「PUBG」のパクリだけあって面白いです。
ただPUBGは実写映画顔負けのグラフィックだったのに対して荒野行動はハリボテ感満載の「これ10年は前のゲームだよね…」という…
またスマホゲームということで指で画面が隠れて没入感や競技性、操作性は低くなっているし、やはり「荒野行動」は「本格!ガチ!」と騒がれるのは違うかな…と思いました。それに中国の十八番、パクリですよ。なのに擁護する日本人が多くいるのは驚きです。中国版ドラえもんなどは叩くのに、「荒野行動」は自分がやっているから叩かないのですね。都合が良すぎる。
いや、確かに宇野選手はゲーマーです。全然良いんですよ。ゲームを遊ばない方やスマホゲームしかしない方もたくさんいらっしゃるのは承知です。
ただスマホの(簡易的な)ゲームを遊んでいて硬派だ本格だ言われると、私の思う「本当のゲーム」、また「本当のゲームファン」が蔑ろにされている気がしてなりません。「ゲームといえばアプリ!」な時代になってきているのも分かります。アプリゲームもとても楽しいです。ただ、もっと素晴らしく、もっと文化的で、もっとたのしい、PCゲームを知ってほしい。「ニーアオートマタ」を知ってほしい。「風ノ旅ビト」を知ってほしい。「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」を知ってほしい。
他の記事には負けず嫌い・ゲーム好きの象徴としてか「大乱闘スマッシュブラザーズ」や「モンスターハンター」関連のお話も載っていました。知らない人向けの記事っぽかったのですが、これらは100万本以上を売り上げる、かなりメジャーな、小学生も遊ぶようなゲームです。
ツイッター民「フィギュアスケート選手がモンハン好きのゲーマー!オタク歓喜だろ!」
いや…そうなのか?もし仮にあなたが「モンハン」「スマブラ」をやっているだけでドヤ顔して「ゲームオタク」を名乗るのであれば、今すぐにでも飛んでいって様々なゲームを買ってあげたいです。
もう1つ。宇野選手の「課金は強くなるための手段」と言う発言が話題になり、私含めスマホゲーム課金者はちょっと嬉しい気分になっていますね。ただそこには何があるのか?「携帯ゲームには課金も」とあたかも携帯ゲームに課金するのが特殊であるかのような見出しもありました。
アプリストアやSNSへの書き込みを見ていると「たかがゲームに1000円も払うか!w」「課金してないから○千円のアプリは高いよ、無料にして…」という意見が驚くほど多くあります。これはゲームを遊ぶ立場として、たとえ無課金だとしても書き込むべきことなのでしょうか?ましてや、開発者の目にも触れるであろうアプリストアレビュー欄に。
娯楽を享受するには基本的に生産者がいます。テレビやウェブサイトではそれを広告の形で、遊園地ならば入園料の形で、無料ゲームならば課金の形で。
ゲームというものは開発者が汗水垂らして徹夜で限られた時間とお金のなかプランニングし、プログラムを書き、音楽を作り、絵やアニメを描き、3Dグラフィックを作り、インターフェースを調整し、デバッグし、プロモーションし、…
たとえスマホゲームであれ開発者たちの魂がこもった作品であることは確かなのです。そしてそれを娯楽としてプレイヤーが享受しています。
それに対して「課金!?」と言うような書き方はアレやなあと思いました。
…また、正直「たかがゲーム」「無料にしてくれ」などは無礼極まりないと思います。
宇野選手の発言はある意味正しいです。そしてそれが我々課金者を盛り上げてくれています。ただの楽しい話です。
ただそれによってこれまでスマホゲームユーザーの多くが貫いてきた課金はしないという姿勢は少し目立ったと思ったのです。そのような考えの人には、ちょっと考えを改めてほしい。
無課金でもいい、楽しんでいるならいい。でもみんなを楽しませようと思って作ったものを「たかがゲーム」「無料にしろ」はやめてくれ。
この気持ち悪いオタクを装って書いた文章が何かの手違いで人に読まれ、フィギュアスケート選手やゲーム及びゲームファンのイメージダウンに繋がりませんように。
いわゆるオタクコミュニティ、特に女性向け界隈なんかでは「みんなが好きなもの(この場合では何かのコンテンツなど)を尊重してなにかの悪口は絶対言わないようにしよう」みたいな風潮あるよな。それ自体は極めて道徳的で素晴らしいと思う。みんながそれを守れたらいいよな。でも実際ヒトは好き嫌いってものがあるわけで、みんながみんな好きになるなんてものは存在し得ないわけだ。そしてつい「これ嫌い!」って言いたくなる瞬間もある。そこでどうするかって言うと単純に「嫌い!」とは言えないから、その何かが倫理的、もしくは道徳的に間違っているのではないか、あるいは「ルール」に反しているのではないか、というふうにあくまで「善意の指摘」という形に変えてそれを否定するようになる。これが一部から「学級会」なんて揶揄される所以とも言える。ここでよく考えて欲しいのは、その指摘の正当性などは置いておいて、それが好きな人がどう思うか、ということだ。ある人は自分が倫理的に間違っているモノに良い感情を抱いてしまった、なんて自責の念に駆られるかもしれない。一方でそのような大変に複雑なステップを踏まずに「これ嫌い!」という「個人の嫌悪の表明」であれば、「まあ好きな人も嫌いな人もいるだろうな」というように納得することができるだろう。つまり、不文律を気にして遠回しに否定しようとするほうがむしろ、誰かをより傷つけているかもしれないのだ。「実際に問題があるのにそんな個人の好みの問題に矮小化して語れって言うのか!」なんて思う人もいるだろう。もちろん、この種の指摘を全て否定しているわけではない。しかしこのような風潮がより議論や対話を複雑化させているのは明白だ。タイトルではすこし語弊を招きかねなかったかもしれないが、もちろん特定の人種や宗教の信者などへの嫌悪までもを許せと言っているわけでもないし、いちいち好きな人に嫌い嫌いとわめきにいくのを許せとも言っていない。言うなれば「ピーマンが嫌い!」と言う人に、「その発言は全てのピーマンが好きな人と生産者の人格を否定しているぞ!」なんて詰らずに、「嫌いな人もいるよね」と、「個人の嗜好の違い」を私たちは受け入れられるんだってのに気付こうという話だ。