はてなキーワード: 弾圧とは
西欧人権思想は中国の支配体制を批判はしても本格的に踏み込みはしないから結果的には中国ともめず共存する
女は皆フェミニストの恩恵を受けているが、男は痴漢の恩恵など微塵も受けてないぞ?
痴漢という犯罪そのものは容認するけど、痴漢をしていない自分にまで責任を取らせようとするのはおかしいというふうに考えるのってどうかなって思っただけ。
ただ、俺には関係ないし、巻き込んでくるなってだけ
ただ、フェミニストが男性に対して弾圧をしていることの責任をそれ以外の女性も追うべきだと行っているという人が
痴漢をする男性の責任をしていない男が負うのはおかしいと行っているわけでしょ。
痴漢という犯罪そのものは容認するけど、痴漢をしていない自分にまで責任を取らせようとするのはおかしいというふうに考えるのってどうかなって思っただけ。
タバコは昔は駅でも吸えた。新幹線でも普通に吸えた。歩きタバコをするやつは未だにいるけど一般的には嫌悪されているし、東京ではついに飲食店からもタバコが撤退するらしい。根底には副流煙による健康被害もあれば単に匂いも気になったりするし、そもそもタバコは成人じゃないと吸えない。有害物質を含んでいるのである。
というのを考えると、同じく成人じゃないと飲めないアルコールも、同じく有害物質のアセトアルデヒドに変わるわけだし、酔客は迷惑だし飲酒運転はあるし暴行するのはたいてい酔っ払いだし酔っ払いは酒臭い。ということでゆくゆくはアルコールも同じ道をたどるのではないか、と思うのであった。
でね?
とはいえタバコも完全に禁止にされたわけではないし、私の会社の隣の席の先輩は絶対に禁煙はしないっていっているのね。アルコールが世間一般に嫌悪され始めた場合、果たして私はどうするのだろう、というのも気になるのでそのあたりについても考えたい。
まず、路上でも新幹線でも駅でも飲めるアルコールを規制する。基本的に自販機とかでは売らないし、公共の場で酒を呷るなんて恥ずかしいことはやめるべきなのだ。そして分煙、じゃなくて分酒がスタートする。酒を飲むような輩と同じ席で飲食するなんて、うるさいし危ないし臭いではないか。タバコが飲食店から消えた今こそ今後は「タバコはお吸いになられますか?」ではなく「お酒はお飲みになられますか?」と聞いて喫酒席に案内するべきなのである。子供連れも安心。
コンビニで気軽に販売されている酒類についてもぐっと数を減らし、衝動的にお酒を買ってそのまま飲めてしまう文化もやめてしまおう。アルコール依存症の方が減るかもしれないし、渋谷のハロウィン騒動もなくなるかもしれない。飲酒運転による不幸な事故も減るかもしれないしいいことづくめではないか。ファミレスでランチタイムはタバコが吸えない時間があるように、禁酒時間も設けるべきだな。お酒というのは、夜間しか営業しない居酒屋で飲むものか、それか自宅で楽しむものになるのだ。
さて。
ここまで、タバコの歩んできた道に置き換える形でアルコールの辿る未来を思うままに描いてみたけれど、なんか考えてみたら全く困らないどころか、個人的にはとてもいいと思う。私はお酒が大好きだけど、居酒屋で飲むか家で飲むかがほとんどだ。たまに昼間から飲む酒というのも確かに美味しいんだけどそこは目をつぶろう。もしくはBBQ場とか温泉宿がちゃんと国の許可を取ればOKにするとかにしよう(欲が出た)。
どうあれ、電車の中で酔っ払うおっさん(近くに立つのは避けたい)もいなくなるし、新幹線で飲酒していびきかいて寝るおっさんも減るのだろう。よくよく考えてみれば、路上や電車で飲酒してるやつなんてろくなやつはいないのである。なぜタバコが弾圧されているのに、アルコールがでかい顔をしているのか。なんとなくこうして文章にしていると、どんどんアルコールを規制していったほうが良い気がしてくる。
しかしながらこれだけは自分勝手なのだけれど、たばこ税みたいにどんどん酒税が挙がっていくのだけは勘弁願いたい。ちゃんと迷惑かけずに静かに飲むからせめて今の金額におさめてほしい、というのはやっぱり飲ん兵衛の勝手なのだろうか。まぁ、値段が上がれば酒量が減って、健康増進に一役買ってくれるのかもしれない。
あと最後に、多分利益率がよいであろうアルコールの販売禁止をコンビニやファミレスが受け入れるかどうか、そして与党に絶対献金してそうな大手酒造会社が徹底抗戦するであろうなという問題が現実には横たわっているような気がするのだけれど、アルコールを摂取しながら世間はアルコールを節酒すべき、という文章を書き連ねているこの私にはだんだんとどうでもよいことなような気がしてきたのでここで筆を置きたい。
みなさまにおかれましても、よいお酒を。
多くの宗教に迫害と戦争の歴史があるように、たつき教とて例外ではない。
教祖たつきの角川からの迫害、暴徒と化すことを良しとしないたつきファンからの迫害、けもフレという題名もサーバルちゃんもかばんちゃんまで2に奪われる2製作陣からの弾圧。
2vsケムリクサ戦争終盤の製作陣Twitterでどったんばったん大騒ぎは焼け野原に赤々と燃える戦火としか言いようがない。
かつてキリスト教徒が迫害を受けながらも、なぜキリスト教徒であり続けたか?なぜ火炙りを前に信仰を告白したか?踏み絵を拒否し、拷問に耐えてまで神を信じ続けたか?
張り合う敵がいなければ張り合いようもない。強く否定されるほど、強く信じられるのだ。
ローマ大火がキリスト教の歴史であるように、2大炎上もたつき教の歴史である。平成の大火を足掛かりとしてたつき教は大きく成長した。この宗教がこのままカルトと化すか、それは何より教祖であるたつきにかかっている。
「リベラル」はそろそろダブルスタンダードを止めよう(橘玲) - 個人 - Yahoo!ニュース
今まで当事者以外誰もが分かっていて、しかし言わなかった事。それが上の記事には書いてある。
要約はたった二言ですむ。「じゃあお前らからやれよ」「自分が出来もしない事を求めんな」
1.自由なこと。
2.自由主義的。
3.《名》自由主義者。
「リベラル」。この言葉を名乗るものは日本にも米国にもいるが、しかしそこに見える大多数が全く自由主義的でもないのは私の錯覚だろうか?
【2019/4/16】松浦たけあき候補「杉田水脈議員を呼んだことを後悔しています」「皆さんに謝罪します」 #会いに行ける杉田水脈 - Togetter
見るがいい。この暴虐な行為を。
彼らはかつての「反差別」から膨れ上がり、逆らう者は全て悪だと称しているが、 それこそ悪であり、人類を衰退させていると言い切れる。(唐突にシャア並感)
この行いのどこに、自由があろうか?寛容があろうか?
「自由のため」と称して、人々の自由を奪い去ってるのは誰であろうか?
そこに「リベラル」はあるのか?
いささか話が脱線した。元に戻そう。
「リベラル」は夢みたいな目標を持ってやるから、いつも過激な事しかやらない(唐突にアムロ)。
しかもこの「過激な事」というのは、実は全くその「目標」に近づく事になってないのだ。
先にあげた杉田水脈の件なんか見てみればいいよ。ドン引きである。
「権力者の横暴を止める」という御旗の元に、数の力でもって黙らせる。これがリベラルか?自由か?
こういうと、「リベラル」諸氏は言うであろう。
「不寛容には寛容であらねば寛容は失われる」、と。昨日の増田も「「不寛容」は追い出すのが「寛容」だ」と息巻く者がいた。
これこそ、冒頭の二言を突きつけるべき思想である。「じゃあお前らからやれよ」「自分が出来もしない事を求めんな」
「リベラル」自身が自らと異なる思想を「不寛容」と断罪し、弾圧する。それは「寛容」と名乗っているものの、実態は不寛容である。
異なる価値観を受け入れないその姿勢のどこに寛容さがあろうか?
「不寛容」に対して不寛容になった時点でもう寛容さなどどこにもありはしないのだ。自分に出来ない事を、なぜ他人に求めるのか?
それは「寛容」な思想以外は社会に存在を許さないというファシズム、究極の不寛容ではないのか。
トランプの問いはこれをもっと現実的な形で「リベラル」に突きつけたものである。
美しい理想を振りかざし、他人を殴るのは幸せである。みな、心豊か(になった気になれる)であろうから。
いや、覚悟だけじゃなく、実際にやって行けるのか?10年、20年と。
自分の守ろうとした「可哀想な者」が血の通う人間で、しかもエゴも悪意もあると実感したときにこそ「リベラル」の真価は試される。
今日、ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。
巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界の東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。
半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。
ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金の林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色いドラゴン。
(中略)
口から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。
と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。
何が出典なんだろ?
『ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。
『ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。
(中略)
その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。
ドラゴンになったのは後世。
プリニウスの著作で唯一現存しているのが、自然と芸術についての百科全書的な37巻の大著『博物誌』である。自然界の歴史を網羅する史上初の刊行物であった。
(中略)
プリニウスの『博物誌』10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。
また、『博物誌』11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊のサラマンダーはこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアー・ドレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。
『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述が存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。
第一部でベーオウルフは巨人(ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴンの約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。
スラヴ民族は文字を持たなかったため、伝えられた神話を民族独自に記録した資料は存在しない。スラヴ神話が存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみである。スラヴ神話は地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。
ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12の体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。
『アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記の集大成である。編纂は9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。
「火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアー・ドレイクが飛んでいるのだとされた。
隕石という説があるらしい。
『イヴァンまたは獅子の騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士道物語であり、アーサー王伝説を主題にした5作品のひとつである。
イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇と獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァンは獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。
『黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃 – 98)によるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。
その時代、エチオピアの町では一人の魔術師が権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイは魔術師の元を訪れた。魔術師はマタイにドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。
同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。
聖マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?
タラスクは、レヴィアタンとボナコンの子供なのだが、ボナコンの特徴である「燃える糞」が、日本語訳されるときに混同されたのでは。
といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン」概念は薄かったが、
8〜9世紀頃から伝承として語られはじめて、10〜12世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。
なぜ火を吐くようになったのか?
サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山の溶岩の中に住んでいるという伝承もある。
ズメイや、ヤコブのドラゴンは、吐く息から硫黄の臭いがするといい、火山を連想させる。
ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、
蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージがしづらいことを考えると、隕石からの連想には説得力がある。
そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然な解釈に思われる。
うーん、わかんね。
追記。
「フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。
発表された新元号を前に、私は改めてこの国の首相に対し深い失望感と強烈な不快感を抱いた。
「令和」という文字の第一印象は、多くの人にとって「平和を命じられる」というものであっただろう。
実際「令」という字は「言いつける、命令する」が第一義である。
政府は何かと聞こえの良い説明をでっちあげて「『令』は『麗しい』を意味している」などとほざいているが、実態は「上から押し付けられた虚構の調和」を暗に仄めかすものであり、裏を返せば「お上の決めた和から外れた思想は徹底的に弾圧する」というアベ独裁政権の決意表明に他ならない。
自己顕示欲の強い安倍首相であるから「アベの安」の字は必ず元号に押しこんでくるだろうという当初の懸念は杞憂に終わったが、それ以上に市民をバカにした元号を発表したことはさすがに私も想定の範囲外。
呆れてものも言えないとはまさにこのことだ。
もしも民主党政権があのまま続いて、後進の立憲民主党が現在政権を担っていたのであれば、元号はもっと国民目線で国民に寄り添った素晴らしいものになっていたに違いない。
現在の日本はアベ独裁政権が進める極右化によって市民同士の繋がりが分断されてしまっているが、それを取り戻し市民のきずなを再び結びつけるような元号が求められている。
例えば、ヤマトに今なお弾圧されている沖縄に思いを馳せ、「友愛」と「琉球」を組み合わせた「琉愛(りゅうあい)」はどうだろうか。
また、アベが国内のマイノリティに目を向けているのであれば、アイヌ支援法案の閣議決定を祝して「愛怒(あいぬ)」「尺輝(しゃくしゃいん)」なども候補に挙がったはずだ。
国内の反人権主義者たる右翼勢力どもは立憲民主党を「売国政党だ!」などと根拠なく罵っているが、安倍が煽動する現在の"倍国"政治を前にしてこれよりひどい政治体制などあろうはずがないのである。
もしアベに人間としての最低限の良心がまだわずかながらでも残っているのであれば、改元を政治利用した恥ずべき行為を深く反省し、即刻内閣を総辞職させて国会議員の立場も辞するべきである。