「リベラル」はそろそろダブルスタンダードを止めよう(橘玲) - 個人 - Yahoo!ニュース
今まで当事者以外誰もが分かっていて、しかし言わなかった事。それが上の記事には書いてある。
要約はたった二言ですむ。「じゃあお前らからやれよ」「自分が出来もしない事を求めんな」
1.自由なこと。
2.自由主義的。
3.《名》自由主義者。
「リベラル」。この言葉を名乗るものは日本にも米国にもいるが、しかしそこに見える大多数が全く自由主義的でもないのは私の錯覚だろうか?
【2019/4/16】松浦たけあき候補「杉田水脈議員を呼んだことを後悔しています」「皆さんに謝罪します」 #会いに行ける杉田水脈 - Togetter
見るがいい。この暴虐な行為を。
彼らはかつての「反差別」から膨れ上がり、逆らう者は全て悪だと称しているが、 それこそ悪であり、人類を衰退させていると言い切れる。(唐突にシャア並感)
この行いのどこに、自由があろうか?寛容があろうか?
「自由のため」と称して、人々の自由を奪い去ってるのは誰であろうか?
そこに「リベラル」はあるのか?
いささか話が脱線した。元に戻そう。
「リベラル」は夢みたいな目標を持ってやるから、いつも過激な事しかやらない(唐突にアムロ)。
しかもこの「過激な事」というのは、実は全くその「目標」に近づく事になってないのだ。
先にあげた杉田水脈の件なんか見てみればいいよ。ドン引きである。
「権力者の横暴を止める」という御旗の元に、数の力でもって黙らせる。これがリベラルか?自由か?
こういうと、「リベラル」諸氏は言うであろう。
「不寛容には寛容であらねば寛容は失われる」、と。昨日の増田も「「不寛容」は追い出すのが「寛容」だ」と息巻く者がいた。
これこそ、冒頭の二言を突きつけるべき思想である。「じゃあお前らからやれよ」「自分が出来もしない事を求めんな」
「リベラル」自身が自らと異なる思想を「不寛容」と断罪し、弾圧する。それは「寛容」と名乗っているものの、実態は不寛容である。
異なる価値観を受け入れないその姿勢のどこに寛容さがあろうか?
「不寛容」に対して不寛容になった時点でもう寛容さなどどこにもありはしないのだ。自分に出来ない事を、なぜ他人に求めるのか?
それは「寛容」な思想以外は社会に存在を許さないというファシズム、究極の不寛容ではないのか。
トランプの問いはこれをもっと現実的な形で「リベラル」に突きつけたものである。
美しい理想を振りかざし、他人を殴るのは幸せである。みな、心豊か(になった気になれる)であろうから。
いや、覚悟だけじゃなく、実際にやって行けるのか?10年、20年と。
自分の守ろうとした「可哀想な者」が血の通う人間で、しかもエゴも悪意もあると実感したときにこそ「リベラル」の真価は試される。
昨日の増田は、ガイジとか高卒とかの蔑称のバリエーションに不寛容という語を導入したよって話でしかなかった
「人権派の人たちも、麻原彰晃のこの問題については、なぜかなかなか発言してくれないですよね」 「人権派って?」 「いろいろ。例えば市民団体とか」 「あの人たちはね、基本的に...
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