はてなキーワード: 使者とは
資本主義という根幹をアメリカ中国の2者が共有しその根幹から利益を得てる以上、お互いがお互いを刺激できないでいるし、それは経済に軸を移したMADとも取れる。
冷戦のようにアメリカが中国に打ち勝つなんて考えもあるがその可能性は低いだろう。米ソ冷戦では、政治システムも経済システムも何もかもが異なっていた。だからこそアメリカはソ連を追い詰めることができた。その査証として、2者の対立は軍事面のみに絞られ勢力圏拡大の代理戦争が発生した。
米中対立はそこが違う。
政治システムは違えど資本主義を導入し利益を得ている点では両者は同じだ。また両者はお互いに依存しあっている。アメリカは中国のサプライチェーンと13億の市場に依存している。トランプが国内回帰を進めても完全な脱依存はできない。中国もまた、アメリカの下請けとして利益を得ているし、多くの留学生をアメリカに送り出す。これまでの中国の発展に寄与した科学者実業家の多くがアメリカ留学帰りの海亀だ。両者はお互いに依存しこれまで成長してきた。グローバリゼーション様々だ。だとしてもアメリカやそのお仲間の国々は中共の弾圧に制裁を課しているし、それがアメリカの勝利に繋がると思う人もいるだろう。しかしそれは無理な話だ。
89年の天安門事件後は西側の国々は中国に制裁を課したが打撃を与えるには至らなかった。その後中国は改革開放を経て今やGDPは世界2位だ。その上ウイグルチベット香港の弾圧に一体一路、一党独裁は継続している。やってることはナチスと何ら変わりないが中共は存在しているしこれからも存在するだろう。
世界の警察、民主主義自由主義の使者のアメリカですら自国の利益保護には抗えない。アメリカ産業は中国なしではいられない。前述の通り中国のサプライチェーンとその13億の市場は魅力的だからだ。だからこれから中共が何をしようともアメリカは完全に中国との縁を切ることはできない。旗役者のアメリカがこのような状況だからお仲間の国々も中国に対してデカい態度で向かうことができない。
アメリカが民主主義の代弁者であり、資本主義で最も発展した国の一つでもある二面性を持つ限り、米中デカップリングは発生し得ない。弾圧を批判しそれなりの制裁は加えるが貿易では稼ぐ、その様な状況が続いていたしこれからも続く。
中国の民主化なんてもっと起き得ない。それが起きるときは米軍が天安門を占領するときだろう。
ウイグルもチベットも内モンゴルも香港もこれからもその先も弾圧を受け“同化”するだろう。そして資本主義の波に埋もれるだろう。
その時民主主義人道主義を標榜する国々はどのような反応を示すだろうか。
まず日本は今の様に傍観するだろう。(自称)右派なんか良い例だ。ウイグルやチベットを利用して中国を叩きたい(自称)右派や内ゲバでお忙しい学生運動残りの左派には傍観しかできない。その頃には日本という国はもう無いかもしれないがね。
最後に、
おわり
まず、『ダークナイト』は、フロイトの「自我・超自我・イド」の図式に当てはめると解釈しやすい映画です。
そもそもジョーカーってなんなの?というと、病院のシーンでハービーに言っていたように、「混沌の使者」(Agent of chaos)です。
ゴッサムに秩序をもたらそうとするハービーやバットマンに対して、人々の怒りや不安(防衛本能)を煽り、本能的衝動にしたがって行動させることで街の秩序を崩壊させようとするのがジョーカーです。
ここでの秩序とは何かというと、「父権制的な権力」を指します。
これは、明治時代など、近代以前の家父長制でも見られる、父親や「家」といった道徳や社会的信用に基づいて人々を従わせる権力を指します。
近代以前の社会では、家長同士の信頼によって地域コミュニティに必要な産業や社会制度が賄われており、それらの秩序を犯した者がいた場合、例え家族であってもその命を差し出す必要がありました。
父親のもたらす権力・秩序が個人の自由に優越していた時代です。
一方、近代の市民革命以降は、主権者が一般市民(国民)に移ったことで、上記の「父権制的な権力」に個人の自由が優先されるようになります。
コミュニティの構成員の間でも格差があったり、それぞれ価値観は異なります。
するとどうなるかというと、それぞれの権利の拡大やコミュニティの方針を決める上で争いが起きるようになります。
この原動力が、ジョーカーの象徴する「人間の生理的欲求・本能的衝動」です。
『ダークナイト』の公開された2009年はアメリカがイラク戦争の泥沼にどっぷりハマっていた時期で、ジョーカーの爆破などテロ行為と合わせて、この映画をイラク戦争批判と見る人もいました。
私はこの映画がイラク戦争批判だとは思いませんが、「人々の防衛本能によって事態が混沌に陥った」という点では共通していると思います。
イラク戦争の発端は、アメリカを攻撃する大量破壊兵器がイラクにあり、「先制攻撃」の対義名分で侵攻、泥沼に陥りました。
この映画でもそうで、人々が防衛本能によって親しい人物を裏切り、ジョーカーに加担することで一連の計画・悲劇は進みます。
終盤もジョーカーが市内に仕掛けた爆弾から逃げるために船に乗り込んだ一般市民が船内の爆破を免れるために、囚人船の爆破との二択を迫られる展開となります。
終盤の二択のシーンは、人々が社会的信頼や道徳(善)に基づいた振る舞いをすることで危機を免れるわけですが、ここでも生存本能を脅かす不安(本能的衝動)と社会的信頼(父権制的権力)の葛藤が起きているわけです。
この二者の葛藤を説明する概念が、フロイトの「自我・超自我・イド」です。
これらの概念は、父親のしつけを通じて内面化された父権制的権力と動物的欲望・本能的衝動の葛藤の間で揺れ動く人間の自我のありようを表すものです。
この三者の関係を表すものとしてよく触れられるのが、ギリシア悲劇の「オイディプス王」やこの寓話を受けた「エディプスコンプレックス」の概念です。
エディプスコンプレックスの概念によると、幼児期の男児は母親との結婚を望むが、父親と結婚しているため、その願望が叶うことはない。この時、男児に母親との結婚をタブーとする父権的な「規範」(秩序)が生まれ、男児は精神的な去勢を経験するとされます。
要は、母親と結婚したい男児の欲望と、それを男児のモラルとして彼の心の中で禁止する父権制的な権力との間で葛藤する男児の自我の揺れ動きを表しているという話です。
実際、この映画では、ハービーは社会的信用を守る地方検事で、ブルースの幼なじみであるレイチェルの恋人役です。
ブルースのレイチェルへの性欲を抑圧し、彼自身が望む秩序を体現する存在で、ブルースの「超自我」の象徴と言えます。
一方で、ブルース自身に目を向けると、幼い頃に両親を奪ったギャングに、自分自身の幼児期のトラウマである「コウモリ」のコスチュームで私刑を加えることで、彼らに自分と同じ畏怖(トラウマ)を植え付けようとしています。
ブルースが「コウモリをシンボルに選んだ理由」と「なぜシンボルが必要か」(逐次制裁では模倣犯が出るため、模倣犯が出ないよう、悪漢を怖がらせる、畏怖の対象となるシンボルが必要と考えた)は、前作の「バットマンビギンズ」でブルースによる上記そのままの説明があります。
つまり、「ブルース自身が彼の超自我(父親の象徴)であるコウモリになろうとしている」という話で、先述のエディプスコンプレックスにある、父親の座につこうとする男児の精神と合致します。
また、ブルース自身の葛藤として、彼は街に秩序をもたらすという公益性とは別に、Mob(ギャング)への個人的な恨みで制裁を加えている側面があり、この個人的な恨みが暴走してしまうのではないか、そもそも自身の行動はただの私刑(リンチ)ではないかという懸念がついて回っています。
ジョーカーが焚きつけようとしているのは、ブルースのこの個人的な怒りです。
ブルースがMobの制止と社会秩序の実現という社会道徳ではなく、個人的な怒りでバットマンの活動を行なった瞬間、彼はただの犯罪者になります。
ジョーカーの目的は、このバットマンの大義名分を取り払い、自分やスケアクロウなどの怪人や、Mobのようなゴロツキと変わらない存在に陥れることです(この企てに成功したのがハービートゥーフェイス)。
取調室でのバットマン・ジョーカーの尋問シーンで“You complete me.”(プロポーズの慣用句です)と言っていることからも分かる通り、ジョーカーはバットマンが半ば自分と同じ本能的衝動で動いていることに気付いています。
(だから、“You and I, are destined to do this, forever.”となる。)
長くなりましたが、パーティーシーンについて。
このシーンでは、老紳士が父権制的道徳を象徴する形でジョーカーに反抗したため、ジョーカーから“You remind me my father, I hate my father!”(お前見てると俺の父親を思い出すんだよ、大っ嫌いな父親をな!)と反感を買います。
ここでレイチェルが止めに入り、ジョーカーが口元の傷の由来を話しているのが、この場面の一番重要なポイント。
ここで何をしているのかというと、レイチェルを象徴的な意味で自分の女にしようとしています。
というのは、上に書いた通り、ジョーカーはバットマンの片割れです。
すると、ジョーカーにもレイチェル的な存在がいてよい、いるはず、という話になります。
それがジョーカーが”D’you know how I got these scars?”で始める「傷の由来の話」に出てくる「ジョーカーの悪妻」です。
レイチェルをこの悪妻に重ねているのは、逸話に入る前に“I had a wife, very beautiful, like you.”と言っていることから分かります。
ではその悪妻がどのような女性かというと、レイチェルのように慈愛に満ちている反面、ギャンブル狂で、口を裂かれた彼女に寄り添おうとしたジョーカーを拒絶した女性です。
ハービーと同じ検事職にあり、貞淑さを象徴するレイチェルとは真逆の存在です。
ジョーカーのしようとしたのは、レイチェルを自分の別れた悪妻と重ね、彼女と同じ傷をつけることで、レイチェルをその悪妻と同じ側に落とすことです。
おそらくこの逸話自体は嘘です。この場面以前にもGambolのシーンで傷の逸話がありますが、別の話をしています。病院のシーンでハービーに「俺が計画して動く男に見えるか?」(”Do I look like a guy with a plan?”)と言っていることからも、彼がポジショントークしない人間であることが分かります。
レイチェルを殺したり、ただ傷物にするのではなく、その前にこの逸話を挟むことで、その傷は彼女へのマーキングの意味を持つようになり、シンボル的な意味でレイチェルはジョーカーの女に堕落します。
彼女はやがてジョーカーにさらわれて殺されてしまいますが、面白いのは、その時ジョーカーが指定した彼女の居場所です(実際にいたのはハービーですが、言葉の上で彼女と結びついていたのが重要)。
ジョーカーは彼女の居場所を“She’s at avenue X, in Cicero.”と指定しています。
Ciceroとは、共和制ローマ末期の弁論家・政治家・哲学者で、彼の政治思想で理想とする統治機構は「共和制」でした。
「共和制」は、国家主権が人民に存する統治機構で、国家元首(王)により支配する独裁制とは対立する統治機構です。つまり、父権的制的権力とは対立する概念。人民の動物的本能に公共善による秩序をもたらそうとするもので、超自我とイドの調和が取れた状態と見ることもできます。
つまり、超自我とイドの葛藤に揺れるブルースが、本来身を委ねるべき安息の場所にレイチェルがいた、と比喩的に表現されているのです。
(その場所にハービー(父親)を置いとくあたり、徹底してジョーカーは底意地が悪い)
とまぁ、パーティーシーンは、これらの葛藤の舞台となる場面です。
直前でスリロ判事・警察長官が殺されて、ハービーが殺されればゴッサムの司法庁崩壊でその王手がかかっていたり、それを阻止すべく大急ぎで対応するブルースと迫るジョーカーのサスペンスだったり、ヒースレジャーのセリフ回しだったりで見所がいっぱいある、個人的にも好きなシーンです。
なんと!
日本にまだ異名の1つも持たないものが、少なくとも数千人はいるだろうと考えると、実に嘆かわしい。
今日も張り切って異名を探すから、気に入ったものがあれば持っていくように。
異名 | ヒット件数 | 使用許可 | |
---|---|---|---|
夢の超特級 | 1,630件 | 不許可 | google:"夢の超特級" |
夢の中特急 | 1件 | 不許可 | google:"夢の中特急" |
夢の小特急 | 0件 | 使って良し | google:"夢の小特急" |
死者に敬意がないとか言っててさ?頭おかしくない?
頭おかしいは言い過ぎかもしれんけど、こうもナチュラルにローカライズされて一部の地域だけでしか通じない思想を
さも全人類が共有しているみたいな、全然世の中のことを知らないで上から目線で、自信満々に自分の考えが全宇宙で通じる正義だと思い込んで発言しちゃうのダセェんだよ
そんなことも把握できてなくて、今回のダーウィン賞に対して怒られても、そもそういう観点の賞じゃねーからとしかならん
気持ちはわかる、俺も日本で生まれ育ってどっぷりそこの生死間前提の宗教観をお前らと共有しているからわかるけど、
それは我々のコミュニティでしか通じないことだし、それを宇宙の真理みたいに錯覚するのは、マジでヤバすぎる
ダーウィン賞に怒るのはもっともだけど、それはダーウィン賞がクソなのではなく、日本の死生観に配慮がないことを怒るべきで、
ダーウィン賞がとち狂った倫理観を持っているわけじゃなく、彼らの世界では日本のように死んだ人間を神聖視するようなスピリチュアルの文化がないだけで、文化の問題であることくらい分かれよ。
そんなこともわからんで怒り踊らされて訳わかんねーたわ言言ってるの、きしょいっつーの
お前の感覚は一つの地域でしか通じないスピリチュアルな文化だってことくらい、分かれ
わかった上で、怒るべきは、ローカルで大事にされているスピリチュアル文化に対してのフォローが欠けていて、多くの同胞を悲しませることです。
というような起こり方がベターでしょうね。
なんだよ使者への尊敬って。尊敬するかどうかはどういった人間だったかによるだろ。死んだらみんなえらい!って
お前ら(我々)固有の文化だろう。少なくとも世界中の人間の間でコンセンサスを得ているような思想じゃねーよ
その内容は、明石の海賊から大江山の山賊への手紙のようなもので、なんともわけがわからなかった。
「先日の手紙の返事がないので、そちらに九重姫を送ったがやはり音沙汰がない、姫は到着したか」とある。
鹿之助は驚き、明石の海賊が九重姫をさらったかと合点して、その退治に出かけることとなった。
船頭を雇い、海に出てしばらく進むと、向こうから来るのはまさしく海賊の船だと船頭が言う。
鹿之助がその船に乗り込むと、なんと船底より大谷古猪之助・早川鮎之助・横道兵庫之助が現れた。
古猪之助が語るところによると、まず事の発端は大江山の山賊が宗教卿の手紙を奪ったことである。
それを読んだ山賊は、鹿之助からの使者になりすまして九重姫を誘い出し、そのままねぐらに連れ帰ってしまった。
古猪之助は、鹿之助が仕官したという噂を聞いて約束を果たそうと播州へ向かう途中、大江山で山賊に捕まりその手下として働いていた。
そこで九重姫と出会って事情を聞き、姫をつづらに入れて逃げ出したところ、今度は舞子の浜の宿でつづらを海賊に奪われたのだと言う。
兵庫之助のほうは、大坂の店に送ったはずの浮舟が、まもなく兵庫之助を慕って追いかけてきたので困っていたところ、
九重姫と共に浮舟も海賊にさらわれてしまったので、同じ宿に泊まっていた古猪之助と協力して救い出そうとした。
二人して海賊の棟梁に襲いかかったところ、その棟梁というのが実は鮎之助であり、同じく鹿之助の家臣であることが判明したのだと言う。
鮎之助はと言うと、やはり鹿之助のもとへ向かう途中で海賊に襲われたので、その棟梁を返り討ちにしてやった。