はてなキーワード: 横断幕とは
野球ファンは民度が低い割に何故だが知らないけれど嫌韓厨が少ない。
韓国代表には挑発やら故意死球やらやりたい放題やられているのに嫌韓ネトウヨを見る事があまり無い。
サッカーじゃまず考えられない。まあ鄭大世や梁勇基はスター選手と言えなくも無いが、新井金本とは人気度が雲泥の差。そもそもテセもリャンも韓国じゃないし、在日韓国人では佐藤寿人や柱谷哲二のような存在には絶対なれない。
民度の差?でも野球ファンの民度が高いなんて全く思えないよね。阪神ファンなんか、水道橋駅で「くたばれ読売」を合唱するような連中だ。
だけどそんな低民度集団も、オ・スンファンに対して野次を飛ばしたり、入場ゲートに「Japanese Only」なんて横断幕を掲げたりしない。
今日の18時30分から安倍晋三が秋葉原で演説するというので様子を見に行くことにした。
18時過ぎに電気街口から出ると、すぐに日の丸を配っているおばさんやおっさんに遭遇した。候補者の写真と名前が入ったうちわを配っている人も複数見かけた。
自民党支持者と思われる人たちが持っているプラカードは見るに堪えないものが多かったが、中でも最悪だったのは「水爆上等 撃ってこい豚 死ぬのはお前だ」と書かれた金正恩の写真入りの札を掲げている輩で、裏面には「核戦争には慣れている 試してみるか?」と書かれていて更にげんなりした。
他に朝鮮人が云々といって他人に絡んでいる人相の悪い男などもいて物騒だと思った。
警官は制服警官が各所に立っていて、それとは別に10人ほどまとまって待機している制服集団がダイビルとUDXにそれぞれいるようだった。制服警官の他にも「SP」という字をあしらった赤いバッジをつけたスーツの男が何人かいて、これはおそらくSPなのだろうと思った。ほかに黄色い丸か八角形に見えるバッジをつけたスーツの男や、青いバッジをつけたスーツの男もそれぞれ複数いたが、これが自民党関係者なのか警察なのかはよくわからなかった。
自民党の最下層のスタッフは黄色い丸いシールを服に貼っているようだった。ランクが上がると花の形の飾りをつけるようになるらしく、黄色や青やピンクのものをつけている関係者風の人が大勢いた。これらの色がどういう風に階級と対応しているのかはよくわからなかった。
自民党の広報車の上ではまだ候補者が話していて、安倍晋三の登場まで時間がありそうだったので中央通りの方に行くと、交差点で山田太郎が演説をしていた。なぜこの人は安倍晋三が来る会場で演説をさせてもらえないでこんなところで客引きみたいなことをしているのだろうと思った。中央通り沿いには末広町の方まで警察車両がズラリと停車していた。何をそんなに恐れているのだろうと面白くなった。
気になったのでヨドバシカメラの方の広場を見に行ったが、そこでは「NHKから国民を守る党」の候補が演説をしていた。
電気街口前の広場に戻ってしばらく待っていると、麻生太郎が演説を始めた。「毎年のように総理大臣が変わっていた時代が~」などと話していたが自分もその一員だったことについては触れていなかった。政権が長く続いているのは良いことであり外交も頑張っているという趣旨の演説だった。内政については触れていなかったように思う。
安倍晋三が来ると、反対派の人が横断幕を上げようとするのを破壊しようと自民党支持者が暴力に訴えて小競り合いが発生した。
自分の目の前にいるスーツの男が持っているスマホが見え、LINEグループで「B地点でも上がりました下げさせて」「こちらは支持者の人が壊してくれました」などと会話していた。この男が自民党関係者なのか警察関係なのかはよくわからなかった。
安倍晋三がしゃべり出すと「安倍やめろ」のコールが始まった。目の前で小競り合いが発生したのを目撃してテンションが上がっていたので自分も「安倍やめろ」と声に出した。思っていることを、相手を目の前にして声に出すのは気分が良かった。
拡声器を使った選挙活動は20時までなので、それを前にして安倍晋三は去って行った。その後、自民党スタッフが「あっべしゅしょう!あっべしゅしょう!」などとコールをするよう観衆に呼びかけていたが反応はまばらだった。一部の人相の悪い支持者を除けば、観衆の大半は安倍晋三という珍獣を見に来ただけの野次馬だったのかもしれないなと思った。
・昨日は暇かと思ったら案外忙しかった。相棒が休憩に入った五分後くらいにどどっと沢山のお客様がご来店するという。
「バックヤードに一番くじがあるからお客さんが来たら70かけで売ってください」
と、意味不明な事を言われる。なんすかそれ???って相棒に聞いたら、
「あの一番くじだよ、バックヤードに置いてあるからお客さんが来たら段ボール箱のバーコードスキャンしてから70かけして売って」
だそうで、益々謎が深まった。
・フェイスアップしながら新商品の値札をゴンドラにつける作業をしながら、ちょっと考え込む。
・というのも、パッケージが横長でビッグなパーティー用ポテトチップスの置き場がないのである。
・パーティー用のポテチの置き場はないがポップコーンの周辺は飛び飛びにブランクがある。どうやって整頓すればいいんだ。
・前回のバイトで、プロアルバイター氏から、「従業員は全員、忙しくても暇を見つけてかならず1日一回は床のモップかけをすることになっている。ちゃんとそこの壁に清掃チェック表もある」と教わる。
・七ヶ月勤めてて初めて知った、と言ったら愕然としていたプロアルバイター氏。
「この店、新人に基礎中の基礎だけ教えたらマジであとは放置なんだな……」
・忙しかったがせっせとモップをかけた。
・例の一番くじのお客様ご来店。相棒の説明だとサッパリわからなかったが、つまり一番くじを丸ごと一箱お買い上げ、という事だった。
・一番くじのお客様から、「お店の入り口に貼ってあった横断幕もくれ」と言われたので探したが、無かった。あったとして、あげていいものなのかしらん。
・店長なら「いいよー」って言いそう。
・なんせ、店には置く気無いくじをお客様の為に発注するくらいだし。
・横断幕は諸般の事情によりものの数日しか飾ってなかったから、あったとして汚れておらず状態は良かったはずだ。
・横断幕まで要求されたとき、「もしかしてこの人、噂の転売ヤーなのでは?」という疑念が湧く。
・いずれにせよ、目的の為には手段を選ばない系の人って、どんなにマトモな格好してマトモに人語を話していても、目付きが尋常ではないのだな、と思う。
・当店にもよくアニオタなお客様方がご来店し、くじを沢山引いたりおまけのクリアファイルの為に沢山の商品をお買い上げになったりアニメファン御用達のショップにお金を振り込んで小躍りしながら帰って行かれたりするけど、そういう方々から溢れる幸せオーラ的なものが、例の一番くじ買い占めのお客様からは微塵も感じられず、ただただ不気味だった。欲にまみれている感じで……。
・帰宅後、Twitterで「一番くじ」「(作品名)」で検索し、やはりネットオークションやメルカリで高額取引されている事を知る。
韓国の観艦式で旭日旗が問題となったが、朝鮮日報やはてなのscopedog氏などが日本の右傾化のせいで旭日旗を問題視するようになったと書いているが、本当かどうか調べてみた。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/10/06/2018100600425_3.html
旭日旗に誇りを感じる人たちはあの時何をしていたのだろう?
http://scopedog.hatenablog.com/entry/2018/10/07/000000
反日教育により1950年代から旭日旗に悪印象を持つ人が韓国で増える。>1990年代~竹島問題が勃発>2004年~韓国人サポーターがサッカーで反日パフォーマンス>2007年ネット上で芸能人が旭日旗デザインの使用し批判される。>2011年サッカー日韓戦で奇誠庸の猿真似パフォーマンス(旭日旗が有ったとデマ)。旭日旗への反感がメディアで広まる。>2012年ロンドン五輪で朴鍾佑が日本のユニフォームのデザインを批判>戦犯旗の用語が発明される。>2013年しばき隊の関係者S氏が日韓戦で旭日旗を振る。旭日旗への批判が一気に過熱する。>2016年少女時代のメンバーが旭日旗デザインの使用、大炎上となる。
1.2016年まで自衛隊の旭日旗使用は問題になっていなかった。
今回(2018年)旭日旗を使用することが問題となり、韓国の観艦式への参加を自衛隊は見送ったが、1996~2009年までの間には旭日旗の使用は問題視されていなかった。以下が来歴である。
1996年 51年ぶりに親善訪問 釜山入港 <市民団体の抗議は有ったが旭日旗の使用は特別問題視されず。
2016年 海上自衛隊 鎮海軍港に入港 <ここで初めて旭日旗の使用が大きく批判されるようになる
つまり、2009年から2016年の間に旭日旗への反感が強くなっていった事がわかる。
2.切っ掛けは竹島問題とサッカー日韓戦での反日パフォーマンス
そこでGoogleトレンドを使い旭日旗(욱일기)の人気度を調べてみた。
https://trends.google.com/trends/explore?date=all&geo=KR&q=%EC%9A%B1%EC%9D%BC%EA%B8%B0
何が起きたか調べてみると、韓国が独島の切手を発売する騒ぎが有った事がわかった。
しかし、なぜ旭日旗が検索されたかは分からなかった。おそらく2月28日に日本がUPU(万国郵便連合)に竹島の件を抗議したことが切っ掛けで旭日旗が検索されたと思われる。
そして、その影響で2004年度頃から韓国人の反日パフォーマンスがサッカーの日韓戦で行うわれるようになった。
「安重根」、「倭奴征伐」、「独島は韓国の島」などの横断幕が使われたが、日本サッカー協会は強い抗議を行わず、その後の日韓戦で反日パフォーマンスは恒例となる。
2006~2010年の間はトレンドには現れないが、2007年にBIG BANGのメンバーが旭日デザインジャンパーで批判されるなど、芸能人や海外のゲームでの旭日デザインの使用が度々ネットで批判を浴びるようになっていった。
現在へと続く旭日旗批判へのキッカケとなった事件が2011年に起こった。
サッカーの日韓戦で起きたキ・ソンヨン猿真似パフォーマンスである。
キ・ソンヨンは日本のサポーターが旭日旗を掲げたから仕返しに猿真似をしたと釈明したが、しかしそれはただの言い訳であった。
韓国のテレビ局が旭日旗の映像を映したがのちに捏造と判明、日韓戦で旭日旗が使われた証拠は発見されなかった。
後にキ・ソンヨンはスコットランドに対した人種差別への抗議パフォーマンスだったと発言を覆した。
キ・ソンヨンの嘘の発言後、旭日旗に対する反感はメディアによって一般に広まっていった。
同年12月には韓国の南極に関するテレビ番組が作られる。そこに映った昭和基地の旭日旗に抗議が殺到する。
翌年の2012年8月10日にはロンドン五輪でサッカー選手朴鍾佑が「独島はわれわれの領土」とパフォーマンスして問題化。
オリンピック憲章違反だったので罰則を受けるが、朴は「独島パフォーマンスを批判するなら日本代表の新体操のユニフォームもアジア人への差別」と反論。
実際は新体操ではなく体操のユニフォームが旭日旗をイメージさせるものだったが、韓国国内で旭日旗への反感がさらに高まる。
そして、08月12日 NAVER知識iN(韓国版人力はてな)に「戦犯旗」の用語が初めて登録される。(NAVERの掲示板において戦犯旗の用語が発明された)
その後韓国メディアによって戦犯旗の呼称が広まり、11月にはVANK(韓国政府が予算を支援する民間団体)が旭日旗に対する抗議活動を国連前で行う。
전범기(戦犯旗)
3. 政治家が問題視するようになった切っ掛けはしばき隊関係者
そして翌2013年さらなる物議を醸したのは、サッカーの日韓戦での日本人サポーターS氏による旭日旗使用案件である。
それまでの日韓戦では韓国に配慮して旭日旗の使用を自粛していたが、日本人サポーターが旭日旗を掲げた応援を強行する。
このことから反日感情が高まり、旭日旗の使用は国会の議論に上るまで大きくなった。
同年9月に韓国国会で旭日旗禁止法が発議される。結局この法案は外交問題化を懸念し廃棄となる。
この日本人サポーターのS氏はネトウヨや在特会の人間だったかと言うとそうではなく、彼は嫌韓デモのカウンター側、レイシストしばき隊としてでデモに参加していた人物だ。
アエラ https://dot.asahi.com/aera/2013100800001.html?page=1
なので、朝鮮日報やscopedog氏の言うように日本の韓国人差別団体が使用したから旭日旗のイメージが悪くなったのではなく、しばき隊関係の人間が日韓戦で旭日旗を使用したことが旭日旗問題をここまで大きくした原因である。
その後、2014年のサッカーブラジルW杯で日本のユニホームから旭日旗デザインを外せと韓国が抗議、2016年アイドルグループの少女時代のメンバーが旭日旗デザインの画像をSNSに投稿した際にはこれまでにないほど炎上した。
そして2016年、自衛隊が鎮海軍港に入港した際に、初めて自衛隊の旭日旗の使用が韓国国内で問題となり、
2018年韓国の国際観艦式で旭日旗自粛要請される事態になった。
4.簡単なまとめ
竹島問題から反日感情が過熱、サッカーの日韓戦で反日パフォーマンスが恒例になる。当時旭日旗への反感はネット上で親北派のサヨクが多少批判する程度だった。
2011年アジアカップ、2012ロンドン五輪で韓国人サッカー選手が反日パフォーマンスを行い罰則を受ける。その際言い訳として旭日旗が使われ、旭日旗への反感がメディアで一般人に広まる。そして、「戦犯旗」の造語が生まれた。また、旭日旗の問題を政治家が取り上げるほど大きな問題にしたのは、scopedog氏が妄想した日本の右翼ではなく、しばき隊関係者のサッカーサポーターが日韓戦で旭日旗を掲げたのがきっかけ。
おそらく朝鮮日報やscopedog氏が予想したような日本の右翼の影響が見られなかったのは、一般の韓国人は日本の右翼の動向によりも自国の有名サッカー選手や芸能人の動向をより注目しているからであろう。
5.来歴
1952年 韓国の李承晩大統領が一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を引く
1999年 日韓漁業 新協定発効 韓国で竹島問題で世論が盛り上がる
2004年1月 韓国獨島切手を日本の抗議を無視して発売 日本も竹島問題が認知され始める
2004年7月 サッカーアジアカップの日韓戦で安重根、倭奴征伐等の横断幕が使われ、その後日韓戦で反日パフォーマンスが恒例となる。
2005年3月 島根県議会が竹島の日条例を成立 韓国で反日運動が盛り上がる
2007年 BIG BANG 旭日デザインジャンパーで批判される、チャン・グンソク日章旗のステッカーで物議
2008年 韓国Red Alert3の旭日旗デザインに抗議。以降様々なゲームの旭日旗デザインに抗議するようになる。
2011年1月 奇誠庸AFCアジアカップ準決勝で猿真似パフォーマンス
2011年12月 韓国のドキュメンタリー番組、昭和基地の旭日旗の映像に抗議殺到
2012年8月10日 ロンドン五輪で朴鍾佑(サッカー)が「独島はわれわれの領土」とパフォーマンス。日本代表の新体操のユニフォームもアジア人への差別と批判。
2012年08月12日 NAVER知識iN (韓国版人力はてな)に戦犯旗が初めて登録される。(NAVERの掲示板において戦犯旗の用語が発明)
2012年8月~ 韓国メディアによって戦犯旗の呼称が広まる。
2012年11 VANK(韓国政府が予算を支援する民間団体) 旭日旗への抗議活動を国連前で行う。
2013年7月 サッカーの日韓戦 日本人サポーターS氏、旭日旗を日韓戦で旭日旗を振る (2010年頃にサッカーの日韓戦で安重根の横断幕を見たからと証言)
2013年9月 旭日旗禁止法が発議。外交問題化を懸念し結局廃棄となる。
2014年6月 サッカーブラジルW杯 日本のユニホームから旭日旗デザインを外せと韓国が抗議
2016年8月 少女時代のメンバーが旭日旗デザインの使用で炎上
阪神担当記者「相手選手に"くたばれ"だの"死ね"だの言うのやめない?」
ヤジにエネルギー使うより、もっと選手へ称賛の声を - プロ野球番記者コラム - 野球コラム : 日刊スポーツ
●売ジャイアンツが「くたばれ」とか「地獄に落ちろ」と言われるようなチームだからいけないのでは?
ま(@0822ron) - 08/10
えーそんなんおもろないやん。何しにわざわざ高い金出して球場行くと思ってるの?そんな行儀のいい観戦は嫌だ。
なんで毎年毎年こんなさむい記事出んの?
なが(@7na7ga7) - 08/10
別にそこまで深く考えることやないと思うけど。
野次あってのプロ野球観戦です。阪神ファンはじめ他球団のファンの皆さんは今後もどんどん読売ジャイアンツへ野次をお願いします。
ベイだん(@Luke_MZN) - 08/10
あー息苦しい
これも含めて、プロ野球。
昔は当たり前。
(日刊スポーツ)
やかましいわ。こんな記事書くから「ヤジ辞めろ」言う奴らが増えるんだよ。
甲子園球児に「オラァ!!!」とヤジ NHKでも丸聞こえに「阪神戦じゃないんだぞ」 : J-CASTニュース
いやいやいやいや。
敵チームからぶつけられたんだし、それぐらいのヤジ許したれや。
国会のヤジよりましやろ。
acky(@TSURARESUGI) - 08/15
虎沢唯8/19神宮(@Eilu_Tigers) - 08/15
ヤジ肯定派の言い分
所でこの出来事なんだけど
「原爆落ちろ、カープ!」 広島戦で中日ファン野次...批判殺到で本人謝罪 : J-CASTニュース
本人謝罪とは書いてあるが実際には炎上したから仕方なく謝罪文を書いただけで、その前のツイートでは全く反省してないしこれからもヤジを続ける宣言をしてるんだよね。
本人はアカウント消して逃亡、その後行方知らず。中日へのペナルティも無し。
人種差別横断幕事件があった浦和レッズはサポーターを特定して無期限入場禁止にし、無観客試合までしたのに。
平成も終わろうって時に未だに昭和のノリで差別や挑発行為を「野球観戦の華」だと考えている野球ファンって何考えながら見ているの?
(https://anond.hatelabo.jp/20180322081702 からの続き)
そもそも写実的な背景美術には素材が必要なのだけれど、アニメを作るために宇宙よりも遠い場所に行けるわけもないので、限られた素材であれだけの背景美術をこさえていることになる。マジでどうやってるんだ。
報瀬が日向を呼び出すシーン。笑顔(抑圧の象徴)ではなく自ら弱さを見せる日向は6話でのやり取りから成長を強く感じさせる。でも結局笑顔で気を使っちゃう日向を見ると、どんだけ日向は過去に捕らわれて深く傷ついてるんだろう…と思う。このあとのシーンにおける日向のセリフ「ちっちゃいな、私も」がヤバイ。彼女なりに弱みを見せないよう満面の笑みで言っているのが逆に強烈。
そして例のシーン。日向が「6話でああいうことを言い出したり、普段から笑顔で振る舞って「友達にさえ」弱さを見せなかったりする」ようになった原因を作った奴を報瀬が許さなかったのは日向が報瀬にだけ弱さを見せることが出来たからだし、さらに言えば報瀬が6話で日向と気を使わない関係を築けたからこそ、自分のわがままで日向を守ったのだろう(トイレまで尾行したり、勝手にメール見たり、奴らにメンチ切ったり)。かーちゃんという過去を断ち切るために南極まで来た報瀬だからできたウルトラCであり、物語を通して報瀬がいかに成長したかを描いた最高のシーン。あと何が最高かって、たぬキマリもゆづも日向のことを守ってくれたことだ。特にたぬキマリ。11話では全話中最もポンコツを発揮していたところにあのシーンである。10話でめぐっちゃんの話が出ていただけに、強烈に刺さった。
このシーンで流れる挿入歌は4話でキマリと隊長が会話するシーン以来。4話ではキマリが「ここではないどこかへ」ではなく「この4人で南極行って、あれやこれやしたい!」と覚悟を新たにする印象的な回であり、それに対して11話でたぬキマリの「もう日向ちゃんは~」というセリフから、4~11話の間に4人が培ってきた時間や、その間の日向が笑顔だった時間をたぬキマリがすべて肯定してくれていて胸がいっぱいになる。この挿入歌は今作で最も好きな曲なのでぜひフルVerで聴いてほしい。「宇宙よりも遠い場所で 真っ白な世界を見渡して ここから始めよう」っていう歌詞が控えめに言って最高。
締めも最高で、
日向「ぶっ壊れるかもしれないぞ?」
日向「…そっか!」
すごく重い回なのにこんなに晴れやかな終わり方しやがって、最高かよ。なんかドラム鐘が鳴る音も良く出来てるし。
16:45頃 カップ麺作ってて、ドヤ顔で卵を持ち出すタヌキマリ
12話をリアルタイムで観たあとぐっすり眠れた人はいるのだろうか。この回だけはどうしても「一歩引いて観る」が出来なかったので、あまり参考にならないと思う。
4話で報瀬のことを「娘のことはよく知らない」とキマリに話していた隊長と報瀬の関係が9話で「距離がある」報瀬の思いを知り、12話で背中を押してあげるという流れに、隊長の不器用さがあって好き。隊長が報瀬に贈った「人に委ねるな」は「思いの強さとわがままは紙一重である」あるいは「吟の魂」に通じているものがあり、報瀬に自らを変えるよう強いるものではなく、むしろこれまでの報瀬を強く肯定していて、まるでお父さんである。
観測隊の中で最も貴子の亡霊にとらわれていたのは間違いなく報瀬だけれど、次点はきっと隊長なのだろう。だから、天文台予定地に到着して一人空を仰ぐ姿は表情が硬かったのは、隊長の隊長たる強さが報瀬との対比として描かれていて好き。
私が母を病気で亡くしたのは13歳の頃。報瀬家と違って、私の母は癌との闘病の末だった。だからある日いきなり云々というはずはないのだけれど、いかに当時の私の認知が強く歪んでいたかをよく覚えている。
母の闘病は数年続いていて、最初は仕事しながらの通院だったのが、ある日から入院に切り替わった。でも私は一度も病院にお見舞いに行かなかった。当時の気持ちを代弁するならば「ゆうてもしばらくしたら癌も治って、元気に帰ってくるんでしょ?お見舞い行ったら逆に心配してる感じがして恥ずかしいし、家でおとなしく待ってるよ」といったところだろうか。定期的に父から母の病状を聞くにつれ、徐々に悪化していることはわかったはずである。しかし当時の私にそういう認識は一切なかった。
ようやく私が現実を直視したのは、母が亡くなった日だった。早朝、父に叩き起こされて病院に向かう車の中で「眠い。こんな朝早くにお見舞い行って病院の人に怒られないの?昼に行けばいいのに」と心のうちにぼやいていたことを思い出す。横たわる母の手はまだ温かく、部屋は静かだった(心電図モニターのP音が鳴っていたはずだけれど)。もしあの時間がなかったら、私は今どうだったのだろう。報瀬は私が経験したあの、母の帰りを待っていた日々を過ごしていたのだ。
報瀬にとっての「母を待つだけの、いつもと変わらない日々」は、言い換えれば「何も変わらない日々という偽物の楽園」、あるいは「幸福のレプリカ」と言える(河野裕 著 「サクラダリセット」第5巻 ”ONE HAND EDEN”参照)。案外、それは心地よい。偽物だとうすうす気づいていたとしても、ついつい抜け出せないような依存性がある。だから、報瀬が母の元へ行きたくない気持ちが死ぬほど分かる。殊更報瀬にとって母の死という事実はとても辛く、同時に報瀬自身を孤独にすることになるため(父親がいないこともここにつながっている可能性アリ)、受け入れ難かったのだろう。だから報瀬は「母がもしかしたら帰ってくるかも知れない日々」という、幸福のレプリカから抜け出すことが出来なかった。
それを象徴していたのが「母あてに送ったメール」である。母がメールを読んでいる姿を想像すれば母を近くに感じることができるし、もしかしたら生きていて、メールを返信してくれるかも知れない。そしたらまた母に会える。この現実逃避は一時的に報瀬の心を満たし、現実を直視しないで済むための手段として、報瀬なりに編み出したのだろう。
そしてこの幸福のレプリカは本来、心の穴を一時的に埋めるための麻酔に過ぎない。報瀬は日々の中で本物の幸福を見つけて、入れ替わりに幸福のレプリカは役割を終えるものである。最初は仏壇に毎日拝んでいたけれど、そのうち回数が減っていって、最終的に全くしなくなる、というのに近いような。報瀬の場合も、時間が解決してさえくれれば自らの手で幸福のレプリカを破壊する必要はなかった。そう考えると、すべての原因は報瀬の孤独にあって、もし傍にいつも寄り添ってくれる友達がいたら、報瀬は母の死をゆっくり受け入れることが出来たのかもしれない。だからこそ、あそこまで来たけれど最後の一歩を踏み出せなかった報瀬のことをキマリたちが助けるという演出は彼女たち4人が培ってきたすべてが描かれている気がして、胸がいっぱいになった。
そして例のシーン。目の前で新着メールをひたすらに受信し続けるPCは、報瀬にとっての幸福のレプリカが音を立てて壊れていくことの具現、つまり報瀬のヨスガが失われていく瞬間である。直前の、母に向けて綴った報瀬の独白も相まって悲しみが天元突破した。そしてこれこそ彼女の望んだ「宇宙よりも遠い場所」に着いた瞬間を描いている。
「でも報瀬はもう幸福のレプリカと決別するために歩きだしていて、すでに本物の幸福を手に入れていた」という物語を、「母に宛てたメール」、「南極を目指すために稼いだ100万円」、そして「一緒に泣いてくれる友達」で語る演出はとてもじゃないが言葉にできない気持ちにさせてくれる。そんな、彼女の「動き出した時間」を、「太陽が沈んで初めて夜になる南極」という絵で表していて、こんなに綺麗な終わり方があるのだろうか、と思った。
キマリは本作では特に感情表現が豊かな子である。それに比べ報瀬は感情表現が歪であり、一見すれば報瀬はキマリと違ってクールな女の子のようにも見える(え?見えない?)。11話までの報瀬は、どんなきれいな景色や風景を見てもなんというか、感動しているようなしていないような、すごく微妙な表情をしているのだけれど、その多くは彼女の横顔である。そんな彼女の表情が、横断幕に書かれた報瀬の似顔絵に現れている。この横顔が12話で号泣する彼女の横顔と強い対比になっていて、この瞬間に彼女が得たものの大きさを感じさせる。
一方、6話の飛行機内でのシーンで報瀬はペンギン映画で号泣しており(本作で報瀬が号泣するのは1話トイレ、6話飛行機内、12話のアレ)、実は感受性の豊かな子であることが分かる(他にも感受性の豊かさを象徴するシーンはいろいろある)。
だからこそ12話で報瀬が泣く姿は本来の(母を失う以前の)報瀬を描いているように見えた。それは声からも読み取れる。中学時代の報瀬が母としゃべるシーンは本作を通して9話 12:30頃の回想で「でも行くんでしょ?」と母に話す一言だけ。今より3歳くらい若いせいか、少しだけ高く、そしてやや甘えたような声。12話で「お母さん!」とPCに向かって泣き叫ぶ報瀬の声はまるでこの声のように幼くて、まるで中学時代の報瀬が母に泣きつく姿のように見えた。冒頭の回想において3年前、一人で泣くことが出来なかった報瀬がこの日4人で泣く様子は、報瀬の成長と、報瀬が得た幸せと、動き出した時間を優しく描いていて大好き。
本当によく練られたタイトルである。5話では「じゃあな」と別れを告げためぐっちゃんに絶交無効を押し付けたキマリの歌であり、10話では「離れていてもつながっている」キマリとめぐっちゃんの姿を端的に表す「ね」の歌として、そして12話では、報瀬の心を捉えて離さなかった貴子を、その死を認識することでようやく別れを告げることができた報瀬の歌として演出されていて、色々すごすぎる。
2:00頃 報瀬が放球の撮影に来なかったので、代わりに出ることになりすごく張り切ってる(いつの間にたぬキマリ治ってたんだ)キマリ
今期のアニメは色々観ていたのだけれど、どれも面白い作品ばかりだった。でもあえて本作について書いた理由は便乗以外にもある。いちファンとして、作り手の思いに報いたいと思ったのだ。この感想を見た人が100人いたとして、そのうち1人くらいパッケージを買ってくれないかなぁ、そうなったらいいなぁ、というのが本稿の目的である。
私は本作に触れる以前にプロデューサー・田中 翔氏のインタビュー記事( http://anime.eiga.com/news/105638/2/ )を読んでいたのだけれど、その中で同氏は
田中:うーん。今お話したように、ビジネススキームが変わりつつある状況ではありますが、映像にお金をだしていただく、いちばん分かりやすい結果は、結局「パッケージが売れる」ことなんですよね。自分は、パッケージが売れないタイトルは、あまりやる意味ないと思っています――心の底では、ですけど(笑)。
とまで言っている。個人的に、良い作品であることとパッケージが売れる作品であることに強い相関があるとは思っていないし、そりゃ円盤はどの作り手も売りたいと思ってるでしょと考えている。本作についても初めは「私はこの作品が大好きだから売れなくても別にいいや」というスタンスだったのだけれど、Pの発言を思い出すうちに少し気が変わった。もっと作り手に「この作品を作ってよかった」と思って欲しいのだ。そして、このような作品作りをもっと続けて欲しい。贅沢な願いだけれど、この感想が一助になれば嬉しいな。
変更前
9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。
そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。
1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。
2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、県内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。
3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。
5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。
6年目。ブロック (都道府県レベルの組織) の役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。
7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。
8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。
こいつは何を言ってるんだ。
バカなのか?
おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。
少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?
そしてすうっと冷静になり目が覚めた。
おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。
それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。
青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。
変更後
Facebookメッセンジャーで脅されたので、全文晒して真っ向勝負しようかと思いましたが、戦っても1円にもならないので削除します。コメくれた人、読んでくれた人、すいません。
偉大なる元増田様
https://anond.hatelabo.jp/20180306002045(削除済)
https://megalodon.jp/2018-0306-0620-50/https://anond.hatelabo.jp:443/20180306002045
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9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。
そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。
1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。
2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、県内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。
3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。
5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。
6年目。ブロック (都道府県レベルの組織) の役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。
7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。
8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。
こいつは何を言ってるんだ。
バカなのか?
おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。
少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?
そしてすうっと冷静になり目が覚めた。
おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。
それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。
青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。
自分は、以前からのゴール裏中心(主にコールリーダー様)の言動に疑問を持っていて、
2016-2017オフシーズンのゴタゴタでその疑問から発した不信感が決定的なものになり、
先日の天皇杯決勝において最早戻れないと認識したので、もうあの場所から離れます。たぶん年チケも買いません。
順序だてて説明するにはなかなか難しいのですが、自分がコールリーダー様(以下「あのお方」と称する)に最も不信感を抱いたのは、
2016-2017オフシーズンの騒動に乗っかって、旧体制(と便宜上称する)を徹底的に擁護し、新体制(と便宜上称する/CFG体制)を批判していたことです。
【(旧体制下でも)チームのルールで禁じられている】【練習場への横断幕の設置】というタブーさえ破って。
どんなに立派な主義主張であっても、最低限守るべきルールはないか?
あの時、まだ公式戦は残っていました。あれを見た選手はどう感じたでしょうか。同調したのはおそらくあのオフにチームを去った選手でしょうね。
残る(であろう)選手に疑念を抱かせて、あれが自己満足でなくてなんですか。自分にはそうとしか思えない。
【自分は内情を知っている】感を前面に出してるものですから、まあライトなゴール裏の方は騙せたでしょうね。
※関係ないですが、2010年の【横浜で闘う覚悟はできたか】(でしたっけ?)幕のその後って何か決着ついたんでしたか。あれは本当に失礼なメッセージだったよな!
あのお方がどんな大きな内情を知っていたのか自分なんかにはまっっっったく計り知れませんが、
2017年のチームは破綻せずに1年過ごしましたね。どんな内情をご存知だったんですかね。知りませんが。
その後、チームはそれなりに好成績を収め、4年振りに天皇杯決勝まで駒を進めます。
決勝の試合後、退任する監督をねぎらうコールなし!!!!!!!
「敗戦が悔しくてコール出せませんでした」とかならともかく、あのお方のお答えは「1人のために試合してるんじゃないんで」!!!!!!!
「個人の好き嫌いを反映してるわけじゃない」とかなんとか言ってましたけど、笑っちゃいました。
でしたらホーム最終戦、【その場の試合に出ていなかった(もう一度言いますあの試合に彼は出ていなかった、引退するわけでもない、そしてあの試合を戦った11人へは何のコールもなかった)キャプテン】のビッグジャージ(特注?)+コール出しとの整合性は?
あの時も、「監督へもコール出しすべきだったのではないか」との意見があり、あのお方は「まだ天皇杯があるので」と答えていた記憶があります。
それもそうだとその時はなんとか納得したのですが、自分が甘かったです。言うことコロコロ変わるんでしたね、あのお方は(苦笑)
決勝ではビッグジャージ3枚出したとお話しされてましたけど、そこにひとつコールを加えることすら嫌だったんですね!わかった!わからん!
もうひとつ付け加えると、「個人の好き嫌いを反映してるわけじゃない」という言葉は、
小林祐三選手のチャントを2年半も作らなかった時点で説得力皆無です(こことても強調したい)
チャントを作るタイミングなんかについては考え方の相違なので割愛しますが、少なくとも、【活躍した選手には】チャントが作られて然るべきではないでしょうか。
移籍初年度からレギュラーとして出場を重ねた選手に、あれだけの期間チャントがないのは異常です。
ほーら、(あのお方個人とは断定できませんが)コアの好き嫌い充分反映するじゃないですか(苦笑)。
ん?5年近く前のことを蒸し返すなって?
前科があれば色眼鏡で見られるのは当たり前だろうが!としか!言えません
結局彼らはエリクを受け入れなかった最後まで。その癖、前任者だったら芽が出てなかったであろう(100%とは言えないが95%は断言する)選手の活躍は、尻馬に乗って喜ぶ。
確かに、ツイッターなんかの見るに堪えない罵詈雑言とか負けた腹いせをぶつけてるだけの乱暴な言葉とかはよろしくないし、
あのお方のことが嫌いな自分でさえも、もっと言い方あるだろとか、それはあのお方にぶつけることじゃないよとか思う。
ああいうのは間違いなくやめるべきだしやめさせなくてはいけないし誰も得をしない。
しかし、「(応援に)ただ乗っかってる分際で偉そうに」だの「あのお方も頑張ってる」だの、そういう擁護は鼻で笑ってしまう。
だって、ゴール裏で直接冷静に話に行っても「前に立ったことのない人間にわかるわけがない」って突っぱねられるんですけど?
そんなの、ほとんどの人が何も言えないんじゃ?イエスマンだけ固めて楽しくやってろよ
あと、お子ちゃまにはわからないかもしれないけど、【頑張ってれば何をしても許される訳ではない】。ここテストに出るよー
ま、ライト層と若年層をうまく騙してるんだなって感じ。
自分があの場所(ゴール裏)に行くことは、少なくともあのお方がいなくならない限り二度とないと断言するので関係ないが、
自分の周囲には、あのお方が嫌であの場所、最悪はスタジアムから離れてしまった人もいる。
たかが1人、されど1人。
Jリーグでは上位の経営規模とはいえ、一般的に見たら小さな会社であるクラブにとっては、これが少しでも積み上がったら死活問題にもなりかねん。
他にも言いたいことはとてもたくさんありますが、もう自分には関係ない場所なので黙ります。
あ、ゴール裏ならともかく、メインとかバックに来てトラメガで話すときはもっとゆっくり話そうね!何言ってるのかわからないって一般の友人に言われた!
匿名ブログで申し訳ないが、友人知人にあのお方の取り巻きがそこそこいまして、自分ももうスタジアムには滅多に行かないとはいえ、
命が惜しい(モヤシなので万が一のことを考えて)ので許してくださいwww
あと、ゴール裏に友人がおり、迷惑かけたらまずいという考えもあります。
https://anond.hatelabo.jp/20180104002158
これの続き↑
①のレビューをすると、自分より能力の低い者が他人に手伝われて自分よりも評価されることを知った話である。
妹はとにかく中高時代も先生方から目をかけてもらえる子であった。
妹は科学系でチームで研究をしていた。その研究は担当されていた先生の尽力もあってか、ちょっと有名になった。どれくらいかというと、地方局や地方紙がとりあげるくらい。
その時は、あーすげーなーとそれくらいしか思っていなかった。問題はあるときある人に言われた言葉。君の発音で、スピーチ大会に出たことがないとか嘘でしょ?と。自慢ではないが、私は英語教師がほめるくらいには発音が良かった。その時、あー私も英語の先生がそういうの進めて出てれば妹みたいにスポットライト当たったのかな、と思ってしまった。(今考えれば出たところでスポットライトあたるとは限らないのである)
ともかくみんなから妹のようにちやほやされて家族にも親戚にも褒められたかったのである。実績を残して。前述したようにつけあがるという理由で褒められないから。テストで一桁の順位とっても褒められないから。
これは妹とは関係のないエピソードであるが、私は評価されない星の下に生まれてしまったのだなと思うことが一つある。
妹が研究で注目されて少しの頃、私は全国の標語的なものに選ばれた。狙っていたわけでもなかったのでこれは寝耳に水であった。私の高校は、標語であろうとなんであろうと全国レベルであれば名前入りで横断幕が作られる。そりゃあみんなから褒められたいと思っていた私は浮かれた。だが、結局、同時期にとある部活のインハイ優勝と先輩の数学オリンピック出場で、垂幕をつけるスペースがないと、私の垂幕は作られなかったのである。悲しかな。
そんなこんなで18年、自分みたいに頑張らなくても評価される人間や、自分よりできない人間が他人の力を借りて自分のはるか上を行くことを目の当たりにしてきたのである。しかも、あなたは一人でできるよね、の大義名分のもと、誰にも助けてもらえないのである。つらいな。
そんな私は大学受験のときに周りからのあんたは普通にやってれば合格間違いなしというプレッシャーが嫌になって逃げ、受験失敗したのである。
お前はいつも踏ん張らなきゃいけないところで踏ん張れない。頑張ることが恥とでも思っているのか。
である。
どの口がそんなこと言えたのであろう。
まぁそんなこんなあったが、とにかく大学四年間は、このコンプレックスのことなんか忘れ去って過ごしていたのである。
(字数制限が怖いので続く)
某プロスポーツが好きで、数年前からとある選手を応援している。
小さな体にみなぎるガッツ、抜群の身体能力、ありえないタフさ。
決して主力選手とは呼べない地味な存在だが、気がついたら目で追っていた。
あるとき、遠方の試合会場でその選手の横断幕を振り回している男性を見つけた。
自分以外に、その選手を応援している人などついぞ見たことがない。驚いた。
驚きのあまり駆け寄って声をかけた。
話を聞くと、父親(以下選父)もまた、遠く離れた故郷から応援に駆けつけたという。
遠征までするファンに遭遇したのは初めてだと、それはそれは喜んでくれた。
固い握手を交わし、連絡先を交換し、ついでに何故か記念撮影までして別れを惜しんだ。
以後、試合のたびに選父と連絡をとりあっている。
自分が戦況を伝え、選父がこれに応じ、勝てば「乾杯」、負ければ「次は勝つぞ」と〆る流れ。
試合日以外に連絡することはまずない。
が、翌年の元日に年賀状が届いたときはさすがに驚いた(慌てて郵便局に走った)。
稀に、機嫌よく酔った選父が電話をかけてくることもある。
選手との面識が一切ないまま、選手本人をすっ飛ばして、その親族と懇意にしている。
冷静に考えてみると、まあまあ奇妙かつおもしろい状況だと思う。
念のため補足しておくが、選手本人とお近づきになりたい等の願望はない。
そりゃあ、もしもばったり遭遇することがあれば当然嬉しいだろう。テンションだって上がるだろう。
しかし「いつも応援してます」「ナイスプレーをありがとう」「頑張ってください」以外に伝えたい言葉がない。
試合の場で選手を見るのが狂おしいほど好きなだけで、他はわりとどうでもいいのだ。
むしろ、素は知らないままでいたいとさえ思う。観戦の妨げとなりうるノイズは可能な限り排除しておきたい。
このあたりの感覚を、選父が理解した上で大らかに接してくれているのだとしたら光栄に思うが
おそらく何も考えていないだろう。そういう飾らなさが大好きだ。
こんなにも熱く、そして暑苦しく選手について語れる相手はどこにもいない。
こんなにも嬉しそうに話を聞いてくれる相手は、選父しかいない。
なんと選父もやって来るそうだ。飛行機を乗り継いで。
この町に選父を迎えるのは初めてなので、とても楽しみにしている。
選手の出番はあるだろうか。あるといいな。勝てるといいな。
乾杯したい。エアじゃなく直に。
世間をお騒がせなさっている愛知県瀬戸市出身の有名人と言えば?
そう、開運!なんでも鑑定団の曜変天目茶碗鑑定結果をご「批判」なさった
現代に曜変を復活させようと親子二代にわたって研究を続けられている
長江惣吉氏の企画展が瀬戸市美術館で開かれていたので拝見してきましたわ。
長江惣吉氏は自ら福建省の建窯を視察されて、現地の陶土と釉薬で作品を作られています。
曜変の秘密は焼成中に蛍石を窯の中に入れて、特殊な酸化雰囲気に
つまり化学組成CaF2の蛍石からフッ素が出てきて反応するのでしょうけど、
そのために窯が激しく痛みそうですわ。
貴重な窯の使い捨てを覚悟した贅沢な焼き方だったのでしょうか。
入れる蛍石の量にもよるのでしょうね。
展示はほとんど同じ素材からまったく雰囲気の異なる作品が生まれていて
とても刺激的でした。
ただし、現れた効果を兎の毛にたとえた金色や銀色の器は日常的に使うには
落ち着きがない感じもします。
外側はしっとりと落ち着いた黒で、内側に変化のあらわれた曜変が
実用性でもやはり一番でしょうね。
なお瀬戸蔵ミュージアムの外壁に、藤井四段連勝記録更新中の横断幕が掛かっていましたの。
連勝数を書かないことで、交換する手間をさけた愛知県民らしい
俺はやっぱり銭湯に行くだろうな。
ちょうどうちの近所に銭湯があるし。
たしか歩いて五分ぐらいの場所だったはず。よし、行ってみよう。せっかく透明人間になれたんだし。
で、喜び勇んで銭湯に行くんだけど、シャッターが閉まって貼り紙がしてある。どうやら潰れてしまったらしい。
参ったな。せっかく透明人間になれたのに。
でも俺はまだ諦めない。たしか隣の駅にも銭湯があったはず。Googleマップで調べてみる。うん、たしかにある。俺は電車に乗って隣の駅で降りて、すぐにまた銭湯に向かった。
ちくしょう、こうなったら意地だ。俺はまたGoogleマップを調べる。隣の駅にもその隣の駅にもそのまた隣の駅にも銭湯はある。でも行ってみたら、すべて閉店になっていた。
足がくたくたになってしまった。閉店ならネットにそう書いといて欲しいよ。銭湯の閉店って、必ず貼り紙で発表しなきゃいけないんだっけ? そうか、電話で確認するべきだった。
疲れた。今日はもうあきらめて家に帰ろう。俺は駅に向かって歩いた。そしたらロータリーにでっかいバスが停まってたんだ。ボディに横断幕。
『さくらんぼ狩り御一行様』
俺はふらふらとバスに乗車してみた。中にはお婆ちゃんの団体がいた。とてもにぎやか。誰も俺には気づかない。当然だ。透明人間だからね。
俺は空いてる席に座った。バスが発車するとすぐに寝てしまった。目が覚めたら車窓から河口湖が見えた。いい天気だなー。
畑に着いて、俺はお婆ちゃん達と一緒にさくらんぼ狩りに参加。40分間、好きなだけさくらんぼを摘まんで食べた。種は紙コップに吐き出す。茎は引っこ抜いちゃダメ。必ず実だけもぎ取ること。
俺はさくらんぼをたらふく食べた。うまかったー。もう一生さくらんぼはいいや。お婆ちゃん達も満足げ。
帰りのバスでも俺はすぐに寝たけど、しばらくしたら目が覚めた。バスが停まり、お婆ちゃん達がぞろぞろ降りて行った。着いたのかな?俺は車窓から外を見てみる。すでに夜だった。
サービスエリアだ!ここはどの辺りなんだろう?真っ白い建物がライトに照らされて、でっかい窓の向こうにおみやげ売り場やフードコートが見える。
俺もバスを降りた。焼きそばかフランクフルトを食べよう。売ってるかな?たぶんあるよな。定番だし。あ、でも俺、透明人間なんだ。じゃあ買えないか。
フードコートでたくさんの家族連れがいろんなものを食べてる。いいなー、ソフトクリームうまそう。
テラスのテーブルに女の人がひとりで座ってる。誰かを待ってるみたいだ。あれ、なんか見憶えがあるな。俺はゆっくりと近づいた。
うわ、昔の恋人!ずっと昔の、ほんっとに大昔の、やばいぐらい昔の、初めて長く付き合った恋人。お互い大学生で、俺は彼女の下宿先に転がり込んで、そのまま四年間同棲したんだ。
で、卒業と同時に別れた。なんで別れたんだっけ?たぶん俺が愛想を尽かされたんだよな。
あの時はごめん。ふたりとも学生とはいえ、俺がやってることは完全にヒモだった。生活費もろくに入れなかったし。
君は料理が得意で、毎日作ってくれてたけど、当たり前のように思ってたよ。あれ、すごいことだったんだな。今は自炊してるからよくわかるんだ。
君は今、幸せなの?相変わらずきれいだね。俺はいちど結婚したんだけど、それも失敗しちゃって...。
俺は必死に彼女に話しかけるんだけど、その声は絶対に届かない。透明人間だから。
俺はため息をついて空を見上げる。満月だ。まだ付き合いたてのころ、ふたりで公園を散歩してるときに見たのと同じやつ。
俺は彼女にもこの月を見て欲しいんだけど、教えてあげたいんだけど、どうしてもそれが出来ない。透明人間だから。
ところで君はこんなところで何してるの?誰かを待ってるの?
もうじきバスが発車してしまう。帰らなきゃ。いつまでもここにはいられない。ああ、透明人間じゃなければ君に話しかけることができたのに。最悪だー。
今日帰りにとある国道を通ったら、歩道で反原発系のデモ?みたいなのをやってた。「原発反対!!」みたいな横断幕を掲げてる人がいたりする中で、弾き語りで歌ってる人がいた。
あまりちゃんと聞かなかったんだけど、こんなことを歌ってた。
もしも核を持たなければこの国が滅びるとしたら、私たちはその滅びを受け入れよう、みたいな。細かいところは違うかもしれないけど。
正直俺は、原発に対しては特に何も思ってないが、子どももいるし、生き残る道があるのにわざわざ滅びの道を選ぶのは嫌だなぁと思った。
デモには年配の人も多かったんだけど、彼らは反原発さえ守れれば自分の子どもらの世代が滅んでもいいのかな。
すげー寒々しい気持ちになったよ。
育児ブログ、Yahoo質問箱、幼稚園口コミサイトなどで検索すると、塚本幼稚園に子供を入れた(入れたがっている)親の声がいくつも残っている。
<教育方針にガチ共感勢>が多いが、お受験のために入園を考えている親もいるようだ。
それぞれの書き込みを一部拾った。
参考にしたサイト
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?102,991433
https://www.minkou.jp/kinder/school/review/52796/
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12129395802
ラストではなくてペジテのアスベルのセリフ「火と水に調和を 敵意はない」に集約されているのではないか
墓所の存在は『浄化した世界到来の暁に人類という種を生きながらえさせるための希望』といいながら、
墓所はカーバ神殿のようにも見えるが、実際のところ、原子力発電所のようにも見えなくもない。
ナウシカの連載が始まったのは1982年2月から幾度かの休載を挟んで1994年3月に完結しているが、
そのあいだ、1986年4月にはチェルノブイリの爆発事故が起きており、
1995年には毒にも薬にもならない『耳をすませば』と同時上映で『On Your Mark』が発表されている。
3.11の後は「原発ぬきの電気で映画をつくりたい」の横断幕で物議を醸したが、
原子力発電所は火と水に調和をもたらさない。でも、自身はどうしようもなくミリタリオタクで
ポケモンGOを操作中の交通事故で、不幸にも子供を亡くした親御さんが「車で操作できぬように」という発言をし
私自身、ポケモンGOは関係なく運転手が悪いと思うが、もし自分が子供を亡くした親だとすると
気が動転していてこういったことを言ってしまってもおかしくないだろうと感じる。
大勢の児童と教師が亡くなった石巻市立大川小学校の裁判では、地裁判決後遺族が「学校・先生を断罪!」という横断幕をかかげ
子を亡くしたときに、理性的な行動を取るというのは無理があるだろう。
司法改革の一環として、被害者参加制度や裁判員制度などが取り入れられているが、この流れが進めば遺族の声をより直接的に判決に取り入れることになりかねない。
もし、死亡事故の遺族が望んだ判決が出るのなら、死刑数は飛躍的に増えてしまうだろう。