はてなキーワード: 仏壇とは
古くからその土地に住み、大きな家と田地を持ち、しかし戦後の農地改革でほとんどの財産を失い、裕福だった証拠はやたらと広い一族の墓地くらいのもの。田舎にはこういう家が溢れている。僕の家はそんな所だった。戦国時代から続いていて僕で 17 代目だとか?それを証明する家系図はもう火事で焼けてしまったみたいだが。
少し古い映画だが、「サマーウォーズ」で主人公が訪問する田舎の一族、イメージとしてはアレに近い。正月は一族で集まり、当主から順にズラリと並び、その当主がくれるお屠蘇を漆塗りの器におしいただいて、一族の健康と繁栄を願うのだ。僕は当主からすると直系の最初の孫に当たり、父に続いてお屠蘇をいただくのを誇らしく思ったものだ。
しかし当時から不思議に思っていたのだが、父を含む僕の家族はこの家に住んでいなかった。父は長男、つまり次期当主だったのにも関わらずだ。家業は稲作なのに農作業を手伝うことは無く、そもそも他県に住み教師をして生計を立てていた。自然と僕もこの大きな家を他人行儀に感じ、普段は公営住宅の狭い家に住んでいることから、この家のことを盆と正月にだけ滞在する言葉の通じない外国の別荘のように考えていた。「外国」と言うのは、県も違うので僕の方言が通じなかったのだ。
父が家を出た理由は本人からは結局聞けず仕舞いだったが、叔父などから断片的に聞く限りではかなり複雑な家庭環境だったようだ。確かに、僕の知るお婆ちゃんは本当の祖母では無いとか、床の間に知らない男性の遺影が飾ってあるとか、そんなミステリアスな所も「外国の別荘」のような連想を助長していた。これらについては、故人の尊厳のためにも深く穿鑿すべきではないと、当時も今も考えている。
----
そんな父は、人の親としてはかなり優秀だった。それまでの経緯から実家の支援は受けられなかっただろうに、独り立ちできるよう手に職を付け、教師としては結構な金を稼ぎ、できるだけ教育に投資して僕を大学に入れたと思ったら、力尽きたようにポックリ逝ってしまった。それでいてそんなに禁欲的だった訳ではなく、夏休みには家族旅行もし、仕事の研修で何度か海外に行き、長期の休みを取っては毎年一人でスキーや釣りを楽しんでいた。
僕自身が興味を持ったことは何でもやらせてくれる父で、書道とピアノは幼児の頃から大学に入るまで続けさせてくれた。サッカーがやりたいと言えばボールを買い、野球に興味を持てばユニフォームを揃え、夜に星空を見たいと言えば立派な天体望遠鏡を買ってくれた。これらはほとんどモノになることはなく、ただ一つ、当時流行り始めていた 8bit マイコンを買ってくれたことが、僕が今でも IT エンジニアとして生きて行くきっかけとなった。
----
そんな父にも欠点はあった。とにかく迷信深く、いくつもの新興宗教にハマったのだ。父自身、また僕が病弱だったことや、ひょっとすると実家の事情も影響していたのかも知れない。今でも覚えているのは、自宅に仏壇とは別に祭壇を用意し、そこにお供え物を上げて妙な文章を読み上げる儀式を、僕が担当して毎日夕方にやっていたことだ。
他にも気功か何かで癌が治ると言う宗教に熱心で、こちらは父自身が信者同士の合宿に何度も出掛けていた。教義をまとめたノートを作り、会合で発表する様が写真にも残っている。
世紀末で世の中にはこういうインチキ宗教が沢山罷り通っていた。父の信仰心はその病状を好転させることは無く、父が死んだ後、これらの宗教団体は解散して費した金は全て無駄になってしまったようだ。
これらにどの位散財したのだろうか?僕にはもう分からない。それでいて子供二人を中高一貫校に進学させ、上に書いたように習い事もさせながら、東京の大学に入るまで面倒を見てくれたのだ。教師としての稼ぎだけでできる気がしないのだが、実家の助けがあったとも思えない。専業主婦だった母も死んでしまったので、この辺の事情を聞ける人はもう居なくなってしまった。
----
十年振りに、「外国の別荘」、つまり父の実家の大きな家を訪問した。昔僕にお屠蘇を注いでくれた祖父はとうの昔に他界し、今ではそこに僕とは違う方言を話す叔母が住んでいる。彼女の息子が将来は家を継ぐという話を聞いた。
子供の頃、父が作ってくれた滑り台で遊んだ庭は潰されてアパートが立っていた。耕す者の居ない農地は全て売却したそうだ。父の遺骨はもう一族の墓地には入っていない。
私は何に祈ったんだ?
シンプルに、私は無神論者だと思い込んでいただけで実際は有神論者だったということなのだろうか
すなわち、神の存在無しに「祈る」という行為は可能なのかどうか
なるほど、確かにありえる
しかし神は信じないけれど祖先信仰はする無神論者って変な感じがする
無神論者が仏壇に向かって「おじいちゃん、あの子をどうか見守ってあげてください」と祈ることをよしとするか?
なんか変な気がするよなあ
神の存在を否定するなら霊の存在も否定しておけよって気分になる
「天に祈る、というのはどうか」
では「天」って何?という話になる
「運を天に任せる」とか「人事を尽くして天命を待つ」の「天」だよな……
やはりそれは「運命」とか「宿命」のような、何らかの超越者によって定められた物事を指しているのではないか
それは神と何が違うのか?
神と「天」が何か違っていたとしても、無神論が無いと判定するなんらかの概念なのではないか?
難しいな、もう少しパターンがある気もする
家族が入院した、と電話がかかってきて病院へ急いで向かう時とか……
腹痛の時とか……
「祈る」を言い換えると「人の手が及ばない領域の物事が私に都合がいいようになるように願う」と言ってもいいか?
だとすると、それをなんとかできるのは「人の手が及ばない領域の物事に関われる存在」だ
筋金入りの無神論者でも祈らずにはいられないというシーンでは祈ってしまうものなんだろうか
何かの漫画でそんなシーンがあった気がする
そういえば無神論者であることが有名なドーキンスは祈ることがあったのだろうか
彼の自伝を読んでみるか……
補記:日本語の「祈る」とキリスト教文化圏の「祈る」は意味が異なる可能性がある
日本語の「祈る」は「願いが叶いますように」と言うこともできる
しかしキリスト教信者がどんなことを考えているか?みたいな内容が書かれている本を読んでいると、どうも現世利益を期待せずに祈っていることもあるようだ
祈らずにはいられない、という場面はたいてい現実に起きている問題がなんとかなりますように、という願いだ
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とも言うしな
---
「神は存在しないと思っている。無駄な行為だとわかっている。それでも祈らずにはいられない」
これはありうる
ただ、これを言ってしまった無神論者はその後も無神論者であり続けることができるのかどうか
---
あと、冒頭で「神は存在しないと思っている」と書いたが正確にはキリスト教的唯一神の存在を信じることが出来ていないだけだな
---
神を信じるとはどういうことかを知りたくていろいろ本を読んでいるんだがな……
昔の人は神を信じて生きていたわけで
昔の人が何を信じて何を信じていなかったのか、を調べるのに神の話は避けて通れない
わたしの祖父の姉・Aさんは、ものすごく古いアパートに一人暮らししていました。
いつもアパートの自室にいて、買い物など、ほんの少し出掛ける時でも、近所に声を掛けてからでないと、絶対にアパートを離れない人でした。
Aさんには一人息子がいました。
Aさんの息子は、自分よりひとまわり以上歳上の、夜の街のおねえさんと恋に落ちます。
しかしおねえさんには、結婚したまま離婚できずに離れた夫がいました。
夫はコワイご職業の人らしい……
Aさんは、息子とおねえさんの交際を認めることはできません。売り言葉に買い言葉で、Aさんは言ってしまったのです。
「出て行け」
息子は本当に出て行ってしまいました。
フラッと本人が帰ってくるかもしれない……
そんな淡い期待を抱いたAさんは、どんなに古くなろうと、アパートを引き払うことはおろか、自分が不在の時に息子が帰ってきたらとすら不安になり、隣近所に「もし私がいない間に息子が帰って来たら、引き留めておいてほしい」とお願いしてからでないと、出掛けることもできませんでした。
そんなAさんが亡くなり、遂にアパートを引き払うことになった日。
わたしは親類から「日当を払うので、部屋の片付けを手伝って欲しい」と依頼され、軽トラを借り、日当目当てでAさんの部屋に入りました。
室内には、とてもひとりでは食べ切れないほどの健康食品や、全く同じ本が何冊も何冊もあったり、何より、部屋のサイズに似つかわしくない大きな仏壇があったりしました。
とはいえ、軽トラで片付けなければならないので、このデケェ仏壇、どうしようかと悩むわけです。
仏壇の中に、仏さまは全く入っていませんでした。
わたしは右手を空高く掲げ、「仏さまのいない仏壇は家具と同等とします!」と高らかに宣誓したのち、仏壇をバールでバキバキに破壊しました。
宗教が必ずしも悪いものだとはわたしには思えないのです。少なくとも、Aさんが苦しみを吐露できる場所はそこにしかなかったのだから。
「誰かを待つ苦しみ」を持て余したAさんの晩年を思うと、何でもいいからすがりたかったのだろうと思うよりほかありませんでした。
ただね。
仏さまのいない家に、あんなデカイ仏壇、さすがにおかしくないですか。
片付ける人の身にもなってほしいんです。
バールでバキバキに壊す以外の良い方法をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。
さすがにもう嫌ですけど、後学のために。
うち浄土真宗で、お寺さん(跡取り息子)も若くて結構無茶苦茶言うタイプなので実家にも仏壇にも執着ないけど
地域のコミュニティという納得できる理由以外にも本能的(宗教はそこを突いてる?)に今居る場所から離れたくない欲は凄くあるっぽい
母方のばーちゃんは、結婚してから3回家流されたところに独り住み続けてた 90ちょいで亡くなるまで
80超えてからも数回床上浸水した(自分とご近所さんで片づけるから引っ越せとは言いにくい)
直接は言わなかったけどじいちゃんと過ごした場所、子供を育てた場所みたいなのにこだわってたのかな
もう一方の母方の祖父は、引っ越し何度もしてて、そもそもド田舎から街に出てきた人で、
実家の仏壇を80代の母が管理してるのだけど、消火器への抵抗感がすごい。
家屋自体地区半世紀の木造で耐火もへったくれもないので火事になるとアウト。
なのに、おれが買ってきた消火器を屋根裏部屋とか倉庫の置くとかに仕舞おうとする。
いやいや、火災時に誰でも対応できるように目立つ場所に置くもんでしょ、1階で火事が起きてから屋根裏に取りに行くとか無理でしょ、
などと説明してもゴチャゴチャと言って、帰省する都度消火器はしまい込まれている。
トータルで、仏壇ってろうそくや線香を使うのに可燃性だし、高確率で老人が管理してて火災リスクが高い。
KANの訃報を聞いて、「ああ、またあの曲がメディアで流れるんだろうな、……やだなぁ」と即座に思ってしまった。
なぜそんなに『愛は勝つ』が嫌いなのか、それは、もう大昔の話だけれど、大好きだった彼女が創価学会員で、当時創価学会は『愛は勝つ』の替え歌を作って、よくわからないけど「勝つ!勝つ!」とやっていたからだ。
私は、創価学会が大嫌いな父の下で育った影響が大きくて、父はテレビや新聞で創価学会の話題を見たり聞いたりするたびに、創価学会へのヘイトを私の目の前で繰り返す人だった。
今は亡き父が生きた昭和の時代、創価学会のあまりにも強引な布教・勧誘活動は当時は知らない人がいないくらいのレベルで、社会問題にすらなっていたようだ。
当時の創価学会員は、強引に勧誘しようとしている家に入って、大勢で仏壇をその家から運び出し、近くの川へ投げ捨てた、だなんて話は父からよく聞かされたものだった。
実家のすぐ裏に面していた隣の家は、熱烈な創価学会一家で、毎日、あの団扇太鼓の音が聞こえていたものだ。
特にその家とトラブルになっていた話は聞いたことはないが、母は私の幼い頃「絶対にあの家の中に入ってはいけない」とだけ私に何度か言っていた記憶がある。
彼女が創価学会員だと知ったのは、付き合い始めて二ヶ月ほどだったように記憶する。
私は最初はそのことを軽く考えていて、いざとなったら創価学会など辞めさせればいい、くらいにしか考えていなかった。
だから、そのまま半年ほどは彼女が創価学会員であることは出来るだけ気にしないように付き合っていた。
だが、これはずっと後になって知ったことだが、彼女の方はそうではなかった。
私に創価学会員になってもらわないと困る、と考えていたらしかったのだ。
それは、あまりにも厳格な彼女の両親(特に母親)から、一刻も早く脱出したかったからなのだと。
そのためには、「この人なら」と思える人に創価学会員になってもらうことが絶対条件だったのである。
何故なら、彼女のご両親は、創価学会員以外との結婚は絶対に許さなかったし、結婚を理由とする以外に家を出る方法がなかったからだった。
何せ、彼女の父親は公明党所属の地元自治体議員であり、母は地区の創価学会婦人部長だった。
だから、彼女の工作活動は、彼女が創価学会員であることを私に告げたその時から始まった。
「これ読んで」
とその時手渡されたのは、仏教入門なる、創価学会の本だった(結局数ページしか読まなかった)。
一人暮らししていたからよかったが、聖教新聞も強引に取らされた。私の両親が知ったら激怒は間違いなかったろう。
様々な創価学会のイベントにも「私をどこそこまで送って行って」と付き添い運転手として連れて行かれた。
『愛は勝つ』の替え歌は、それらのイベントで頻繁に聞かされていた。学会員たちはほとんど絶叫レベルで、「勝つ!」の部分を歌っていたのが今でも強烈にそのイメージが残っている。
私は何度も彼女に歌うように促されたけど、絶対に歌うことだけはしなかった。
当然ながら、よくある話ではあるけれど、信仰の壁を越えることはできず、彼女とは別れるしかなかった。
ほんとにめちゃくちゃ大好きな彼女だったので、死ぬことを考えるほど別れは辛かったけれど、私自身が創価学会員になるなんて、当時はほんとに考えられないことだった。
今はもうアレルギーなんて全くないので、創価学会員になることなんて別に屁でもなんでもないが(笑)
テレビではKAN氏への追悼と称して、『愛は勝つ』で東北大震災の時救われた人が大勢いたとか、その曲の偉大さを讃えてはいるけれど、私にとっては車のラジオから聞こえてきてさえ、すぐに他の局へ切り替えるほど大嫌いな曲であり続けた。大嫌いというか忌まわしいというか忌々しいというか。
後年、彼女と再会して、彼女もまた『愛は勝つ』が大嫌いだったと聞かされて、大笑いしたものだ。
だって。
KAN氏もメッケル憩室癌だったという。
ガンってまだまだ怖い病気だなぁ。
父さんが事故で亡くなってから、明るかった母さんが廃人みたいになってしまって、最悪の事態にならないようにと家族やご近所さんたちでずっと見守ってた。
藤井聡太くんがプロ棋士になって連勝を重ねていったあたりから、テレビや雑誌を見るようになって、藤井くんすごいねーと久しぶりにまともな会話をするようになった。
そのうち、アベマの将棋チャンネルを観始めたり、辞めてた将棋教室にもまた通うようになったり、周りの人との交流も戻っていって、すっかり元気になってくれた。
その頃からずっと藤井聡太くんのことを応援していて、タイトルを取ったときも、昇段したときも、タイトルを防衛したときも、毎回ケーキやご馳走を作ってお祝いしているらしい。
父さんの死後、母さんはずっとソファにぼーっと座っていて、食事はたまに牛乳を飲んだりお菓子をかじったりするだけで、気づいたら仏壇の前で泣いていて、という毎日だったんだけど、最近は仏壇に向かって「聡太先生を勝たせてね」と図々しいお願いをしている。
母にとって藤井聡太くんはいわゆる「推し」という存在なんだろうけど、俺たちにとっては母を立ち直らせてくれた神様みたいな存在。足を向けて寝られない。
八冠制覇を家族総出で期待している。