はてなキーワード: 家庭裁判所とは
夫婦別姓は選択肢を増やすだけで別姓にする選択肢を選ばない人には無害だとする論がある。選択肢は多ければ多いほど良いのだと。現在ある制約を緩くして選択肢を増やしていく思考実験をしてみよう。
選択的夫婦別姓が達成された世界であっても田中さんと鈴木さんが結婚した時には田中さんは田中さん、鈴木さんは鈴木さんに留まるだけであり新たな姓を作ることはできない。新たな姓を作ることができる世界だとどうなるだろう。田中さん鈴木さんが結婚して同じ超合金という姓を名乗ることも、田中さん鈴木さんがそれぞれ超合金さんと木材さんになることだってできる。選択肢を増やすのは良いことだ。多様な名前の楽しい世界になるだろう。
新たな姓を自由に設定できる世界では更にややこしい制約が発生することだろう。どんな文字を使えるのかという制約だ。現行法では子供の名前に使われる文字に関して戸籍法が定めている。
とあり、この常用平易な文字というのは戸籍法六十条において以下のように定められている。
戸籍法第五十条第二項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
一 常用漢字表(平成二十二年内閣告示第二号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
二 別表第二に掲げる漢字
これを鑑みるに、姓が自由に決められる世界では次のような制約が発生するだろう。
新姓を設置できる新たな世界は素晴らしいが現状では常用漢字プラスアルファとカタカナひらがなしか使えない。これは不便だ。新姓をつくる際に使えない文字が存在するのは不便だ。外国人と結婚した際にその外国人の姓を名乗ることを決めた場合であれば発音が違うのに無理矢理カタカナを使うことを強制される。不便だしアイデンティティーの喪失につながるだろう。
文字制約を緩めるのは非常に難しい問題だ。どこまでの緩和を認めるのか。ローマ字も良いのか、漢字は簡体字も含めるのか、アラビア文字も許すのか。現状世界中の文字を一手に扱え最も普及しているものとしてはUnicodeがある。最新のUnicodeに含まれる文字は全て許すとすれば制約はかなり緩まると考えられる。新姓も子の名もUnicodeに含まれる文字なら許されるというように変えれば自由度は格段に上がるし選択肢も増える。選択肢の多い世界は素晴らしい。例えば㍻㍍くんという名前も合法だ。人種に配慮した名前の付け方もできる。👋🏿くんも👋🏻ちゃんも存在可能だ。多様性に配慮し選択肢の広まった素晴らしい世界だ。
夫婦別姓、新姓の自由を手に入れ、文字の選択肢の自由も手に入った世界になったは良いが未だに問題は残っている。別姓を名乗っていたのに同姓にした場合、またはその逆、または新姓を名乗りたくなった場合はどうするのだろうか。現状の世界では戸籍上の氏の変更には家庭裁判所の許可が必要だ。そして裁判所法第七十四条には「裁判所では、日本語を用いる」とある。せっかく文字の自由を手に入れたのに日本語以外の文字だと問題が起きてしまう。より選択肢の多い自由な世界を手に入れるためには家庭裁判所の許可の要請を廃止するか、裁判所法を改正する必要があるだろう。
面倒なのでこの際どちらも変えてしまおう。戸籍の氏の変更に家庭裁判所の許可は必要ないし、裁判では日本語を使う必要もない。素晴らしい世界だ。選択肢が増え世界は良くなった。
手放せば?
増田みたいなゴミカスクズは最初から子ども作らないのが一番だけどそれは優生思想になるから
○ 育てられない子供を引き取るNPO法人が感じている「ある変化」
この特別養子縁組に出される赤ん坊に占めるダウン症の子の率が年々増えてきているという。Babyぽけっとの代表・岡田卓子は言う。
「当団体を立ち上げた当初は、今ほど障害児の割合は高くありませんでした。けど、特別養子縁組を行う団体の認知が広がったことで少しずつ増えてくるようになり、最近では出生前診断で異常がわかったあとでうちに問い合わせをしてきて、『産んでも育てられないので、そっちで引き取ってくれないか』なんて言ってくる人も出てきました。赤ちゃんの顔を見る前から特別養子に出そうとするのです」
「夫婦がダウン症の子の育児を負担だと思うのは自由です。でも、何カ月か育ててみてダメだという結論に至って特別養子に出そうというのならわかるんですが……出生前診断の結果だけで判断したり、保育器越しに何回か見ただけで育てられないというのはちょっとちがう気がする。出産直後に目に見える障害だけで判断しないでほしいというのが本音です」
障害は、生まれてすぐに判明するケースだけにかぎらない。知的障害にせよ、発達障害にせよ、二歳くらいになってようやくわかることも珍しくない。
また、五歳、六歳になって先天的な病気が見つかったり、難病になったりすることだってある。
多くの夫婦は、障害や病気が後からわかっても子供をかわいがるし、育てていこうとする。こうしたことを考えれば、なぜ出生前診断の結果だけで簡単に手放してしまうのかと岡田が感じるのも当然だろう。
○裁判で認められなかった例
その夫婦はそれなりの仕事についていて高給をもらっていて、一軒家を構えて暮らしていた。長男が一人おり、その下に生まれてきた長女がダウン症だった。
母親はダウン症の長女を授かったことに動揺を隠せなかった。幼い頃にきょうだいが事故に遭って障害を抱え、苦労した体験があったのだ。この子を引き取れば、家庭が崩壊してしまう……とまで思ったという。
母親は夫を説得してから、Babyぽけっとに連絡をした。そしてこう頼んだ。
「長女がダウン症なんです。とても育てられないので特別養子に出したいと思うので、お願いいたします」
岡田は親が育てないと言っている以上やむをえないと判断し、その子を引き取って不妊症の夫婦に託した。その後、家庭裁判所に申し立てをしたが、調査官が実親のもとを訪れて調査をした。家が経済的に豊かであり、長男を育てていること。それに長男が「妹に会いたい」と言っていることなどを突き止めた。そして、特別養子を認めるまでの理由にはならなず、実親が責任をもって育てるべきではないかと指摘された。
5ch や お悩み相談コーナーで見るな
親が犯罪者か犯罪者じみていなければ、分籍して連絡先を教えないだけで絶縁出来る
分籍は20歳以上なら他に条件は要らない
下記を役所に持ってくだけで出来る
親が犯罪者じみている場合は下記かね。お悩み相談コーナーでは姓を変えられないとかやってたけど
フツーに変えれた判例あるので実績ある弁護士さんにまずは相談してみて
あとは海外へ行くか
> 具体的には、親から幼少時に暴力行為、性的虐待などを受けた場合 など
本件申立人は、小学生当時に実兄から継続的な性的虐待を受け、その被害の影響が心に深く、
長期間にわたって残り、そのことを想起すると強い心理的苦痛を感じ、
激しい感情的変化や外界に対する鈍化や無力感といった生理的反応を示すようになっている。
そのため、精神的に安定した生活を送ることができず、定職に就くことも困難で、完全な社会復帰ができない。
申立人は、戸籍上の氏名で呼ばれることで、同じ呼称である加害者と被害行為を想起して強い精神的苦痛を感じている。
申立人が指名の変更を求めるのは、加害者ひいては被害行為を想起させる氏と、忌まわしい子ども時代を象徴する名前を変更して、
被害行為を過去のものとし、その呪縛から逃れて新たな生を生きたいと考えているからである。
上記の事実によると、申立人が氏名の変更を求めるのは、珍奇であるとか難読・難解であるとか、
社会的差別を受けるおそれがあるといった社会的要因によるものではなく、
「主観的な しかも極めて 特異な事由(申立人の上記のような心理状態は、心理学的に見てあり得ない事象ではないことが推認される)」である。
主観的事由ではあるが、「近親者から性的虐待を受けたことによる精神的外傷の後遺症からの脱却を目的とするものであり、
氏名の変更によってその状態から脱却できるかについて疑念が残らないでもないけれども、上記認定の事実に照らせば、
戸籍上の氏名の使用を申立人に強制することは、申立人の社会生活上も支障を来し、社会的に見ても不当であると解するのが相当」である として、
申立人が氏を変更するについて、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」があるものと認めるのが相当であり、
また名の変更についても、単なる好悪感情ではなく上記のような事由に基づくも のであること及びその使用年数等を併せ考えると、
同法107条の2の「正当な事由」があるものと解するのが相当であるとした。
http://www.crc-japan.net/contents/guidance/pdf_data/h17_bunken2.pdf
私が30歳の時に両親が離婚した。
その10年後、夫の後妻から連絡がきた。脳出血で倒れ、高次脳機能障害と静脈瘤を患い、あなたに会いたいと言っているから来てくれないか。
両親は長いこと仲が悪かった。あとから振り返れば「仲が悪かった」の一言で済むが、私が10歳の時から30歳になるまで、子供の前ではまともに口をきいていなかった。年金や借家の更新手続きなどはすべて娘を介してやりとりが行われた。娘の立場としては別れて当然だと思っていたが、よくある「妻が働くことをよしとしない夫」と「専業主婦を望まれて家庭に入り、まともに職歴のない妻」の組み合わせが崩壊すると、子供を養ってはいけなかったのだろう。
そして父には恋人がいた。愛人と称するべきなのだろうが、どうもなじまないので恋人とさせていただく。母によれば、口を利かなくなる前に、離婚歴があり一人で子供を養っていて立派だと、よく話していたそうだ。となると私が10歳の頃くらいには関係があったのだろう。私の前ではその人の話はしなかったから。
私が大学に入ると、恋人の子供の家庭教師というアルバイトの口があてがわれた。子供は親同士の関係を知ってか知らずか、どの教科を教えても手応えはなく、頭がいいのか悪いのかもわからなかった。家庭教師として恋人の自宅にお邪魔すると、その両親が出迎えてくれる。おやつと飲み物と軽い雑談、成立しない家庭教師役、私はうっすらと事情を察した。恋人の両親はよく父を褒めていた。頭が良くて、気が回って、本当に立派な人だ。どこの世界の人だろう、と思った。家では無口で、たまに自分を連れてファミリーレストランに行って。もっと小さい頃の思い出はたくさんあるが、10歳以降の思い出は数えるほどしかない。思えば自宅で風呂に入らないのが不思議だった。そうか、この家で風呂に入っているのか、と考えた。もちろんラブホテルの時もあっただろう。私は当時、まるで子供だった。母はアルバイトに対していい顔をしなかったし、その家で食事を勧められることをいやがっていた。今考えれば当然だと思うが、私は両親の中が悪いことは知ってはいても、両親の心境にはとんと疎かった。考えるのをシャットアウトしていたのではないかと今なら思えるが、何を考えているのかわからなかった、不可解だったというのが正直なところだ。
大人同士の機微を読むのが面倒になって、勉強が忙しいからという理由でアルバイトを辞めた。
就職し、家にお金を入れ始めるようになった頃、父親が月に1回手渡してくる生活費の額ががくんと減った。バブル期でも不景気な時でもあまり額の変動はないようだったが、バブル期にはかなり儲かっていたらしく、自分の親戚にみかんを送る箱の数を間違えて発注し、4箱のはずが14箱届いたという電話を受けたことがある。父は子供に話すわけにもいかず、ましてや母に話せるわけもなく、一人でぷりぷり怒っていた。かなり面白かった。そんな状態だったから、額が増えても減っても母と私にはどうすることもできなかった。生活費がない月もあった。その頃から、父は何を思ったか、子供がいない時に外から家によく電話をかけていたという。私は母の証言しか聞いていないが、母に働けと言ったり、お前が浮気をしているのは知っているんだと怒鳴ったり、大変そうではあった。母は事態をかいつまんで話してはくれたが、父は何も言わなかった。ますます、何を考えているかわからない両親だなとしか思えなかった。母が浮気をしていたかどうかは私にはわからないが、一度ぶっちゃけどうなの、と聞いた時には、本当に父親一人しか知らない、他の人に好意を抱いたことはあったが子供が生まれる前だった、と言っていた。真偽はどうでもよかった。なぜか父の恋人が家を訪ねてきて「あなたも働いたらどうですか」と母に説教してきたそうだ。私から見れば、母の化粧や外出、外で働くことの検討を嫌がっていたのは父の方だった。私にとってはすべてが藪の中だった。ただ、このままの両親が年を重ねていくのなら、私がずっと生活の面倒を見るんだろうという覚悟だけがあった。
私が30歳になる頃、父母の電話での言い争いは激しくなったそうだ。どこまでも伝聞だ。母は不毛な言い争いに疲れ、離婚届を準備していた。証人欄ふたつのうちひとつには私がサインした。特に感想はなかったが、これで父が恋人と再婚すれば、将来の面倒を見るのは母一人でいいのか、助かった、と思った。
父は離婚届にサインして、いくつかのアルバムだけ持って家を去った。私への連絡はなかった。携帯の電話版号も、メールアドレスも知っていたのに、特に娘に伝えたいことはなかったのかと、不思議だった。不思議ではあったが、謎の両親の電話――本当にそういうやりとりがあったのか、私は知らない――で二人で決めたのなら、私は意見も文句も言うまい、夫と妻の間の話だ、と思っていた。
それから10年間、父からの連絡はなかった。戸籍謄本から辿れば現住所が分かることは知っていたが、特に話したいことはなかったし、非常時にはいくらなんでも連絡くらい来るだろうとたかをくくっていた。結婚した時も報告しなかった。子供ができていたら連絡しただろうか?幸か不幸か、子供はできなかった。「仲の良い夫婦とその子供」というサンプルを知らない私には子供を持つのは厳しいだろうと思っていたが、ごく自然にできないままだった。
10年経って、父が脳出血で倒れたという連絡をよこしてきたのは、一度だけ親族の葬儀で顔を合わせた父方のいとこと、父の恋人の兄だった。Facebookで探し当て、メッセージを送ってきたそうだが、Facebookのメッセージを受け取る範囲を絞っていたので、気づいたのは倒れてから約半年後だった。死んでいればさすがに親族から母に連絡があってもよさそうなものだったが、そういう話は聞いていなかったので、母には何も言わずにメッセージに返信した。手間をかけてすまない、父の具合はどうか、非常時にはこの電話番号とメールアドレスに連絡をくれ、いざとなったら先方に伝えてもらっても構わない。それくらいの簡単なものだった。
ところが、携帯電話にかけてきたのは父の恋人だった。私は瞬時に、失敗を悟った。留守番電話に残されていた最初のメッセージは「連帯保証人になってくれ」だった。SMSには再婚したこと、病状、娘に会いたいと言っていることなどが断片的に送られてきていた。どう出ればいいか迷い、しばらく自分からコンタクトを取るのは控えておこうと思った。
次の日、会社の始業時間から終業時間まで、というのは単なる偶然だったのだが、1時間おきに着信があった。これを書くのは本当に恥ずかしいが、狼狽した私は電話と留守番電話の通知が恐ろしくなり、不安障害を発症して心療内科に通うようになった。簡単に連絡先を教える自分がばかだったし、想定できたはずだったのだ。1日考えて、父の後妻(結婚したことがわかったのでこう書く)の番号を着信拒否にした。着信拒否にすることで逆上されかねないとも考えたが、このままでは自分の生活が壊れると思った。夫には全部ひとりで決着をつけたいと言った。
次は父の携帯電話から着信と留守番電話があった。さすがに1時間おきではなかった。留守番電話を聞くのに心の準備が必要だった。何を言われるんだろう、何をふっかけられるんだろう、本当に怖かった。父よりも後妻の方が怖かった。留守番電話は2件あり、1件目は「ほら、◯◯ちゃんよ」という後妻の声の後に父が「◯◯◯◯(父のフルネーム)です、こんにちは、どなたですか」と言った後に電話が切れた。2件目は直接父が発言したようで、「◯◯、元気か。会いたいな。子供はいますか、元気ですか。連絡くれるとうれしいです」という、私の主観では「何かを読み上げた」ような内容だった。
2件目を聞いた時に、高次脳機能障害というのはこういうことなのかと腑に落ちた。私のことがわからない父も、私に会いたいという父も両方混じっている。人前でしか出さない、機嫌のよい時の父の声で「どなたですか」と言われたこと。この10年一度も親から子への連絡をしなかった父が、私の10年を何も知らずに「子供はいますか」と無邪気に尋ねること。一瞬気が遠くなった気がした。そして私のことをきちんと認識している父はもういない。いなくて当たり前だ、10年かけて私の中でゆっくり父の不在から父の死へ変化していったのだから。私の中で既に父は死んでいた。正確には「死んでいたということがわかった」。私はもう父の家族に、といっても後妻しかいないけれど、一切関わるまい。そういう決心をしながら、そういえば私が家庭教師をしたあの子供はどうしたんだろう、という思いがちらりとよぎった。
父の番号を着信拒否してから、1年に1回ほど、後妻からメールが届いた。「賢くて頼りになるお父さんのことを思い出します」。頼りになる? あなたにはそうだったんだろう、私にとっては違ったけれど。いとこからもメールがきた。「今度静脈瘤の手術をするので連絡してあげてください。私の母が死んだ時にお世話になったから、恩返しをしたい」。つまり私にとってのおばがこの10年の間に死んでいて、私に連絡がこなかったのだから、親族扱いされていなかったのは私の方では? 誰も彼も何を言っているんだろうと思った。怒りはなく、ただ不可解さだけがあった。両親がなぜか電話で意思疎通(といっても口げんかだったそうだけど、私は聞いていないからよくわからないままだ)していたこと。すべてにおいて排除されていたのは私ではなかったのか。そして父が死にそうな時にだけ連絡が来る。不可解だった。どのメールにも返事をしなかった。
最初のコンタクトがあってから4年後、おそらく戸籍の附票からたどったと思われる封書が後妻から届いた。ざっくり言えばもうそろそろ死にそうだから、面会に来てほしい。相談したいこともあるから連絡してほしい。会っていなかった10年を埋めることもなく、ただ死にそうだという連絡だけが来る、それがなんだかおかしかった。
そのさらに1ヶ月後、今度はいとこから、父が死んだこと、告別式の日時と場所の連絡があった。私は即座に相続放棄の手続きを開始した。お金について計画性があったとは思えないので、相続手続きをしたところでたかが知れている。相続手続きには相続人全員の承諾が要る――つまり後妻と私は何らかのコンタクトを取る必要性があるだろう。弁護士を挟むにしても。私は一切後妻と連絡を取りたくなかった。分かり合える何かがあるとも思えなかった。年を取ってからの再婚なんだからそういうこともあるだろうに、なぜ死んだからといって関係性が生まれるのか。丁寧に必要な書類を集めて回り、家庭裁判所の相談員の人と会話をして、「よくご存じですね」と言われた。そのことだけが、この一連の騒動の中で、本当に感情を動かされた。つまり、うれしかった。誰も彼もが私を都合良く(といってもきっと善意なんだろうけど。地獄への道は善意で舗装されているのだった)使おうとする中で、事務手続きを挟んだ人だけが、私のことを褒めてくれた。
父の名に大きく×がつけられた、後妻の名前も入っている住民票を見て考える。父にとって私はなんだったのか。かわいがってもらった記憶も、愛情をかけてもらった記憶もあるにはあるけど、空白の10年間、私が気を遣って父にコンタクトを取るべきだったのだろうか。いやそんなことはないはずだ。父は父の意思で私を家族から外したのだと思いたい。私が一連の話の中で一番ショックだったのは、面識があったはずのおばの葬式に呼ばれなかったことだったのだから。
父と母と私の欄に「除籍」と書かれ、後妻の名前が連なっている戸籍謄本を見て考える。一番コンタクトを取りたくない相手の名前が、同じ書類の中におさまっている。後妻の生まれた日も、両親の名前も、続柄も、再婚した日も書かれている。そういえば再婚したという報告すら父からはこなかった、それは当たり前だろうと思う。別の誰かとの再婚ならともかく、母との婚姻の継続中に家族の中に割って入った人。割って入ったことすら気づくのが遅れた人。
家庭裁判所から送られてきた「相続放棄申述受理通知書」と「相続放棄申述受理証明書」だけが、私にとっての宝物だ。家庭裁判所の人はやさしかった。見知らぬ私のために、書類についてあれこれ教えてくれて、印紙が売られている一番近いコンビニエンスストアまで紹介してくれた。人のやさしさってあるんだなと思えた。
長くなりました。読んでくださってありがとうございます。
きょう、父が死んだという報せが来た。
わたしが中学生の頃、修学旅行に出かけるのを見送ってくれたのを最後に姿を消した父だった。
父が姿を消して以降当時住んでいた土地を離れるまでの約2ヶ月間(その後もだけど)、母が大層苦労していたのはなんとなく覚えている。どうやら父は働いていた会社にさまざまな迷惑をかけていたようで、会社の人が行方を探していたのだ。(母は捜索願を出すよう強く頼まれていたし、引っ越したあとお世話になった不動産屋さんに父の会社から私たちの転居先を訪ねる連絡が何度もあったと聞いた)
その後両親は無事に離婚をし、そこにいたる過程でとある土地に住んでいることを知った。会いたいという気持ちが湧くことは当然なく、どこかで生きているのだろうとだけ思って過ごしていた。
当時未成年だった私は父の戸籍から抜けることが難しく(家庭裁判所に申請が必要だった)、急がなければならぬことでもないとそのままにしていたけれどそれが今回報せがくるきっかけになったのだろうと思う。成人してからさっさと抜いておけばよかったと今は後悔している。
役所から来た手紙には父が死んだこと、独居で身寄りがなく、すでに火葬が終わっているので期日までに遺骨と家財の引き取りをするか否かの申し出をし、残った財産等で葬儀をあげて良いか答えて欲しいという旨が書いてあった。
遺骨の引き取りをするつもりはもちろんないし、家財など送られてきても困るので拒否をしようと思っている。相続についても書かれていたので、もしかすると借金などあるかもしれないし放棄するに限るなと一枚の紙を見ながらぼんやりと思った。
住居の所在地が書いてあったので、なんとなく調べて察しがついたことがあった。
おそらく父は、その土地の福祉関連にお世話になっていたのだろう。大層ご迷惑をかけてしまったに違いない。これからさらにご迷惑をかけてしまうのだな、と申し訳なく思ったが正直もう関わりたくないので早めに返事を出さねばならない。重ね重ね自治体の皆様申し訳ない。
身寄りもなくたった1人で死ぬとはこういうことなんだなということを突きつけられた気がした。いつかは私にも同じことが起こるだろう。独り身で一生を終える可能性が高いわたしは、どれだけ周りに迷惑をかけずに死ぬことができるのだろうか。
追記(1):07/25 09:14
・嘘の話なのに優しい言葉が並んで朝から涙腺がああああああ、ありがとう。いくつかレスします。
・つまり今はどんな状況?>親権を持っているが、私が元夫に養育費なものを払い子供に会えない
・弁護士は?>ついてます、親権もってるなら会いに行っても問題ないとのこと。でも今回のことはまだ相談していません。子供に嫌いって言われると強引には会いづらいよな……
・堂々巡りの思考>再婚した人がいたら子供は母親に会いたいっていいづらい説ないかな、いや、それは私に都合のいい考えであって本当に会いたくないのかもしれない、いやいや(無限ループ)→身動きとれない
・チンニング>正しくはドアのふち?のほうで行います、歪みますのでおすすめしないです
・事実上の誘拐>そうですね。親権を持ってシングルマザーに戻れるかというと本文の通りです。本当に悩ましい、金・体力・時間、頼れる親戚、精神力がないとシングルマザーはこなせない。私だって本当は子供と過ごしたいが自分が事故にあったらどうなるか、考えると怖い。合理的に判断するのも冷たい人間かと思いますが、子供は見る大人の目が多いほうがいいのでこの状況には納得していますが、やはり定期的に会いたい。もちろん全部私の体験で主観です、やれる人はやれます。その方は尊敬します。まさにこれ、です。代弁すみません。
ブコメ引用: 子は親権的には取り戻せるけど取り戻して育てる自信や体力がもう尽きてるんでしょう。 (略)
・「大変な子育てをしている自分」というポジションを失いたくないのでは?>いやいや、ないです。なんでしたっけそういう症候群みたいなのありますよね。ミュンヒハウゼン症候群?違うか。ないと思いたいです。むしろ周囲に大変な状況というのは見せたくない、というほうが強いです。それも性格上、問題なのでしょうけど。誇れるものは仕事と趣味です。そこらへんの承認欲求は満たされています。
・生い立ち嘘だろ>設定、盛りすぎですよね、奇妙な人がいるもんですね。
・子供が現妻に話していることや、現妻、元夫のことには触れないように書いているため情報の偏りすみません。
=
以下本文
元夫が二人目が欲しいというので、それは無理だと答えたら「僕は傷ついたから離婚したい」と。
セックスレスではない。
二人目が無理だという理由には、40日あった有休が消えるほど予防接種、病院、保育園のイベントに目まぐるしかったからだ。
二人目がいたら有休が倍あっても足りない。身体がいくつあっても足りない。よくわからないけど耳から血が出たのは初めての体験だった。
私はこのことを重くならないよう、冗談めいて元夫に伝えたつもりの結果がこれだ。
とにかく離婚の流れは意味不明だったが、離れた人の気持ちにすがっても仕方ないので了承し、離婚提示から二週間で財産分与、引っ越し、離婚をした。
子供が小学生に上がる直前の話だったので、交友関係がリセットされるタイミングだったのは都合がよかったのか悪かったのか。
母子ともに不安で慣れない環境、子供にもストレスがあったのだろう。
もともと発達障害のグレーだと診断されていた子供は、自分の気持ちの伝え方がうまくできなかったようで、喧嘩した友達を道路に突き飛ばし危うく事故になるところだった。
親歴6年生、子供の成長に応じて接し方もこんなに変動的だとは思わなかった。
毎年親歴1年生にリセットされている気分だ。
校長先生と学校の先生の前で子供を突き飛ばし「お前がやったのは、これだ。人殺しのようなものだ」と叱った。
それは悔しかったね、と認めたうえで「でも、暴力はダメだと」と私も子供に手をだしてしまった。わかってる、無茶苦茶だ。
こうしないと伝わらないのか、相手の子は怖い思いをしていないか、もっと別の叱り方がったのではないか。
でも突き飛ばした先に車がいたら取返しがつかなかったのでは?さまざまな思いが過り、不覚にも人前で泣いてしまった。
校長先生から「お母さんは頑張ってます」という言葉をもらって救われた。
身近に頼れる人がいない。
頼れるのは己の身体と金とインターネットだけだ。筋トレをし、仕事で金を稼いだ。
困りごとがあればセーフティーネット各所、ネットで検索し相談をした。
安定した大企業に入り込めたのも運がよかったのかもしれない。
友達にも恵まれた。足りないものがあればAmazonリストからいろんなものを送ってくれた。まだお返しはできていない。でも感謝はしている。
だが友達は頼れるとは違う気がする。相手にも生活があるからだ。
弱音は吐けず、とにかく友達の前では明るく(SNS上)ふざけた投稿ばかりをしていた。今もそうしている。
で、なんだっけ?そうだ、気ままに吐露させてくれ。
同時に期待する相手がいないというのはとても楽だということにも気が付いてしまった。
元夫がいるのに動いてもらえないと思うとストレスが溜まるが、端からからいなければ期待もしないし家事育児は自分のペースでできる。
シングルマザーだからとしっかりやらなきゃと(大事なことなので2回)。
力の抜き肩を知らないんだ。
つーか気ィ抜いたらシングルマザーなんて餌食っしょ(誰の?)。
子供は学校の授業にぜんぜんおいついていないので宿題のほかにもドリルをやらせた。
そう、ランドセルの奥底でぐちゃぐちゃになったプリントを持ってくる。
え、あれ……このプリント先週のじゃん!てことは、明日必要ってことー!?
(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!!)
ああ、これが小学校の壁か。
ここで振り落とされたら、子供の将来がどうなるか。
私はスラム生まれで親が犯罪者、中卒、ヤ〇ザに連れていかれそうになったこともあるがなんとか生き延びた。
それはすべてタイミングと運がよかっただけなのだ。子供はそうとは限らない。
Luc値なんてどうやって増やすんだよ、クソが。
そうだInt、少なくともIntなら目に見えてわかる!そう思いながら子供に宿題とドリルをやらせた。
そんなばかりの毎日は疲れる。たまにはピザを頼んで子供とゲームしながら食った。楽しかった。毎日こうだったらいいのにな。
日々ピリピリしていたのには間違いなかった。私が倒れたら詰むからだ。
シングルマザーで金も時間も限られている。ジムなんか通えないから部屋のドアを使ってチンニングする35歳。
元夫とは月1で会わせて、家庭裁判所が提示する一般的な養育費をもらった。
私が欲しかったのは金じゃなくて手伝いでもなくて、当事者意識だった。
子供が病気で意識をなくし、救急隊が部屋の中をドタバタの入っていく中、元夫は寝ていた。
私が不安だからそばにいて欲しいといっても仕事中だからと断られた。
この記事自体、私の視点でしか書かれていないので、元夫にものっぴきならない睡眠(?)事情があったのだろう。
たとえば、救急隊員と目をあわせたら死ぬとか、そういう事情が。
元夫の悪口のつもりもない。対話をしてこなかった自分にも非がある。
元夫にもいいところだってあった。例えば……ええとつまり、結婚前と結婚後、人は変わってしまうんじゃない。
それ以前の人の本質。そういうのを見極めて結婚することは難しい。その差分を埋めていくのが結婚なのだと思う。しらんけど。
元夫は一人暮らしをしたことがなく、家のことがこんなに大変だったなんて知らなかったよ。ごめんね、という言葉が出てきた。
しばらくして『今度こそうまくいく。よりを戻したい』といわれて、悩みに悩んだ。半年くらい保留にした。
半年くらい保留にしていたら、私が体調を崩して家庭のことが詰んだのでよりを戻してしまった。
やはり身体を壊すとメンタルも壊す。メンタルも壊すと身体も壊す。
よりを戻すためにすぐに再婚はせず同居をはじめた。
子供は喜んでいた。
そうだよな、子供の前でわかりやすい喧嘩をしていたわけでもなく突然の離婚だったからな。
『また一緒に暮らすの?やったー』と喜んでいたよ。
でもダメだった、期間にして3か月。
「お前は親に向いてないから出ていけ」だと。
どうやら元夫が帰宅するタイミングで、わたしがイライラしながら宿題を教えていたのが親に向いていないと判断したそうだ。
(1)戦力になると思っていた人がいない→(2)全部自分でやる→ちゃんとしなきゃ→思い通りにいかない→イライラ→子供が怖がる。
(1)がなくてもシングルマザー状態の(2)でも詰むんだ、この場合は。
それを伝えたが、ダメだった(あれ、(1)の時点で助けてと言ったつもりなんだけど?)。
とにかくかばんひとつで家を追い出された。子供には月1で会うことはできた。
元夫は家事はできるようになったが(同居の時には週末のみの家事だったけども大きな進歩や!)子供のイベントは参加できているのだろうか?
子供のイベント関連にほぼ出たこともなければ結婚、離婚、保育園、学校、年末調整の書類を書いてこなかったのに!?
大丈夫か?
そう納得するしかなかった。
「じゃ、子供にはたまに会わせてくれないかな。何かあれば全力でサポートするから。」
そう言うしかなかった。
親権者は私だが別居しているという謎の状態から1年が経過したある日、
知らない番号から「うちの夫に手をだすのはやめてください!」という電話がかかってきた。
はて、人違いでありんしょう?わらわはひと様の殿方と戯れるほどの悪趣味はござりんせん。
私を家から追い出し、すぐに再 婚 し て た 。
元夫は現妻にも私にも良い顔をしていたのだ。事実は小説よりも奇なり。
私は追い出された背景や、勝手に浮気相手にされた怒りもあったが、何より子供に隠し事をさせたことが許せなかった。
ある時期からお母さんいつ戻るの?と言わなくなったこと、それは現妻からの配慮だろう。優しい子だ。
子供が間違えて再婚相手の名前を言ったとき、私がそれは誰?友達?と聞いたら少し間をあけて「うん」と言ったこと。
子供だって大きくなれば隠し事や嘘だってつく。だが、それはこういう状況ではないだろう、もっとこう違法アダルトサイトをみたときとかさ……
とにかく、子供に大人の事情で隠し事をさせるな、嘘をつかせるなと怒った。
現妻には、私だって再婚は寝耳に水だと事情を伝えたら納得したがあちらはあちらで修羅場だったがそれがしらん。夫婦なら話し合ってくれ。
で、だ。
子供にはCovid-19のせいでで会えていないんだ。5か月も。
あちらにも生活があるから写真をくれ、子供に会いたいメッセージを送りあぐねいていたら5か月経過した。
だが先日、写真を欲しいと伝えたらくれたので、調子にのってビデオ通話したいと言ったところ「子供が嫌がっていますのでできません、子供の意志を尊重します」だそうで。
そうか、小学校の中学年でもはっきりと自分の意志が言えるんだ、そうか。成長に感動しつつも、母親の権利としても認めていただけませんかね?と伺うと「子供曰く、お母さんは怖いから嫌」だそうで。
そうか、現妻(はもともと優しいのかもしれないが)や現妻と修羅場を経て夫婦生活できている元夫は子供に対して優しいのか。
よかった。
よかったけど悲しかった。私は怖いお母さんだったのか。
いつもピリピリしながら宿題を教え、軍隊の如く、今日のタスクは終わったのかと詰め、関係各所に頭を下げつつ、ドアで懸垂していたお母さん。
そりゃそうだ、セクハラパワハラだって被害者と加害者しかいないもんな。
最後に、よけいないことは言わないから「おやすみ」だけ言いたい、聞きたいと頼んだが「子供は嫌がってます、やめてください」で終わった。
そりゃそうだ。「相手と直接 離せばわかる!」なんてSNSでもやばい発言上位に入るやつだもんな。
私は引くしかなかった。
親権を持っているなら、お前が引き取ればいいじゃねーか。
そう思うだろ?
だがシングルマザーやってみ。マジ大変だから。ヤ〇ザの非じゃない、別のベクトルでやばい。
有り余る金と時間と体力、あらゆるトラブルに動じない精神力ががあればシングルマザーをやりたいよ。
割とメンタルゴリラ(ゴリラ、本当は繊細だからね。隠喩だよ)だと思ってたけど、訪問者のノックですら怖いからダンベルを隠し持ってドアをあけたもん。
余裕がないんだよ。
シングルマザー、出来る人はいる。だがそれはそれこれはこれだ。
私は直接言われたわけではないものの、現妻伝手に「お母さんは怖いから会いたくない」と言われたのにまた子供を親として見る自信がない。(人伝手のほうがダメージでかいね?)
合理的に考えて、何かあったときのための大人の目は多いほうがいい。
別に悲劇のヒロインになるつもりもない。いやちょっとだけ悲しいから吐露してんだけども。
現妻と話したあと、私はこのまま子供に会えないのだろうかと思ってちょっと生きるモチベーション下がった。割と修羅場くぐって生きていたけど自死が過るくらい。
でも死んだらそもそもチャンスもなくなるじゃん。子供と同じ空気を吸ってるだけでも嬉しいかなくらいに思わないといけないね。
いつか会えるのだろうか?いつか会える……か。
子供の親孝行は生後数か月っていうし、十分に幸せな体験をさせてもらったよなー。
これって(もちろん両者に非、ネグレクトがない前提で)共同親権みたいなのがあれば解決されるのかなー。
でも、制度に期待してもダメか。いつかお母さんに会いたいって言われるといいな。いやー、ちょっと辛いなー。
世の中最後に頑張っているシングルマザー/ファザーの皆様、尊敬しています。あなた方はすごいです。
あー書いて多少なりともすっきりしたわ、長々とご清聴ありがとうございました。
ま、全部嘘なんだけどね。
親権停止させよう
○ 民法
第820条 親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
第822条 親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
第834条 父又は母による虐待又は悪意の遺棄があるときその他父又は母による親権の行使が著しく困難又は
不適当であることにより子の利益を著しく害するときは、家庭裁判所は、子、その親族、未成年後見人、
未成年後見監督人又は検察官の請求により、その父又は母について、親権喪失の審判をすることができる。
ただし、二年以内にその原因が消滅する見込みがあるときは、この限りでない。
(1)申し立てできる人
親権喪失の申し立てを行うことができるのは、次の立場にある人です。
(2)必要なもの
親親権停止の申し立ては、次の書類等を揃えた上で、子どもの住所地を管轄する家庭裁判所で行います。
親が犯罪者か犯罪者じみていなければ、分籍して連絡先を教えないだけで絶縁出来る
分籍は20歳以上なら他に条件は要らない
下記を役所に持ってくだけで出来る
> 具体的には、親から幼少時に暴力行為、性的虐待などを受けた場合 など
本件申立人は、小学生当時に実兄から継続的な性的虐待を受け、その被害の影響が心に深く、
長期間にわたって残り、そのことを想起すると強い心理的苦痛を感じ、
激しい感情的変化や外界に対する鈍化や無力感といった生理的反応を示すようになっている。
そのため、精神的に安定した生活を送ることができず、定職に就くことも困難で、完全な社会復帰ができない。
申立人は、戸籍上の氏名で呼ばれることで、同じ呼称である加害者と被害行為を想起して強い精神的苦痛を感じている。
申立人が指名の変更を求めるのは、加害者ひいては被害行為を想起させる氏と、忌まわしい子ども時代を象徴する名前を変更して、
被害行為を過去のものとし、その呪縛から逃れて新たな生を生きたいと考えているからである。
上記の事実によると、申立人が氏名の変更を求めるのは、珍奇であるとか難読・難解であるとか、
社会的差別を受けるおそれがあるといった社会的要因によるものではなく、
「主観的な しかも極めて 特異な事由(申立人の上記のような心理状態は、心理学的に見てあり得ない事象ではないことが推認される)」である。
主観的事由ではあるが、「近親者から性的虐待を受けたことによる精神的外傷の後遺症からの脱却を目的とするものであり、
氏名の変更によってその状態から脱却できるかについて疑念が残らないでもないけれども、上記認定の事実に照らせば、
戸籍上の氏名の使用を申立人に強制することは、申立人の社会生活上も支障を来し、社会的に見ても不当であると解するのが相当」である として、
申立人が氏を変更するについて、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」があるものと認めるのが相当であり、
また名の変更についても、単なる好悪感情ではなく上記のような事由に基づくも のであること及びその使用年数等を併せ考えると、
同法107条の2の「正当な事由」があるものと解するのが相当であるとした。
http://www.crc-japan.net/contents/guidance/pdf_data/h17_bunken2.pdf
一応、親子の縁を切る分籍してさらに氏を変えた人の判例も書いとく
親が犯罪者か犯罪者じみてなければ分籍するだけで事足りるんだけど
5chで見かけた家族ガチャ大当たりしている人は分籍だけだったためか
親がどこへ逃げても追ってくるってあったな
> 具体的には、親から幼少時に暴力行為、性的虐待などを受けた場合 など
本件申立人は、小学生当時に実兄から継続的な性的虐待を受け、その被害の影響が心に深く、
長期間にわたって残り、そのことを想起すると強い心理的苦痛を感じ、
激しい感情的変化や外界に対する鈍化や無力感といった生理的反応を示すようになっている。
そのため、精神的に安定した生活を送ることができず、定職に就くことも困難で、完全な社会復帰ができない。
申立人は、戸籍上の氏名で呼ばれることで、同じ呼称である加害者と被害行為を想起して強い精神的苦痛を感じている。
申立人が指名の変更を求めるのは、加害者ひいては被害行為を想起させる氏と、忌まわしい子ども時代を象徴する名前を変更して、
被害行為を過去のものとし、その呪縛から逃れて新たな生を生きたいと考えているからである。
上記の事実によると、申立人が氏名の変更を求めるのは、珍奇であるとか難読・難解であるとか、
社会的差別を受けるおそれがあるといった社会的要因によるものではなく、
「主観的な しかも極めて 特異な事由(申立人の上記のような心理状態は、心理学的に見てあり得ない事象ではないことが推認される)」である。
主観的事由ではあるが、「近親者から性的虐待を受けたことによる精神的外傷の後遺症からの脱却を目的とするものであり、
氏名の変更によってその状態から脱却できるかについて疑念が残らないでもないけれども、上記認定の事実に照らせば、
戸籍上の氏名の使用を申立人に強制することは、申立人の社会生活上も支障を来し、社会的に見ても不当であると解するのが相当」である として、
申立人が氏を変更するについて、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」があるものと認めるのが相当であり、
また名の変更についても、単なる好悪感情ではなく上記のような事由に基づくも のであること及びその使用年数等を併せ考えると、
同法107条の2の「正当な事由」があるものと解するのが相当であるとした。
http://www.crc-japan.net/contents/guidance/pdf_data/h17_bunken2.pdf
床屋勤務だった父に、美容院勤務だった母はハワイ旅行中に出会い結婚したらしい。
物心がついたころにはもう父と母は不仲だった。父は仕事を休みがちで、私が小学生低学年の頃にはもう職場を転々としていたのを覚えている。
一つの職場に留まらず、職場を変えるものだからもちろん給料も上がらない。父と母は夜な夜な電話口や居間で喧嘩していた。
それは深夜だった時もあるし明け方の時もあった。長いことアパート住まいで横にも上にも寝ている家があるのに家に居る母は金切り声を上げていた。
でもほとんどがお金の問題で、まだ小学生の自分にはできることが無いことが分かっていたので家の手伝いをして、3歳年下の妹の面倒をよく見た。
父が仕事から帰ってくるとき帰りは母の車の迎えを頼んでいた。母はまだ小学生の私と幼い妹を乗せて車で最寄り駅まで父を迎えに行く。
その車の中でもお金の話で揉めていた。
夏のとある日、いつものように父を車で迎えに行った時に自販機で何か買う?と母が私に聞いてきたが私はペプシが欲しいとはその日言えなかったのを今でも鮮明に覚えてる。
両親を困らせないようにいろんなことを毎日考える日々が続いてた。
今も昔も趣味はゲーム。私が幼稚園の頃テレビの下スーパーファミコンが仕舞ってあるのを見つけて以来ゲームの虜だった。
コンポジットケーブルの繋ぎ方を覚えてひたすら「スターフォックス」の1面を遊んだ。これ一つで随分と長いこと遊んだ。
小学生になって私以外にもゲームが好きな人が沢山いることを知り、お家によくお邪魔して遊ばせてもらった。
父は気まぐれにゲームを買ってきてくれた。
「F1 RACE」https://youtu.be/-isADihL65Y とか「役満」https://youtu.be/H-Nc1_9bXpQ とか。
でもスターフォックスの次にハマり込んだのがゲームボーイカラーで出た「ポケットモンスター銀」https://youtu.be/Lfy93rW7zRs だった。
幸い、テレビさえ占拠しなければ父と母はゲームに理解を示してくれており、妹と一緒にゲームボーイカラーの画面をよく覗き込んだ。
ただ、その間にも父の帰りが遅かった事を責めたり、やはりお金の話で父と母が声を荒げる日が続いていたので、もうゲームソフトを買ってもらえるなんて無いんだろうなとポケモン銀を手にしたとき思った。
小学生にもなると、友達が増え色んなことを知り、考えることが増え、自分と友人の違いをよく知ることになる。
私はある日ゲームボーイカラーのソフト、「ポケモンでパネポン」https://youtu.be/yYfZPb4nqa4 (以下ポケパネ)を友達に遊ばせてもらった。
パズルゲームはスーファミで家にあった「マジカルドロップ2」https://youtu.be/NN5JIwbNG1U を遊んだことはあったけどそれ以上の爽快感で遊べたポケパネは衝撃的だった。
どうしてもこれを家でも遊びたい。でもゲームソフトをせがむのは両親を困らせる。また今夜パパとママが喧嘩するかもしれないし、普段よりもっと大きな喧嘩になるかもしれない。
その時小学生ながらにとった手段は『友達から盗む』だった。うまいこと友人からポケパネを盗み、買ってもないゲームを遊んでいるのがばれるとまずいからと、家では音量を消し
放課後には公園で一人でポケパネを遊んだ。でも親は子を見ている。買ったはずのないゲームソフトに気づき、ひどく怒られ、翌日友達へ返すくだりとなった。
その時、今となってはどう思ってそんな発言をしたのかも覚えていないが確かに私は言った。
母は泣いた。でも私は両親に負担をかけずにゲームソフトを手に入れる純粋な手段として盗みを働いたつもりだった。
盗みはダメだと諭され、母と一緒に友人の家に行きソフトを返した。友人は特に気にした風もなく、小学校を卒業するまで一緒に遊んでくれた。
夜な夜な喧嘩が続くが中学生になってある日突然、父がマンションを買った。
正直当時は驚きのあまり意味が分からなかった。お金ないんじゃなかったのかな。どこかで貯めてたのだろうか。大人になるまで、ずっとこのアパートで過ごすのかと思った。
とうとう父は働かなくなってしまった。
マンションに引っ越し、中学生になった私と小学生の妹はそれぞれの部屋をもらったが父は妹の部屋に入り浸った。
妹のベッドで眠り、昼食に袋麺を食べ、また妹の部屋で引きこもる。妹は母と一緒に和室で眠った。
あっという間に妹の部屋はたばこ臭くなり、ベッドの布団はぺたんこになった。
母は時短で働かせてもらっていた職場をやめて夜勤も挟みながら働くようになった。夕飯を作るのも私と妹で作るようになった。父の分はない。
初めて作ったのは野菜炒めだった。今でも覚えてる。切って洗った野菜を炒めるのに油が跳ねて妹と大騒ぎして、父に怒鳴られた記憶がある。
ほどなくして車で買い物に出かけた帰り、マンションの駐車場で母が助手席に乗る妹と後部座席に乗る私に向かって「ママ、パパと離婚することになったの」と言った。
私はまぁ、そうなるよな。と思った。驚くべきことに部屋を占拠されていた妹は泣いた。
そうして私と妹は母に引き取られ、マンションと父を残して出て行った。
家庭裁判所に行った。家庭裁判所の人は私と妹が望めばいつでも父と面会できる旨を伝えてきた。
でも私達から望んで面会を申し出たのは今までで一度もないままだ。
養育費は二人分。私と妹が高校を卒業するまで。その養育費も最初の2ヵ月払われて、それっきりだった。
私は高校生になった。アルバイトをはじめ、携帯代は自分で払い、月にいくらか家に入れ、欲しいもの・必要なものは自分で賄った。
アルバイトというのが地元のショッピングモールに入っているラーメン屋だったのだが、オーナーや社員のおっさんにとても良くしていただいた。
絵を描くのが好きと知れば誕生日に画集や画材を頂き、美味しいものもたくさんごちそうになった。
ある日、自分で夕飯の買い物袋を両手に下げてアパートに帰ってきたときなんだか急に悲しくなって声をあげて泣いた。
私以外にも高校生で、両親がいない中買い物袋を提げて帰ってくる子もいるだろう。
でもなんだか理不尽さと寂しさとどうしようもなさ、あとはなんで私がこんな環境にいるんだろうという気持ちで家に母と妹がいないことをいいことに、両手に買い物袋を提げて立ち尽くしたままうわーんと泣いた。
本当に「うわーーーーん」だった。
私は高校を卒業したら就職するつもりだった。(ちなみにこの時はまだ養育費が払われているものだと思っていた。)
母に高校卒業したら就職する。と言ったときの母のあの喜んだ顔は今でも夢に出るほど覚えている。
スーツ用意しなきゃねとも言った。
高校卒業したら就職するんです。とアルバイト先のおっさんにも言った。
そうしたらそのおっさん「あのさあ、人生よくやり直しが効くとかいうけどそんなことないよ?」と言い出した。
どきっとした。
わがまま言ったらいろんなものを困らせると思って黙っていたことがむき出しにされた気がした。
「勉強したいことがあるなら今のうちだと思うんだけど」
ゲーセンで知り合った友人に相談した。その友人は通っている専門学校にデザイン学科があるよと教えてくれた。
資料をもらって穴が開くほど眺めて悩んだ。そして母に言った。
「ごめん、就職したいと言ったけどこの学校に通って勉強がしたい。2年制でいいから、通わせてほしい」
その時の母の落胆した顔も覚えてる。この顔も良く夢に出る。
それでも母は奨学金の手続きを一緒になってしてくれて、無事私は専門学校でデザインの勉強をすることができた。
2年制だったから、うんと居残ってphotoshopやillustratorを覚え、プレゼンの勉強をして、就活を終えた(新卒で入った会社がクソブラックだった話はまたどこかで。失せろクソ会社)
もちろん、あれからバイト代が入ればちょこちょことゲームを買い、ゲーセンで音ゲーでも格ゲーでも遊んでいたのだが
無事社会人として安定してきて、switchとスマブラで友達と遊んでいた時の事。
友人と二人でいろんなキャラをオンライン対戦で遊んでいた時、5連勝くらい続いたあたりで
「なんか勝ち続いちゃってる。」としれっと攻撃を食らったりアイテム取り損ねたりして手を抜いてしまった。
これは高校生の時よく遊んだ「スーパーストリートファイターⅣ」でもかなりの頻度で起こった事象だった。
格闘ゲームで遊ぶ以上、ミスも弱さも自身のせいというのが基本なのだが、勝ち続けて嫌われたくない、気分を不快にさせたくないと
幼少の時に培った「相手のご機嫌伺い」が発動してしまって対戦ゲームでなかなか気持ちよく遊ぶことができない。
ご機嫌伺いはゲームだけでなくいろんなところで作用し続け友達は本当に少なく、それなのに変に性格が明るい人間になってしまった。
なんでもかんでも両親のせいにするつもりはないけど、子は親を選べないし、ここまで女手一つで育ててもらった母には感謝もしているけれども
なんであんな男と結婚したのか、なんで喧嘩するくらいなら生んでしまったのかとこの間ちょっとノイローゼになったとき思っちゃった。おわり。
-----------
今。妹は素敵な旦那と結婚して1児の母に。もうすぐ2人目が生まれる。姪っ子にはクリスマスにぽぽちゃんのベビーカーとポポちゃん用のエルサの服をプレゼントした。
妹は育児に四苦八苦しながらも旦那、姪っ子と部屋を飾りながら私の手放しに楽しそうに生活している。
私は一人暮しのため住んでいたアパートを出たので母は久しぶりの一人暮らしを満喫し、フラダンスにハマった。
父はしらない。
>うちは早くに見切りをつけて子の物心つく前に離婚して一人で育ててるが、金銭的心配はなく楽しく二人暮らしのつもりが、子がこんな思いを抱えてたらどうしようと思った
金銭的な事情はきっかけに過ぎず、みんなが当たり前に持っているものが私達にないというこの状態こそが、買い物袋をぶら下げて立ち尽くしてしまう最大の理由なので、出来る事なら子には友人や人とコミュニケーションがたくさん作れる・取れる環境を作ってあげるのが大事だと考えてる。
その環境さえあれば、足りないものは徐々に補えるようになるはずで、そうなるように出来ている。
今思えども急にマンション買った下りは本当に意味不明で笑っちゃう
まぁ多分、良い暮らしをと思ってマンションを買ったのだろうけど良い暮らしはそこに無かったと言う訳。
>お母さんのリアクションが、逆ではないんだね
>落ちがないのがなんかいい
落ちてないから落ちがない…という落ち…
たくさんの人に読んでもらえてたくさんの人に文章を褒められて嬉しい
ありがたや
妹が去年自死した。
4年前、妹は元夫と離婚した。2人の間には、当時4歳になる息子(僕からすると甥)が居た。
妹と元夫は子どもが生まれてから夫婦関係が冷え込んでいて、幾度か相談を受けていた。
「子どもの将来があるのだから、しっかり話し合ってほしい」と言っていたが、あるとき大きな夫婦喧嘩をして、元夫は甥を連れて実家に帰った。
妹は元夫に連絡を取ったが、互いに冷静になるためと言い、別居をすることになった。
月に二回、妹と甥は2時間程度会っていたという。それが、元夫の弁護士の、通常の面会交流時間だという言葉を信じて。
妹は家庭の修復を願っていたが、元夫はその気はなかったようだ。何度も話し合い、離婚をすることになった。
「幼稚園は○○で通ってるから、途中で変わると子どもがいじめられる。君は母親だから、親権が無くなってもいつでもあえる。」
元夫と義父母のそんな言葉を信じて、妹は離婚し、息子の親権を手放した。
妹は自分のことよりも、息子のことを一番に考えていた。そして、なによりもひとを簡単に信じすぎた。
いや、子どもに会えない時間が長すぎて、疑う気力が残っていなかったのかも知れない。
僕が離婚の話を聞いたのは、久しぶりに実家に帰ったときで、既に離婚が成立した後だった。
妹は以前よりやつれていて、悲しそうに疲れたように話していた。
離婚が成立すると、元夫はあれこれ理由をつけて妹に息子を会わせることがなくなった。息子が怖がっている、息子の前で涙を見せるな、息子に会うとき挙動不審だから、精神を患っているのではないか。
妹は月に1回から2ヶ月に1回、そして会えなくなった。
元夫は共通の友人に、妹が虐待親だから親権を得られなかったのだと吹聴して回った。妹の周りからは友人が去っていった。
甥は徐々に妹にどう接して良いかわからないようなそぶりを見せるようになった。
妹は、元夫や義父母に、息子に会いたいと何度も頼んだという。
それでも、元夫や義父母は、離婚のときとは打って変わり、「もう母親ではない」「新しい母親と仲良くやっているから関わるな」と会わせるのを拒んだそうだ。
家庭裁判所に面会交流の調停を申し立てても、妹が息子に会えるのはほんのひとときだった。家庭裁判所の調停後も、元夫は理由をつけて妹に息子を会わせなかった。
妹は電車に乗ると子どもと同じぐらいの歳の子を見て辛くなると言い、家から出なくなった。
去年の寒い朝、妹は命を絶った。
〔殺害予告で児童クラブ補助員を逮捕〕 2015年6月、兵庫県西脇市役所や市内の保育園に「子どもを殺す」などと記した封書を郵送し、業務を妨害した疑いで、加古川市臨時職員の児童クラブ補助員(女性、50歳、姫路市)が11月22日までに逮捕された(威力業務妨害容疑)。容疑を認めている。差出人に自分の両親の名前を使っており、「子どもを狙い、両親に迷惑をかけようと思った」と話している。2014年10月~2016年8月に、県内の家庭裁判所や飲食店などにも脅迫文書を送ったという。(時事、11月22日)
この件の威力業務妨害は「子どもを殺す」などと記した封書を郵送」にかかっており、「ペドフィリアである」ということではない
「行動に出た」から逮捕された。「ペドフィリアであった」から逮捕されたわけじゃないぞ?
同上。
実際に私が治療にあたった100名を超える小児性犯罪者の中には、小学校の先生もいれば保育士やスポーツインストラクターもいる。
ある保育士はすでにベテランの領域に達する年齢だった。様々な保育所での勤務経験があり、その各所で小児性犯罪を繰り返してきたが、彼の特徴は女の子にも男の子にもそうした性暴力を繰り返していたことだった。
同上。
これは君の妄想であり、なんらエビデンスのあるものではない。差別の口実としても下の下だな。
君が列挙した判例はすべて「行動」にかかってるんだよ。
http://daycaresafety.org/news_2016.html
〔殺害予告で児童クラブ補助員を逮捕〕 2015年6月、兵庫県西脇市役所や市内の保育園に「子どもを殺す」などと記した封書を郵送し、業務を妨害した疑いで、加古川市臨時職員の児童クラブ補助員(女性、50歳、姫路市)が11月22日までに逮捕された(威力業務妨害容疑)。容疑を認めている。差出人に自分の両親の名前を使っており、「子どもを狙い、両親に迷惑をかけようと思った」と話している。2014年10月~2016年8月に、県内の家庭裁判所や飲食店などにも脅迫文書を送ったという。(時事、11月22日)
https://www.sankei.com/west/news/180913/wst1809130029-n1.html
http://jin115.com/archives/52178450.html
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56389?page=3
実際に私が治療にあたった100名を超える小児性犯罪者の中には、小学校の先生もいれば保育士やスポーツインストラクターもいる。
ある保育士はすでにベテランの領域に達する年齢だった。様々な保育所での勤務経験があり、その各所で小児性犯罪を繰り返してきたが、彼の特徴は女の子にも男の子にもそうした性暴力を繰り返していたことだった。
酒の席だが職員のH氏から奇妙な話を聞いので書きとめておく。H氏はエロい。まずそのホモ室は家庭裁判所の中にあるらしいが結界により外からは存在が認識出来ない。ゴム無し。離婚裁判やら離婚調停で暴れる寸前までなった輩が問題起こす前に転送される。「え?!」と思わずH氏の発言に酔いが覚めた。更にそこではハッパも吸い放題であり合法特区めいているだとか。いやいやヤクは良くないよピエールだがだがコレコレH氏はエロい職員だ「だって離婚発狂する人てこうでもしないとイライラ収まらないでしょ?」精神科?パートナーが悪いて騒いで終わり行かないよ絶対にwあと暴力はダメなんだよ、弱い方に来る圧力もダメなんだよ。いやいやいやヤクやってもね薬ダメダメ。という話が場末の飲み屋の深夜まで続いた。
「児童相談所 拉致 静岡市」などと検索すれば、当事者(親)が発信する記事を閲覧することができる。Twitterで実名発信すら行っている。
彼らの主張と、裁判所の認定事実とを対比しながら読めば、恐ろしさが伝わってくると思われる。
-----
判 決
(第1,第2 省略)
第3 争点に対する判断
前提事実に加え,後掲の証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 原告Q1は,原告Q2及びQ9との同居を始めた平成19年2月頃,Q9が時間を守らないこと,嘘をつくことを矯正させる必要があると考えて,原告Q2との間でQ9へのしつけの方法について話合い,その結果として,原告らは,Q9が小学校に入学した同年4月頃から,Q9が上記の点について原告らの口頭での指導を守らなかった場合には体罰を与えることとした。
原告らの体罰は,当初は頭を軽く叩く程度であり,その後顔を平手打ちするようになり,同年6月頃からは,Q9に木製の子ども用バットを持ってこさせて,臀部をバットで叩くことなどがあった。
(甲4,75,原告Q1本人)
イ(ア)Q9の所属するクラスの担任であるQ12教諭は,平成19年4月頃,Q9の顔に痣があったことから,その痣について聞いたところ,Q9は,タンスの角にぶつけたと述べた。Q12教諭は,その後,Q9の顔の別の位置に痣があることを発見した。
Q12教諭は,同年5月下旬頃,Q9が忘れ物をして登校してきたため,どうしたら忘れ物をしないようにできるか尋ねたところ,Q9は泣き出して,自分で学校の支度をしていることのほか,原告Q1は殴るので恐いこと,原告Q2はQ9を守ってくれなくなり,原告Q1と一緒に怒ってばかりいるが,以前はそうではなかったことなどを述べた。そこで,Q12教諭は,Q9に対し,先生はいつも君の味方であり,先生が守ってあげるなどと述べた。
原告らは,同月31日,本件小学校の担任教諭と保護者との間での連絡帳に,Q9から,先生が守ってあげるという発言があったと聞いたが,その発言の真意の確認を求める旨の記載をした。
(イ)本件小学校のQ13教頭は,同年6月5日,原告ら宅を訪れ,原告らと面談した。その際,Q13教頭は,虐待の疑いがある場合についても適切な対応をとる必要がある旨述べ,原告らは,今までQ9はしつけを行われずに育ってきており,Q9を良くするのは今しかないこと,しつけの方針として,悪いことをしたら殴ること,虐待を疑っていることは理解していることなどを述べ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,Q12教諭からの直接の謝罪を要求した。これを受け,Q13教頭は,一旦本件小学校に戻り,Q12教諭と共に再度原告ら宅を訪れ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,誤解を招く発言であったとして謝罪した。
Q9は,同日以降,Q12教諭に対し,先生が来てくれてから殴られなくなったと述べた。
(ウ)Q9は,同年6月29日,右大腿部,右肩に赤色の跡があり,Q12教諭が,Q9がプールに入る際にその跡について聞いたところ,Q9は,原告Q2から叩かれたと述べた。
また,Q9は,同年7月2日,右目の下部に痣があり,Q12教諭からその痣について聞かれたところ,原告Q2に殴られたと述べたが,Q13教頭からその痣について聞かれた際には,Q9は転んで怪我をしたと述べた。そこで,同日,Q13教頭が原告ら宅に架電したところ,原告Q2は,Q9が2日続けて許せない嘘をついたことから原告Q2が殴った,私も人間だから感情的になると述べた。
原告Q1は,同月3日,本件小学校に架電し,Q13教頭に対し,原告らは冷静にQ9をしかっていること,同じ状況であれば原告Q1であっても殴っているはずであり,原告Q2も同じ方針であることなどを述べた。これに対し,Q13教頭は,殴らないで育てることをまず考えるべきであるなどと述べた。
(エ)Q12教諭は,同月4日,原告らから,本件小学校の教育方針等についての意見が記載された手紙が送付されたため,同日午後3時頃,原告ら宅を訪問した。その際,原告ら及びQ12教諭が居間にいて会話をしていたところ,原告Q2は,一旦居間を離れてQ9の部屋に行き,Q9を叩き,居間に戻ってきた際に,「今私,Q9のこと,叩きましたから,守って下さい。叩きました。嘘ついたから。」などと述べた。
その後,本件小学校のQ14校長,教務主任及び生徒指導主任が原告ら宅を訪れ,原告Q1から,学校で行う教育と家庭で行う教育の区別をしたガイドラインを示してほしいという要望があったため,Q14校長がガイドラインを示す旨述べて,同日午後8時30分頃にQ14校長らは原告ら宅を離れた。
(甲11,17,18,乙ろ2の12,乙ろ15,証人Q13)
(2)本件一時保護に関する経緯
ア Q14校長は,同月6日,静岡市教育委員会に対し,前記(1)イの経緯を報告した。静岡市教育委員会は,同月10日,静岡市α区の要保護児童対策地域協議会(児童福祉法25条の2参照)の定例実務者会議において,Q9を要保護児童として提示し,Q13教頭が前記(1)イの経緯をまとめた報告書(乙ろ2の12の1ないし6丁)を提出した。上記会議に出席した静岡市児童相談所の所員は,同日,本件小学校に対し,Q9は保護を要する児童であるため,今後Q9に痣等があった場合には児童相談所に通告するように指示した。
イ Q9は,同月13日の登校の際,左顎及び左目下部に痣があり,Q14校長がその痣について聞いたところ,Q9は,嘘をついたことを原告Q1に怒られて殴られたと述べた。そこで,同日「Q14校長は,静岡市児童相談所に架電してQ9について通告した。また,同日のプールの授業の際,Q9の大腿部及び背中に痣があることが確認された。
静岡市児童相談所は,同日,上記通告を受け,子ども虐待対応の手引き(平成19年1月23日付け雇児総発第0123003号厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課長通知。乙ろ2の10)及び静岡県中央児童相談所等作成の家族支援ガイドブック(乙ろ2の11)に基づき,上記アの会議に参加していた所員等による緊急受理会議を開催し,Q9に行うべき支援及び援助の内容を判断するための虐待処遇アセスメント指標(乙ろ2の6)で判定をしたところ,虐待の程度は,5段階の上から2番目(打撲,広範囲の軽外傷等)であり,調査格付は,生命を脅かす(又は高い可能性がある。)状態として,直ちに立入調査を行うこととなる「R-1」と判定された。また,静岡市児童相談所のQ15主任主事(ケースワーカー)等の所員3名が,本件小学校に立入調査をして,Q9の顔から足にかけて痣があることを確認し,Q9に聞き取りをしたところ,Q9は,原告らからは,Q9が時間を守らないという理由で毎日殴られること,原告Q2の方が多く殴ること,原告Q1からはおもちゃのバットでいろいろなところを殴られ,原告Q1から殴られた際に血が出たことがあることなどを述べた。静岡市児童相談所は,上記立入調査をした所員からの報告を受け,上記虐待処遇アセスメント指標及び所員の合議に基づき判定をしたところ,Q9の支援・援助格付は,直ちに一時保護が必要となる「AA」と判定された。
静岡市児童相談所長は,Q9に痣があり,Q9も原告らから殴られていることを認めたこと,本件小学校から,家庭訪問をした後も原告らからの虐待が継続していることが確認できたことに基づき,Q9を一時保護し(本件一時保護),その後に原告ら宅に架電し,原告らに対して本件一時保護をしたことを告げた。
Q9は,同日,静岡市立静岡病院のQ16医師の診断を受けたが,同医師作成の診断書には,「全身に打撲によると思われる皮下出血を認める」として,〔1〕両下眼瞼,〔2〕左顎部,〔3〕右肩甲骨上,〔4〕左大腿背側,〔5〕右下腿膝下部前面及び〔6〕両殿部について,「いずれも鈍器,または靴による打撲跡と考えられる」,「上記外傷について全治一週間と診断する」との記載がある。
静岡市児童相談所は,同日,静岡県中央児童相談所の一時保護施設にQ9の一時保護を委託した。
(甲11,乙ろ2の4ないし6・12,乙ろ15,16,乙は3の1・2,証人Q17,証人Q13)
(3)本件一時保護開始後の経緯
ア 原告らと静岡市児童相談所は,本件一時保護が開始された平成19年7月13日以降,電話等でやり取りをしたが,次のとおり,原告らは,Q9に対する体罰は虐待ではなく,親である原告らの意思を無視して本件一時保護を継続することは不当であるとの意見を繰り返し述べた。
原告Q1は,同月20日,静岡市児童相談所のQ15主任主事との電話で,虐待はしていない旨述べ,暴行が肯定されると考えているかとの質問に対して「ええ,肯定されますよ。当たり前じゃないですか」「一時的な感情だとかそんなことで虐待を繰り返してきているわけじゃないんだ」,「責任ある体罰っていうのだってあるんだ」などと述べ,静岡市児童相談所のQ18統括主幹との電話で,同月27日,「Q9をおたくらに任せますけど,やつが20歳ぐらいになったときにまともな,私らが考えているような大人になってなかったら,抹殺しますんで。おたくらも含めてよ。」,同月30日,「子どもがこう,おれらの考えてたとおりに教育できなくなったときに,おまえらどういう責任とる。とらなかったときは,おまえ,リンチしてもいいか」,同年8月1日,「根本からお前らの育て方とか教育論が間違ってるのに,何で間違ってる奴らと俺らが話し合わなきゃいけないんだよ。」などと述べた。また,原告Q2は,同年7月23日,Q18統括主幹との電話で,「私達は少なくとも体罰は体罰だって考えてるんですね。私の思う虐待と言うのは自分の憂さ晴らしですね。」,「体罰っていうのは暴力とは違う」などと述べた。
静岡市児童相談所のQ19主任主事(心理士)及びQ15主任主事は,同月20日から同年8月31日まで,一時保護施設を訪れてQ9と面談,行動観察,心理テスト等を行った。Q9は,同月8日以降の面接で,原告らと会いたくなく,施設から帰りたくない旨訴えた。Q19主任主事は,Q9について,同年9月20日開催の静岡市健康福祉審議会児童福祉専門分科会児童処遇審査部会に「現段階では,本児の家庭に対する拒否感が強く,両親と距離を置き,守られた環境下で,本児の話に耳を傾け,個別には母性的で受容的な対応が望まれる。」,「これまでの養育環境により本児の情緒面での成長が阻害されてきた結果が示されており,今後,両親の養育態度に改善が望めないようであれば,家庭との分離はやむを得ず,児童養護施設への入所が適当であると考える。」との心理診断の結果を提出した。同部会では,Q9の入所措置の承認を求める申立てを行うことに異議は出なかった。
静岡市児童相談所のQ20所長は,上記の原告らの発言,心理診断の結果及び上記部会の結果を踏まえ,原告らによる暴力が継続される可能性が高く,Q9も帰宅を拒否していることから,児童養護施設への入所が適当であるとして,同年9月25日,入所措置の承認を求める申立て(本件申立て)をした。
(甲11,14,乙ろ7の1ないし7)
イ 原告らは,同年9月28日,静岡市児童相談所を訪れ,Q20所長,Q17参事(平成20年4月1日に静岡市児童相談所長となった。以下「Q17」という。)等の所員と面談した。この面談の際,Q20所長らは,本件一時保護の経緯や,Q9については児童虐待防止法2条1号所定の暴行が行われたものと判断していると説明したが,原告らは,「体罰と虐待はこれ別物ですから」,「しつけの段階で,あざができるほどたたかなきゃいけなかった」などと述べてQ9の返還を求め,静岡市児童相談所はこれに応じなかった。
(甲9,10,乙ろ7の10)
ウ Q20所長ら及び原告Q1は,本件承認審判及び本件勧告がされた後である平成19年12月21日,静岡市児童相談所で面談した。原告Q1は,本件承認審判の「二度と虐待に該当するような体罰をさせない」という文言から,虐待に及ばない体罰については容認されたものと解釈している,体罰を主体にしない努力はするが,目的によっては必要なこともあるなどと述べたのに対し,Q20所長は,しつけ自体を否定するわけではないが,体罰を伴うしつけは子どもに心理的な影響があり好ましくない,本件勧告を受けて,静岡市児童相談所からの原告らに対する指導方法について年明けに提案する旨述べた。また,原告Q1が,原告らがQ9の通学している安西小学校に面会等を申入れることは問題となるか確認したのに対し,Q20所長は,今の状態だと問題となる旨述べた。
静岡市児童相談所は,平成20年1月頃,上記の提案として,Q9と原告らの家族再統合に向けた「ご両親への支援プログラム」(以下「支援プログラム」という。)を作成した。支援プログラムでは,〔1〕目標は,「Q9君が安心して生活できるような家庭づくり。」であり,〔2〕方法として,原告らが静岡市児童相談所を訪れ、概ね1か月に1回2時間程度を目安に面接を実施し,面接以外にも課題の提出をお願いすることがあること,〔3〕2月から3月頃にQ9の気持ちを確認し,写真やビデオレターなどを通した親子交流を始めること,〔4〕Q9が原告らに会いたいという気持ちを確認し,5月から6月に児童相談所内で原告らとQ9との面会を実施し,6月から7月初旬に親子での外出を実施すること,〔5〕面会・外出時の親子の様子,Q9からの外泊希望を確認し,児童相談所所員による家庭訪問を実施した後,7月初めに家庭への外泊を開始すること,〔6〕外泊が繰り返される中で,良好な親子関係が認められ,引取り後の支援のあり方について共通理解が得られれば,家庭引取りとなることが記載されている。
Q20所長ら及び原告Q1は,同年1月11日,静岡市児童相談所で面談した。静岡市児童相談所のQ21心理士が支援プログラムについて説明するなどしたところ,原告Q1は,支援プログラムは本件勧告を無視したものである,原告らは体罰をしているのであって虐待や暴力ではない,一時保護自体間違っている,おれは日常生活の中で普通にやっていく中で必要であれば絶対体罰は使う,まずはQ9を帰してもらいたいなどと述べた。そこで,Q20所長は,再度提案をする旨述べた。
Q20所長ら及び原告Q1は,同月24日,静岡市児童相談所で面談した。Q17が,本件勧告に基づいてQ9を帰宅させるためには,虐待に該当するような体罰はしないことが条件になる旨述べたところ,原告Q1は,裁判所は原告らが虐待をしていないと認めており,Q9をすぐに返してもらった上で静岡市児童相談所による指導を受けるというのが原告らとして譲歩案の全てである,静岡市児童相談所が原告らの意見を聞かずに一方的な主張をしているなどと述べた。
(甲9,10,乙ろ5の2,乙ろ7の11・12)
エ Q9は,平成19年12月31日,静岡ホームで転倒して頭を打ち,CT検査をしたが,脳に異常は認められず,頭部挫傷と診断された。
静岡市児童相談所は,原告らに対し,上記転倒事故を通知せず,原告らは,平成20年3月7日に静岡市個人情報保護条例に基づき開示を受けた文書により,上記転倒事故の発生を認識した。
(乙ろ1)
オ 原告Q2は,同年2月1日,静岡市児童相談所に対し,Q9の毎日の詳しい言動や様子を報告しない理由等の回答を求める質問状を送付した。また,原告らは,同月8日,静岡市児童相談所を訪れ,本件抗告棄却決定に対して特別抗告を申し立てた旨伝えるとともに,親権を行使するとして,Q9の毎日の一時保護施設及び小学校での言動を報告することを求めた。さらに,原告Q1は,一時保護期間の7か月でQ9の身長が2.4センチメートル,体重が1キログラムしか増えていないという理由で,Q9への精神安定剤等の投与を疑