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2022-09-02

ポケットピカチュウが欲しかった話 続

先日、『ポケットピカチュウが欲しかったけど、ポケットハローキティクリスマスに届いた』っていう話を書いたら思った以上に反響があった。正直驚いた。

私もだわという声もあって、一人じゃなかったんだなあと、心に刺さった棘がちょっと小さくなった。

読んでいただきありがとうございました。

https://anond.hatelabo.jp/20220818181739

追記追記を書いていたら長くなったので新しい記事にする。

»ポケットピカチュウを手に入れていたら、今の私は何か違ったんだろうか。

について掘り下げる。

どうしたらポケットピカチュウを手に入れることができたんだろう。

ポケットピカチュウを手に入れるタイミングは2つある。

1. クリスマスまでに親を説き伏せてポケットピカチュウもらう

2. クリスマスポケットハローキティを贈ったのは間違いだったと気づかせて、別のタイミングポケットピカチュウをもらう


1. クリスマスまでに親を説き伏せてポケットピカチュウもらう

前回の記事追記にも書いたが、

私の親は、ポケモン暴力的ゲーム子どもに悪い影響がある かつ ちょっとした流行もの認識していた。

2022年に「ポケモン暴力的なので我が家では禁止しています」という親がどれくらいいるかからないが、1999年にはどうやら一定層いたらしい。

子供の頃の記憶と、さっき5分くらい調べたGoogle検索の結果なので間違っているかも知れない。

ーーーーーもし、2022年の私が1999年の私に会えたら、何てアドバイスをすればいいか

友達を1人ずつ連れて行って、ほら、みんなポケットピカチュウを持っているでしょ。と、[エビデンス]を突きつけてみるのはどうだろう。

・もしくは、うちでポケットピカチュウ通信会を開催して、私だけ持ってないでしょ、と教えるのはどうだろう。

・・・と思いついた。

しかし、課題がある。

おそらく、当時の親は周りの子ものことが見えてなかった。見る習慣がなかった。

私は第一子だったので、幼稚園に通うまでは「子」と「お母さん」だけの【家】という最小コミュニティで成り立っていた。

それが、幼稚園に通うようになって、「子」と「お母さん」と「幼稚園同級生」と「ママ友」という【地域コミュニティに膨らむ。

子が成長するに従って、親はぶつぶつ言い始める。

『〇〇ちゃんはもうバイエルやってるんだって』とか『〇〇ちゃん進学塾に通っているそうよ』とか『〇〇ちゃん結婚したって』

ーーーーー周りの子と比べて、あなたダメ

と、否定されたことはないので、親にとっては「今日は晴れていたね」くらいの日常の会話、近所の近況報告だったかも知れない。

肯定的に捉えると、周りの子どもと比較するということは、周りの子どもを見る余裕ができたということだと思う。

私が幼稚園に通うくらいの頃は妹が生まれたばかりだった。親は心に余裕がなかったと思う。

自分を通してのママ友はあまりいないが、妹の友達ママ友はいまだに付き合いがあるくらい長い付き合いだ。

なので、公園の片隅で

「うちの子ポケモンなんかに興味を持つのよ。女の子なのに。やあねえ。」

「え、知らないの?ポケモンって今とってもはやってるのよ。女の子男の子もみんな持ってるんだから。〇〇ちゃんも買わないと置いていかちゃうわよ。」

なんて話している余裕は私が子どもの頃はなかったんだろう。


あの頃は、「私」と「妹」と「お母さん」だけの【家】で小さく暮らしていた。

私だけが幼稚園という広いコミュニテイに先に出てしまったのだ。

周りの子自分を比べても、あまり良い説得材料にはならなさそうだ。



ピカチュウちょっとした流行だと捉えていたことについては思うところがある。

当時ハローキティキャラクターとしてはかなりの地位を得ていた。1974年デビューしたそうなので、1999年に25周年を迎えていた。

対してピカチュウ1996年誕生しており、1999年時点ではたった3周年だ。

2022年にはピカチュウ誕生してから26年になるが、未だに老若男女誰に聞いても「このキャラクターは何?」「ピカチュウ」と回答が返ってくると誰が想像しただろうか。

あなたが「どうせ、これもすぐ終わる流行でしょ?」と手を振り払ったそれは25年後常識になっているかもしれませんよ。



2. クリスマスポケットハローキティを贈ったのは間違いだったと気づかせて、別のタイミングポケットピカチュウをもらう

ーーーーサンタさんが良かれと思ってプレゼントしたものを開けた瞬間、子どもがしくしく泣き出したら?


サンタさんはさぞ慌てふためいたと思う。自分が良かれと思って変更したプレゼントは間違っていた、と気付くことができる。

本来であれば25日の朝のプレゼント開封クライマックスを迎え、幸せクリスマスになるはず。

ところが、25日の朝にポケットハローキティが出てくることで、家族史上最も気まずいクリスマスになる。

「何が違ったの?」「どうしてダメだったの?」「そんなにピカチュウが欲しかったの?」と聞いてくれたかも知れないし、

「ああ、この子が主張していたもの勝手に変えるのは良くないんだな」と気付いてくれたかも知れない。

人と人はぶつかり合ってお互いの理解を深めるというが、親と理解を深め合う最初のチャンスが5歳のクリスマスだったのかも知れない。

3000円のポケットピカチュウお菓子のように気軽に買えるというほどではないが、

ちょっと食費を削ったり服を1枚我慢したりCDを1枚我慢すれば、手に入らない金額のものではない。

在庫薄だったかも知れないが、周りの子がみんな持っていたのを考えるに、郊外特有の、ちょっと大きいトイザらス在庫を持っていたと想像する。

私が親だったら、しくしく泣き出してしまったクリスマスの悲しい思い出を払拭するために、ポケットピカチュウを手に入れようと頑張るだろう。

26日の朝に「あれー!サンタさん今日プレゼントくれたみたい」と急いで挽回するか、元旦お年玉の代わりに渡すか、数週間後にある誕生日のプレゼントにするか。

なんらかのタイミングポケットピカチュウが私の手に入ってハッピーエンドだ。

アラサーになって、ビールを飲みながら、はてな匿名ダイアリーでちまちま記事執筆することもない。

さいごに

前回の記事で、ポケモンに触れずに大人になってしまった哀れな人と思われたかもしれないが、安心してほしい。

ポケットハローキティ事件の数ヶ月後に、ひょんなことからゲームボーイカラーとポケットモンスター銀を手に入れることになる。

https://www.pokemon.co.jp/game/other/gbc-gs/

長くなってしまったので、別の記事としていつか書くかも。

2020-08-18

売却癖

衝動的に手持ちの物を売り払う癖がある。

売り払うものゲームソフトだ。

親共働きで鍵っ子、家に誰もいない中私の遊び相手になってくれたのはゲームだった。

スイミングクラブ上級試験に受かったご褒美に買ってもらったマゼンタゲームボーイカラーと、ポケットモンスター銀

近所の金持ちにいちゃんが貸してくれたゲーム機が自分の家にあって、しか自分の持ち物になるなんて!箱から出したてピカピカのランドセルを背負った時と同じくらい嬉しかったものだ。

それから「いつかは卒業するだろう」と思いつつ中学ではファイアーエムブレムMOTHER1+2出会い高校では星のカービィUSDXタイムアタックに熱を上げ、大学ポケモンXYに出戻りし……

現在も私はswitchスマホを握り締めてゲームと向き合っている。

大人になったらゲームをやめるなんて大間違いだった。

しろアダルトゲームができるようになると名作ADVを男女BLの境なくやりまくったし、今はSteamやらDLsiteプロアマチュアの垣根なく無限面白いゲームを購入することができるのだ。

幼い頃のように没頭できる時間はなくなったけれど、購入本数は増えたと思う。

しかし、先述した通り私には売却癖?がある。

高校の時だ。私は手持ちのゲームポケモン銀とプラチナを残しすべて売ってしまった。

きっかけは正直思い出せない。ただ、私の高校生活はお世辞にも楽しいものとは言い難い。

友人とは一度も同じクラスになれないのに、とんでもない女(教師カマキリをくっつけておおはしゃぎする等)とは二年同クラスな上修学旅行の班も同じ。

本命に落ちて来た学校だったので授業のモチベも終わっていて、ついでに入学時両親が離婚した。

確たる理由はわからないが、私はゲームを売ってしまった。

そしてゲームをすることもやめた。親が禁じた訳でもなく、ほかに趣味がある訳でもない。受験勉強に打ち込むでもなく、高校生活を惰性で消費していった。

そして大学、私はふとゲームをやりたいという感覚に襲われた。高校から抜け出したことメンタルに余裕ができたのだろう。

衝動的におもちゃ箱(というかゲーム箱だが)を漁って手にしたのは、折りたたみ式のゲームボーイアドバンスSP。早速何かやろうとカセットを入れていた巾着をひっくり返した。出てきたのは、ポケットモンスター銀。それだけ。

そこからはもう怒涛だった。

「お母さん!ポケモンの古いゲーム捨てた!?」「アンタが売って良いっていったんでしょ!?」とかい迷惑まりないやりとりをして私は中古屋に走り、探していたものを見つけた。

ポケットモンスターサファイア不思議のダンジョン青の救助隊、闇の探検隊ポケモンコロシアム、ポケモンチャンネル………それからカービィ鏡の大迷宮USDXMOTHER1+2トマトアドベンチャー。ここに書ききれないくらいの私の思い出は、そこにあった。

けれど悲しいかな、大1でバイトもろくに始めていない私には全てを買い戻すことはできなかった。いつか絶対買い戻そう、そう胸に誓って500円箱なしのトマトアドベンチャーだけを手に私は店を出た。

帰ってきてすぐ、私はポケットモンスタープラチナを起動した。本当はサファイアをやりたかったのだが、私が手元に残しデータが飛んでいないソフトはそれだけだった。

すごく、面白かった。何をして良いのかわからず各街に飛んで聞くBGMも、適当に組んだパーティレベル80代のライバルボコボコにされたことも。

あの時得た端金で買った名前も知らないスナック菓子にかえていいものじゃなかった。何年越し、何十回目の殿堂入りを果たした時、私は泣いた。

そしてその夜、人生ではじめてバイト用の履歴書を書いたのだ。

人生初のアルバイト苦痛の方が多かったが、おかげでソフトほとんどは一年以内に買い集めることができた。FE系のソフトと一部のハード大学生の懐には痛かったけど、ようやく自分を取り戻せたような気がした。


……自分を取り戻せたような気がした?


ここに来て私はゲームに相当な依存心を持っていることに気がついたのだった。

職場ゲーム趣味について弄られると「まあゲームに育てられたようなもんなんで!w」と冗談で返したことはあったが、どうやら真実(マジ)らしい。

そして現在コロナ無職である

バイト貯金繋ぎつつ、精神を削られている毎日だ。

疲労ピークに達した時、ふとあの時の感覚が頭を過ることがある。売ってしまえばいい、と。

今手にしているswitchを手放した時、私は今度こそ自我を失うかもしれない。

2020-02-11

両親が不仲だった自分語り

02/13 23:36 追記ちょこっとしました。

床屋勤務だった父に、美容院勤務だった母はハワイ旅行中に出会い結婚したらしい。

物心がついたころにはもう父と母は不仲だった。父は仕事休みがちで、私が小学生低学年の頃にはもう職場転々としていたのを覚えている。

つの職場に留まらず、職場を変えるものからもちろん給料も上がらない。父と母は夜な夜な電話口や居間喧嘩していた。

それは深夜だった時もあるし明け方の時もあった。長いことアパート住まいで横にも上にも寝ている家があるのに家に居る母は金切り声を上げていた。

でもほとんどがお金問題で、まだ小学生自分にはできることが無いことが分かっていたので家の手伝いをして、3歳年下の妹の面倒をよく見た。

父が仕事から帰ってくるとき帰りは母の車の迎えを頼んでいた。母はまだ小学生の私と幼い妹を乗せて車で最寄り駅まで父を迎えに行く。

その車の中でもお金の話で揉めていた。

夏のとある日、いつものように父を車で迎えに行った時に自販機で何か買う?と母が私に聞いてきたが私はペプシが欲しいとはその日言えなかったのを今でも鮮明に覚えてる。

両親を困らせないようにいろんなことを毎日考える日々が続いてた。

今も昔も趣味ゲーム。私が幼稚園の頃テレビの下スーパーファミコン仕舞ってあるのを見つけて以来ゲームの虜だった。

コンポジットケーブル繋ぎ方を覚えてひたすら「スターフォックス」の1面を遊んだ。これ一つで随分と長いこと遊んだ

小学生になって私以外にもゲーム好きな人が沢山いることを知り、お家によくお邪魔して遊ばせてもらった。

父は気まぐれにゲームを買ってきてくれた。

F1 RACEhttps://youtu.be/-isADihL65Y とか「役満https://youtu.be/H-Nc1_9bXpQ とか。

でもスターフォックスの次にハマり込んだのがゲームボーイカラーで出た「ポケットモンスター銀https://youtu.be/Lfy93rW7zRs だった。

幸い、テレビさえ占拠しなければ父と母はゲーム理解を示してくれており、妹と一緒にゲームボーイカラーの画面をよく覗き込んだ。

ただ、その間にも父の帰りが遅かった事を責めたり、やはりお金の話で父と母が声を荒げる日が続いていたので、もうゲームソフトを買ってもらえるなんて無いんだろうなとポケモン銀を手にしたとき思った。

小学生にもなると、友達が増え色んなことを知り、考えることが増え、自分と友人の違いをよく知ることになる。

私はある日ゲームボーイカラーのソフト、「ポケモンでパネポン」https://youtu.be/yYfZPb4nqa4 (以下ポケパネ)を友達に遊ばせてもらった。

パズルゲームスーファミで家にあった「マジカルドロップ2」https://youtu.be/NN5JIwbNG1U を遊んだことはあったけどそれ以上の爽快感で遊べたポケパネは衝撃的だった。

どうしてもこれを家でも遊びたい。でもゲームソフトをせがむのは両親を困らせる。また今夜パパとママ喧嘩するかもしれないし、普段よりもっと大きな喧嘩になるかもしれない。

その時小学生ながらにとった手段は『友達から盗む』だった。うまいこと友人からポケパネを盗み、買ってもないゲームを遊んでいるのがばれるとまずいからと、家では音量を消し

放課後には公園で一人でポケパネを遊んだ。でも親は子を見ている。買ったはずのないゲームソフト気づき、ひどく怒られ、翌日友達へ返すくだりとなった。

その時、今となってはどう思ってそんな発言をしたのかも覚えていないが確かに私は言った。

「返すの?友達は盗まれたこと気づいてないよ?」

母は泣いた。でも私は両親に負担をかけずにゲームソフトを手に入れる純粋手段として盗みを働いたつもりだった。

盗みはダメだと諭され、母と一緒に友人の家に行きソフトを返した。友人は特に気にした風もなく、小学校卒業するまで一緒に遊んでくれた。

夜な夜な喧嘩が続くが中学生になってある日突然、父がマンションを買った。

正直当時は驚きのあまり意味が分からなかった。お金ないんじゃなかったのかな。どこかで貯めてたのだろうか。大人になるまで、ずっとこのアパートで過ごすのかと思った。

引っ越ししてマンションに住み始め、落ち着いてきたあたりで

とうとう父は働かなくなってしまった。

マンション引っ越し中学生になった私と小学生の妹はそれぞれの部屋をもらったが父は妹の部屋に入り浸った。

妹のベッドで眠り、昼食に袋麺を食べ、また妹の部屋で引きこもる。妹は母と一緒に和室で眠った。

あっという間に妹の部屋はたばこ臭くなり、ベッドの布団はぺたんこになった。

母は時短で働かせてもらっていた職場をやめて夜勤も挟みながら働くようになった。夕飯を作るのも私と妹で作るようになった。父の分はない。

初めて作ったのは野菜炒めだった。今でも覚えてる。切って洗った野菜を炒めるのに油が跳ねて妹と大騒ぎして、父に怒鳴られた記憶がある。

ほどなくして車で買い物に出かけた帰り、マンション駐車場で母が助手席に乗る妹と後部座席に乗る私に向かって「ママ、パパと離婚することになったの」と言った。

私はまぁ、そうなるよな。と思った。驚くべきことに部屋を占拠されていた妹は泣いた。

そうして私と妹は母に引き取られ、マンションと父を残して出て行った。

家庭裁判所に行った。家庭裁判所の人は私と妹が望めばいつでも父と面会できる旨を伝えてきた。

でも私達から望んで面会を申し出たのは今までで一度もないままだ。

養育費は二人分。私と妹が高校卒業するまで。その養育費最初の2ヵ月払われて、それっきりだった。

私と母と妹はアパート住まいに戻った。

私は高校生になった。アルバイトをはじめ、携帯代は自分で払い、月にいくらか家に入れ、欲しいもの必要もの自分で賄った。

たまに妹を連れて原宿かに連れて行ったりもした。

アルバイトというのが地元ショッピングモールに入っているラーメン屋だったのだが、オーナー社員おっさんにとても良くしていただいた。

絵を描くのが好きと知れば誕生日画集画材を頂き、美味しいものもたくさんごちそうになった。


ある日、自分で夕飯の買い物袋を両手に下げてアパートに帰ってきたときなんだか急に悲しくなって声をあげて泣いた。

私以外にも高校生で、両親がいない中買い物袋を提げて帰ってくる子もいるだろう。

でもなんだか理不尽さと寂しさとどうしようもなさ、あとはなんで私がこんな環境にいるんだろうという気持ちで家に母と妹がいないことをいいことに、両手に買い物袋を提げて立ち尽くしたままうわーんと泣いた。

本当に「うわーーーーん」だった。


私は高校卒業したら就職するつもりだった。(ちなみにこの時はまだ養育費が払われているものだと思っていた。)

母に高校卒業したら就職する。と言ったときの母のあの喜んだ顔は今でも夢に出るほど覚えている。

スーツ用意しなきゃねとも言った。

高校卒業したら就職するんです。とアルバイト先のおっさんにも言った。

そうしたらそのおっさん「あのさあ、人生よくやり直しが効くとかいうけどそんなことないよ?」と言い出した。

どきっとした。

わがまま言ったらいろんなものを困らせると思って黙っていたことがむき出しにされた気がした。

勉強したいことがあるなら今のうちだと思うんだけど」

ゲーセンで知り合った友人に相談した。その友人は通っている専門学校デザイン学科があるよと教えてくれた。

資料をもらって穴が開くほど眺めて悩んだ。そして母に言った。

「ごめん、就職したいと言ったけどこの学校に通って勉強がしたい。2年制でいいから、通わせてほしい」

その時の母の落胆した顔も覚えてる。この顔も良く夢に出る。

それでも母は奨学金手続きを一緒になってしてくれて、無事私は専門学校デザイン勉強をすることができた。

2年制だったから、うんと居残ってphotoshopillustratorを覚え、プレゼン勉強をして、就活を終えた(新卒で入った会社がクソブラックだった話はまたどこかで。失せろクソ会社


もちろん、あれからバイト代が入ればちょこちょことゲームを買い、ゲーセン音ゲーでも格ゲーでも遊んでいたのだが

無事社会人として安定してきて、switchスマブラ友達と遊んでいた時の事。

友人と二人でいろんなキャラオンライン対戦で遊んでいた時、5連勝くらい続いたあたりで

「なんか勝ち続いちゃってる。」としれっと攻撃を食らったりアイテム取り損ねたりして手を抜いてしまった。

これは高校生の時よく遊んだスーパーストリートファイターⅣ」でもかなりの頻度で起こった事象だった。

格闘ゲームで遊ぶ以上、ミスも弱さも自身のせいというのが基本なのだが、勝ち続けて嫌われたくない、気分を不快にさせたくないと

幼少の時に培った「相手のご機嫌伺い」が発動してしまって対戦ゲームでなかなか気持ちよく遊ぶことができない。

ご機嫌伺いはゲームだけでなくいろんなところで作用し続け友達は本当に少なく、それなのに変に性格明るい人間になってしまった。


なんでもかんでも両親のせいにするつもりはないけど、子は親を選べないし、ここまで女手一つで育ててもらった母には感謝もしているけれども

なんであんな男と結婚したのか、なんで喧嘩するくらいなら生んでしまったのかとこの間ちょっとノイローゼになったとき思っちゃった。おわり。




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今。妹は素敵な旦那結婚して1児の母に。もうすぐ2人目が生まれる。姪っ子にはクリスマスぽぽちゃんベビーカーポポちゃん用のエルサの服をプレゼントした。

妹は育児四苦八苦しながらも旦那、姪っ子と部屋を飾りながら私の手放しに楽しそうに生活している。

私は一人暮しのため住んでいたアパートを出たので母は久しぶりの一人暮らし満喫し、フラダンスにハマった。

父はしらない。

>うちは早くに見切りをつけて子の物心つく前に離婚して一人で育ててるが、金銭心配はなく楽しく二人暮らしのつもりが、子がこんな思いを抱えてたらどうしようと思った

金銭的な事情きっかけに過ぎず、みんなが当たり前に持っているものが私達にないというこの状態こそが、買い物袋をぶら下げて立ち尽くしてしまう最大の理由なので、出来る事なら子には友人や人とコミュニケーションがたくさん作れる・取れる環境を作ってあげるのが大事だと考えてる。

その環境さえあれば、足りないものは徐々に補えるようになるはずで、そうなるように出来ている。

今思えども急にマンション買った下りは本当に意味不明で笑っちゃう

まぁ多分、良い暮らしをと思ってマンションを買ったのだろうけど良い暮らしはそこに無かったと言う訳。

>お母さんのリアクションが、逆ではないんだね

私達と真逆環境に居た人ではあった。

>落ちがないのがなんかい

落ちてないから落ちがない…という落ち…

たくさんの人に読んでもらえてたくさんの人に文章を褒められて嬉しい

ありがたや

 
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