はてなキーワード: 完璧主義とは
母親は神に祈れだの神の勉強しろだの、俺のことを見る気がない。俺の辛さをわかる気がない。
他の家族も、俺を見ているというより、家族が死ぬというのが嫌なだけ。俺のことなんて見ていない。
周りの福祉関係の職員も仕事だから自殺されたら困るから止めてるだけ。俺のことなんて本当はどうでもいい。仕事だから仕方なく構ってるだけ。もし俺が死んだとしても次の日には忘れてる。
他の人もそうだ。どうせ俺が死んでも面倒なやつが死んでくれてせいせいするとしか思わない。
こんな人生を続けるのはしんどすぎる
早く死にたい
長生きしたところで苦しみが長く続くだけだよ。意味がない。誰も俺のことなんて詳しく知らないし、知る気すらない。別にいいけど。俺だって俺に興味ないし。無価値だから早く死ねばいい。人生の消化試合がこのままダラダラと続くくらいなら、まだ若いうちにさっさと死んでしまったほうが儚くていいだろう。年老いて自殺しても醜いだけだ。このままこの苦しみが続くのなら、死んでしまいたい。どうせまともになれないんだから、死んだほうが早い。人とまともにコミュニケーションがとれないゴミは人間社会にとってどう考えても邪魔で、不要な存在だよ。健常者はみんな障害者なんて醜くて汚くて面倒臭くて邪魔だと思ってるだろう。だから税金を障害者に使うのもこれからどんどん減っていく。どのみち社会的に死んでる存在だ。このまま惨めに終わっていくのなら、早く死にたい。
これ以上歳をとって醜くなる前にさっさと死にたい。
これでもまだ誇りを捨てないでおこうという気概が自分に残っていることに少し驚いた。なんでだろう。今の時点で相当終わってるのに。わからない。何気に自尊心がまだ少しは残ってるのかもしれない。俺がまだ高校生なら、もう少し生きていようと思えたのに。もうあの頃には戻れないし、もう完全に取り返しがつかない。全てにおいて終わってる。どうせ人は死ぬんだから、死ぬタイミングは自分で決めたい。自分の納得の行くタイミング、死に方で死にたい。小汚い死に方はしたくない。死ぬなら景色のいいビルの屋上で飛び降り自殺。そう決めてるんだ。こんなに死にたいのに、死にたいはずなのに、死ぬのが怖い。人間の本能というものが本当に憎たらしい。
結局「自殺するな」というのはどこまで行っても他人事で、自殺を止める側の自分勝手な考えに過ぎない。当人の苦しみなんて当人以外にはわからないし、止める側の立場上死なれるのは困るという以上の理由はない。社会の混乱を生むからだとか、残された家族が困るからだとか、結局そういう経済的な理由から自殺予防というのは存在する。結局当人の苦しみなんて関係なくて、「金」の問題でしかない。人の命なんて所詮そんなものだ。みんな社会を維持するために限界まで働かされて、老いぼれになって人生を楽しめなくなってからようやく開放される。人間というのは惨めな生き物だ。所詮社会に使い捨てにされるためだけに存在する。
何が言いたいかというと、人間の命は無価値だからいつ死ぬかも自分で決めていいということだ。止めるのは本人の自由を妨害することに他ならない。
自分の内面の話に戻るが、外に出ると不安で不安で仕方ない。特に何もしていないのに、自分がなにか重大な失敗をしてしまったんじゃないかと不安になる。周りが全員敵に見える。バスに乗ると全員俺を邪魔な存在だと思ってる感じがするし、死ねと思われてそうで死にたくなる。この世界のどこにも居場所がないような気がして、家に帰っても喪失感、虚無感でいっぱいになる。歩いててすれ違う人が俺の容姿をみてバカにしているように感じる。変な奴、気持ち悪いやつだと思われてるんだと確信している。所詮どこにも自分の居場所はないし、ただ暇をつぶすためだけのものがあるだけで、オレの心を救ってくれるものはない。宗教などで救われようとする気力もない。ただ薄っぺらい娯楽で、死ぬまでの時間をダラダラと食いつぶしているだけだ。俺の苦しみなんて価値もないし、誰にも見せる気もないから、ただ一人で苦しんでいくだけだ。所詮人間なんてそんなものだろう。みんな救われたいと思っていても、誰かが救ってくれるわけじゃない。そんなに他人は暇じゃない。この苦しみをわかってくれる「何か」が欲しくて、自殺関連のものを読み漁ったりするが、やっぱりどこか自分と違うし、何か足りない。この苦しみを分かち合うコミュニティがあればいいが、だいたいそういうものはネット上では規約違反になり、「漂白」される。死にたい人間の苦しみなど、世の中の決まりを決めている側にとっては、邪魔でしかないということだろう。
所詮幸せも苦しみも全て過ぎ去っていくなら、さっさと無に還ったほうがいい。諸行無常という言葉のとおりだ。生きる意味なんてないんだ。どうせ人間は一生孤独なんだから、死んでしまったほうがいい。こんな空虚で無意味で無価値な人生など、さっさとおわらせてしまったほうがいい。どうせオレ一人死んだところで何も変わらないし。
世の中の「常識側」にいる人間が嫌いだ。常に自分たちは正義で、間違いなんて犯したことはなく、清廉潔白だと言わんばかりの態度が嫌いだ。その他人の苦しみを屁とも思わないその姿勢が嫌いだ。もちろん悪いことをした人間は糾弾されるべきだが、正義側にいたら罵詈雑言を浴びせてもいいとか、嘲笑ってもいい、嫌がらせをしてもいいというのは違う気がする。人はもっと人に優しく有るべきだ。なんでこんなに人間社会は憎しみと嘲笑で満ち満ちているんだろう。気持ち悪い。もちろん俺もそういったものに参加して、誰かをバカにすることがある。それをやっているうちはちょっと何かに対しての復讐心のようなものが満たされるが、所詮一時的なものでしかない。それを続けていると、段々とその矛先が自分に向くんじゃないかというのが気になっていって、段々と人間不信が強くなり、苦しくなる。そんな醜いことをやっている自分のことも嫌いになっていく。悪循環だ。だが、なかなかやめられない。他人のことを考えていると、自分のことを考えなくて済むから楽なのである。その時だけは苦しみから開放されるのだ。俺はこの自分の癖を、非常に問題だと思っていて、できるだけ早くやめたいが、なかなかやめられない。ゴシップというのは、「何も行動していない」というのが武器になる。なかなかそういった趣味は存在しない。創造的な趣味はだいたい自分が努力していないと駄目だ。創造的な趣味でない場合も、知識が必要になってくる。ゴシップというのは他人から競争することから逃れられる数少ない娯楽なのだ。こんな醜い娯楽はさっさと消えたほうがいいが、社会の構造上消えることはないだろう。そういう人間の醜さも嫌いだ。段々と自分が人間であることが嫌になっていき、自己嫌悪で満たされていく。何にも挑戦する気がない人間は、何も得ることができない。匿名でなにかを書き続けたところで、何も得ることはできないのだ。名前がない投稿は、社会制裁を受ける可能性が低い代わりに、得られるものもない。まさに空気だ。存在する価値がない。人を攻撃したところで、何も得られないのになぜ人は人を攻撃するのか。やっぱり人間の本能なんだろう。争うことで人は社会を構築し、進化させていく。本当に気持ち悪い生き物だ。だが、そうするしか方法が見あたらないのも事実だ。だから人間は滅びたほうがいい。俺が人間を滅ぼす方法を実行できるなら、もうとっくに滅ぼしてるだろう。核爆弾を管理する人間がなぜこういった考えにならずに済んでいるのか、わからない。人間社会はどこまでも空虚で、無価値で、醜いのに。
快楽、喜び、楽しみ、苦しみ、悲しみなど何もかもが過ぎ去っていくなら、すべてのものに価値はない。価値がないから、滅ぼしてしまってもいいだろう。俺はずっと昔からこういう考えで生きてきたが、なかなか同じような考えの人間に遭遇しない。なぜなんだろう。俺も周りにこんなことは言えないが。自分では真に迫っていると思うのだが、どうせ世間から見たら愚かで、頭がおかしいと嘲笑されるだけだ。ニヒリズムと言わておしまいだ。でも、合理的に詰めていったら、そういう結論になると思う。「ニヒリズム」というのがおそらくレッテル張りのために存在するんだと思う。社会にとって良くない考え方は、そうして潰されていくんだと思っている。そういう社会を維持することを結論としていて、それ以外の考えは一切受け付けないという風潮も嫌いだ。結論が先に決まっているから、何を言っても無駄だからだ。とにかく俺はひねくれていて、惨めで馬鹿だから、そういう考え方になるんだろう。こういうことを書いていると、早く死ねと思われるんだろうな。そして死んだら、こういうやつは死んでも仕方ないと片付けられるだろう。結局俺は社会に捨てられた存在だし、社会に貢献する気もない。だいたい社会ってなんなんだ。ただ俺は人間として生まれただけだ。社会の一員になると決めたわけじゃない。だがたしかに社会なしには人が生きていくのは困難だが、社会の重圧に耐えて生きていくのも苦しい。人間は欠陥だらけだ。本当に空虚で惨めだ。社会に属さなくてもどっちみち苦しいんだろう。こういうのを完璧主義というのかもしれない。ひねくれすぎて、自爆しているだけなんだろうな。俺はどのみち満たされることはないんだろう。ただ苦しみながら惨めに死んでいくだけだ。アホくさい。俺は変なところで正義感が強い。他人を馬鹿にしたくない、だからバカにしているやつを許したくない。でも結局それは自分に返ってきて、自分が苦しくなるだけだが。誰かの意思を感じると、それに従いたくないという強い意志が湧いてくる。昔からそうだ。逆張り思考なんだ。だから俺には対して意思がない。自分がない。空虚なのだ。昔からそうだ。他人ありきの考え方しかできない。逆張り思考とはそういうものだ。未だに自分が何をしたいか、どう生きたいのか分からない。ただ嫌なことから逃げているだけだ。俺にはなりたいものもないし、やりたいこともない。空虚な人間なんだ。ただ人の反対をやっているだけで、別に強靭な考えのもと行動しているわけじゃない。だからすぐ自分に自信をなくすし、すぐ途中で諦める。惨めな生き物だな。おれはこのままずっと素直に生きられないんだろうな。何重にもひねくれた思考が俺を苦しめてくる。自分で自分を苦しめているんだ。愚かで馬鹿だが、やめられない。癖になってしまっている。考え方を変えるというのは非常に骨の折れる作業だ。俺はそれを成し遂げられる気がしない。だから俺は一生このままだろう。一生惨めなままなんだろう。このまま醜くなっていくなら、今死にたい。25歳というのは一種の区切りの時だろう。俺はそれまでの時間をダラダラと無駄に生きてしまった。もう取り返しがつかない。早く死にたい。損切りをするなら今だろう。これ以上醜態を晒したところで、惨めなだけだ。愚かなだけだ。やっぱり首を吊って死にたい。自殺といえば首吊りだろう。暗く、おぞましい感じがまさに「自殺」のイメージぴったりだ。飛び降りは少し爽快感がありすぎる。陰湿でジメジメとした感じがほしい。やっぱり首吊りだろう。ただ、首吊りは縄とか、結び方とか、色々面倒なのが玉に瑕だ。飛び降りは高いところから飛び降りるだけだ。これから死ぬというときに、細かいことを考えてられない。やっぱり飛び降りかもしれない。死にたいけど死ぬのが怖い。なんて臆病なんだろう。惨めだ。死にたいのに。この死にたさは本物なのに。外に出ると、空虚で空っぽな感じが加速する。人生に意味がない感じが加速する。誰も俺に興味がなく、みんな俺の命に価値がないと思っているように感じる。透明だ。透明人間だ。限りなく透明に近い存在だ。外に出るのが怖いのは、単純に今の春の空気感が嫌いというのと、それにウキウキしている人間が多い感じがするのが嫌いなのだ。春というのは色々と新しくなる。場所も人間関係も変わる。それがとてつもなく苦痛だ。心が外側に、虚無側に剥がされるような感覚に陥る。昔から、環境が変わるたびに、ひどく精神的ダメージを負っていた。今もだ。俺は環境の変化に敏感で、心が弱い人間なんだろう。生まれつきだから、おそらく治せない。治すとしてもかなり苦労するだろう。この焦燥感に満ち満ちた季節が嫌いだ。非常に気持ち悪い。心が削られていくような感覚に陥って、自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと怖くなる。今の自分でさえ不安定なのに、新しい環境にあてられて、更に今の自分が揺れ動いて、消えていってしまうんじゃないかと不安になる。自分というものがハッキリしてないから、自己紹介もうまくできないし、自己PRもうまくできない。新しい環境というのは、俺にとって強風だ。俺はろうそくに灯された弱々しい炎だ。すぐに消えてしまう。消えてもまた炎はつけ直されるが、前の自分に戻りたいという欲求が強く、再び炎が灯っても苦しみは強く残る。前の自分に戻りたいということばかり考えてしまう。俺はいつも過去に生きているんだろう。惨めで愚かだ。だが、前に進むのが怖い。変わるのが怖い。ずっと変わらないでいたい。変わってしまうくらいなら、死にたい。死にたくて仕方ない。もう取り返しがつかないと考えてばかりだ。いつも過去に戻りたいとばかり考えている。最近とかではなく、昔からそうなんだ。小学生の頃は幼稚園に戻りたいと考えていたし、中学生の頃は小学校に戻りたいと考えていた。高校の頃は中学生に戻りたいと考なえていた。大学生の頃は、高校生の頃が苦しかったから、大学生になれて嬉しかったが、大学が苦しくなってくると、小学生の頃に戻りたくなっていった。今も小学生の頃に戻りたい。いい年こいた大人が、何を言っているんだろう。いつまでも過去のことばかり考えて生きているからこうなったんだろうな。今に生きていない。よく、俺は本当にこの世界に生きているんだろうかと不安になる。なにか自分だけ別の世界に生きているかのような、切り離されたかのような感覚に陥る。俺が俺である証明なんてなにもない。とにかく不安感で満ち満ちているんだ。なんでもないようなことにすぐ不安になる。これはもう治すとかいうものではないんだろう。生まれつきの癖のようなものだ。早く死にたい。「死」という絶対的に動かない、固定されたものになりたい。どのみちこの苦痛からは逃れられないんだ。忘れている期間があったとしても、思い出している期間のほうが圧倒的に長い。これで生きていろとなると、中々の生き地獄だ。早く死にたい。不安は人間にとって大切なものだとかいうのをよく見るが、俺にとって不安は苦痛を与えてくる存在でしかない。不安をほんの少ししか感じない人のほうが人生楽しいのは明らかだ。世間から断絶した生き方をしたい。全く他人の顔を伺わずに生きたい。他人という存在は不安を与えてくるほうが多い。人間社会は比較の連続だ。どこまで行っても比較は止まらない。趣味に没頭しようが、比較からは逃れられない。むしろ、趣味こそ比較で苦しみやすい。何かを作り出すと特に比較の対象になる。それ以外でも人間は比較したがる。婚活なんていうのはその極みだ。結局、比べることが人間の本能なんだろう。比べて、比べて、その先にあるのは苦痛だけだ。だからといって勝負を放棄すると、俺みたいに落ちぶれて、何も残らなくなる。なにも持っていないというのは、安心とは程遠い。何も持っていない人間は、環境の変化にとても弱い。真っ先に切り捨てられるとしたら、そういう人間だ。いてもいなくても変わらないどころか、いないほうが都合がいいので、かんたんに切り捨てられる。ゴミ同然だ。早く死にたい。社会のお荷物だという自覚があるからこそ、早く死にたい。人間社会というものがどうでもいいと思っているはずなのに、やはり他人の目というのが強烈に気になってしまう。俺は本当に自分の意志で生きているんだろうか。結局、「社会人とはこうあるべき」という生き方に囚われている気がする。そんなのは俺が一番嫌いなものなのに。不愉快だ。不本意だ。俺は他人の言われるとおりに生きたくないんだ。かといってこうしたいという意志もない。だからただ無能であることに固執している。無能でいれば、他人からどうこう言われないし、他人とあまり比較されることもなくなる。ただ、社会から見放されたゴミとしての扱いになるが。社会のレールから外れると、なにかに挑戦したり、何かを得ようとするのに非常に苦労するはめになる。なにも得る気がない生き方をし続けないといけなくなる。ただ惨めに、無様に底辺を這いつくばって生きる羽目になる。こんな状態から、まともな人間になろうとすること自体が間違いなんだ。何もかも足りていないから、何もかも努力しないといけない。そもそも努力しても補填できない穴もある。アスペがまさにそれだ。コミュニケーションに問題があるのは発達障害だから、どうしようもない。そのどうしようもない穴が、社会で必要不可欠だからとんでもなく苦痛なのだ。どのみちまともになれないなら、死んだほうが早い。俺は根っこから終わっている。それをどうにか隠そうとしたところで、それが露呈するのは時間の問題だ。結局みんな離れていき、誰も残らない。俺には冗談が通じない。馬鹿だからだ。馬鹿だから、面白い話ができない。馬鹿だから、話してて苦痛になる。生きてるだけで邪魔な存在だ。そこにいられると迷惑になる存在だ。馬鹿だから、なにもかもうまく行かない。馬鹿だから、まともに努力できない。ゴミみたいな人生がこのままずっと続くと考えただけで、非常に嫌になる。クラクラする。結局他人に迷惑を掛けるだけで、邪魔にしかならないし、自分も楽しいと思えない。生きてるだけで迷惑だ。邪魔だ。生きてるとどんどん苦しみが積もっていき、呼吸がどんどん苦しくなる。生きれば生きるほど、逃げ場がなくなっていく。段々希望が見えなくなっていくのがよくわかる。待ち受けているのは深い苦しみだ。将来に希望なんてないし、なりたいものもない。もし仮にこのあと頑張ってまともになったところで、別に何かあるわけでもない。俺みたいな人間が受け入れられるとは到底思えない。そもそも他人とコミュニケーションを取るのが怖い。怖いのを乗り越えたところで、アスペは治らない。どっちみち積んでるのだ。俺が誰かに求められるなんていうのは、結局幻想でしかない。俺はどこに行っても迷惑なだけの存在なのだ。邪魔でうっとおしくて、いるだけで空気が悪くなって、気を使わせてしまう。わかってはいるが、どうすればいいんだ?コミュニケーションというものが俺にはわからない。人間社会がコミュニケーションを重要視する以上、俺みたいなのははじき出されるだけだ。俺みたいな人間は一生孤独に生きていくしかないんだろう。ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無 Permalink | 記事への反応(1) | 03:08
人間を救うのは難しい。ひとり親家庭やホームレスが全員避けられない気の毒な理由でそうなったわけじゃないだろう。
福祉では本人のせいで弱者になったような人間にも手を差し伸べなきゃいけない。人間のダメさ、弱さを認めて、苦労のわりに成果が出なかったり、望むような結果にならない場合も受け入れる必要がある。
子どもの支援も簡単じゃない。どんなに心を尽くしても大人を信じきれず、誰にも心を開かない人もいるだろう。依存症になったり、罪を犯すこともあるだろう。
愛玩動物たちの気の毒な境遇には罪がない。100%人間の罪しかない。だから許せるし愛せる。
愛玩動物たちは生殺与奪の権利を人間に握られている。彼らは裏切らないし、人生を一変させるような実害を及ぼすこともない。だからかけた時間やカネに対する満足度が高い。
※追記
不適切な表現で誤情報を書いていたので削除しました。申し訳ございませんでした。ただ姉はIBDも併発しています。
私の姉はその難病を中学生時代に発症し、主に便秘型と分類される症状ですが、所構わず腹痛を伴いながら不随意にお腹の鳴りや放屁を繰り返す、思春期の学園生活においてまさに不倶戴天の敵と言っても過言ではない、恐るべき病気なのです。
主に、神経質で完璧主義、責任感の強い真面目な方が発症しやすいようですが、実に姉の人物像に合致しますね。
んで、姉はクラスで密かに毒ガス女とかあだ名をつけられて虐められて中2のときに不登校になって引きこもりになっちゃったんだけど、ようやく引きこもりを卒業しようとしているわけですよ。治療薬の進歩と本人の精神的な成長、引きこもりながらも長年磨いてきた技術によって。
デザイン専門学校を卒業して撮影スタジオに就職した私は翌年、ゴミ捨て場で拾ったある成人漫画誌の公募に送った作品の採用通知が届き連載してみないかと打診されるも、その原稿は社会人生活を送りながら合間合間にコツコツと描いていたもの。
両立は不可能だろうし安定した職を捨てて漫画家に転じるのもどうだろうかと思案し家族に相談していたところ、まさかの姉が「私が手伝うからやってみたら」と。
その根拠はどこに、と思って夕食後に色々聞いてみると、B4漫画原稿用紙にびっしりと描かれた緻密な背景と簡易な人物のペン画を百枚近い枚数見せられ、圧倒された。
聞けば買い物を頼まれたときの駄賃やお釣り、たまにもらうお小遣いを使って画材を買い込み、ずっと練習していたと。
病気で遠出すらままならないこのどん底人生を抜け出すには自宅でも出来る作家業になるしかない、と思って必死に練習していたらしい。
ただ、ところどころパースが微妙に狂っていたり、背景にしては線が濃すぎたりと色々気になる箇所があるものの、じゃあ二人でやってみようと。
姉の作品をスキャンして担当編集さんに送ってみたら荒いけどまあOK、とにかく描いてみろとの返事をもらい、最初の作品の制作に取り掛かることになった。
ストーリーの大筋は編集さんが提案したものだったけど、自分と姉の提案で舞台は和風ファンタジーの耽美系姉妹レズ物に決定し、実の姉とこんな内容で打ち合わせするのきっつと思いながらも制作を開始、二十日以内で完成させ入稿すると編集さんからOKです、ストーリーもいいし大胆な黒ベタと筆で描かれた和の風景が調和していてこだわったコンセプトを感じると返事をもらう。褒め上手なのかマジなのかわからないが、良い反応である。
しかし後日、淫魔鉄道69というおねショタ痴漢ものを描こうとしたときはネーム段階で物凄い勢いで激怒された。
その晩は家族全員で祝のパーティーを開いたものだったが、もう一つ気になるのは姉の体調。
決して難病を克服したわけでもなく、その体は長年の不摂生により力士とまではいかないが、それに近いレベルに増量していたのだ。
そこで自分は姉に毎朝ちょっとした運動をしてみないかと提案すると、渋々ながらやってみるとの返事。
それから我々は編集さんの指示で幾度も習作を描きながら、同時に姉の病状改善と減量のための試行錯誤を繰り返し、結果的には毎朝のウォーキングとオートミール中心の食事制限で90オーバーの体重が80近くに、難病も僅かながら改善を見せ、一つの成功体験チャレンジが精神を生む好循環の真っ只中に姉は居た。
そして姉との初めての共同作業から半年後、我々は初めての商業誌デビューを果たし、姉も薬を用いた治療と相まって難病の症状を随分克服し、体重も60台、身長を考えれば平均よりやや上に収まり、ますますの好循環を見せていく。まさに姉ノミクスである。
この頃になると本業のある自分の漫画制作工程は各人物のラフな下描きと一部の台詞回しのみに減少しており、半分以上は姉の作業によって成立していた。
その上達速度は凄まじく、初めは手を綺麗に描くことすらできなかったのに、今では写真や3DCGを元に小慣れた線で様々なモチーフを無難かつ立体的に描くことが出来るようになっていて、更には私の絵柄を真似しペン入れまで出来るほどに上達しており、クリスタ等のデジタルソフトを使いベタやトーン入れまでするレベルに。
ここまで来れば姉一人で作家業を営めるのではないかと打診したことはあるがまだ不安なようで、確かにコマ割りやレイアウト等で若干の未熟さを感じるし今は共同で作業をしている。
が、姉が独立し、一人の作家としてやっていける日は近いだろう。
今日は前に進む決意をした。
休学してからずっと「退学して就職」か「復学」の2択しかないと思ってたけど、小さなことがきっかけで「別の大学の通信課程に入り直す」という選択肢に気づいた。本当にやりたかった事をもう一度目指す、それがこれからの私の道だと思ってる。
そんな小さな決意をしたついでに、入学してから休学するまでの事を書き留めておこうと思う。これは自己満足の備忘録。もしもこの駄文を見る人がいたら、物凄く不愉快にさせてしまうかもしれない。でも許して欲しい、こういう人間が今この世に実在していること、これからやり直そうとしてることを。
常識やマナーに囚われたつまらない子供で、白黒はっきりしていない物事は気持ち悪かったし、嫌いな物はとことん嫌いだった。自分中心に生きていたらいじめられてしまって不登校に。
そこから人間関係が怖くなって、周りの目ばかり気にするようになった。そして地元で最底辺と呼ばれるような高校に入って、友達ができて、恩師と出会った。楽しい高校生活の中で、とある学問を勉強したくなり受験を決意した。
…というのは建前で、本音は親族からの期待の目だった。「真面目だった私子ちゃんなら良い大学に入れる」「大学に入ってこそ」と古い価値観を幼少期から植え付けられていた私には、失望されるのが怖かった。
お正月の親戚の集まりで褒められて、両親に渡される「合格祝い」と書かれた大金。
そして比較される高卒の親戚。「私子ちゃんは大学合格してすごいけど、親戚くんは……」
これで良かったはずなのに、気分が悪かった。
そうして低すぎる自己肯定感を背負って、大学一年生が始まった。完璧主義が悪い方向に働き、「全科目A以上は取れないとダメだ」と自分を追い込み、朝6時に家を出て夜の21時に帰宅する生活だった。見た目に関しても周りから浮かないように必死で、服を毎月買いまくり周りと比較しては死にたくなった。
思えばここら辺から異常だったんだと思う。
私は「学校は小さな世界で、その外には大きな世界が広がっているから、学校の人間関係に囚われる必要は無い」というスタンスで高校生活を過ごしてきた。しかし、大学に入った途端「大学が世界の全て」になってしまった。外の世界が見えなくなった。
1人で授業を受けていることに対して何か言われるのが怖くて、友達を作ろうと必死だった。やっとできた友達は授業中にずっとスマホ、周りの人間もみんなスマホ。当たり前の景色なのに、「なんでここの人達は大学に入ったんだろう?」と疑問に思ってイライラするようになった。
必死に話を合わせて笑って、「高校の頃はこんなじゃなかったのに」「情けない自分になった」なんて何度も思った。真面目にメモを取ってると、「真面目だね〜〜」なんて言われて、浮くかなって不安になって、メモを取るのが怖くなった。高校時代の友人からの遊びの誘いを断るようになり、大学の勉強や浮かないファッションを探すのに必死だった。
がむしゃらに駆け抜けた数ヶ月、前期の終わり前に家族が亡くなり、ショックで2週間ほど外に出られなくなった。ここでS評価が取れないのは確定してしまった。一気にやる気がなくなり、手を抜いてテストを受けた。単位はひとつも落とさなかったけど、Sは2科目しか取れなかった。
そして夏休みに入った直後、はじめてのパニック発作が出る。何か調子が悪いんだろうと思っていたが、その後も大学の事を考えると過呼吸になる。メンタルクリニックを受診したら、パニック障害の診断が下った。
そして休む間もなく後期が始まる。
その頃にはSNSで仲良くなった同じ大学の人たちと関わるようになった。6人くらいで形成された学部混合のグループの中で、愚痴や悩みをツイートして、慰め合う。そんな関係だった。
ずっと居場所がないように感じてた大学にようやく居場所を感じた。
ただ、私があまりにも弱すぎた。
その友人たちに合わせて、授業を飛んだりピ逃げするようになり、見た目も勧められるがままに金髪にして、高校の頃の恩師にドン引きされた。
未成年飲酒なんか大っ嫌いだったのに、みんなと一緒にいる為には……! と何度もお酒を飲んだ。周りに合わせて大量に飲んでは、記憶を飛ばしたり、帰宅後に吐くような日々。
どんなに楽しんでも孤独感と疎外感が強くて、常にみんなについて行くことに必死だった。授業中Twitterが見れないと不安で、ずっとスマホをいじってた。単位を落としそうになったら救済を求め、行こうとしたら発作が出て、もう滅茶苦茶な生活になってた。
大学以前からの友人たちにもドン引きされてたけど、大学で居場所が無くなるよりはマシだと思った。そしてテストにも遅刻しかけて、修得単位は16。終わったと思った。
そのまま冬休みに入って、また飲みに行ったりする日々。どんどん心の調子が悪くなって、薬を増やした。良くならなくて、また流れるように2年前期が始まる。今期こそ真面目にやろう!と思っていた。
しかし、5月頃から、本当に大学に行けなくなってしまった。布団から出られない、外にも出られない。ご飯も食べられなくなり、トイレに行くだけで床を這いつくばって10分。自分でも何が起きたかわからなかった。情けなかった。死にたかったけど、死ぬ気力すらなかった。
絶望的な2ヶ月をすごして夏休みに入り、休学を決意したが、8月半ばに突然元気になった。あまりにもパワーが溢れるもので、大学に行きたくて仕方がなかった。でも夏休みでやってないし……ってことで、ずっとダンベルを握りしめてた。とにかくトレーニング。エアロバイクを漕ぎながらアニメを見る。最高!!!!!元気!!!!!周りが大丈夫なの?とか言ってたけど、全然問題ないと思ってた。やっと素の自分に戻れたと思った。
……で、10月に入り、また死にたくなった。
布団から出られない、ご飯が食べられない。生きてる心地がしない毎日と絶望感、希死念慮。
飛び降りようとしたタイミングでたまたま高校時代の友人が心配して家まで来てくれて、号泣しながら話を聞いてもらったりした。それでも死にたくて、死ぬ手段をずっと考えてた。
「気分転換に飲みに行こう」と言われ、復学後のことも考え何とか準備をして飲みに行った。またいつも通り煽られるまま飲んで、気がついたらその人とラブホテルにいた。訳がわからないまま豪華な天井からぶら下がったシャンデリアを眺めていた、あの光は今でも脳裏に焼き付いている。飲みに行きまくってる癖に男性経験は殆どないようなものだったので、相手が必死に挿入しようとしても入らなかった。あまりの激痛に叫んでしまい、ハッと酔いが覚めて、もう帰ろうと言ってホテルを出た。最悪の気分だった。本当に死んだ方がいい、このまま電車に飛び込もう、と思ったけれど、山手線にはホームドアがついていた。ここが私のどん底だったと思う。本当に最悪だった。
早く病院に行けよ、という話だが、私はメンタルクリニックの定期受診の日を待っていた。予約の電話をするのがめんどくさかったからだ。
そして定期受診当日、なんとか向かうと、担当の先生が見たこともない表情で私の話を聞いてくれて、双極性障害と診断された。
薬を増やして数週間、効いてきたのか調子が良い。躁状態ほど明るくないが、鬱状態ほど暗くはない。
落ち着いてる今だからこそ、自分が何故あそこまで周囲の目を気にしていたのかよくわからない。
自分を曲げてまで周りに合わせることも、本来の大学の目的が見えなくなってしまったことも、何もかも、馬鹿馬鹿しかったなと思う。何より、大学以前の友人は変わらず気にかけてくれて、ずっと仲良くしてくれていたのにそれが見えなくなっていたことが情けない。20歳になってからは、お酒を殆ど飲まなくなった。友達と会う時も、着飾りすぎるのをやめて、自然体で公演を散歩するような過ごし方をしている。これからも、目の前のことに必死になって自分や本来の目的を見失うことがあると思う。でもこんな地獄みたいな経験をしたからこそ、去年〜今までのような事にはならないと思う(思いたい)。
人生は失敗ばかりだけど、失敗から反省することで成長できるとよく聞く。それを信じて、大事なものを見失わずに程よく頑張って生きていきたい。
https://anond.hatelabo.jp/20231130130855
こういう記事読んでも
増田が書いてることが正しいとしても世の中の解釈がもう「何秒か我慢」だけなんだよな。ビジネスとして展開しようとした人らのミスだろう
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もし、このように明らかに6秒以上時間が経ってもまだ「怒り」を出力しているようでは、アンガーマネジメントには失敗してるのである。
何が失敗しているのか、ちょうどこの前読んだ本、佐藤恵子『職場でできるアンガーマネジメント:パワハラ、メンタル不調、離職を防ぐ!』を参照しながら見ていこう。なお、この方法がどの程度アンガーマネジメントとして一般的かは流派によるかもしれない。あくまで一例として捉えてくれ。
認知行動療法をベースにしたアンガーマネジメントにおいては、ある人の抱える問題を「外部環境(相手)」と、「個人の反応」としての「認知」「感情」「身体」「行動」との計5つに細分化し、その中から「認知」と「行動」を変えることによって怒りをコントロールするものである。
6秒ルールとは、あくまで「行動によるコントロール」のひとつで、わかりやすいから広まってるがコントロールの手法はたくさんある。10秒深呼吸する、怒りの表出に時間をおく、考えるのをやめる、力を抜く、怒りの気持ちを口に出したり書いたりする……など。方法の例はもっと沢山あるから各人いろいろ探してみることをおすすめする。
ここで「コントロール」と表現したのには意味がある。まず、「怒り」という感情は必ずしも否定されるものではない。怒りは人間として自然な感情であり、コミュニケーションの機能を果たし、うまく活用すればモチベーションに転化できる。怒りを原動力に行動する、など。怒りを完全否定することは得策ではない。
……と、ここまで読んで勘のいい方は既に気づいてると思うが、ここでの説明は既に「怒り」に対する「認知」を変えようとしているのである。元増田にある「怒りの裏側にある感情を見つけよう」というのも、「怒りの裏側には別の感情があるのでは?」という「怒りの認知を変えるための考え方」のひとつだ。
「○○ってこういうものだ」という自分の考えを一度留保し、「○○ってこういうものだと考えてるけど、別の捉え方もできるんじゃない?」と別の角度から物事を捉えることが重要なのだ。その際特に重要なのは、「自分の考え方の癖」を知ることだ。
同書の中では、怒りを抱く自分自身の思考に以下のような傾向がないかを振り返ることを提唱している(「認知を変える」ことは求めていない。あくまで「認知する」だけ)。
怒りを感じたときにその状況と、思考の癖を整理することで、自分自身の感情を認知する。これは「アンガーログ」という手法だ。アンカーログを取り、自分の考え方の癖を知ることがまず大事。
その上で、その思考の癖を一旦忘れ、「別の考え方もできないか?」と考える(あくまで「考える」だけで、まだ変えなくていい)。いきなり変えようとすると大変なので、あくまで「怒りの背景にある自分の考え」の「別の可能性」を認知することが大事だ。
さて、大事なのはコミュニケーションである。怒りをコントロールしながらも、相手とのコミュニケーションを止めるわけにはいかない。そんなときどうすればいいか。
同書では「アサーティブコミュニケーション」を提唱している。相手に何か要求するときに、「事実」「事実に対する自分の感情」「要求」「相手からの返答に対するレスポンス(の準備)」の4つを用意しよう……というものだ。
大事なのは「自分の感情」という点だ。別に、感情を抑える必要はない。感情的に伝えるからコミュニケーション不全が発生するのであり、感情を伝えることは悪いことではない。
結局、アンガーマネジメントで問題になるのは「伝え方」の問題なのだ。なかでも「怒り」は自他を害する可能性が高いのだから、「怒り」を避けて行動するに超したことがないのである。
冒頭の例に戻ろう。
増田が書いてることが正しいとしても世の中の解釈がもう「何秒か我慢」だけなんだよな。ビジネスとして展開しようとした人らのミスだろう
ここまで説明してきたことを実践し、コミュニケーションを前提にコメントを返すならこうなるだろう。
こんなところである。
読んでみてどう思っただろうか? 茶番に見えるだろうか? アホらしい? なんかむかつく? 長くて読めない? 反応はあなたに任せる。
個人的な話だが、この増田を書いてる中の人間は、同僚に対する態度がかなり悪いということでつるしあげをくらい謝罪に追い込まれた(被害的思考)。半年前の話だ。
正直無能な同僚(過小評価)が悪いと今も思ってる(「すべき」思考)が、それはそれとしてその場で増田が怒りを見せてしまったことは明確な落ち度なので、試しに本を一冊読んでみたわけだ。
そしたらぼんやりとした「コミュニケーションうまくいかねえな……」が、「自分は仕事とはかくあるべきというハードルが高すぎるんだな……」くらいにまでは、自分と周囲に対するギャップを認識できるようになった。
だからといって怒りが消えるわけでもなく、同僚のことも無能だと今も思ってるが、それはそれとして怒りを表出することはなくなった。
感情を率直に伝えることはやってもいい。ただ、「怒り」のかたちを認識して、それを別のかたちに変えることはできる。
怒りはしばしば自他を傷つけるのだから、わざわざ傷つけなくて済むことがあれば傷つけない方法とったほうが、生き方としては無難だろう。
怒りで生きづらくなってる人がいたら、あなたも良い人生のためにアンガーマネジメントを試してみてはいかがだろうか。
タイトルの通り。
文章が書けない。正確には「小説とか随筆とか、なんか良い感じの文章を書きたいけどその能力があまり高くない上に、良いものを書こうというプレッシャーに押しつぶされて文章を書き始めることが出来ない」だ。
子供の頃から本が好きで、いつか自分も美しい文章や物語を書きたいと思っていた。
だが完璧主義というか、傑作を書こうと無闇矢鱈と意気込んでしまい、筆がまったく進まないどころか原稿の前に座ることすら出来ない。
だけど読み返すとあまりにも稚拙だったり、周りからの評価が微妙だったりして、どんどん書くことが苦手になってきた。
書きたい、という気持ちはある。でもつい楽で楽しいことに流れてしまう。
SNSを眺めていると時間は溶けていくし、ソシャゲをぽちぽちするのもまた楽しい。
「書いている自分」に憧れがあるだけで、実は何も書きたいものなんて無いのでは?或いは、周りから創作している人として見られることで承認欲求を満たしたいだけでは?
自分と向き合うのは、自分の本心を見いだすのは難しいことだ。自分自身に対しても見栄を張ってしまう己がいる。
だから、という接続詞が正しいのかわからないが、取り敢えずこの文章みたいに適当に書くことにした。
最初からフルマラソンを完走出来る人はそうそういないのだ。凡人なればなおさらの事、まずはウォーキングから始めようとそういうことだ。
今の説明でいうと設営後、開場してすぐ
「私が苦労したことで他人が幸せになっているのに、他人が(苦労につりあうほど)私を幸せにしてくれない」
と感じたのだそうだ。
天秤の左、「本人の苦労~」の部分は、イベ申し込み、はじめてデジ絵をならって入稿、など。
完璧主義で初めてでも一人でなんとかできてしまっていただけに、苦労が表にみえなくてフォローできなかった。
天秤の右、「他人が私を~」の部分、端的にいって交流がなかった。
本来いるべき同ジャンル参加者がおらず、新刊本の交換などが実質上発生しなかった。
また推しのコスプレさんもいなかった。というか買い子の殺到風景は怖いよたしかに。
さらにいえばやはり最近は警備などのため参加料が高騰している。金銭面でも報われない。
やはり作品を通じて喜んでもらえる質はあるんだということが
(Xの不調にもかかわらず)じわじわと送り主を動かした。
「次に目指すは無配!だがイベントはまだ決めない」と
おっしゃっておられて、ああ~楽しみなんじゃ~。
なんならうちのスペの椅子をいつでも用意します(いきなり合同化居候OK)。
と面と向かっていうとヒかれるので……ここでいっといた
・便秘にはピルクル飲め←最も太ると言われている清涼飲料水を勧める
・ケトジェニックおすすめ←プロのアスリートでもしないような過酷な糖質制限食
・便秘にはきのこを取れ←不溶性食物繊維なのでガスが溜まる可能性高く痔持ちには負担。初手は水溶性食物繊維から勧める。デキストリンとかイヌリン
・キシリトールガムで空腹が紛れるしお腹が緩くなる←またお菓子。効果を出すには丸ごと食わないと意味ないような用量。
・40肩はどうにもならない←筋トレで解決可能。ボディビルダーに肩こりと40肩はいない。
・お尻から踵にかけてのマッサージを忘れず←デブ増田の歩き方による。自転車乗ってるから普通に考えたら太もも前部の方をほぐした方が良い
・ 1週間ではなんの参考にもならない←完璧主義。生きづらさを助長するような認知の歪み
どんな顔してアドバイスしてるんだ?
「歳出予算はその年度に使い切ってください」
「持ち越しは一切してはいけません」
「余りが出たら『別に必要なかった』という証拠として、次の予算審議の材料にさせていただきます」
結果的に年度の後半は『如何に効率的にピッタリ使い切るかを考える』のモードに入ってしまう。*1
財布の中身と相談してギリギリで使い切ろうとするテレビ番組の「◯万円ピッタリお買い物ゲーム」みたいなことを10月~3月にかけてどの省庁もやってる。
そこに向けた準備も考えると純粋な費用対効果だけで考えて伸び伸びと動けるのは4月~6月ぐらいまで。
7月以降は予算が付きすぎた事業では必死に使い切りを模索し、足りてない事業については爪に火を灯すような使い方になる。
「俺たちはこの事業にコレぐらい金がいるんだぜ!だから税金をくれだぜ!」
と言って貰ってきてるので自分たちの管轄であっても事業間でホイホイお金のやり取りをして全体をフラットにするとかは駄目。*2
だから金がない中で必死にやりくりするんだけど、それをしたらしたで「じゃあやっぱ足りてたんですね。最初のドンブリ勘定なんだったんすか?」みたいな事を次の予算調整で言われる。
必要な所に必要な予算を必要な形で配るっていうのを本気でやろうとしてるとは思えないんだよね。
やってる感を出すための資料作りを皆で頑張って、それに対して超絶究極絶対神大蔵省スーパーエリート様がやってる感のある感じで予算をお出しくださってエヘヘヘあっしらのような下賤の下っ端役人如きにお恵みくださってくれるんでげしよげへへへ。
まあ税金でやる以上は先にいくらかかるかキッチリ見積もってからやれってのは事実だとは思うんだが、それにしたってもうちょっと効率的にというか実態に即したやり方は出来ね―もんかなと思う。
なまじっか複雑な分最終的には「お役人様のご機嫌を上手に伺った人の勝ち」って所が強くなってる気がしてならん。
んでまあ世の中なんだかんだ水物だから未来予知しきれなかった部分でボロが出てくる。
無茶苦茶だぜ。
保身しか考えてない結果からくる完璧主義に囚われきった官僚の逆効能の完成形だよ。
結局はセコセコ手を動かして胡麻をするか必死に誤魔化すかしかねーんだわ。
そのくせして表向きは「完璧に我々の予想通りでした」と言い切らないといけないのが狂ってんだよね。
※1 予算をピッタリ使い切る
予算をピッタリ使い切ると言っても完全に財布を0にする使い切りは基本的に不可能。
入札方式を取っているのでどうしてもブレが出るのだ。ブレが出ないように会社と事前に値段を決めてそれを書いてもらうとかは当然NG。なので予定していた契約額±10%ぐらいのブレはそれぞれの契約ごとに発生する。契約したけど役所のガワにお金がないのは絶対にあっちゃいけないので予算は余る側に向けて調整される。
絶対に余るのだけど、余らせすぎると次年度以降に予算を削られてしまうので、予算を使ったという証明のために「最後は文房具でも買って1000円単位ぐらいまで頑張って使い切れよ」と仄めかされたりする。年度末に無駄な仕事してて本当アホ。
実はちょっとしてる。切り分けが曖昧な分野では多めに予算がついた方からお金を出す感じで。
一般家庭でも「知育ゲームはゲーム用お小遣いと勉強用お小遣いのどっちから払うの?」とか「旅行先で飲むお酒は個人のお小遣いから払う?それとも旅行用のプールから払う?」みたいな「どっちの予算からお金を使うか」っていう問題は起きるでしょ?
それと同じ感じである程度都合よくお金を融通しあってから「これはもう完全にこっちの予算で使うべきだったわけで何もおかしくないんすよね~~。まあ結果的にこっちの事業で使う頻度が多くなっちゃってる気はするんですけど、それは結果論みたいな話でしかなくて~~~」みたいな感じで説明して乗り切ってる。
やりすぎると問題になるから『足がつかない範囲で』は意識することになる。
んで下手にやると「じゃあやっぱこの事業はこの予算でイケるってことっすね~~~」で全然足りてない予算が次回以降の実績になったりするので、血の涙を飲んで「金がないせいで何年も事業が遅れてんだよ。どうにかしてくれよ」と言うために裏技を使わないこともある。
これか?知らんかったなあ。
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2017年のドキュメンタリー『AVICII: TRUE STORIES』では、アヴィーチーが身体的・精神的な不調を抱える様子と、そんななかでもライブパフォーマンスを続けるようにマネジメントからプレッシャーを受けていたことが明かされた。
…
遺族による2つ目の声明では「あまりにも完璧主義者であることから、世界中を旅するなかで心の中に平和を見つけることができずに、極度のストレスを抱えていました。(中略)物事の意味、人生、幸せについて考えることと闘っていました。しかしこれ以上続けることはできなかったのです。平和を見つけたかったのです」と、彼の死が自殺だったことを示唆する内容のコメントが綴られた。
Elskavonというミュージシャンの「Origins」っていう今年出たアルバムにはビックリした。
元々、ポストクラシカルの人だったようだけど、近年では一転してアンビエントやエレクトロニカに傾倒し、その結晶のような作品で。
よくある、ポストクラシカルの作曲手法や手触りはそのままに、デジタルのエディットを取り入れました、という感じじゃなくて、ソングライティングから音色の選定、サウンドレイヤーの構築まで見事にアンビエント・エレクトロニカ・チルウェイブあたりの典型的な手触りを感じさせてくれる。
全体的に、リバーヴを抑えた初期エレクトロニカの音響と、アンビエントと融合したチルウェイブの音響が混ざったような、一見矛盾するようだけどリバーヴの空間処理をディレイやトレモロでコントロールすることで制御しきったような完璧主義を感じさせる音。
うちのBさん的後輩がその本を就職前に読んできたって言うからみんな期待してたんよね。
で、仕事させたら優先順位がおかしいタイプの人物で、とにかくやり切るを優先してて実力もないのに適当にするから成果物にミスが多すぎて信頼できなくなった。
そのミスをフォローしたりするのは結局こちらだから注意するけど、すぐ色々言い訳並べて、その状況じゃミスしても仕方ないよねという言葉を引き出そうとする。そういう部分も、自分の言い分や自分は悪くないを常に優先していて相手してると本当にストレスが溜まる。
わからないならわからないと素直に言えばいいのに、自分勝手な解釈と浅い知識でわかってる風を装うし、自己評価も、自分ができていると思えばできているに丸をつけてて、これは本当に客観視できないんだなと思ったよ。
あの本は私も新卒のときに人事部から読むように言われてパラ読みしたけど、真面目で元が完璧主義で物事をきっちり済ませたいと思うタイプには良いと思ったよ。
ただ深く物事を考えたこともない、表面で評価されればそれでいいと思ってる人には、短絡的にこうすりゃ評価が上がるんだみたいな勘違いを生んでしまうから要注意かな。
お金について心配するのは「貧困妄想」といって、うつ病の症状かも?
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うつ病の症状には、不眠やイライラなどを挙げることができますが、妄想をしてしまうことも1つの症状なのです。
こちらでは、うつ病の症状である微小妄想についてご紹介します。微小妄想は以下の3種類に分類することができます。
身体の健康状態に対しての不安感を抱いてしまうことを心気妄想と呼びます。実際は健康でも、命を落としてしまうような重い病気にかかってしまったというような思い込みをしてしまう特徴があります。
完璧主義者と呼ばれる方や自分に厳しい方に見られるのは罪業妄想です。罪業妄想は自分が行ったことが罪であったのではないかと自分を追い詰めてしまいます。症状が重たくなると、自分の存在を否定してしまう・幻覚を見てしまうなどの症状を招く場合があります。
貧困妄想は金銭面で心配をしてしまいます。しっかり収入を得ていても、お給料が少なかったから生活ができないというように必要以上に心配してしまうのです。貧困妄想は周囲から見るとただお金が欲しい方のように見えてしまうこともありますが、うつ病の症状である微小妄想の1つなのです。
手抜きと脱完璧主義は違うぞって話だぞ
何かいいことがあった時、素直に喜べない。
「この後何か悪いことが起きる前兆かもしれない」と未来が怖くなる。
「日頃の行いが悪いからだ…」「あの時ああいう言動をしてしまったから、こうなっちゃったのかな」
また、何か間違いやミスをしたときの後悔が止まらない。ひたすらに自分を責める。
「まあ、いいや」や「次気をつけよう」と即座に切り替えられたらいいんだけど、思ったり口にしてみても表面上だけで、体の中にはまだドロドロの感情がたくさん残ってる。
0.100思考や完璧主義、頑固等、心当たりのある自分の悪い点はたくさんある。
悪い点を見つけるたびに、どんどん自分が嫌いになっていく。無意識に自分を否定する言い訳を探している。関係ないが最近何も楽しくない。
いい意味で楽観的な人になりたい。
ウジウジしたガキを一発殴ってもらうくらいの勢いでお願いします。
多分だけど両方がママでいいんだと思ってるはずだし
そういう世界を望んでいたんだと思う
自分の中で「完全なママでは無いんだよな」って感じてしまったりした時とか
まず子宮を持っていないからとかっていう従来の悩みからの精神的ダメージがある時に
この件はトランスを毛嫌いする層だけじゃなくて
「お腹痛めて産んで初めて母親だろうがその苦労も無しに何がママだ!」
っていう母親としての自尊心をこういう所にしか見いだせない層っていうのも大量にいるから
その辺もまた敵になってきちゃうし
子供が可哀想って言う層もここに多いのは自尊心の確保もあると思う
子がどんな育ち方をしたって多少手を抜いたって親は尊いものだよって気付いて欲しい
「ママだけどママではない」みたいな発想って恐らく完璧主義的な考え方があったのかもしれない
私も完全な女体になんてなれないんだから適合手術なんてしても浮かばれないと思って
トランスだからわかる身体の細かい部分の男女の違いを知っているからこそ
こういう女性もいるっていう付け焼き刃の意見って完璧主義だと「うん…そうだね…」ぐらいの気持ちにしかなれなくて
わかってる、わかってるんだけどそれでも苦しくなってしまうんだよね
余りにも世の中にトランスから見た健常の女性(or男性)という存在が多く居すぎるから
一体どれほどの運の無さだったんだろうってなってしまう
でも仮に子供を産めなくなってしまった人だって女である事に変わりはなくて
音や光に敏感だったり、完璧主義だったり、妻が鬱病に近い傾向があるのは昔から理解していて、「そんなもん俺が幸せにしてやる!ガハハ!」というノリで結婚して早十数年、どれだけ手を尽くしても妻が幸せに見えない。
旅行に行っても、食事に行っても、手を繋いで歩いても、プレゼントをしても、一緒に寝ても、マンションを買っても、その思い出の話をすると「何が嫌だったか」しか言わない。
俺が改善すべきことがあるならいくらでも努力するが、リアルタイムではただ黙って憂鬱そうな顔をするだけで、何が不満かも教えてくれない。
後になって慎重に尋ねると説明してくれることもあるわけだが、「良かったことは何か」は一つも教えてくれない。
ネガティブな空気だけを浴びせられ続けると気が滅入るし、説明もなく嫌な反応だけをされ続け、何が悪かったのかあらゆる可能性を考えるうちに自分の全ての行動が、いや、自分の存在自体が害のように思えてくる。
更年期に入り妻の憂鬱は加速し、こちらのエネルギーは減ってきた。
子供はいないが、人と接するのが苦手で専業主婦を続けてきた妻がすぐに就職できるとも思えず(実際、派遣の仕事をしようとしたことはあるが続かなかった)、離婚したらかなりの金を渡す必要があると思われる。