はてなキーワード: All you need is killとは
どうすればいいと思う?
さっきご飯食いながら妄想してた。俺ご飯食ってる時はテレビも何も見ないで黙々と食う派なんだが、その食ってる最中はよく何かの妄想をしてる。今日の妄想はこれ。
で、今考えてたのは無人操作のドローン兵士を鬼量産して、それを全世界の人たちが操って戦うってこと。
異星人と戦うにあたって人類はまとまる必要がある。紛争だとか利権だとか言ってる場合じゃない。そこは政治家に頑張ってもらうとして。
一般人も軍の遠隔操作センターみたいなとこに通勤して3交代制で戦う。学校とかの教育もしばらくはなし。子供から老人まで全員戦わせる。
対岸の火事ではなく、実際に今起きている人類の危機であることを実感させる。でも、リモートプレイなのに実感なんて湧くわけないからそこは課題だよな。
以前ドローンオブウォーっていう米軍兵士がグローバルホークのパイロットやってるうちにどんどん嫌気が溜まっていく映画みたし、やっぱ現地に行きたい派はいるだろうな。
あっちが記憶維持なんていう神のみわざのようなことをしてくるんだから、それに対抗するには、こっちも擬似的に記憶維持の仕組みを持たないとな。
現代社会でそれをするとしたら、やっぱネットワークと工業製品に頼るしかないんじゃないかなって。
みんなならどう対抗する?
ギャーギャーブコメに文句言うくらいなら、3000タイトルくらい列挙してから評価知名度を分類すれば?元増田の視野は青二才レベルに見える。 / “「ベスト100マンガ」とはわけて取り扱ってほしい殿堂入りマンガ作品まとめ” http://t.co/VtrYaCvW2W— しの(ソフト) (@raf00) 2015, 10月 2
どうもすみませんでした。
みなさんも青二才レベルの私のいうことなんか無視してraf00さんが書いてるこのランキングをお手本にするといいですよ。
おすすめ漫画ベスト100冊をランキング形式で紹介する | @raf00
ナルト
銀魂
寄生獣
福本伸行作品
医龍
BECK
銀の匙
金色のガッシュ!!
聲の形
東京喰流
蟲師
昴
GTO
GANTZ
お〜い!龍馬
RAINBOW
累
いいひと、最終兵器彼女
深夜食堂
ZETMAN
喰う寝るふたり、住むふたり
狂四郎2030
高杉さんちのおべんとう
彼岸島
SIDOOH/士道
はじめての甲子園
LOVE理論
王様の耳はおこのみみ
おおきくふりかぶって
亜人
嘘食い
モテキ
ARIA
ニーチェ先生
ぼくは麻里のなか
PSYREN-サイレン-
日常
甲子園へ行こう
永沢君
王様はロバ
いちご100%
予告犯
TOLOVEるダークネス (トラブルってカタカナでかいてたひとで君は罰ゲーム)
焼きたてジャパン
CLANNAD
Mrフルスイング
RAVE
Orange
俺物語
NANA
手塚治虫作品、横山光輝作品など
松本大洋作品
釣りキチ三平 など
以上のような行為類型を相互に重ねるためには多くの場合、主人公とヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである。
空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活でゲームをする例と、『俺ガイル』における部活でクッキーを作る例を比較してみたい。
結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公とヒロインは相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公はヒロインの姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公の洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。
その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。
あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公とヒロインの関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。
「ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公とヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。
くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。
押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメ『エウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公とヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗な表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。
そしてラノベである「ボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。
いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである。最初の依頼ではヒロインは自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公はヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分をスールにするよう依頼するが、それが主人公へ自分の困難を押し付けることでもあることの認識から、ヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロインが自分の困難を解決した物語の最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋な好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。
同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価は秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語の最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。
また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公とヒロインの遭遇、そして物語の最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロインの台詞で遭遇は始まり、最後は主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まり、ラストは楽しそうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。
『乃木坂春香の秘密』はヒロインの秘密が主人公に漏洩したのち、ヒロインは物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公は最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的な依存関係の存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。
『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロインの自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。
このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公とヒロインの「反転」によっても主人公とヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。
例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しかし物語の最後においては主人公はヒロインに対し、自分はヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。
いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。
ヒロインの好きな人が主人公にバレる、という出来事に対して主人公はヒロインに自分の好きな人を明かす。ヒロインに主人公は故意にボールをぶつけられ、ヒロインに主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロインを主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキーを主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロインは主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。
さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロインは自身の恋路への助力を一方的に主人公へ要求し、主人公の承諾をもって名前で呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロインは主人公の呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公はヒロインに一方的にヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロインを名前で呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公の名前を呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。
対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なからず存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公とヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。
ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。
主人公の個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公が活躍していれば話は自然と盛り上がる
林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』
なるほど。ところで人気アニメや漫画の二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。
二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである。
キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌えが理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。
キャラ萌えに依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにのみ依存したラノベと比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。
才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである。
本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術を言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。
アニメにもなかなかなんない。最近の原作付きSFのアニメ化ってモーパイぐらい?悪くないけどプロパーSFじゃないし。新世界よりは商業的に失敗した。
サイコパスもSF設定からどんどん刑事モノにシフトしていくし、もうSFが説得力を持たない時代なのかねえ。映画としても、逆さまのパテマ、トランセンデンス、インターステラー、ベイマックス、楽園追放とどれもこれも微妙な作品ばっかりだし。あっ、All you need is killはそこそこ良かった。herも最高だった。GotGは最高だったけどSFというかアメコミだ。次の伊藤計劃三部作にもあんまり期待してない。
とにかく一般人へのSFジャンルはすっかり力を失ってて、クズも名作もたくさんあるのに言及すらされない。ラノベは刊行されまくってるしメディアへの露出があって、Fucking SOAは2千万部だっけか売れまくっててアニメも映画も作られまくってるジャンルなんだから、読みもしない素人のお客さんにディスられるのも我慢したらどうだ。あーまったく羨ましいわ。
Re:ゼロから始める異世界生活(通称:リゼロ)というラノベがある。元は小説家になろう連載のウェブ小説なんだけど、内容はざっくりいうと「All You Need Is Kill」のファンタジー版。主人公死に戻り系という同じコンセプト。
作品自体は単に俺の好みから外れてるだけなんで思う所はとくにないんだけど、そのプロモーションは別。「しつこすぎてうざい」の一言に尽きる。
アライブ発のアニメ見てたら「書籍化不可能と言われていた~」と誇大広告CMをひたすら繰り返される。
アライブ買ったらコミカライズも始まってないのにほぼ毎月特典小説が付いてくる。
アライブ買ったらコミカライズも始まってないのに漫画雑誌なのに小説が載ってる。
もう、兎に角しつこい! アライブがMF文庫Jのコミカライズ雑誌というのはわかってるけど限度があるやろ!
ホンマもうええっちゅーねん! 推してるのは分かったから! メディアミックスが0な作品を別メディアでひたすら推すのはうざいだけなんや!
そんなリゼロも先月からついにコミカライズが始まったので今月号のアライブからはしつこいプロモーションから解放されるのではと期待している。
まだ続くようならアライブを購読するのもうやめる。
好きな作品は殆ど半月遅れでComic Walkerで読めるしな。