はてなキーワード: 車輪の再発明とは
線引きどこにするかって問題なんよなぁ
ストーカー被害が出るから恋愛描写禁止しましょう! ってとこまで行く?
教科書検定みたいなの通した教材だけで性教育とかその他諸々教える?
簡単で高威力な爆薬のレシピ公開とかでも、爆薬なかったら違う方法考えるだけだと思うし
探してどうしても殺そうという人もいるし、たまたま身近に材料揃ってたからって行為に及びやすくなる人もいる
誰でもよかった系の無差別のやつで、めっちゃ強い爆弾が使われて、その被害者がそんな情報公開するなよっていうのは納得する人多いと思う
その爆弾の強さをじゃあどこで区切るかって考えたら、爆弾じゃなくてガソリンとか灯油とか包丁のことも考えなきゃいけなくなる
性描写も異常なことを異常だとわからないような描写とかは良くないと思う
まあ異常の線引きでまた揉めるんだけど
あと犯罪系の性癖(自首しときます)が生えてしまって犯罪行為に繋がってくってケースがどれだけあるかだよなぁ
車輪の再発明はどうしても起こるし、報道も無くせってのも無理あるし
(報道では興奮しないから問題にはなりにくいとも思ってるけど。自殺とかもまあ取り扱い方次第で。ただノーリスクにはならない)
結局線を動かし続けないといけないってだけの問題で、社会の状況と自分の意見のすり合わせでこれはセーフ、これはアウト~ってやってくんだから、まとまらないわ
安易に線を言われるがままに動かし続けるとどんどん表現の幅が狭くなってくから出来るだけ自由度は高くしておきたいよねーっていうのと、
線を動かそうとしてる人達が特定分野ジャンルに偏って問題視しがちって思ってしまうから、自由派っぽい考えが強くなっているのもある
まぁ、下っ端プログラマには要らないだろうけど、いわゆるシステムエンジニアとかアーキテクトとか言われるレベルの仕事するには、なるべく知っとかないといけないよね。
オレの場合は、大学はかろうじて理系の一角だったけど、学問的にコンピュータサイエンスを学んだことはなくて、某IT会社でなかば業務上の必要に迫られ、なかば趣味的な興味本位もありで、ちょっとずつ勉強した。
で、もう20年くらい前だし、すでに廃止されてる(と思う)ので、守秘義務違反とかの面倒なことにならなそうだと想定してぶっちゃけると、大手携帯会社のショップで各店舗独自のプロモーション打ったりするためのWebシステムの開発に関わったことがある。
顧客の(および自分とこの)エライ人なんかに、システムの設計の根拠(この方式が最善なのか?もっと安く早くやれる方法はないのか?などなど)を常に問いかけられ、説明説得しなきゃならない。そこでコンピュータサイエンスに基づいて理路整然と話をすると、ちゃんと信頼してもらえるし、納得してカネ払ってもらえるw
そこで使ったのが、以下のような各種理論だ:
などなど... 自分史上最高に残業させられたこの仕事やってた年の年収は、900万円台おしくも1000万には届かなかったねぇw
--追記--
コンピュータサイエンスがらみの思い出でもう一個面白い(とオレが思う)ネタがあるので、ついでに書いとこうw
これは、上で書いた携帯会社のシステムよりだいぶ前のことになるが、とあるグループウェアの開発に関わってたとき、メールをFAXに向けて出力するドライバを書いたことがある。昔のことなのでオープンソースもあんまり普及してないし、タダでお手軽に使えるライブラリが見つからなかったので、「車輪の再発明」っぽいけど自分でハフマン符号化によるデータ圧縮のアルゴリズムを勉強して作ったのだ。
Win32のAPIとか呼び出して、ビットマップにテキストを描画させたとこから、ドットをちまちま数えて、白のドットがいくつ続いてたらこのコード、黒がいくつ続いてたらあのコード...って可変長のビットパターンをつなぎ合わせてファイルに書き出す...みたいな。これが理論通りにうまいこと動作して、FAXから文書が出てきた時はとっても楽しかったw
ウサギはもちろん反芻しないが、どうやら始終口をもぐもぐさせているので、古代のユダヤ人には反芻していると思われていたらしい。ちなみにレビ記の規定では「反芻し、蹄が分かれるもの」が食べて良い動物であり、この規定によると、ウサギは「反芻するが、蹄が分かれていない」ので食べてはならない。イスラム教徒が豚を食べないのは有名だが、豚は反芻しないのでユダヤ人も食べてはいけない。
現在もエホバの証人の家庭ではムチでシバいているらしい。普通のクリスチャンはそんなことはしないが、真に受けてムチでシバいている家庭も中にはあるのだろう。他にもお尻ペンペンをしているという例を(直接ではないが)聞いたことがある(未就学児とかでなくて中学生とかでもである)。
野菜しか食べない人をバカにしてはいけないし、その逆もいけないという教え。当時からヴィーガンみたいなのがいて厄介だったことがうかがえる。菜食主義者であるにしろ、肉をガンガン食べる人にしろ、人間同士でさばきあってはいけないという意味である。欧米でモメている事象って既に聖書で書かれていることが多くて、延々車輪の再発明みたいなことをしていることが分かる。
目を大きく描くことや美的感覚が生理的なものだというのは一つの解釈で
幕末くらいだと西洋の肖像画みたいな目の描き方は「大きすぎ」と捉えられたとか聞いたことがある
コンプレックスどうこうはどうでもいいので最近思いついた自説をメモっておく(車輪の再発明かも知れない)
目に対する生理的な反応としては視線の意識はよく知られているし実感しやすいと思う
好き嫌いは別として視線に対して、目を合わすなり視線を外すなりは動物でもよく行うコミュニケーション。
これを鑑みれば、目を大きく描くというのは眼力・目のベクトルを大きくするということ、
つまり単純に読者などの受け手により強く意識してもらうための表現だと言い切ってもいいのでは。
モブの目・瞳を小さく描き、主要な登場人物の瞳や目は大きく描くこと、
より視線を感じる方をよく見る、より大きい方をよく見る、
M1 pro Macにて。ここ参照:https://github.com/magnusviri/stable-diffusion/tree/apple-silicon-mps-support
git clone https://github.com/magnusviri/stable-diffusion.git
cd stable-diffusion
curl --proto '=https' --tlsv1.2 -sSf https://sh.rustup.rs | sh
conda activate ldm
mkdir -p models/ldm/stable-diffusion-v1/
https://huggingface.co/CompVis/stable-diffusion-v-1-4-original から`sd-v1-4.ckpt`をダウンロードして、
ln ~/Downloads/sd-v1-4.ckpt models/ldm/stable-diffusion-v1/model.ckpt
以下のパッケージを追加した。https://twitter.com/hevohevo/status/1562364961481162754?s=20&t=KxNXNB9fz99fbosZ8TfnvQ を参考に。
conda install onnx
pip install invisible-watermark
それで実行
python scripts/txt2img.py --prompt "a photograph of an astronaut riding a horse" --plms
するとエラーになる。https://qiita.com/hevo2/items/e646148a05118074fecf に従い、下記ファイルの2511行目を書き換え。
vi /opt/homebrew/Caskroom//miniforge/base/envs/ldm/lib/python3.10/site-packages/torch/nn/functional.py
こないださ
私電子レンジ買ったのよ。
わざわざ隣の部署のところまで行って借りるのも面倒だしってわけで、
適当なやつを探していたのよね。
そんで昨年両親がネッツで冷蔵庫買ってくれってあったのことをもいだして、
その初めて使って貯まったネッツショッピングのポイントが無限にあったから、
そしてラッキーなことに!
期限が切れるのがその日だったのよ!
どうしようかな?って買うのを今まで躊躇していたんだけど
ついに買っちゃったわ。
だからトータル無限ポイントプラス登録限定クーポンであわせて1000円ぐらいで電子レンジが買えちゃうラッキーアンドラッキーを
ジョンソン・エンド・ジョンソンって言いたい気持ちのまま買えたのよね。
よく言うじゃない
その冷えたご飯はカロリーゼロって信じていた時代が私にもあったけど
やっぱり温かいものを温かいままで食べると美味しいってことを車輪の再発明の如く再発見したのよね。
そんなわけで、
俵万智さんばりの
俵万智のサラダやで!って言っててもあんまりサラダ記念日の値打ちがよく分かっていない感じの子どもにみごとにスルーかまされたってエピソードが大好きなんだけど。
まあそんな感じで
文明の利器は持っていなかった私は
持っていたのはせいぜい消臭力で
ちょっと私は人類の豊かさな意味では進歩したダーウィンがただやって来ただけで何もしないぐらいの進化を遂げたのよ。
そう言う焼き肉屋さんもあったり、
直でチャッカマンで火を付けるタイプの焼き肉屋さんもあるじゃない。
長いタイプのああいうチャッカマンって誰が考えたのかしら天才!って
ああいうのハーレーダビッドソンって言うの?あれに乗った西川貴教さんのシールが貼ってあって
あ!これだこっちの方だ!って消臭元か消臭力か迷わずに買うことが出来てホッとした安堵のため息なの。
私切れさせたらたいしたもんだ!って
切れてないけど。
切れていたのは消臭剤!
もう朝からキレッキレの感じがいいわね。
電子レンジとチャッカマンと消臭力のミッツ・マングローブさんに限るわ!
これもまた増田で
ブクマが300超えするヤツよ。
タイムマシーン3号の関さんが
西川貴教さんのホットリミッツのコントをしていたときにあのコスチュームを着てやっていたんだけど、
ずっと私忘れないからっ!
うふふ。
朝はしっかり食べておいて今週もてんてこ舞いで忙しい飛び込み前転な季節なので、
しっかり食べ込んでおくわっ!
作り置き助かる
ラスカルにも飲ませたい
水出しルイボスティーウォーラーは今週はこれでずっと行きそうなほど
作ってる暇ないってばさ!
とにかく
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
数学者の岡潔の情緒論をたまたま動画で見たのですが、ところどころ自分と共通する結論に達しているところがあり、なるほどやっぱりなあと頭を何度か頷かせました。
は、やはり情報補完という技術の域をあまり出ない技術だと思いました。岡潔の言う情緒から発生する智よりもそれら技術は抽象度が低いのです。
とは言っても、欧米人が大好きな緻密な論理も、その発展物であるコンピュータも、情緒ないし直感も、相反するようで、内実それら二つの智は地続きで人の頭の中で常に相補相乗して何かしらの筋肉運動へと変換されていますから、これらの捉え方は政治における右翼や左翼といった不毛な論争をするための物差しのようであり、事を知るきっかけみたいなものでもあり、機会と思考の拡張以上でも以下でもない一種の流行的なら認識手法であると割り切って観察すれば何か穏やかな感じがします。
自分は高度な数学どころか高校生くらいの数学も、概念をチラホラと知るくらいで、まともな計算訓練をしたことがないですが、論理をカンストしたと自分で思ったタイミングがあります。論理をカンストするとは、「人間が人間である以上は習熟し得ない、もしくはまったく到達し得ない知の領域までの論理的な到達手法を発見した」というような意味で使っています。もちろん、現実的時間内での到達手法です。もしそうでないなら、無限の時間やエネルギーを想定しさえすれば誰でも簡単に論理をカンストできてしまいます。
その観点から観れば、今この社会の中を生きる多くの大人たちは、車輪の再発明を、時代と共にアップデートされた道具を使って、ちょっと違う色や形や量や時間の使い方でもって何度も再現しているだけのように観えます。これは継承という親から子へ引き継がれていく営みに対する喜びや自己満足の歩みであり、多くの場合その歩みの中に真なる野心などないということがうかがえます。本質的には、一人一人が自分の体と感覚とその時代にある新しい道具を使って先人の追体験をしているだけという場合がほとんどということです。そうした営みに対して尋常ではない対価が与えられるのが欧米人主導で生み出された現代社会です。
しかしこうした継承ないし営みは、ネタは出尽くしているから当然といえば当然であり、例えば元素の数が大きく変わったりしたわけでもなく、物理法則が変わったわけでもなく、人間のもつ感覚器の細胞の数や種類が誤差を超越して変化したわけでもありません。仮にそれらが変化したとしたら多くのこと、もしくは全てゼロからやり直しかもしれません。しかし、今のように先に進まないのであればいっそゼロにすれば良いのではないかとさえ思う時もあります。
中世という名の暗黒の時代を乗り越えた人類は現在、白黒の時代を生きています。この白黒の時代はいつまで続くのでしょうか。
制御を失った先には必ず痛みがあります。我々には身体中のあちこちに痛覚がありますが、この痛覚の上限を超えて与えられた刺激は周辺組織の量的な死と連続して繋がっています。我々は痛覚を頼りにこの死から免れて生き延びてきました。反面、代謝という緩やかな死は快楽でした。
現代社会はますます死の恐怖が増大してきているように思います。欲を与えられ、欲を満たす手段も与えられ、それに付随するように死への恐怖も増大したのです。過剰な欲は、死を過剰に恐ろしく禍々しいものへと変えます。情緒を失った人間とは実に愚かです。
どこか暖かい南の国のビーチでセクシーな水着を着た美女たちに囲まれてパフパフコンテストを開催したいです。一体どの美女が一番パフパフがうまいのでしょうか。
この世界観、設定、気軽さ、これはまさにメタバースです。メタバースなんて言ってますが、元々が人間一人一人の頭の中は小宇宙ですから、メタバース的な世界観の中を我々は生きています。最近だとイスラエルの歴史学者であるハラリさんのサピエンス全史で国家というフィクションへの言及があったようですが、共同幻想論は30年以上も前に日本人が提唱していました。そのルーツは海外かもしれませんが、そんなことは鶏卵問題の彼方でしょう。
いずれにしてもユビキタスをIoTと言ったり、真ん中分け(エロ分けとも言われた)がセンターパートとか言われたり、言葉の額面が時代や状況に合わせて最適化されていきます。不思議なことに呼び方が変わると人が肯定感をもって動き出すという事もあるようで、パフパフ コンテストにも早急に新しい名前が必要です。