はてなキーワード: 織田信長とは
日本人の中には、子どもが生まれるとお宮参りをし、結婚式は教会で挙げ、お葬式はお寺でするということに、何の抵抗も疑問も持たない人々が多くいます。
結局は、神道もキリスト教も仏教も本気で信じてはいないからだともいえますが、では、信仰心そのものがないのかといえば、そうではないようです。
例えば、仏滅の日は割引をする結婚式場があったり、友引の日は休業する葬儀場や火葬場があったりするのは、そういうことを気にする人が決して少数派ではないからです。何かの教理に基づいてはっきりした根拠を持ってそれを避けるというわけではなくても、縁起が悪そうなことはできるだけしたくないという気持ちには根強いものがあるようです。
テレビ番組や雑誌に占いのコーナーが欠かせないのも、先祖や水子のたたりを脅しの手段に使う霊感商法が成り立ってしまうのも、人々の中に目に見えない超自然的な力や霊の世界を漠然と信じる心があるからではないでしょうか。
この漠然とした気持ちがひとたび具体的な信仰の対象を得ると、驚くほどいちずな強さを見せることがあります。例えば戦国期の一向宗の門徒たちは、当時の大名たちが恐れてその顔色をうかがっていた織田信長をも敵に回し、命を賭して戦いました。キリシタンたちも、キリシタン禁制がしかれてからもその信仰を捨てることなく、拷問や死刑によって命を落としていった信者たちが大勢います。
明治から第2次世界大戦が終わる頃にかけては、天皇を現人神とする皇国信仰が日本の宗教になったともいえます。特に敗戦間際には、最後には神風が吹いて日本が勝つと信じたり、天皇のために死んでいくことが最高の名誉とされたりする世論は、まさに宗教そのものでした。
終戦とともに天皇が神の座から降り、日本の経済が発展の一途をたどり始めた1950年代後半になると、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が「3種の神器」と呼ばれるようになりました。これらをそろえれば幸せになれるという日本国民の心情を表したネーミングです。
「宗教に頼るほど弱くない」と言って、真の意味で何にも頼らず、何にも左右されず、ただ自らの努力や才能、目に見える世界がすべてだと思って生きている人は、実は日本の中で(あるいは世界中どこを探しても)少数派なのではないでしょうか。
我々サピエンスの歴史には少なくとも過去数千年にわたる偉人・有名人に関する膨大な情報の蓄積があり、それは人間ひとりの創作力では質・量ともに到底太刀打ちできないレベルのネタの宝庫である。
しかも権利フリーで無料と来れば、この便利なアセットを利用しない手はないな!
おい、本当にそれでいいのか?
アマチュアならともかく、プロのクリエイターが出来合いの無料アセットを未加工で自作品に登場させるか?
「織田信長です」とか「宮本武蔵です」とか「シモヘイヘです」とか名乗るそのキャラクターたち、RPGツクールで作ったゲーム画面が安っぽいのと同じように、情報として安っぽいぞ。
「いや、名前が同じなだけの別人だし……」
たしかに歴史上の実在人物と同じ名を持つそのキャラクターは、名前以外はまるっきり別人だ。
でもそれならなぜ、新しいキャラクターとして新しい名前を与えてあげないのか?
家康の苦労はたくさんあるが、最大のものは奥さんと長男を斬った話だろう。
築山殿が晴れ着を着て待っていた話などは心苦しいエピソードである。
天正7(1579)年。失意の中で自分を責め続けた男(38歳)が一人。というのも、これまでの、そしてこれからの人生の中で、一番辛い出来事が、彼の身に起こったからだ。それは、子と妻を一気に亡くすという悲劇。想像以上の痛手。トラウマさえ残るほどの苦行。これだけでも辛いのに、皮肉にも、その原因を作ったのは自分。自らが「彼らの死」を命じなければならなかった。誰を恨んでいいのか。人生の矛盾に答えなどないと気付く。
当時、織田信長と同盟関係にあった家康は、窮地に立たされていた。原因は、長男・信康(のぶやす)の妻、徳姫の手紙である。徳姫は信長の娘で、家康の正室・築山殿と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。そのせいもあり、徳姫は父・信長に対して、夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると、手紙で訴える。これを受けて信長は即刻、罪状認否を行い、信康の切腹を言い渡す。
徳川家康像
織田信長の決定に、徳川家中での反発は大きかった。しかし、当時の家康はまだまだ力不足。選択肢などなかったのである。一時の感情で動いて信長に敵対するなど、家の存続を考えればできぬこと。已む無く、長男・信康と正室の築山殿を見捨てる決断を下す。
天正7(1579)年8月に築山殿殺害、9月に幽閉されていた信康は切腹。
残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている。「今日は岡崎から夫に会える」と築山殿は極上の晴れ着を身に着けていたのだとか。少しでも綺麗な姿で家康に会いたかったのだろう。報告を受けた家康は、一説には、なんとか築山殿を逃がせなかったのかと、介錯人を責めたとも。地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。
そして、同年。
天正7(1579)年のこと。『神尾氏旧記』と『当院古記』の資料によれば、「阿茶局(あちゃのつぼね)」が徳川家康に側室として召し出されたのが、この年だとか。人生最悪の時期に、家康は阿茶局と出会ったのである。どのような経緯で、家康の目に留まったのかは不明。ただ、彼女が心の琴線に触れたのは確かだろう。ある意味、家康は阿茶局との出会いで、人生を救われたともいえるのだ。
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[2]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[5]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。
吉川 平介(きっかわ へいすけ、生年不詳 - 天正16年12月5日(1589年1月21日))は安土桃山時代の豊臣政権の官僚。豊臣秀長の配下として、紀伊国の統治にあたった。
もとは織田信長の下で伊勢大湊の船奉行を務めていた。羽柴秀吉の紀州攻めの後、羽柴秀長の配下として紀伊湊に入り[1]、七千石を与えられて雑賀に築城した。天正14年(1586年)に北山一揆が勃発すると、秀長に従って出陣し、一揆を鎮圧した。
紀伊湊は紀伊の特産である木材の集散地であり、同地を支配する平介は「山奉行」として材木の管理・調達の任に当たった。当時畿内では方広寺大仏殿の建立などのため、熊野木材の商品価値が高かった。天正16年に秀長の命令で熊野の木材2万余本を伐採して大坂で販売したが、その売買の代金を着服して私腹を肥やしたことが秀吉に報告され、同年12月5日に大和西大寺で処刑され、首は洛中にさらされた。この事件では秀長も部下の監督責任を問われ、「天下の面目を失った」(『多聞院日記』)上に、翌年正月の礼で秀吉への拝謁を許されなかった。
今でいうワイロや着服では切腹、
厳しい世界だったんだなあ
この時期に問屋業者が増え、店自体の売上が均一化し、多くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった所があげられる。それらの欠点は豊臣秀吉時代の末期には露呈した。また、領主と特定の商人が関係を結んで御用商人化し、領主の命令を受けて座に代わって市場の支配権を得る例も見られた。これらは欠点と言うよりは規制緩和としての楽市楽座が不完全であったこと、また楽市楽座が相当な利益を商人にもたらし、制度としてのインセンティブ設計が成熟していなかったことを意味する。
更に近年では中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして、楽市・楽座そのものを過大評価しているとする批判もある。そもそも楽市自体が城下町や領内の主要都市に商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものである。また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治の責任者の地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで商人司など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名の経済政策に沿った方針が浸透していたと言われている。更に織田政権が楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もある。例えば越前国足羽郡で薬屋を営んでいた橘屋は、朝倉氏の滅亡後に織田信長から北ノ庄などで唐物を扱う唐人座と絹織物を扱う軽物座の責任者に任じられて役銭を徴収し、天正4年(1576年)に北ノ庄に楽座令が出された際には先の信長の命令を理由として両座に対する安堵状が出されている。つまり、楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。
もうそろそろ古希になろうとする父親だが、ここ数年でなろう系にすっかりハマってしまった
元々、昔から銀英伝とかグイン・サーガ、アルスラーン戦記とかみたいなファンタジー小説やスペースオペラが好きで読んでいた
アニメもそこそこ見ていて、探偵物とかSFアニメとかを見ていた
還暦を超えたあたりで、職場が変わり暇な時間も増え家でゴロゴロする事が多くなったので、ボケ防止に何となく適当ななろう系アニメをサブスクから勧めた
そしたらすっかりとハマってしまい、映画化が決まると初日に舞台挨拶にまで行く始末
暇な時間が多いからか何周もアニメを視聴し考察をわざわざ話してくる
今ではすっかりなろう系の虜になり、小説家になろうとかのWebサイトを毎日のように漁ってる
久しぶりに帰省すれば実家には書籍化したなろう系の本が山積み……
深く考えなくても読めるし楽でいいと父親は話してたけど
確かに水戸黄門や暴れん坊将軍も好きだったから元々素質あったのかもな
どんな作品を読んでるかを書く(1部なろう系じゃないラノベあり)
親が読んでるの全部知ってる訳じゃないから本人が面白いと会った時に豪語してたやつね
・乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
・月が導く異世界道中
他にも色々上げてたけど、アニメ化してない作品ばかりだから自分知らなくて覚えてない
基本、アニメ化してる奴は全部見てると思う
何故なら、なろう系にハマりだした頃から毎クールのアニメは全部面白くなくても最後まで切らずに見てるらしいから
あんまりゲームとかしないからネトゲRPGの世界観が分からないから没入出来ないらしい
本人がアニメを見た上で映画を見たいと言うので連れていったけど不発だった
何度か本人になろうに投稿したらと言ったけど、自分には文才無いから無理と言ってた
ちょうど父親が来てる為どんなジャンルを読んでるのか聞いてみた
ジャンルの分け方が分からないけど、ほとんどが異世界転移、異世界転生でその中で分けてる
勿論、現地主人公のやつも読んでるらしいが
・主人公最高系
やっぱり主人公が無双するやつは、悪役成敗でスカッとして楽しいらしい
その中でも内政チートは、現実では不可能だから面白いけど、足りない知識で化学とか語られると無理みたい
ペニシリンだ!ぐらいならいいけど、それを掘り下げて知識がないのに専門的な用語を並べるのはちょっとと話してた
なぜなら本人がバリパリの理系の仕事してるから、これ違うよ!ってなるみたい
元の仲間が落ちぶれていくのがらしい
・悪役令嬢もの
ただし、恋愛色が強いのは読まない
叔母(父の妹)の影響で少女漫画(ガラスの仮面とか)は読むのに何故だろう?
・歴史物
ただし、織田信長とか豊臣秀吉は嫌いなので戦国時代に転移とか転生のやつは読まない
1番好きな時代は第二次世界大戦なのでそこら辺の話が好き(確かに紺碧の艦隊も滅茶苦茶読んでたしな)
余談だけど自衛隊ネタも好きなので、ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えりはものすごくハマってる
どうやら、架空戦記も好きみたいだ