はてなキーワード: 法事とは
叔母さんはお寺に払い込まねばならないお墓管理料が納骨されている数に比例して増えるので経済的負担が増えるのはつらいとおもったのでは。
実際ムスコがツルオカにいったあとは三周忌くらいからあとは面倒になってだれも祀らなくなる可能性も考えられる。
ここからは個人的意見だが仏教大変だな。田舎で土地があまっているからってそんな墓ばっかり増やしてないで集約すりゃいいのに。
都市部のお寺は永代供養の納骨堂として鉄骨ビル立ててるけどそのうちまた建て替えるのではないかなあ。
https://www.e-butsuji.jp/butsuji3-1.html
年忌法要は、年回法要ともいい、一般に法事と呼ばれているものです。
亡くなった翌年が一周忌、その翌年の2年後が三回忌です。三回忌からは亡くなった年も含めて数え、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と追善供養の法要を営みます。
世間の多数は生活保護受給者は苦行僧みたいな最低限の衣食住しかない生活をしないとおかしいと思ってるようだが
その分をカットすると不慮の病気、怪我、親族の法事その他による遠出など
予定外の出費(生活保護受給者でなくても皆ありえる)に対応できなくなる
だから受給額はわざと最低限の生活より一定の余裕があるのが当然
そして受給額の枠内で1日3食のうちの1食分を100円で済ますとか
冬場は風呂に入る回数を3日に1回にするとか
その結果、浮いた分の金額を嗜好品に使おうとも全体の受給額は変わらない
正規の受給額以上に余計なお金を使ってると勘違いしてる人いるんじゃない?
べつに生活保護受給者じゃない人でもさ、
たとえば1日平均1000円の食費を月に数日は500円分で済ませて
その代わり月末に鮨屋に行くとかあるだろ
それと同じだと思うんだけどな
(授かり婚や望まなかった妊娠などは除いて)子供を持った理由、または持たなかった理由を教えて欲しい。
反出生主義な面があり、
・いじめや人間関係で「産まれてこなければ良かった」と感じたことがあるから
・自分では”何不自由ない”暮らしをさせてあげられないから(地方住み、一般企業で年収も平均)
その他諸々の理由で将来的にも子供は持つ予定はなく、両親にもその話はしていて、「結婚してもしなくてもいいし、子供も産まなくてもいい」と言われていた。
理解のある親でいいな、と思っていたけれど、先日法事で親族が集まった際に
生後数ヶ月の甥(両親の孫)を前にはしゃぐ姿を見て、「この人たちこんな顔するんだ」「私はこんなに親を喜ばせてあげられない」って罪悪感が産まれてしまった。
でも、「子供が欲しいから」「親を喜ばせてあげたいから」という一方的な理由で子供を産むのはあまりにも自分勝手だと思ってしまって、子供を産まないなら両親に、産んでしまったら子供に罪悪感を抱えて生きていかなきゃいけないのかと思うと逃げ出したくなる。皆どんな気持ちで子供を産もうと思えるんだろう。
深夜に変なスピリチュアルの広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。
乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。
これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレートで大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。
私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。
そこで思うことがあった。宗教・信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分の気持ちに整理をつけることができた。
この記事はそんな私の20年ちょっとの人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。
私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園が教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。
家からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。
朝幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関のマリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。
ああそう、あとメダイもちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会の神父だ。園長って呼んでいたけど)から、新年度になるたびに名札につけてもらっていた。
そんな幼稚園でキリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスはクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラスだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。
卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書の物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。
既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。
当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵のインパクトは強烈だった。
洪水に翻弄されるノアの方舟、モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。
それから数年経って、小学校を卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。
西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。
そこでもう一度聖書のストーリーを絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味は理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。
この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃんと勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。
こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西で仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。
父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるときは仏壇の前に座ることがある。
お盆やお彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派の本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。
だから私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的な日本人の宗教観なのだけど、困ったことに、私はとある宗教の3世にあたる血筋でもある。
名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗。
ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。
この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。
だから、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏の著作が置いてあった。
母自身は学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。
だから3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。
実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。
祖父が亡くなった後、葬儀や四十九日の法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。
違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族と祖母が参加した七回忌の法要だ。
いわゆる法事だから、自分の認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族で食事をする」というものだった。事実父方の祖父の法事はお坊さんを呼んでいる。
まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。
いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。
「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。
どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員が法要の読経をするということを知ったのは、さらにそれから2年ほど経った頃だ。
ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。
母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。
昔はよく祖母の家にお盆や正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事の関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父の葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。
同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由、祖母の家にあった新聞や書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。
祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。
別にこの記事で批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。
「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。
いま色々な宗教の事を学び、宗教が社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉に同意したい。
信仰は自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんなジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。
そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。
母方の祖母と我が家の仲はいい。祖母はいま一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。
けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。
少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。
大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルやエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。
大学の最寄駅前には某証人の人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘がそもそも来たりした。迷惑だから帰れ、と総スルーをかましたが。
去年なんか、右翼のおっさんが一般人に絡んで暴行しかけた事件の証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。
彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。
スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートがTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。
思ってしまうだけで、それを思いっきりネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。
何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。
ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章だから、大した感想も求めていないのだ。
ジョブズや佐藤オオキじゃないけど、数年前から洋服は1種類しか着ていない。元々洋服に全くこだわりがなくて、高校生ぐらいまでは母親の買った洋服を気にせず着ていたんだけど、流石にマズいと言われて大学くらいの時は、彼女や友達と買っていた。
正直、暑く寒くなくて肌触り良ければ何でもいいんだけど、合わせ方が変だとか、色の合わせが変だとか、ズボンがダメになってきてるとか、TPOに合ってないとか色々言われるのが苦痛でしかたなかった。社会人になっても、ネクタイの柄がどうとか、靴がどうとか、上司にまで注意される始末。
30すぎた時にフリーランスになったので、それまでの洋服全部捨てて同じ柄のシャツを20着と同じジーンズを5本。それを年がら年中着回している。あとは冠婚葬祭用に喪服が1着。結婚式だろうが、法事だろうが全部それ。毎日がすごい楽。
一方で食べることは、めちゃくちゃ拘っている。ミシュラン東京に乗ってるようなレストランは大体行ったし(もちろん同じシャツで行くけど、ドレスコードで追い出されたことは今んところない)自分でも良い食材とか買ってきて料理も楽しんでる。食べることが面白くて仕方ないので、毎日毎日夜ご飯を考えるのが楽しくて仕方ない。
かたや、食事を考えることが苦痛でソイレントで生活できることを待ち望んでる人がいるらしい。彼らは栄養摂取に嗜好性を入れるなんて無駄の局地と思っているようだ。正直自分には信じらられないんだけど、洋服選びで言えば同じようなことしているわけで、バカにもできないなあと思ったりしてる。
生活スタイルやこだわりって、人それぞれだから自分の理解を押し付けたり、人のこだわりをバカにするのは良くないよなあと思う。みんな好き勝手にこだわって、同じようなこだわりの仲間とだけつるめば良いと思う。
うちの会社は休みがそれぞれシフトにより固定されているので、どこかの休みの前後に有給を組み込ませて連休に仕立てあげたい。
しかしうちの会社は有給申請に、最低3人の上司にその趣旨とお伺いを立てねばならず、さらに近い現場で働く同僚には休む理由も伝えねばならない(旅行や法事があるので、など)
というかそもそも休むことに対して、批判的な考えを持っている人が多い。あたりまえかもしれないが、私は発達障害を隠して働いているため、週5勤務が心身ともにきついなんて額面通りの理由を告げたのなら、村八分にあいかねない。
今のところ、風呂の工事があるのでと嘘をつき休もうかと考えているが、なんか他に「仕方の無い事情」に聞こえて、あまり言及されないような嘘の理由があれば教えてください。
最初に断っておくと、私ではなくもらうのは母。
持ってきて、というか押し付けて帰る。
いらないものはなるべく突っぱねるようにしてるけど、
冷蔵庫内の整理も大変な量(一人暮らしに大根三本は不要だと思うの!)
を持ってこられると、ふざけんなよ、と思う。
一番嫌なのは、どこの誰が作ったわからない母の知り合い手作りの
漬物など。
怖いんですけど・・・。
泥だらけだとしても。
両手いっぱいの春菊が、泥だらけなの何なん?
一枚ずつ洗ってたら、雑草もいっぱい混じってて、間違いなく
田んぼで収穫したまま袋に入れて持ってきたやつ。
曲がりなりにも人にあげるものが泥だらけのままでいいってどういう神経?
新鮮、って言えばいいと思うなよ。
思っきし葉っぱ黄ばんでんじゃん!
なんか、母に押し付けた人のこと全く知らなくて
実家の寺の門徒らしいことだけはわかるけど(父は住職)、うちの寺って、
なめられてんだろうなー、、、とおもった。
少なくとも先生、とか住職、と呼ばれる立場の人に、こんな泥だらけのもの
渡さないでしょ。
あのクソ住職の本性、門徒も見抜いてんだろうか。外面だけのクズ。
あの腐れ坊主にすり寄ってるんだろうと私は前から思ってたけど、
少なくとも、泥ぐらい払うでしょ。
私が気にしすぎ?
私だったら直接断るのに。
訃報を聞いて最初に浮かんだ言葉は、「先を越されてしまった」だった。
何年目かの法事。喪主の伯母の代わりに挨拶をしたのは、親族の中の代表的な存在の人だった。
その一言を聞いた時、何て残酷なことを言う一族だろうと思った。
遺族の事を考える余裕があったら死ねない。
その思考ができなくなるだけの絶望が、彼女にはあったはずなのに、
何故それを想像することができないのだろう。
その代表の言葉に誰も言及しなかったあの異質な空気が、私の頭の隅に記憶として焼き付いている。
でも、従姉妹の死に「先を越されてしまった」と思ってしまった自分も、
その残酷な一族の血を色濃く継いでしまっていることに、最近気づき始めた。
表面上で良い人を取り繕っているだけで、結局は自分の事ばかりだ。
過去の失敗経験がフラッシュバックするようになってから、そんなことを思うようになった。
しかし、今更性格を直したいと思っても、そんなことがすぐにできる筈もなく、
うちの家族も、私が死んだだけでああして露骨に馬鹿にされるのだろうかとか、
そんなことを考えずに、とっとと死ぬべきだった。
無自覚な害悪としてのうのうと生きていける自信が、今はもうない。
開き直って生きるようになる前に、一思いに死にたい。