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はてなキーワード: 封建制とは

2022-08-19

anond:20220819184020

スペイン田舎だと爵位持ちの貴族カトリックと一緒にガチ封建制を展開してます義務教育はあっても日本労働組合のように教員組織カトリックが絶大な影響を与えてるので無駄です。そもそも教員養成校のほとんどがカトリック系だし。

2022-08-03

anond:20220803000220

中世ジャの民らしい奴隷根性だね。

地球上にお前みたいな人間しかいなかったら世界は未だに封建制から脱してないだろうな

2022-03-31

anond:20220331151019

そら民主主義の普及によって国民軍というものが創設されて戦争大規模化したわけやからな。

封建制なら「さんざん金を貢いできたんだから王と貴族が戦えよ」となるけど

民主主義なら「俺たちの国なんだから俺たち全員で戦おう」となるんや。

そういうもんやで。

2022-02-28

anond:20220228231009

アメリカが強いのは、そもそも絶対王政封建制に対する革命から起きた国だから

議会政治、二党制による相互交代が徹底されているところだろうな

まり専制政治そもそも起きないシステム運営されているのである

2021-09-28

anond:20210928144933

資本主義が成り立たなくなるので封建制くらいまで社会が巻き戻るやで

2021-09-08

anond:20210908181149

中国の武警って言う準軍事組織教官インタビュー

冷静に考えたら武器持った危害を加える気満々の基地外銃火器なしで防衛するのなら

それこそ中世ヨーロッパアジアみたいに甲冑きて弓矢やクロスボウや槍や刀で武装した人間が掻盾並べて射倒すか突いて追い返すくらいしかないというか事実上歴史的に見ても不可能

から法律警察があるんだが、最初から死ぬ刑務所入ることを目的とした無敵の特攻から身を守る方法なんか事実上ない、訓練を受けたプロ軍人でもまず逃げて体制を整えてから反撃するくらいしか方法がない

となると、君子危うきに近寄らずで常に注意の目を光らせ、怪しい奴や危ないところには行かないし見かけたら距離を取る、そもそもそんな人間とは関わらないようにすると言う防衛しかない

そしてそれが積もり積もった結果が恐らく中世封建制のような身分格差社会になってしま

マキャベリがかつて指摘したように、社会歴史をぐるぐる回っているだけなのかもしれない

と言っていた

2021-08-22

サムライが英ソ米全てに勝ったら武家支配日本を認めるしかないよね

アフガニスタンタリバンが返り咲いて、イスラム法部族ルール支配する非民主的男尊女卑的な社会に逆戻りして酷いって話だけど、彼ら(タリバンというより部族社会)が大国支配を全て跳ね返したんだから認めるしかないんじゃない?

Ifの歴史を辿った日本は、21世紀になっても戦国時代江戸時代が続いていて、サムライダイミョーが民衆支配する貧しく抑圧的な社会だったと想像してみて、

しかサムライたちは異常にゲリラ戦に強く、

日本列島を植民地支配しようとした英国も、

赤化しようとしたソ連も、

民主化しようとした米国も追い払ってしまった。

日本が、現代に至るまで身分制封建制社会最貧国の一つで人権侵害日常だとしても、こうなったらもう世界は放っておくしかないよね?

2021-07-29

anond:20210729215132

わいも不勉強で間違ってたらあれだが、

辛亥革命共和制とか議会政治、とかいわれても民衆はわけわからん不安になってたとおもうんだよな

資本家への搾取のおそれもあったとおもうし

そういう要因で封建制に慣れ親しんでた農民層の支持を取り付けたんだろうね

2021-04-11

anond:20210411174925

そもそも資本主義社会自体封建制社会より皆が自由社会の方が金になるって発想で生まれ社会だし。

あらゆる権利は金になるから強化されてきたのだし、金儲けに繋がらない権利は今後も守られないぞ。

2020-11-18

anond:20201118102747

自由には責任が伴うってことじゃね? 中世日本封建制では名主の処理する項目だったのかもね

2020-09-14

anond:20200914122946

その理屈で言うなら、銀英伝場合帝国を古臭い封建制にすることで、古い銀河帝国と新しい自由惑星同盟の対比を作ることに成功してるじゃん

2020-07-10

「『中世』や『封建制』を自分にとって気に入らない価値観ゴミ箱にするな」的なツイートが前少しバズってたけど、日本都市リベラル自分たちにとって都合の悪い価値観存在を「田舎」や「九州」に押し付けてきたんじゃないですか。

東京リベラル自分故郷ボロクソに言われたこと実際あるからね、「野蛮なクソ田舎」って。目の前で。

奴らは近現代日本責任は全て「田舎」に、とりわけ薩長に負わせておけばそれでいいと思っている。

2020-07-05

anond:20200704124559

明治日本の「家」制度を基盤とした社会では、「妾」は必要不可欠だったんだよ。妾がいないと、今の天皇家のようにあっという間に詰む。だから、旧民法下で成長したおっさんが現役だった昭和の間は、日本社会が「表面上は民主主義実体封建制」だったことは周知の事実だったし、そんな社会では女性産む機械以上の存在にはなり得なかった。さらに言えばその時代に、社会全体が「本音と建て前は別でよい」という誤った学習をした様子で、それが未だに社会に影響を与えているというわけだ。

2020-05-10

anond:20200510163645

律令制も維持できなかったくせに何言ってんだか

欧米からの借り物の民主主義は無理だし中国からの借り物の封建制も無理だよ

身の程を知っておとなしくドングリでも拾ってようぜ

2020-03-31

anond:20200331154026

空飛べるなら石の軌道くらい弄れそう

でもそもそも原始時代人間がそんな高度な魔法を使えるのか問題はある

魔法本能的に扱えるものじゃないなら王侯貴族けが技術を独占して封建制がすげえ強くなったりするのかな 

2020-03-03

日本封建制社会主義国なんだから音楽家やら演劇家やらっていう反乱分子予備軍に消えてほしいと政府が思うのは当たり前だと思うんだが

2020-02-16

内藤一成『三条実美』を読んで

内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書2019年2月)読了

面白い三条理解できたことで、この時期の政権本質についても理解が深まった。三条を「有徳の為政者」と位置づけ、最後にそれを「知の政治家」(瀧井一博の伊藤評)とつなげるのは見事だなあ。

封建制社会儒教道徳徳治属人的」→「近代社会議会制原理法治/属制的」。高貴な出自なのに革新志向、清廉無私の人柄、この二つの特徴を持った三条実美という人物が当該期の政権運営には必要だったということだ。

興味深いのは、手腕でなく徳で政府を治める太政官制(あるいはそのような政治文化)とその後に樹立された明治憲法体制比較すれば、前者がより属人的後者がより属制的といえるが、さらにその後の昭和戦前期と比較すれば初期の明治憲法体制属人的要素に頼る所が大きかったことだ。伊藤らの意図は立憲制度確立、つまり天皇閣僚が入れ替わっても立憲政治の根幹が失われないよう制度化することにある。言い換えれば属人から属制への転換を図ることだ。(ちなみに、神棚に祀ることで天皇政治勢力を接近させずまた天皇権力事実上制限したのが、まさに伊藤(井上伊東)の深謀遠慮というものだ。この賢察を思うにつけ、天皇機関説排撃とかバカジャネーノとしか言えん。天皇機関にするのが憲法だろ!)。

しかしそれでも、憲法に明記されない微妙問題、あるいは高度な政治判断が求められる局面になると、個人パーソナリティーや個人間の特別関係ものを言うことが多い。要するに、当面の政敵でも共に維新回天の荒波を潜り抜けてきたという同志的な感覚とそれに基づく信頼・敬意・連帯感があり、最後最後ではその琴線に訴えかけることで複雑な問題の調整が図られているように思える。制度に足りない部分を人情が補っている、草創期ならではの危うい立憲制。

そして明治元勲が皆世を去ってしまうと、憲法は輝かしいけれど文字になり、制度要塞になり、縦割り・現場無視党利党略・悪い意味での官僚的態度等々が前面に出てしまい、それが政権運営不安定さや政党政治機能不全につながった……のではないか日中戦争前後政府官僚・軍・政党を見ていて感じるのは、よく「彼は調整型の人物で…」というが、政治的調整とは調整役が何とかしてくれるということではなく、また調整役とは八方美人意味であるはずがない。

三条近代立憲政治にふさわしいリーダーではないが、ある時期には彼のような調整役が必要で、それは彼が出自人徳という計画的習得できるようなものではない要素を備えていたからで、そういう意味で代えのきかない存在だった(武器として装備しました、ではなく、元々そういう人だ(あるいはそのように見える)という点こそが重要)。その後の政府現代組織於いて三条人物三条のような高い地位を占めるべきかと言われれば疑問だが、組織運営(特に責任者の周囲)に於いて三条的な役割不要成る事は決してない。三条合理的積極的存在意義を見出すという著者の意図は十分成功しているし、その存在意義はそのようなことをも示唆しているのではないか

2020-01-04

anond:20200104030641

封建制の国はあっても封建制は国ではないのでは?

それとも幕府が国なのか藩が国なのかって話?

anond:20200104025355

横だけど封建制は国だと認められないの?

2019-11-12

anond:20191111223536

これはロボットに限らず法律社会制度を考えるときにも意識すべきものだね。

生活保護を受けるような弱者権利否定できるような社会を作ると同じ理屈で平均的な人々の権利富裕層によって否定しうるものになってしまう。

そのような議論は最終的には封建制社会がそうであったように権利があるのは王や君主個人だけというところに行き着くし、ロボットもやはり製作者の思想だけを守るだろう。

2019-10-20

anond:20191020111445

ブタでも野生に戻せばイノシシ化していくのに、人間封建制社会から資本主義社会に移り変わって領主の所有物だったのが自由個人になっても自分で望んで社畜になる。

支配されているというより自分から支配されに行く。

ブタ以下。

2019-10-14

自己責任論者は愚かではない

 ホームレス避難所に入れないという行政選択に対して、行政が正しいと言う主張をする際に「自己責任である」という言い方が目立つ。

 これに対する反論として「自分がそうなったときに助けられたりはしないのか」「怪我をしたり働けなくなったりしたらどうするのか」「障害を負ったりしても自己責任で済ますのか」というような、相互扶助社会福祉的な内容がスターをかき集めている状態だ。

 私個人は、生き延びるだけのスキルが少ないため、自分が助けてもらえる意見には賛成する。

 ただ、率直に言えばそうした主張は現代日本自己責任論者には決して届かないだろう。

 彼らは「そうなったら誰からも助けてもらえない」と確信しているから。

 生活保護受給者批判するのも、自分がそうなったときには「生活保護なんて残っていない」と思っているし、災害になって自分怪我を負ったりしたら見捨てられると確信している。

 それならば助け合えば、という意見は彼らにとって「ご尤も」だが、そもそもこれからの縮小の一途をたどる暗い未来において、助け合いという方法が残ることを(少なくとも双方に利益が少ないものについては)期待していない。

 経済縮小が進み、過去に類を見ない退廃が待っている現代日本においては、囚人のジレンマ無限繰り返し式によって起こるのではなく、自分(余裕があればその家族)がその瞬間に生き残れるかどうかという、一回きりのゲームしかない。

 だから、彼らは他人を助けることによって自分が得られる公共利益がない以上、排除することに抵抗はない。むしろ社会的リソースを奪う相手積極的排除し、自分が得られる数少ない利益を最大化することが求められる。

 ホームレス社会的弱者を見殺しにすることに抵抗は少なく、むしろ排除して税金自分たちに配分されることを必死に求めている。自分たちが生き残るために。

 だからこそ彼らは「そんなこと言ったってお前らも助けないんだろ?」と反論する。

 発言する貴方達が彼らを助けてくれないし、そして自分を助けてくれないことも知っているから。

 自己責任論を唱える人間は、決して愚かなのではなく、これから社会適応している、むしろ時代を先取りしている思考様式であると言えるだろう。

 それが、現代思考様式から見て到底倫理的でないとしても、封建制奴隷制のような過去思考様式倫理的でないと見えるのと同じでしかないようにさえ思う。

 むしろ、これから時代を生きる若者たちは、助け合いを叫ぶ人たちを追い詰めることに、ひとかけらの呵責も覚えないのではないか

2019-10-12

アートに関するよくある勘違い

表現不自由騒動きっかけなのか、最近アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。

とりあえずポリティカルなことや特定展覧会人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違い淡々と正してみる。

文章が読めない人向けに繰り返すが、別に表現不自由展」など特定展覧会作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート芸術」に対する先入観について語っている。


自費でやれ?

基本的に、人間芸術で食っていけないという前提がある。

前史時代から現代に至るまで、金銭作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれ芸術作品芸術はいない。

「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。

パトロン

バッハミケランジェロボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族王族庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品メディチ家庇護のもと、もしくは依頼で作られている。

モーツァルトのようにフリー音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。

現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。

政府

こちらは王政封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。

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政治思想とは一定距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位アーティストを雇い、パブリックアート制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である

因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動バンバン興った。

それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界アート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。

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一方、プロパガンダ芸術で有名なのはソ連ナチスなど。政府意向政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品政府思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。

上述した政治思想とは一定距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。

ただ、これらの政府体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。

あくま個人的見解だが、プロパガンダ芸術はその性質大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。

なお、これらの国では、現代アート前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストアメリカ渡り祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。


政治色をもつ作品芸術ではない ?

上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。

だが「20世紀代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。

現代であれば例えばバンクシーは思いっき政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。

文学音楽映画だって政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。

政治色をもつ作品アートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。


大衆に受け入れられないもの芸術ではない?

しろ現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。

バッハミケランジェロボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族王族むけに作品を作っていた。そもそも一般大衆向けの芸術ではない。

時代大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎ケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術ほとんどは淘汰されている。

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現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキージョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったこだってある。

これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展花形だし、ストラヴィンスキーバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさん美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆感覚はあてにならなくなる。自分感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。

かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ

グリーンバーグ論文

この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドキッチュ」っていう論文が分かりやすい。

この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆感覚芸術作品価値乖離について論じている。要するに、「大衆迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。

80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。


不快作品公序良俗に反する作品芸術ではない?

作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話聖書出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。

実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実女性の裸を描くなんて、淫猥である不道徳まりない!下品メスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。

しかし、どちらの作品も今やマネ代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代芸術からオマージュ対象とされるような絵画として扱われている。

一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象枚挙に遑がない。


写真みたいに写実的に描けている作品は素晴らしい?

簡単にいえば、写真実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。

で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画からこそできる表現」というものが重視されていくようになった。

そして「じゃあ絵画価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート特に後者現代美術への影響は色濃い。

もちろん、写真のようにリアル作品価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアルであるかどうかとは別の土俵表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。


終わり

分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。

文章中でも少し触れたが、アメリカ中国欧州比較すると日本美術市場はかなりちっぽけだ。国内アートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在アメリカ立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。

アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。

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