はてなキーワード: 学問とは
BC3000頃 文明の起こり。人間が集団的な知的活動を始める
BC1000頃 枢軸時代。人間の精神が覚醒され学問の基礎が起こる
AD1000頃 文明と産業の発達、それに伴い世界大戦へと繋がっていく
AD2000頃 世界大戦が人類共通の負の歴史になり、以降は世界大戦が起きなくなる
AD3000頃 資本主義と共産主義が止揚され、優秀でなくても幸せになれる社会が成立する
AD4000頃 技術が進歩した結果、物理法則のハッキングが可能になる。エネルギー保存則などから逸脱してドラえもんの道具が実現するようになる
AD5000頃 願望が即実現される社会になり人間全体の精神性が未発達になる。全ての人間が個々の並行世界で生きることで争いを回避するようになる
AD6000頃 精神世界の解明が進み、人間より高位の存在が確認される。なぜこの世が存在するのか、なぜ生物が存在し進化するのかについての理由が判明する
みくりって元々大卒で就職するつもりだったのに失敗して逃げる為に院に行ってその後も就職できなかった、って設定じゃなかったっけ
つか、教養系の学問を納めるのは富裕層の子女率が高く、そういう富裕層は富裕層同士で結婚する事が多いので、
配偶者に頼らなくても実家の財産だけで食えるような人もいるし。
人は誰しも、その行動原理に"正しさ"を持っていると思います。どのような正しさであれ、少なくともそれは"論理的に"正しいものであると信じている人も多いと思います。論理というのは非常に強力で、確実に正しいと確信し、安心できます。これは学問的な場であればあるほどそれが求められ、それが"普通だ"と思う人も多いと思います。
しかし、社会的な問題についてはどうでしょうか。周りを見渡せば、おかしな主張や理解できないことを言う人が多いと思います。それに対して私達は、絶対に間違っていると論理的に判断しようとします。ここにこの記事でわかってほしいことがありますが、その主張をしている人は、""それが絶対的に、論理的に正しいと信じてやまない""と思っていることです。そしてこれは、立場を逆にすれば私達にも当てはまるということです。
浅はかながら、私の考えは、"生まれてきてしまった以上、幸せに、楽しく過ごす"です。
誰しも考えたことがあると思いますが、人は必ず死にます。これをどのように捉え、人生に意味を見出そうと考えているのかは人の数だけあると思います。終りがあることを悲観的に捉えない人もいることを、私は知っています。
私の考えをさらに言うならば、"宇宙に意味はなく、生きていることにも本質的に意味はないが、この脳は生きることに意味を見出している"です。この考えに従うならば、私はこの悲しい生を産み出すことが理解できません。すなわち、子供を作ることの意味がわからないです。
そんなに深く考えなくとも、"パートナーとこの先の人生を楽しく過ごし、辛いことがあっても、お互いに協力し、生をつないでいく"という考えがあることを、私は最近、寛容的に認めることができています。しかしそれまで、どうして"普通に"子供を作ることが社会的に正しいのか、理解できませんでした。その時の私の思考は、理解できない恐怖で満たされていました。
私の意味する絶望とは、"論理的に不安な要素を認識、排除しきったとしてもなお残る漠然とした恐怖"です。この文は芥川龍之介の遺書に記されているもので、私の意味するものに近いと思います。絶望とは"死に至る病"だと、キルケゴールは述べています。私が彼の意味するところを理解したわけではありませんが、この"死に至る病"はなんら形而上学的な概念ではなく、本当にある現象であると知ってほしいです。
私はこの数年、孤独に暮らしていました。他人との関わりはまったくない、というわけではなかったですが、この行動原理には"社会の中で、俺は一人でも生きていける"という、傲慢な考えがありました。他人の主張は間違っていると確信し、ある主張には意味がわからないと排除していました。
しかし、この考えを続けていると、だんだんと理解できない他人が怖くなっていきます。なぜつまらない問題に対して積極的に行動するのか。なぜ明らかに間違っている主張に気づかないのか。なぜ間違っているのに他人を攻撃するのか。
そのときには気づきませんでしたが、ぼんやりとした不安が背中を這い寄っていたことを今では理解しているつもりです。
不思議なことに、脳の異常なのかわかりませんが、このような環境にいると、寝る前の思考がどんどん加速していき、同じことを何度も何度も何度も考えるようになります。あるときふと、この考えはさっきもしていたじゃないか、と。また、ある行動をしたときに他人に理解されないと、なぜか殺意が湧いてきて、しかしそれは確実に間違っていると理解出来るので、"絶対に人は殺さない"という言葉が頭の中を回っていきます。
狂気とはなにか、に対して一言で言うことはできませんが、少なくとも狂気に陥っている人は"すべての思考は論理的に正しく、自分は冷静で絶対に正しい"と信じていて、そのことが脳内をリフレインしていると思います。
おそらくで適当なことは言えませんが、PTSDや後天的な精神疾患等は、異常なストレス下によって脳内のニューロンの発火に異常が生じることで、何度も同じような思考や、他のことが考えられなくなってしまうのではないでしょうか。
このようなことを踏まえて、昨日起きたこの事件をみると、犯人像が分かるのではないでしょうか。ツイッターでは「無敵の人の犯行」や、"自分とは違う"と信じている人が多いと感じます。
それは違うと、声を大にして言いたいです。
もしあなたが、自分とは関わりのない、違う種類の人間の事件であると思っているならば、考えを改めてほしいです。
『あなたが意味を見出していることが、ある日突然意味がなくなってしまったら?』
これを、夜寝る前に自分に聞いてみてください。もし不安になり、自分なりの答えが見い出せないのなら、それが絶望の始まりです。
白い巨塔新版、「大学病院では患者はモルモット扱いされる」って言葉、入れてきましたね…
モルモットになれるっていうのは、名誉なことだっていうのは分かってほしい。何の価値もない自分が、それまで治療法がわかっていなかった病気の試験的な治療法のサンプルになることで、未来の誰かが助かるかも知れない。
先天性心奇形持って生まれて、日本で数十番目の実験的な根治手術のサンプルになって、根治した自分はそう思って生きてきましたよ?
自分が手術を受けた病院は2001年に心房中隔欠損症の女の子の手術で、医療ミス裁判沙汰になり、自分を執刀した先生も名誉教授剥奪されてしまった。白い巨塔のように、当時だいぶニュースになったよ。先天性心疾患の最先端の研究をやってる大学病院で何が、とね。2001年には、僕の病気は別に大学病院じゃなくても治せるようになってたし、あれで去っていった患者も多いと思う。
それでも、自分は、今でもその大学病院を去ることなく、自分を手術した大学病院に新幹線で通って年一度の精密検査受けてます。なぜかって?
僕は、僕の病気を持って生まれて、根治手術を受けて生きながらえた、この国では初期のサンプルだから。僕の病気は手術しなきゃ幼児で死ぬ、手術でも根治手術でなくて延命のための姑息手術だと30代で死ぬ。僕自身が、手術の何十年後かの影響を知るための貴重なサンプルであることを自覚して生きてきた。僕と同じ病気を持って生まれる人は二千人に一人。
医学に限らず、学問はデータがないと意味がない。大学病院というのは、何十年前でも研究に有用な患者のカルテは保存してくれてるもので、実際、当時のカルテがとってあるのは見ている。
僕が、死ぬまで、毎年あの大学病院に通い精密検査を受け続けて、僕が生まれた時には試験段階だった根治手術の予後が、評価できるようにすること。そして、二千人に一人の確率で毎年生まれてくる、僕と同じ病気の子の治療に少しでも役立つデータをため続けること。それが、モルモットに生まれた者の責務であり、責務を果たすことがモルモットに生まれた者の矜持なのです。
増田とおなじ氷河期世代で、同じグレード感で進学@東京だけど、中・高・大学通して殴られる躾は当たり前だったという話を当然顔で同級生からされたら内心ドン引きしてたと思う。
広島という土地柄なのかもしれないけど、または増田の家がたまたまバイオレンスだっただけじゃない?
いやなことではあるが、かしこい学校に通ってる子たちは賢いだけあって、友達のドン引きエピソードを聞いても顔色を変えたりせずに、うっすら分からないようにその人との距離感を徐々に離して行ったりするんだよなぁ。君子危うきに近寄らず精神というか。
進学校とかいい大学に入る子は結局のところ育ちが良いというか富裕で穏当な家庭に育っているケースが多いし、そうでもなかった子も、賢さから空気を読んで浮かないようにアジャストしてたりするんだよ。中・高からの親友で一人、両親が某宗教団体にのめり込んで色々難儀をしてた子がいたが、中2で仲良くなってそのままずっと親友で、でも親の宗教とか進学問題で疲弊しつくしてることを打ち明けられたのは高2の秋の進路調査票を出す時期だった。打ち明けられるまでは私も他の子も誰も気づかなかった。
感情が暴れすぎててどうしたらいいかわからんしでも人に聞いてもらいたい思いもなくはないからここを活用します。長いしオチもなければ読みづらいと思う。
自分は絵を描くタイプのオタクで所謂絵描き二次創作者の部類なんだけど、数年前からずっと変わらず大好きな神絵師がいる。
その神絵師の描く絵は本当にすごくて…ものすごく感情に訴えかけてくるような絵を描く。そんでめちゃくちゃ技術的な地力も持ってるんだろうなあという絵を描く。
その神絵師に出会った時はもう本当に…なんて的確な解釈で心に刺さる表現してくるんだ!てめちゃめちゃ歓喜した。
ツイッターをすぐフォローしに行ったらなんとフォローが返ってきてその日は死ぬんじゃないかと思った。
神絵師の投稿してくれてる絵は全部見たし、繰り返し見まくった。毎日でも見た。
そのせいで自分でも絵を描くとき神絵師の絵が頭に浮かんじゃうから、正直その神絵師に自分の作風も絶対影響されてると思う。見る人が見たらわかっちゃう。
そう最初はこの神絵師を追いつつ神絵師みたいな神絵描けるようになりたいなあて思いと自ジャンルへの熱で私はかなりの枚数の絵を描いてて、でもだんだん自分の絵の技術が向上してくるのと同時にうっすらと「どうして自分の絵は(神絵師と比べて)評価されないんだろう」て思うようになってしまった。
まあ神絵師はうまいから評価されて当たり前だよね。て理解してたから平気だったんだけど、自分は確実に上手くなってるのにどうして思うような反応がもらえないんだろうとか思ってしまって。
その間も神絵師は神な絵を投稿してくる。その度にしんどいくらい感情を揺さぶられて、今揺さぶられてる感情は、神絵師の絵に感動してるからなのか、それとも自分と比べてしまった劣等感からなのか分からなくなってしまって。
神絵師のことが完全に憎くなってしまう前に距離置こうと思って、その日から神絵師のツイッターをミュートした。
そしたら凄く精神的健康が戻ってきて…めちゃくちゃ心が落ち着いてた。楽しく二次創作できてた。それと同時に逆に自分がすごく嫌な人間になった気がしたけど神絵師のこと嫌いにならないで済むしこれが一番いいんだと思った。
神絵師をミュートしてから結構経ったある日、神絵師がジャンル移動してた。かなりの衝撃だった。
経緯は自分の絵のRT先を見に行ったらRT先のTLで神絵師の絵がRTされてたから。(しかも自分の絵より数倍反応貰ってた)
あんな素晴らしい解釈で素晴らしい絵を描く人だからずっと同じジャンルにいてくれるんだと思ってたけどそら神絵師も人間だもんね。お熱になっちゃったら仕方ないよね。
移動先でも相変わらずすごい絵を描いてた。神絵師はジャンル移動する前も4桁フォロワーだったのだけど、移動後間もないのに新ジャンルでもすぐに4桁フォロワーになっててそういうところでも実力の差とか見せつけられて辛い気持ちになった。流行りジャンルとかあるかもしれないけどこれは完全に実力なのも十分あるんだろうなって思った。
自分もやっと最近投稿した絵が毎回そこそこ反応貰えるようになって、少し自信がついてきてた頃だったからもうベッシャベシャに自尊心が折られた。マジでちょっと体調悪くなった。
これ書いててどうして自分が最終的に神絵師に劣等感ばかり抱いてしまうようになったんだろうと考えたけど…
神絵師は圧倒的な実力があるんだけど筆触がかなり強く残る絵を描くから、筆の運び方とかにどういう工程で描けばこれが描けるとかいうのが何となくわかる絵を描いてる。自分はなまじ美術的学問を少し齧ってる人間なせいもあってそれが分かってしまって、画力を付ければこの神絵師のような絵が描ける!と思い込んでしまった。だから神絵師に近づくために必死で画力向上したけど自分が1つ上に行く間に神絵師は5つも10も上に行くような感じだった。
画力がそこそこ付いても神絵師のようなセンスに富んだ解釈の絵が描けなければ皆には評価されないていうのも痛感した。
それが辛くて自分の実力不足を神絵師のせいにしたかったのかもしれない。
あと神絵師がジャンル移動する前は神絵師と相互フォローの関係だったから、自分は神絵師に認められるくらい実力があるって自惚れてたのかもしれない。(せっかく相互フォローしてたのに自衛のためにミュートしててごめんな神絵師…)
こんな自分にも感想とかくれる人が有り難いことに今はいてくれてて、そういう人たちに目を向けた方がいいのはわかってるのに自分はいつまでも神絵師に劣等感持ってて。
今日もまたRT先でたっくさん評価されてる神絵師の絵に遭遇してしまって辛くなってしまった。
自分は死ぬまでこの劣等感と付き合わなければいけないのか。でも神絵師のことブロックはしたくないし。この感情どうしたらいいんだろう無理すぎつら
中学のとき、期末試験で保健体育の試験があった。今思えば意味不明だが当然のように試験があった。
当時、学年でも1−3位の成績を誇っていた俺は、もちろん保健体育にも抜かりなく試験勉強に取り組んだ。運動音痴のネクラな俺は、試験で点を取るしか保健体育の成績をカバーできない。
俺は一生懸命教科書の内容を確認し、覚えた。何度も問題を繰り返すことで、記憶をしっかり定着させようとした。
しかし、どうしたことだ。保健体育は主要教科ではなく、副教科なので問題集などの教材に乏しい。勉強したくてもその材料がない。
困った俺は、オカンに助けを求めた。教科書の内容を適当に問題にしてもらって、それに答えることで勉強しようとしたのだ。
しかし、いろんな意味で成長の遅かった俺は気がついていなかった。その内容が人と勉強するものではないということに。
そう、試験範囲はちょうど生殖行為に関わる部分だった。ち●こやま●この構造や、赤ちゃんができる仕組みについてだった。
担任はちょっと怒っていた。しかし、池沼の俺は「親に勉強を手伝ってもらうな」といういう意味で怒られているのだと思っていた。
「えへへ」と笑ってやり過ごした。
今日、ふとその場面を思い出して、その真の意味を理解して、とても死にたい気持ちになった。
死ぬ前に、保健体育の試験で一生懸命勉強したとが、一度も実践で試されなかった事が悔やまれる。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 126 | 13466 | 106.9 | 53 |
01 | 70 | 13260 | 189.4 | 63.5 |
02 | 38 | 3582 | 94.3 | 47.5 |
03 | 7 | 1098 | 156.9 | 35 |
04 | 15 | 3114 | 207.6 | 70 |
05 | 20 | 1396 | 69.8 | 34 |
06 | 38 | 3360 | 88.4 | 36 |
07 | 34 | 2142 | 63.0 | 36.5 |
08 | 30 | 6742 | 224.7 | 50.5 |
09 | 58 | 4568 | 78.8 | 36 |
10 | 70 | 6697 | 95.7 | 48.5 |
11 | 71 | 7206 | 101.5 | 48 |
12 | 97 | 20685 | 213.2 | 44 |
13 | 111 | 8367 | 75.4 | 34 |
14 | 135 | 13009 | 96.4 | 37 |
15 | 118 | 9874 | 83.7 | 33 |
16 | 108 | 10557 | 97.8 | 44 |
17 | 107 | 16416 | 153.4 | 55 |
18 | 138 | 14363 | 104.1 | 35 |
19 | 75 | 12169 | 162.3 | 46 |
20 | 79 | 12700 | 160.8 | 44 |
21 | 111 | 14247 | 128.4 | 40 |
22 | 135 | 14801 | 109.6 | 43 |
23 | 88 | 13845 | 157.3 | 35 |
1日 | 1879 | 227664 | 121.2 | 42 |
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6250700(3142)
「文系の学問における注と参考文献の話、補遺」(anond:20190511125053)への反応見ていて、ブコメだけじゃなくtwitterでも「author-date方式でいいじゃん」という声がたくさんあり、やっぱり伝わりにくいものなんだなぁと思いました。
author-date方式、私もそれで論文書いたことあります。とても便利なやり方です。引用するのが学術論文や書籍だけなら。
ところで、次のような文献はどうやってauthor-date方式で引用すべきでしょうか(手持ちの英語文献から引っ張ってきた例です)。
RGASPI, f.89, op.8, d.1016, l.1.
最初のアルファベット数文字は公文書館の略号、それに続いているのは公文書館に所蔵されている史料(つまり公文書)の整理番号です。
もういっこ例を挙げておくと、日本の公的なデジタルアーカイブであるアジア歴史資料センターが推奨している史料の引用方式はこのようなものです。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02030938800(第58画像目から)、共産党宣伝関係雑件/対日宣伝関係 第三巻(A.3.4)(外務省外交史料館)
(https://www.jacar.archives.go.jp/aj/www/doc/before_browse.html)
公文書館って、こういう史料がたくさんあるわけですよ。これをどうやってauthor-dateで引用しろと。
また、無記名の新聞記事を大量に引用するような場合、どうすればいいでしょうか。たとえば、1919年における『ホゲホゲタイムズ』の紙面からホゲホゲ国のナショナリズムを読み解く、みたいな研究は普通にあるわけですが、いちいち引用文献リストに
『ホゲホゲタイムズ』は、新年を祝う記事において、「あけおめことよろ!」(Anonymous 1919a)と書いた。翌日の記事では、「謹賀新年!」(Anonymous 1919b)と述べた。……26日の記事では、「昨年は世話になったな!」(Anonymous 1919z)と主張した。さて、27日の記事では……あっ、もうアルファベットがない!
引用文献一覧
Anonymous. 1919a. “Column.” Hogehoge Times, 1st January, p.1.
Anonymous. 1919b. “Column.” Hogehoge Times, 2nd January, p.1.
Anonymous. 1919z. “Column.” Hogehoge Times, 26th January, p.1.
って書くんですか? めんどくさくねえ? それだったら普通に、
『ホゲホゲタイムズ』は、新年を祝う記事において、「あけおめことよろ!」(注1)と書いた。翌日の記事では、「謹賀新年!」(注2)と述べた。……26日の記事では、「昨年は世話になったな!」(注3)と主張した。さて、27日の記事では「今年もよろしく!」(注4)と宣言されているが、これはどういう意味だろうか。
注
注1 “Column,” Hogehoge Times, 1st January 1919, p.1.
注2 “Column,” Hogehoge Times, 2nd January 1919, p.1.
もちろん、工夫すれば上で挙げたような文献もauthor-date方式で引用できます。できるんですが、簡便で伝統的な書き方があるのにわざわざ不向きなauthor-date方式を使わなきゃいけない理由がわからない。
なのでまあ、何が言いたいかというと、
……という感じですかね。author-date方式は便利だから先行研究の整理とかするときには愛用してるけど上で挙げたようなやつまでauthor-dateで書けとか言われたら「ああん?」ってなります。
author-date方式って大嫌い。(シェイクスピア2019)とか(アリストテレス2018)みたいな意味不明の注ができるし、ページ数が書いてなかったりするし、あと私は年号がない文献も使うから。
さえぼー先生からこういうブコメいただけてもうなんか満足です。書いてよかった。あ、『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』むっちゃ面白かったです。
で、私はauthor-date方式はどちらかといえば好きなんですが、さえぼー先生が「大嫌い」とおっしゃるのもわかります。
好きじゃないなら単に使わなければいいのに何で「大嫌い」って思うかといえば、頓珍漢な推測だったら申し訳ないんですけど、「author-dateを使うべきだ! author-dateじゃないとおかしい!」って押し付けてくる他分野の人がウザいというのが理由として大きいと思うんですよね。
私もとある機会に全部author-dateで書け、注で出典表示するのはいっさい認められん、と言われて、ふざけんなこんなのどうやってauthor-dateで引用するんだよと食って掛かったことがあります。もうほんとね、他分野の人がどんな資料を引用してるのかについて想像力を持ってほしいですわ。
というか人文系の人が理系や社会科学系の人がauthor-date方式使ってるのに文句を言っている場面はまず見ないのに対して、人文系の引用方式に文句をつける理系や社会科学系の人をそれなりに見かけるのはいったい何なの? って思います(あ、でも、『史学雑誌』の書評でauthor-dateに文句つけられてるのは見たことあるかも)。このへんの憤懣があるんですよね。