はてなキーワード: 頭脳とは
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別によって殺されたようなもの。
アカデミー賞で白人俳優がアジア人俳優に失礼な態度とった話題あるやん
あーそうなんやーとか、
そんな感想で閉じたんだけどさ
「ああいう見えないみたいな扱いよくある!」
「私もされた!」
「これは大問題!」
みたいに
なんか話の結びとして変なこと言いだしてる奴が多いのよな
みたいな
いやそれはちげーんじゃねーの?っていうね
そもそも俺らは在外日本人アカウントがうっすら嫌いなんだよな基本的に
アイデンティティや国籍を移民先の国に移したのにそっちの言葉を頑張らず
その後何年たっても日本語メインで発信してる奴はその時点でろくでもねーわけだが、
そういうのの中でも目立つ奴等がだいたい日本や日本人への態度悪いじゃん
「しつけーしうるせーよ」とか
「日本を見限ったようなこと言いつつ何故延々日本語書いとんねん」とか
なのにこんなときだけ
「この国で私達は差別されているの!」「日本からも声を上げて!」
って、お前どういうつもりなの?っていう
お前は困った時に助けてもらえるほど誰かに好かれてるつもりだったの?みたいな
「いや日本より遥かに進んだハッピーな国におすまいの筈でしょ?」
くらいのことしか思えないよね
それは嫌な国ですねえってだけの話だからいちいち心配はしないやん(日本に来て日本人差別してたら殺すけどさ)
もしくは移住した日本人たちの努力不足闘争不足ってことでしょ?
なんでそんな話までイシューとして日本に投げて寄越されなきゃあかんの?
それぐらいどう考えてもお前等の問題、お前等が頑張ってねで終わりっしょ
お前がアメリカ人(orアメリカ居住者)としてアメリカを良く(貢献)するんだよ!
って話じゃん
「私の住んでる国と比べて日本は差別的だ後進だ」ってマウントされて、
「私の住んでる国でアジア人差別があるぞ日本は身の程を知れジャップ努力が足りない」ってマウントされて、
要するに在外日本人アカウントの話って全部が不快だし全部がてめえ勝手だから
もうおめーらの話なんか聞きたくねーよって感じなんだよな
こういうことがあった時だけ「いじめられたの!これは私たちみんなの問題だよね!?」って泣きついてくるのなんなん?
おめーらはおめーらの選んだ国でおめーらの人生頑張れよっていう
おめーらの選んだ国に問題あるなら改善するのがおめーらのその国への貢献だよっていう
そういう素朴な感想を抑えがたいんだよね
その国の良いとこは我がことみたいに使って日本にマウント掛けてくるくせに
その国の悪いとこは自分で改善の労を取らずに日本に助け求めるってなに?
「佐賀がバカにされてるよ!これはみんなの問題!」って地元に泣きつく感じ
その東京もんは佐賀もバカにしてるかもしれないが、まず舐められてるのはおめーだろ
てめーで戦えよっつーか
見下しながら甘えんなっつーか
おれは、知的障害病の患者だ。高2の時に発症し、 それから今まで約20年間、ずっと苦しみ続けてきた。
知的障害病の主な症状は、その名のとおり、知能の低下だ。 またそれに付随して、精神状態の悪化、健康の悪化も引き起こす。 恐ろしい病気だ。 真の病名や治療法については、いつか話すことがあるかも知れないが、 約束は出来ない。
知能の低下についていうと、 まずIQを推定で50ほど下げる。 主に障害される能力は、ワーキングメモリーと単純記憶であり、 これは受験的な能力に直結する。 これがおれが大学受験と競技プログラミングで失敗した理由だ。 もちろん、精神と健康の悪化による影響も大きかった。
この病気になった時点で、東大受験は諦めざるを得なかった。 記憶力と計算力がなくなったからだ。 今思うと、 中学から好きでやってた英語は強かったので そこまで悲観することもなかったかも知れないが、 国語で明らかに不利になることを考えると、 断念せざるを得なかった。
おれにはもともと膨大なワーキングメモリがある。 最近では、これが算数のトレーニング法として認知されているようだが、 おれが中学受験の時にやっていたのは、問題を頭の中で解く遊びだ。 なぜこんなことをしていたかというと、囲碁や将棋では頭の中で考えるのに、 算数だけは紙に書いて考えるというのでは、 考えるの意味が矛盾すると考えていたからだ。 最後まで解法を読み切り、それから答案に着手する。 自分でどう考えたかもわからないほどに 一瞬で読み切った時には脳の中に電撃が走るような感覚があり、これが快感であったことを覚えている。
この状況で、 とにかく出来るだけ勉強せずに行ける大学といえば、 東工大か、あるいは京大くらいしかなかった。 それより下の大学に行くくらいならば、死んだ方がましだという考えだった。 韓国にはSKY or dieという考えがあるらしいが、 これを日本に言い換えると東京一工 or dieとなるだろう。 そういえば最近、アジアンドキュメンタリーというところが出してる 「SKYに届け!韓国受験戦争」という映画を見たが、かなり面白かった。 行ったことはないが、韓国は面白い国だと聞く。
ところで、人はなぜ、自身の不幸を感じるのだろう? 残念ながら、知的障害病のおれよりも頭が悪い人間は死ぬほどたくさんいるのだが、 なぜ、彼らは幸せそうなのだろうか? 思うに、人は自身の望まぬ人生を生きなければならないと感じた時、不幸になる。 彼らは生まれてからずっと馬鹿なので、今が馬鹿であっても不幸にならない。 一方でおれは、天才だったものが病気によって馬鹿になったので、不幸になる。 こういう理屈だろう。 この意味で、病気は確実に人を不幸にする。
絶望の中、人生を呪い、親を恨み、何度死のうと思ったことか。 しかし、将来的に治療法が見つかることを信じて、なんとか耐えてきた。 容姿が良い方のため、女性関係を持つこともいくらかはあった。 これには精神的に支えられたと思う。 女にはどうやら、男を支える効果がある。 逆も真なのだろうか。 うまく出来たものだ。
まぁなんとか命からがら京大に入ることは出来て、 その頃には、あるいは京都の気候が少し合ってたのかも知れないが、 多少は自身の病をコントロールする術を覚えた。
わかったことは、どうやらこの病には波があり、良い時もあれば悪い時もある。 自身のスケジュールを柔軟に管理し、 調子が良い時に集中して成果を出せば、 平均的には人並みにすることは出来る。 こういう考えで、今まで生きてきた。 独身や仕事のスタイル含め、おれが完全な自由を好むのは、 そもそもおれが麻布京大スーパーフリーダムガンダムであることも関係するが、 そうでないと自身の生活が破綻してしまうからというのも大きい。
こうした自分の考えもあり、 また相手側の考えもあっただろう。 結婚を逃してきた。
おれは、おれの人生をめちゃくちゃにしたこの病を治す必要がある。 もちろん、外科的手術には何度もトライした。 しかし、すべて失敗した。
明日、おれは最後の戦いに望む。 これで最後にしたいという思いがある。
自信はある。 医学のタイムスパンの中では 比較的新しめの理論に基づく手術であり、 2010年頃から臨床研究報告がいくつか出されているが、 これらのうちめぼしいものは大体目を通し、理屈に関しては大体理解した。 おそらく、ベクトルとしては正しいだろう。
外科手術というのは本当に恐ろしいものだ。 今回は相当な侵襲ダメージが見込まれ、動けない時期がしばらく続くはずだ。 筋トレなども、いつ再開出来るか見込みすら立たない。 手術自体も、事故は常に起こりうる。 静脈穿刺で神経を傷つけて手が麻痺したという事例もあったようだ。 また、全身麻酔中に死ぬこともある。 途中覚醒というのも起こり得る。 もちろん、手技自体にミスがあって後遺症が残ることもある。 ノーリスクの手術はあり得ない。 ブラックジャックですら、手術は賭けだと言っているのだ。
怖いが、やるしかない。やるか、死ぬか。 マックスか、死か。 この考えを持つことが重要だ。
手術は成功する。 おれは知的障害病を克服する。 そしたらやってみたいことがたくさんある。 自身の抑圧されていた頭脳を解放してチャレンジしたいこともある。
もちろん、結婚もしてみたい。 出来るだろうか。 とりあえず、今夜は子供の名前を考えながら 明日に備えてぐっすり眠ろうと思う。
ここのところSNSを騒がせているランドセルおじ、発端の投稿から経緯を追いかける中で、私も嫌悪感を抱いた1人だった。
今も嫌悪感はあるし、もし過去ツイにある娘さんへの身体接触が本当なら、一刻も早く娘さんたちへのケアを行い、父親から離すべきだと思う。明らかな性的グルーミングだからだ。
今回のランドセルおじ...いや、可愛く言うような対象でもないので、見た目は中肉中背おじさん、頭脳はおむつにウンコがついた小学生、略してランドセル変態ジジイと呼ぶことにする。
改めて今回のランドセル案件は、過去ツイのキモさがガソリンになって余計に炎上しているが、対人援助を職業にしている経験上、子どもが嫌う父親の特性の1つは、自分と子どものパーソナリティの境界線が曖昧であることが多いように感じる。
人格のある個人として子どもに敬意を払っているなら、たぶん本人に無許可で彼女の所有物に触れたりしない。あなたは、あなたが尊敬する人物の胸元を急に触るのか?あっ、触る?そうか...。ならランドセルも背負うわな。邪悪な人間というのは存在するのだ。でもやめたほうがいいよ。
ジジイの「好きな子にいたずらするのと同じ」という発信が表しているのは、
・そのために相手が嫌がることをしよう
という強烈で治らない認知の歪みが、あのくらいの年齢になっても矯正されず残っているおぞましさだ。
一昔前に言われていた「娘に嫌われる父親」のなかには、きっと、娘を自分の所有物かのように見下したり、コントロールしたり、ちょっかいを出したりして、嫌われるべくして嫌われた人もいたんだろう。えっ、違う?加齢臭くさいって言われた?それ、私が父親に言ったことですね...はい...すいません。
相手が嫌がることはしないというサルでも分かる道徳心が、親子関係になると途端に剥がれて無くなるのはなぜだろう(ブーメラン)。
母親が、息子が一生懸命集めたミニ四駆とガンプラをゴミとして捨てることも、父親が、おしゃれに気を遣う娘にケバいだ似合わないだと一蹴することも、子を尊重していたら起こらないはずの悲劇だ。
きっと昭和や平成という時代では、父親が娘のランドセルを背負っても「変な父親だな...」だけで終わって、こんな大火事にはならなかったに違いない。
令和という時代に変わり、グルーミングだとか、ジェンダーだとか、親と子は他人だとか、そういう解像度が上がったことで、ランドセル変態ジジイの不気味さや気持ち悪さ、どれほど時代遅れなのかが可視化されたように思う。
きっとこれからも、ちょっとしたことをきっかけに様々な「過去の遺物」が掘り出され、あぶり出され、文化的価値観は流動していくのだろうな。