はてなキーワード: 障碍者とは
「精神障害者」は「障害者基本法」で、「精神障害があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相
「障害」や「疾病」ってのは社会とのかかわりの中で定義されるものだよ。
こんなもんでいい?条文自体はググれるよね?
んで、すごい曲解してるよね。誰が鬱病の定義に犯罪を入れたの?境界知能の人?
あなたには人格障害のように見えてたとしても(あんたの判定なんか信用する人間はいねーだろうが)
その人間が社会生活上不都合が無いなら、それは精神障害とは認定されないの。
「犯罪行為」を条件に入れたのは、人格障害の人間の異常行動をどこで
行政が「異常」と「正常」の区分を引くかって点から。人格障害の人間は病識が無いことが多いので
こういう定義になる。精神病というのは制度上定義の問題だってことは理解出来てるよね?
あんたには障碍者に見えても「継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受け」て
完全に出遅れたIQ130だけど、自分が大学生だとしたら普通の人と知的障碍者の違いは中学生と幼稚園児くらいの違いといえばわかりやすいんじゃないかな
どっちもその時点で見えている世界の次元でしか正しさを理解できていないという点において
こちらとしては対応を変えるだけなので、どちらが優れているとかよりもどんな方法が相手に効果的かしか考えないし、見えないない次元の正しさを理解させることができないという点においては言うとおり同じだと思います
環境に依存せざるを得ない存在は結局その中で幸福感を突き詰めることしかできないというのはIQがどのレベルにいたとしても同じなので、IQの高低=幸福度とは無関係なのでしょうけど、競合が多い層の人は比較される対象が多すぎてツライだろうなぁとは思います
1位 モンちゃん
『ザワールドイズマイン』の主人公。 原始人みたいな動きと考え方で、大量殺人や大量爆破、警察署乗っ取り等等やらかす。
2位 タッソオ
モテまくり、才能認められまくりなのに、猜疑心から冷静さを失い問題行動を起こしまくり、どう考えても損なんだけど破滅に向かって突き進む。
現実が信じられなくなってくるっていく様子が非常に分かるし、また行動の破滅っぷりもカタルシスが素晴らしい。そして本人にはまったく悪気が無いところも評価が高い。
3位 バキ
イケメンっぽい雰囲気だけどイケメンではない。一本筋が通ってる生き方のようで理屈がことごとくずれてる。
最初のころはこの漫画に影響されて炭酸抜きコーラを飲んだりしたんだけど、主人公がだんだん頭おかしくなって、カマキリ出たあたりでどうしたんだろ、、、と心配になったのもいい思い出。
4位 黒須太一
障碍者に優しいのは、障碍者の気持ちがわかるから。というような雰囲気だけど、じっさいは周りに合わせられる自分を作ることで人間性を取り戻そうとする。という異常性が面白い。
やさしいようでいて、まったく優しくないという人間の業レベルでの深い人間性と教養を感じる語り口が素晴らしい。
同ゲームの支倉曜子も素晴らしいってか、このゲームは全部キャラ素晴らしかった。
5位 エディーブラボー
実在の人物なのでキャラではないかもしれないが。格闘技の寝技における革命を起こした。
柔術をやったことが無い人に魅力を伝えるのは難しいが、「コブラツイストを実践レベルにまで仕上げた」「レスリングと柔術を巧くミックスした」等等数え上げればキリがないが、どうしてそんなこと思いついたんだ?という長大かつオリジナリティ満載のワザ体系がすばらしい。しかも、完全に基本的な柔術とはズレタワザ体系であるために身に着けるのが結構難しいし、体の柔らかさが求められる。
人間の意識に反した体の動きをする技術体系なため、見ていてひきこまれる。 どうやったらこんなことを思いつくのか非常に不思議でそこに魅力を感じる。
杖を使っていても座らせてくれるとは限らない。
ずっと前に、足の捻挫で松葉杖を使って優先席付近に立っていたのに、ほとんどの人が寝ていた。
唯一起きていた斜め横の高校生と目があったけれど、彼はじーーーっと見続ける(譲るか躊躇するような目ではなく観察の目つき)だけで、席を譲らなかった。
揺れる電車で手すりと片足と杖だけで立ってると手が真っ赤になり、痛くて我慢できなくなったので、2駅目くらいで、さすがに「誰か席を変わってください」と声をあげたら、寝ていた人が急いで起きて変わってくれた。観察していた高校生は次の駅で降りていった。
そんなもんだよ。
明らかな身体障碍者なのに、俺は老人なんだから席を譲りたくない、というような態度をされたという話も聞いたことある。
身体障碍者の身なりをしていたも、必ずしも親切にしてくれる人ばかりではない事は覚えておいた方がいい。
知人でそんな事する奴がいたら軽蔑するけどね。
ということから、先払いばらばら運賃、ってのは一番会社にとっては簡単で都合の良いシステム、ではあると思うけど。
大前提なシステムであり、自分のような地理不案内者は勿論、言語障碍者や外国人などにも「優しくないシステム」だと思うのだが・・・
んなもんはバスに限らずいくらでも問題として出てくるのでそれだけでどうこう言う話ではない。
言語障害者や外国人はその地名メモって置いて見せる、くらいのことするだろう、普段から、他の場面でも。
外国だと、それこそチケット外の自販機で買って誰も確認しないまま乗り込み降車が当たり前。
距離によって運賃が変わるものもあるけど、乗り込みスタンプがあるような物もあればないものもある。
(でも、それでもチケットの10倍とか20倍とかの金額なので、頻繁に使ってるならそれ、たまに払ってでも無賃乗車してれば安く付く、って事もあり得るし、そういうやつ普通に居る。。。)
一方、関西とか、或いは広く全国的には、「後乗り前降り、運賃不均一」なバスが多い。
この場合、乗車時に整理券を取って、後者時に整理券に合った運賃を支払えばいい。わかりやすい。
この場合、どういうことになるか?と言えば、
「乗車時に、運転手に行先を告げ、それに合った運賃を支払う」ことになる。
仮にA停留所まで200円、B停留所まで250円だったとして、
「自分はA停留所まで行きます」と告げて200円だけ払い、しかしA停留所では降りずに、
何食わぬ顔でB停留所まで乗り続けても、果たして運転手がそういう不正乗車を見破っているとは、思えないのだ。
まあ空いてるバスなら見破れるんだろうが、多摩地区や神奈川地区のバスはそこそこ混んでいるから、
そこまで監視するのは難しいと思うのだが。
で、昨日、豪雨の中、初めて行く場所へ行くために、神奈川中央バスに乗車した。
ケータイナビサイトに表示されたバス停まで乗車しようとしたが、運転手に「行先は?」と聞かれた。
で、行先を告げても、「そんなバス停、ないよ」と言われる始末。
「●●の最寄のバス停ですよ」と言っても「わからない」とのこと。
しかたないので、ケータイナビサイトの画面を見せて、「このバス停ですよ!!!」と運転手に主張した。
どうやら、難読地名のバス停で、音読み訓読みを違えて自分が発音したため、通じなかったらしい。
・・・このやり取りをしている間、自分の次にバスに乗り込もうをしている乗客10名ほどが、
「バス入り口で、傘を差しながら、いや、傘が無意味な暴風雨でずぶぬれになりながら」、待っていた。
「バス停の名前も知らないKY客のせいで、バス乗車もできず、自分達が濡れ鼠になってしまってる」
ということで、自分に対して怨嗟の視線を向けていた(ように、自分には感じられた)
前乗り後降り運賃不均一バスというのは、システム上「自分の後車バス停を正しく認識し、かつ正しく発音できる乗客」が
大前提なシステムであり、自分のような地理不案内者は勿論、言語障碍者や外国人などにも「優しくないシステム」だと思うのだが・・・
突き詰めると「コミュニケーションって何だろう?」問題に行き着く気がする。
社会をなぁなぁにやっていくためレベルの嘘なら、みんなついているどころか、むしろちゃんとつけない方が障碍者ということになる。
つきすぎてもつかなさすぎても問題になるし、かといって単純な程度問題とも違う気がする。
そもそも自分で「こうだ」と思い込んでいる人が発する嘘は、嘘なのか? とか。
例のゴーストライター騒動で、「虚言癖」というのがクローズアップされている。「嘘をつくのは良くない」というのは簡単だけど、実は結構解決の難しい話題。
嘘にもいろいろあり、明らかに人をおとしめるための、詐欺などの嘘もあるけど、一方で佐村河内のような虚言癖は、自己防御の方が強いんだろうと想像する。
実際、自分にもある程度の虚言癖がある。かなり自覚しないと分からないのだけど、いざという時になると、どうしても嘘を言ってごまかしてしまう。社会人になって気がついて、「あ、俺、嘘ついてる」と少しずつ自覚を強めていくようになった。良くネットでネタにされる、「今何してた」って聞かれて「寝てた」って答えるという、アレのもうちょっと高度なバージョンで、それが無意識に発動している。仕事でミスを指摘されると、相手が責めている訳でもないのに、どうしてもそれっぽい言い訳を繕ってしまう。それが日常的に起きるので、自分でも気がつかないくらいだ。だから、嘘をつきそうになると、「本当のことを言わないと」と自分を言い聞かせたりしている。一方で弱音が吐けず、強がりの意味で嘘をつく時もある。
嘘をつくトリガーというのがどこにあるかは、人それぞれだろう。自分の場合は、いわゆる毒親問題だ。自分の父親は、自分の小さい頃から、何かミスをするとすぐにあれこれ文句を言ってきた。なので、どうしても人と本音で接したくないという思いが強くなる(本音を話すだけ徒労だし、嘘でも言ってその場を逃れないと精神的な圧迫が強いから)。そうなると、自分が厳しい状況に置かれそうになると、どうしても嘘をついて逃れようとしてしまう。
虚言癖を持つ人間を単に「誠意のない人間」と理解するのは難しい。実際、佐村河内もきちんと新垣に金を払ったり、人を集めたり、やるべきと思ったことはやっていたみたいだしね。まじめな人が体調が悪くても「大丈夫です」と毎回答えてしまうのも、虚言癖の一種と言っても良いかもしれない。
といって、「虚言癖を許容しろ」とは言うつもりはない。実際、逃げるためについた嘘で大きなトラブルを引き起こす事例は後を絶たないし、信用してくれた人にも迷惑だから。虐待する親が自分の子供について容易に「虚言癖がある」と"嘘"をいうこともある(報道ではそう書かれるけど、多分もっといい加減に「こいつが嘘をついてんだよ!」みたいな発言なんだろうな)。だから、精神的に弱い人の防御反応としての「嘘」と、騙したりおとしめたりしたいが故の「嘘」は表面上見分けがつきにくい。
佐村河内にしたって最初から金銭をだまし取る目的で全聾を装っていたとは、ちょっと考えづらい。「全聾の作曲家」というポジションがヒットに結びつくとは、事前には考えられないからだ。どこかで自分の音楽的才能がないのをごまかすために「耳が悪いんで」と言いだして、結局引っ込みがつかなくなって全聾を通し、その証明のために障碍者手帳を入手し...、みたいな成り行きかなと思う。だからといって、彼のやったことが一種の詐欺に当たることは否定できないし、それを拒否するものでもない。
ただ、虚言癖を一概に攻撃するだけで終わる病だなんて思ってほしくない。どこかで「嘘をつかないとやってられない」心理的状況があるのだろう。それを「社会の問題」と広げるつもりもないけど、また「一個人の自覚と責任」みたいな安易な理解で終わらせてほしくもない。まあ、難しいんだけどね。ぶっちゃけ言えば、JR北海道の件だって、虚言癖の変形だろうしね。
「ASD診断基準変更、の報に、これからアスペルガー症候群じゃなくなりそうな一自閉症者が思うこと」(ここまでタイトル)
DSM改定で「アスペルガー症候群」の診断名がなくなったらしい。「社会コミュニケーションの障害」「限定した興味や反復行動」に絞った結果、有病率は1/4程度に減ることが見込まれるとか。自分は大学時代に診断を受けた「アスペルガー症候群」の人間になるのだけれど、まっさきに思ったことは、「なんだかなあ」だった。Twitterで呟こうと思ったらひどく長くなってしまったので、匿名ダイアリに投稿してみることにした。昨今いわれる「一記事800字ルール」から大きく逸脱していて読みにくいと思うのだけれど、勘弁願いたい。
アスペの本質は「心の理論」の障害じゃなくて、感覚の取得機能の異常(異常というか、「社会適応に必要な情報だけを拾えない)だ、という風に、(旧診断基準では「アスペルガー症候群」と診断されていた)自分は考えている。考えている、だけだとアレなので、一応つけくわえると、以前、お世話になった先生に確認したところ、「その考えは間違っていない」というような事を言われたので、おそらく間違えてはいない(一応、そんなような研究結果もあったと記憶している。まあ、私は学究者ではなく一当事者なので、エビデンスが若干いいかげんなのは許してもらいたいのだけれど。
人間の感覚には、いまどきのカメラのように「オートフォーカス」機能がついている。それも、大変高性能な。これが、オートマじゃなくってすべてマニュアルなのが自閉症(=アスペルガースペクトラムだ。たとえば、誰かが「それ」と言って何かを指差したとする。定形発達の子供は、「指示の対象に目線を向け、そ話者が何かしらの指示または主張を行うに備える」という一連の処理を、ごく自然に身につける。しかし、自閉症者の視界は、蟻の視界だ。「特定の範囲の、限られた情報」だけを拾うことができない。まず、「人間の輪郭」を意識するのが難しい。うごき、を俯瞰してみることができない。そして、「手振りの意味」を理解するのには、もっと時間がかかる。
指差した先を意識すればよい、と学んだとしても、その後がまた大変だ。自閉症者のせまい視界は、「それ」として指し示された物体「以外のもの」を意識できない。あたかも同化するように自閉症者の意識は「それ」とひとつになってしまう。指示、という行為の先にある意図へ辿り着けない。本人の記憶にも残らないような小さい自分に、こんな小さな「ロス」をくりかえして、自閉症者の社会能力は定形発達者のそれからどんどん遅れてゆく。
自閉症者は往々にして、「世界と自分とのあいだに、一方通行の分厚い硝子の壁がある」という表現をする。入ってくるものは、ときに自分たちに害を与えるけれど、こちらがわから触れることはできない。氾濫した感覚世界に、ドナ・ウィリアムズが自著のタイトルとして記したように、「何者でもなく。どこでもいない」自分だけが残される。興味が限定されるのは、何かしらア・プリオリな原因があるわけではない。単純に、あまりに「細かすぎ、多すぎる」情報の波に晒されていることの裏返しだ。自閉症者は、その複雑すぎる世界を規則化するために自らひねりだしたルールにより所を求める。あるいは、数字や言葉などの「より強固で、確実な」曖昧さの無い世界に逃避し、没入していく。
さて、ここで重要なことがある。成長が遅い、ということは、「いずれ追いつく可能性がある」ということだ。IQが高い場合は年齢が上がればコミュニケーション能力は(或る程度は)向上する。限られた環境であれば適応できるようにもなる。IQが低いと、成長速度が社会が要求する適応レベルに追いつかないので、わかりやすい「知恵遅れ」になる。旧DSM水準においては、診断の多軸性、「コミュニケーション能力の障害」以外の細かい部分こそに、自閉性の障害の本質があったように思う。高機能な自閉症者(これまでの診断基準でいう「アスペルガー症候群」、言語機能に遅れがあるものは「高機能自閉症」)は、往々にして、その能力と努力によってコミュニケーション能力が向上させ、また、社会の中で自分が受容されるポジションを獲得し、
あたかも「社会に適応した」かのように振舞うことができるようになることもある。けれど、知覚過敏や感覚から来る負担の大きさ、ある種のデリケートさ(適応しても処理量は変わらないせいで疲れやすい)、過集中傾向、カクテルパーティ効果への適応不可能などは歳を重ねてもあまり改善しない。二次障害との複合で、ひどくなる場合もある。そして二次障害。我らが最大の敵である二次障害だ。慢性的に感覚的に、また社会的にストレスを受ける環境による鬱や神経症、PTSD様の症状(瑣細な感覚刺激からフラッシュバックを起こし、日常生活に支障が出る)なども、かなり改善させづらい。というより、社会に出ている多くの自閉症者は、コミュニケーション能力の障害以上にこれらに苦しめられることとなる。これらの人間に、「アスペルガースペクトラム」の診断基準から外れたとき、医学はどのように対応するのだろうか?
私事になるけれど、自分は二次障害への対応に、かなり苦労した。「病気になる原因」というのが感覚的な特性と、それによって経てきた生育環境に大きく拠っているために、一般的な治療方針やアドヴァイスがあまり役に立たないためだ。普通の人間は、ごくふつうの家庭で(母親は多少厳しくて神経質だったけれど)そこそこ健康に育ったにも関わらず、重篤なフラッシュバック症状(いわゆる「自閉症パニック」の主原因になるもの)を抱えたりしない。精神科、に行って自分が求めた治療を受けられたケースはとても稀だった。最初の二件くらいは適当に薬を出されて、経済的に継続困難なカウンセリングを勧められて終わり。結局、これではらちがあかない、と感じて(また、「はっきりさせるために」)実家に帰って診断を受けてきた、知的障害者向けの施設の外来の先生、そして、某k橋先生(統合失調の大家である)との出会いが、自分にとっては得がたかったけれど、必要な治療を受けられないままの人は未だ多いと思う。数年前にアルバイトを探していたとき、2ヶ月ほど支援センターにお世話になる機会があった。自分の大学時代と比べてこの数年、随分とサポート体制が整ったのだな、と感じて感心した(そして、その実現に走り回ったであろう人々に敬意を覚えた)、それからしばらくしての今回の報だった。
未だに「心の理論」ありきの「アスペルガー症候群とは」みたいな文章はよく見る。精神医学の世界って当事者も臨床も置いてけぼりなんだな、遅れてんなあ、というのはずっと思っていたけれど、今回の改編でよりその印象は強くなった。二次障害が軽くなって、今の生活が忙しくなるにつれ、自閉症を取り巻くもろもろの社会的状況に興味を向ける機会が減ってしまったので、偉そうに論じる権利は無いのだけれど、「まだこんなに遅れているの?」と、失望にも似た気持ちになったことは否めない。
私は診断をうけたとき、その時点で、もともと積極奇異タイプだったこともあり、社会能力自体はかなり改善していた。コミュニケーション能力に重きを置く診断基準だと、今はそのように診断されるかかなり怪しい。当時は、二次障害が今より重かったのに加えて、義務教育期間を終えたことで、それまでの細かな「不便(大学でお世話になった先生曰く『目に見えない腕の欠如』」がいちどに明らかになり、社会的な困難が顕著になっていた時期だったため、「診断が下っている」ことに、自分は自己分析の面で、そしてひとから助けを得る上で、随分と助けられた。この障害がときに致命的なのは、コミュニケーションの障害よりもっと前のステップ、感覚すること、世界に。社会に働きかけること、「関わる」ことそのものに困難を抱えるからだ。「コミュニケーション能力」だけに重きをおいて、障害の本質をばっさり切ってしまった新基準に、本来の意味で自閉性の障害を抱えた人間たち(ここ数年で顕著になったように、世間においてけして少なくない)を、フォローできるとは思えない。
自由業で不安定な生活なので、定期的に、「障碍者手帳を得るべきか」に迷うのだけれど、この機会に行動すべきかなあ、と、また、少しだけ迷っている。職種的に実感する機会は少ないのだけれど、「診断を持っている」というのは、「障碍者の枠に入れられる」ということであると同時、「自分の特異性がア・プリオリなものとして理解され、社会的に許される」手続きでもある。<そして、負担の多い日常に対してシステム的なバックアップを受けられる、というのはとんでもなく大きい。
以前は、手帳を取るなんて甘えだ、と思っていた。実際、生活しはじめると、やるべきことをやるために、使えるものを使わないことこそ甘えなのではないか、と思う。今のうちに診断書もう一回出してもらって、支援センターに相談に行くべきかなあ。けれど、ここまで「診断されない人間が出る」ことに異を唱えておきながら、自分はいつも立ち止まってしまうのだ。生きることに混乱を抱えるのが、自閉症者特有の事象であるはずはない。そんなことは重々承知していて、その上で、おそらく定形発達であれば経験しなかったであろう経験を、自分は重ねてきている。そして、思ってしまうのだ。自分のこれは、この、抱えた差異と、それによって生じる無数の困難は、自分が経験し・乗り越えてきた沢山のことは、果たして「障害」なのだろうか、と。無論、この逡巡が、社会的に「障害」とみなされるか、サポートを必要とし、サポートを得ることで社会の構成員としての生活を送ることへの困難が軽減される人間が存在するか(そして、自分がそのサポートを必要としているか)、という観点とは、デリケートながら別の問題だ、ということも重々承知しているのだけれど。
いくつか記事見たりはてブ見ても「誰?」って反応なかったから驚いたのね。
やっぱはてなに寄り付く人たちってスノッブ気質の人が多いんだなーと思ったわ。
現代音楽とかクラシック界とかまったくわからんし、お偉いらしい先生様とか登場人物誰も知らないしな。あ、キダタロー氏は知ってた。
大勢の人を騙したなー! 被爆者/障碍者という神聖にして侵すべからずな存在を騙ったなー!(建前)
この純粋で凡百とは違うきらめく感性を持った俺様が認めてやった美しい幻想を打ち砕いて恥をかかせやがったなー!(本音)
って、「一杯のかけそば」だな。
まあ汚い手法だったとは思うけど、かんたんに付け込んでがっぽり儲かる入れ食いの生簀があったから網突っ込んだってだけの話だもんね。
俺の彼女って味覚障害かもしれない
100歩譲っても醤油だ
正直理解できない。
コロッケすっぱくしてどうしたいんだろう
それを指摘したら「何を掛けるかは人それぞれだし」って言い返された。
外で子供が恥かくだろうが
でも、それでもまだあいつは
おろしポン酢コロッケをメニューにしてるガストがどこにあるんだと言いたい。
あいつは普通の味覚の問題を、個人の嗜好の問題とごちゃまぜにしている
俺だって鍋物のときはポン酢を使うけれど、コロッケにポン酢はおかしいだろ。
ちなみに、
目玉焼きの時はソースでも塩コショウでもしょう油でもソースでもいい派で
どんだけ派閥を作りたいんだ。
昔の自民党か。
小泉純一郎が出てきて全部ぶっこわしてくれたらと思う、まじで
でもやっぱ冷静に考えたら彼女は味覚障害なんじゃないかと思う。
これってやっぱ障碍者ってこと?
子供生まれたら遺伝とかするよね。
今のうちわかってマジ助かった
そこで少なくとも障害者と黒人を並べるのは非常に危険だと言う事も理解しておいた方が良いとは思うけど。
生き物はすべて種としての存続が大事なんだから、子供が出来たらそれを第一優先にするのは当然。
子供を作らない人間が居るなら他の子供のために尽くすのが当然。
どの動物界でもそのように出来てる。
「子持ちの『優遇されて当然』という態度がむかつく」という意見に対して「障碍者に対して『優遇されて当然と思うな』と言いますか?」みたいに言ってたけど凄い違和感
なんでそこで障碍者が出てくるんだ
どっちかっていったら障碍者にあたるのは子供のいない人の方だろう
結婚できない女性はブスやコミュ障だったりするし、結婚できない男性は不細工だったり低収入だったりする
結婚しても子供に恵まれない夫婦は貧乏だったり持病があったりする
愛する人と結ばれて、自ら望んで子供を産んだ人達は恵まれた幸せな人達でしょう
つまりどう考えても差別されてるのは子持ちじゃなくて、子供がいない男女の方なの
それを何故か逆にとらえて、持たざる者から持つ者への奉公を指して「弱者に対する配慮」みたいになってるから歪んでる
障碍者と健常者で言うなら子持ちは健常者だし、白人と黒人で言うなら子持ちは白人
あんたらはまったく弱者ではない
だがしかし、いつどこで、「弱者」に「強者」が与えないといけない、と決まった?
それは「強者」が余裕がある時に初めて出来る事。
主としての繁栄を考えれば「弱者」でも同じ種なら残しておいた方が良いだろう、ということからだろう。
または、人間社会においては、「強者」がその人自身の力よりも、生まれを含めたまたま運でのし上がった場合にはそれを分配するのがよしとされる。
(自分の力、と言っても、人の何十倍、何百倍稼いでたりするのは別にそこに能力差が何百倍もあるからではないので、やはりそこにも運があるから。)
障害者に関しては、ある意味「運」が悪かったわけだが、それを助けられるのはあくまで「強者」が余裕があるときに限る、と言う事をきちんと理解すべし。
今の日本社会ではまずないが、時と場合によってはそのような事もありえる。被害者面、するのではなく、強者が弱者を単にねじふせるだけだが。