はてなキーワード: 貴族とは
彼らは、武士でありながら貴族のトップになった平清盛と同じだ。貴族のように政治ができなければ、武士だってトップには立てない。政治のできない武士は、貴族の奴隷にしかなれないのだ。
まとめるとこういうことだね。
以下の文章は、「武士の誕生と平清盛」http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-entry-30.html の第三節で
の置換したものです。
答)SEをコキ使って企業を守らせた。また、SEにアプリ開発をさせた。
事件現場で感じる「まっただ中にいる」という雰囲気、しらみつぶしの聞き込みから垣間見える知らない住宅街の暮らし、微妙に核心をほのめかしてくる人間的な警察幹部との泥臭い応酬・・・
刑事裁判における被告のクズ丸出しの態度と声、高慢な検察官のオフレコ放言、資格は取ったもののまるで資質が欠けている弁護士たちの無理筋な屁理屈・・・
人間として確実に異常な議員たち。これまた異常に優秀でどこか抜けている官僚たち。家柄からして違う貴族という言葉がふさわしい外交官たち。会社に最適化して別の生き物のようになっている企業人たち。
どいつもこいつも癖のある奴らがぐちゃぐちゃに動いている。
ああ、こうして世の中は動いているんだなあとわかる。大きな社会という機械の心臓部に入り込んで歯車を一つ一つ見て回っているような感覚だ。
そしてその歯車たちは喋り、愚痴を言ったり自分の立場を正当化したり、時には恫喝してきたりする。
この感覚は絶対に紙面では表現できない。出していい情報しか出すことができないから。ネタ元を完全破壊するような真似はできない。
報道という営みの中で一番楽しんでいるのは記者だと思う。裏を知っているからこそニュースを読むのが楽しいのだが、何も知らない一般の人が読んでて果たして本当に面白いのだろうか?
実際、優秀だな、と思うような奴って、
金持ちなんだけど、ガツガツしてなくて息を吸う様に勉強するようなやつだけなんだよな。
レールに乗っかって勉強してきた、ってよりももっと自然にやってるやつ。
(ある意味そういう人間は金があるから余裕、っていうのがあるんだけど、まあ、昔の学者って全部そういう貴族のお遊びだからな。)
一方で、ホントに金に物を言わせるだけで何とか東大に入ってきた連中ってのは
早稲田や慶応が台頭したの元々は東大や他の国公立大出身者からコケにされる事が多かったから、人海戦術で国公立大学出身者を排除して
政治やマスコミの世界を支配した。今度は早慶が金持ちサロンみたいな感じになってきて、カネや家庭の事情で上京できない地方民や
いや、もともと金持ちの金持ちによる金持ちのための学校だぞ?金持ちって言うより士族っていうか貴族っていうか。
今のほうがよっぽど一般人でも入れるわけで。
アメリカのSATのように何度もテストを受けて、一番良かったものを提出してくれたらいいよんという形にセンター試験が変わるんだっけ。
日本人にイマイチ「統合リゾート」が理解されないのは、例えばビジネスマンや研究者などが海外出張する際に、
欧米では、例えば研究者が他国の国際会議に参加する時などは、パートナー(妻、同棲相手。場合によっては同性)を連れて行く。
で、連れて来たパートナーは、会議後のレセプションパーティーに参加したりする。その為に連れて行く。
しかし、会議そのものは、研究者しか参加出来ないし、パートナーは会議の間は「ヒマ」。
だから、パートナーのヒマ潰しアイテムとして、アミューズメント施設、つまりカジノが必要になってくる
一方日本の競馬場は、オッサン一人。夫婦とかカップルはほとんどいない。
日本人はカジノと聞くと「日本のすさんだ競馬場」をイメージするが、世界的には「社交場」。
日本人的感覚だと「出張とかで、そんなに広いホテルは不要でしょ?」と感じる。
一方、欧米エグゼクティブは、出張にもパートナーを同行させる。
パートナーはアメリカの自宅並みのスペースがある客室で、自宅同様のゆったりした「生活」を東京でも要求。
「奥様向けのスパ・エステ」とか、「託児施設」なんかも必須な訳だが、そういう解説記事は見かけないなあ。
要は「ダボス会議みたいのを、ジャンジャン東京に誘致しましょう」な話で、カジノはその為の手法に過ぎない。
でも多くの日本人は、「ダボス会議って、何?」「ダボス会議を誘致する意味あるの?」レベル。
だから、カジノ賛成派は「ダボス会議とは何ぞや」とか「欧米エグゼクティブの出張は、妻子同伴が当たり前」と言うレベルから、
まずは説明をスタートさせなければならない
でも「ダボス会議とは何ぞや」とか「欧米エグゼクティブの出張は、妻子同伴が当たり前」と言うレベルから説明始めたら、
説明時間がいくらあっても足らない。説明を聞く側が我慢出来ない。
あと、変な話だが、日本では「エグゼクティブ・高額所得者ほどギャンブル嫌い、ギャンブルをしなくなって」る。
そんなことじゃ、ギャンブル慣れした世界のエグゼクティブと会話が合わせられるのか、心配。
「英語は喋ることは出来ても、ポーカーとかブリッジが出来るんですか?」と言う話。
「向こうのグローバルエリートと一緒にポーカーやブリッジが出来なきゃ、グローバルエリートコミュニティに入れないでしょ?」という話
だから、東大の教養過程の授業に「ポーカー」とか「ブリッジ」を設けるべき。
バブル期の社畜、もといエリートサラリーマンが、接待ゴルフに社会人人生をかけ、自腹でゴルフ練習場に通ったのと一緒。
グローバルエリートは自腹で「ブリッジ練習場」に通うようになるかも。
ヨーロッパでは、貴族が自分の馬を自慢する場が競馬場。だから上流階級の社交場になった。
一方、日本の競馬場は、戦前は軍馬育成目的、戦後は国・自治体の財政目的。そもそもが上流階級と無縁でスタートした。
コミュニティは、一旦「金持ちのコミュニティ」になってしまうと、貧乏人は気後れして寄り付かなくなる。
一方、一旦「貧乏人のコミュニティ、もとい、溜まり場」になってしまうと、
金持ちが気持ち悪がって寄り付かなくなる。日本の競馬場がこれに該当
「出だし」で金持ちが沢山来るようになれば、自然と金持ち最適化された雰囲気になり、ますます金持ちが寄りつく。
「出だし」で貧乏人が沢山来てしまったら、貧乏人最適化されてしまい、軌道修正は極めて困難になる
だから統合リゾート、カジノを「成功」させるには、「カジノは金持ちの社交場」と言うブランディングが肝心。
上品な宣伝が必要であり、間違ってもスポーツ新聞なんかに宣伝を載せてはいけない
「金持ち志向」「専業主婦志向」「見栄っ張り志向」「お受験志向」が明白な「雑誌プレジデント」に企画記事載せればいい。
「お子さんにポーカーやブリッジを教えないと、将来グローバルエリートコミュニティに参加出来ません」な記事。
まあ、「金融資産1億円以上じゃないと来場不可」「年収1000万円以上じゃないと来場不可」みたいな仕切りにすれば、
但し、メンバーをセレクションしちゃって、売上高を達成できるか?
だから、「小さく作って、大きく育てる」ことがカジノには必要。
と、そんな疑問が浮かんだので書いてみる。
10年とかいう歲月が経っているわけじゃないですか。mixiとかfacebookとかtwitterとか、人間が流れてあっちこっち流れていくっていうのに、はてな民ははてな民でいることを辞めてない…のではないか?という。。。。
一時期はてブを賑わせていた、某貴族とか、要はなにかがないさんって、なんかもう静かにされてる?のかなぁと思うのですけど、ネットクラフトさんとかも、数年の後には静かにされる見込みがあったりするのでしょうか?なにを得ようとされているのでしょうかね。
某カリスマニュースサイト管理人の方なんかは、はてな界隈には在籍されているようで、安心するのでございます。
10年・・・、私も歳をとったわけですし、みなさまもそれなりに10年をすごされたことでしょうが、はてな界隈ははてな界隈として、ぼちぼちやってっていただきたいなぁと。
なんか変わらない感じで、ぼちぼちと存在していてほしいなぁと。
そんなことを思いました。
弱気なことを言ってはいけないと思うんだけど、どうしても苦しいので増田で。
理由は、仲良くなってきたらだんだん、会話をそいつが自分の有利に有利に進めようとする隠れ負けず嫌いとか隠れ喧嘩好きばかりが寄ってきて、話すのが楽しくないから。
私は半端な好みなのも自身で分かってるわけです。
となると麿がおじゃるがの方向にばかり目がいっちゃうんだけど残念なことにど庶民なためそれを愛し続けていられる環境にもいないし、なにかその好みを生かせる器用さも頭もない。
だから、何かどんな人とも付き合いづらいらしいし、ネットとかでこうやって書いてる文の印象と実物に会ったときの印象が違うらしいむしろ激しく食い違うらしい。
あちらから寄ってくる人は前述した、ちょっと変に攻撃的な人ばかりだし、こっちがなんか耐えきれなくなって拒絶すると、まあ、「ごめんなさいすみません悪いこと言っちゃった。悪意ないのに拒絶されたかわいそうな私」を演出する。こういう人の謝罪の言葉なんて一文の価値もないし、なんかそれさえ言ってれば自分は第三者から悪者扱いされない疑われないと信じこんでるけど、それ大きな大間違いですから。
第三者は、「ああ当て付け謝罪か、大変ですね」と思うだろうな。
そんな人々を、誰が信用できるかよ。
はあ。
友達ほしいよ。
教養って何だろう
http://anond.hatelabo.jp/20140704205502
インターネット暇人どものおかげで教養の様々な側面を覗けた。大変参考になった一方で、当然いくつか疑問が湧いてくる。以下はその疑問について。(なお、私は小説も思想書も哲学書もまったく読まない)
【教養があると自由になれる】
gingger4 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること (参考)家庭環境と読書の習慣のこと/図書館となら、できること http://bit.ly/KWHFw2
showgotch 皆俺流教養論を語るんだけれど微妙にずれててワロタ。歴史的に教養は自由になるための学問なんだけど同時に貴族の学問でもあったためオペラや歌舞伎を楽しむ素地として連帯の道具でもあったわけだ。ハイパーメリト
seachikin 狭い世界に生きてると視野が狭くなるからせめていろんな情報を集めて他にもいろんな世界があるということを知るってことが教養だと思ってる。んで私は本は読むけど教養はあんまりない。
tyshu 全然読書をしなかった自分が、思い立って1年に100冊読書するってのをやってみたことがあったけど、知識と知識がリンクする様な、世界の広がりを感じたのが印象深かったなと。読書はその時だけで今は…
sardine11 ナボコフ流に言うなら良き読者とは芸術的気質と科学的気質が結合した人。つまり客観的な世界に対する主観的認識を多様化させ心を打ち震わせる経験をする、それが読書そして教養の意味。娯楽と知識の境目に教養がある
a22222111544 この世界で起きていることの大部分を「ひとまずは」愛と理性で把握するために必要な古典的知識の体系と、あとはそこにアクセスするための言語能力だと思います。本来的な意味での教養を持っている人はごく少数。
bell_chime_ring238 教養は世の中で起きることを解釈する下地かな。本当にすごい人は、何気ない話題でも全然違う次元で考えてるし、こちらも自分の知らない世界に行けてしまう。体感できれば、教養が人格を作るって理解できるよ
p_shirokuma 己の世界観・娑婆観の構成素子のなかで、事後的に確認できるものの総体が、しばしば教養と言われているような気がする。
exterminator 必ずしも読書量ではない。世界を体系化して見るため/自分を少しでも自由にするためのもの。環境とか文化資産()どうこうより上より下を見て人の足引っ張るような人が多いとこにいると身に付けるのが難しくなる。
なるほど、教養があると自由を獲得できるのか。通時的にも(リベラルアーツ云々)共時的にももっともらしい主張だ。私もそのような側面があるとは思う。ただし、これにも疑問が残る。
疑問を述べる前に、自由とは何だろう。ここでは、他のものから拘束・支配を受けずに自分自身の意志に従って行為できる状態、としておく。そして、自由には経済的自由と精神的自由の2つがある、ということにしておく。
経済的自由については、いくつかの専門分野について十分に学習すれば達成できそうではある。逆に、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながらいくら深く広くたくさん行ったところで達成できそうになさそうである(それだけ文学/思想/哲学/芸術に精通していれば少なくとも批評家などにはなれそうではあるが、彼らの年収の最頻値を知らないので、それが経済的自由を獲得できる程度のものなのかについては保留する)。
精神的自由については、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながら深く広くたくさん行っていれば獲得できるのであろうか。いくつかの専門分野について学習をしていくだけでは達成できないものなのだろうか。学習する専門分野を十分に増やしていっても、あるいは専門分野ごとの理解を十分に深めていっても達成できないものなのだろうか?
また、経済的自由なくして精神的自由はありうるのだろうか?フレデリック・ダグラスは生涯奴隷のままで精神的自由を獲得できたであろうか?
フレデリック・ダグラスについて
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-377.html
【締め】
まぁ、お前らの思うところを書いてけや。
なお、他の疑問については分割する。インターネット暇人どもは長いエントリーを読むのに苦痛を覚えるからな。開発をやる人間の口を借りれば、きっと、このエントリーに限らずそもそも増田なんかにはユーザーが何分も滞在する価値なんてねー、と宣うに違いない。まったくである。
「幸福度」への突っ込みはさて置き、ある対象を偏見から守るために、その集団が社会全体で虐げられている、という確証は必要ない。
例え社会全体で見れば男性優位でも、男性が性別を理由に排斥など受けたら、その場合には偏見が存在しているだろう。
「ある集団を一律経済的に優遇しよう」となると話は全く別なんだけど。
一見、女性にも能力に応じて賞与を与えるということだが、よくよく考えると、再分配と保護の強化だ。
方針を決める者としての男性への被支配を決定付けることになる。
この方法で行くとしても、最初は広告塔的に、特別優れた人材を広報するとか、成功例をアピールする位じゃないと、不公平感は増す。
その方針が上手く行きそうにないので、純粋な数値目標に切り替えたんだろうけどな。
日本では、平安の源氏物語、明治維新後の貴族文化、そして平成のサブカルでも、女性が文化に影響を及ぼしてきた過去がある。
表の指標だけを目安にすると、隠れた影響力を見落としたり、逆に地位を下げてしまったりするんでないかと。
一時期叫ばれた自己決定権、こういうものを犠牲にしても安定を得たい、と望むのなら筋が通るが、フェミニズムの定義的にはどこに位置づけられるのだろうか。
まあ、同時にあれもこれも推し進められない、って所だろうかね。
少子化が避けられないなら、移民か、女性の雇用を大幅増か、それとも一部を単機能ロボットにでも肩代わりさせるか。
最後のが一番夢があるな、導入部分だけ見るなら一番難しいけど。