はてなキーワード: 大陸とは
スーベニアのテイタムオニールは小学生のとき好きだった女優からとった
キュウソネコカミのTOSHI-LOWさんという歌に対して、マサムネさんという歌は作らないでほしい。やるならスピッツという曲名で。自分(草野マサムネ)は、スピッツからはがされると群れからはぐれたイワシみたいによわよわになっちゃうから
スピッツじゃなくて草野マサムネ一人でいいじゃんwwという人がたまにいるのに対して、
草野マサムネはスピッツってバンドじゃないとやってけないんだよみたいなのをどっかで見た気はしたけどやっぱりそうだったんだなーって
直接本人がそういうのをはじめてきいたから感慨深かった
イタリアはローマ時代に遡る美しい建物がクソほどあるけどし その街並みは世界に名を馳せるけどさあ
それに比べて日本はまあ美しい寺はあるよ でもそれだけ
ほとんどの日本の都市は灰色の醜いプラスチック製キューブが乱雑に詰められたような汚物よ
そこら中に無数の電線あるしな
↑これ 西洋人が日本に対してアニメに描かれてるような牧歌的な景色を想像してるの謎
いやいや、効率性しか意識してないクソ醜くてディストピア的なコンクリート地獄のような景観だから
グーグルマップで適当に日本の街並み見てみ? 風情のかけらもねえから
まあすごい建物も中にはあるよでも景観についてはヨーロッパの国ならどこでも日本笑えるレベルだと思う
知事はおととしの参議院補欠選挙の応援演説で県内の自治体について、「あちらはコシヒカリしかない」などと発言して批判され、県議会で辞職勧告決議が可決されました。
これを受けて、知事は自らペナルティーを科すとしてその年の12月の給料とボーナス合わせて440万円余りを返上する意向を示しましたが、返上に必要な条例の改正が間に合わず、去年の給与やボーナスでの返上を検討するなどとしていました。
しかし、3日公開された知事の去年の所得では、給与、ボーナスともに満額が支給されていて、返上されていないことが県への取材でわかりました。
これについて、川勝知事はNHKの取材に対し、「熟慮した結果、発言に対するけじめは知事として職責を果たすことだと思い至った。今は諸課題に全身全霊で取り組む」とコメントしています。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/lnews/shizuoka/20230703/3030020687.html
大陸の国の人みたい
リニアがこじれてるのもそのあたりか
※ほぼメモ書きです。
ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, 1920-1992)といえば、『第九軍団のワシ』をはじめとするローマン・ブリテンシリーズで有名な作家である。このシリーズは、一般にローマン・ブリテン三部作(『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』)ないし四部作(『辺境のオオカミ』も加える)と呼ばれている。岩波書店でもそう書いている。
https://www.iwanami.co.jp/book/b269788.html
一方、英語版Wikipediaのサトクリフの項目を見ると、『第九軍団のワシ』シリーズは他にもある。要は、4部作で終わっているというわけではないのだ。ファンサイトSutcliff Wikiでは、正式名称ではないとしつつ、"Dolphin Ring"と呼称している(一方、第九軍団のワシ、銀の枝、ともしびをかかげてを指してRoman Britain Trilogyという言葉遣いもされている。実際、1980年にThree Legionsというタイトルでセット本が出ている)。その作品群について整理しておく。
(1)作中時系列順
2世紀:第九軍団のワシ(The Eagle of the Ninth)
3世紀:銀の枝(The Silver Branch)
4世紀:辺境のオオカミ(The Flontier Wolf)
5世紀:ともしびをかかげて(The Lantern Bearers)
9世紀:剣の歌(Sword Song)
1954年:第九軍団のワシ(Oxford University Press)→岩波書店、1972年
1956年:盾の輪(同)→山本史郎訳『シールド・リング ヴァイキングの心の砦』原書房、2003年
1961年:夜明けの風(同)→灰島かり訳『夜明けの風』ぽるぷ出版、2004年
1963年:落日の剣(Hodder and Stoughton)→山本史郎・山本泰子訳『落日の剣 : 真実のアーサー王の物語』原書房、2002年(2巻本)
1980年:辺境のオオカミ(Oxford University Press)→岩波書店、2002年
1997年:剣の歌(The Bodley Head)→山本史郎訳『剣の歌 ヴァイキングの物語』原書房、2002年
これらの作品群がファンWikiでDolphin Ringと呼ばれているのは、言うまでもなくアクイラ一家のあのイルカの指輪(=古代ローマ人のハンコ)が共通して登場するからで、時代の流れとしても共通した設定を持っているからである。ただ、『三銃士』シリーズのような一貫した主人公や陣営を描いているわけではない。第九軍団のワシの主人公マルクス・フラーウィウス・アクィラ(訳書には従っていない)は、元々属州ブリタンニアに駐屯するローマ軍団に属していて、家のルーツはエトルリアにあるから、もとはといえばイタリア半島の人間なわけだ。ところが、彼が色々あってブリタンニア定住を決め込んだことが指輪の運命を決めている。『銀の枝』の主人公ティベリウス・ルキウス・ユスティニアヌス(ジャスティン)とマルケルス・フラーウィウス・アクィラ、『辺境のオオカミ』のアレクシオス・フラーウィウス・アクィラ、『ともしびをかかげて』の主人公アクィラ(上の名前は不詳)は、いずれもマルクスの子孫にあたる。
もっとも、ローマ軍団が描かれているのは『辺境のオオカミ』までであり、『ともしびをかかげて』はローマ軍団がいなくなったあとのブリタンニアを描いている。基本、サクソン人とブリトン人との戦争が描かれる。『落日の剣』はその後日譚にあたるが、主人公はアンブロシウス・アウレリアヌス(この人は実在の人物で、サクソン人と戦っていたブリトン人の指導者)の甥アルトス(アルトリウス)となっている(もちろんアクィラも登場するが)。つまり本書はアーサー王伝説の翻案なわけである。しかも『ともしびをかかげて』よりも長い。『ともしびをかかげて』は、20年ほどを描くが、後者は40年ほどのスパンがある。本書は明らかに大人向けであり(ファンWikiにもFor Adult Readersとある)、児童書である他書と毛色がかなり異なる。
『夜明けの風』はアルトスよりも100年ほどあとの時代で、デオルハムの戦いで壊滅したブリトン人の王族の生き残りオウェインが指輪を持っている。『剣の歌』では主人公はヴァイキングの少年ビャルニ(指輪は、ウェールズで暮らす少女アンガラドが持っている)になっている。そして時代的にはもっとも最後にあたる『盾の輪』の主人公もまたヴァイキングの少女フライサと孤児ビョルン(後者が指輪を持っている)で、湖水地方に立てこもってノルマン人に抵抗する様が描かれる。
見ての通り、厳しい立場に立たされた者を主人公にするというプロットはほぼ一貫している。『第九軍団のワシ』は父親の不名誉(ちなみに時代はあのハドリアヌス帝の治世にあたる)、『銀の枝』はカラウシウス帝に忠義を尽くした故に叛逆者となってしまった二人(なおこの頃の皇帝といえばディオクレティアヌスだ)、『辺境のオオカミ』は軍人としての失態だが、同時にローマ帝国と辺境民族(ピクト人)との戦いが背景にある。『ともしびをかかげて』は撤退するローマ軍から脱走して敢えてブリタンニアに残った主人公の苦労が描かれるが、彼の立場を厳しくしているのは、サクソン人のブリタンニア侵入である。サクソン人と戦う側が主人公になっているのは『夜明けの風』が最後で、『剣の歌』以降はヴァイキングが主人公になっている。アングロ・サクソン人のブリテン島征服が一段落して平和になったと思ったらデーン人がやってきたわけだ。さらにそのデーン人もノルマン・コンクエストで痛めつけられる(ノルマン・コンクエストは、思いっきり誇張すればデーン人(+アングロ・サクソン人)対ノルマン人の戦いであり、こいつら全員元をただせば海賊である)。ローマ人、ピクト人、ブリトン人、サクソン人、デーン人、ノルマン人とイギリス史に登場する諸民族の融和がシリーズのコンセプトとなっている(それは第一作の時点から明らかで、イルカの指輪は父を殺害したピクト人の長老がマルクスに返却している)。
出版年代を見ると、最初の『第九軍団のワシ』とシリーズ最終作となる『盾の輪』がもっとも早く出ていることが分かる。そして63年の『落日の剣』まではほとんど2年おきに出している。それから間が空いて80年の『辺境のオオカミ』と遺作の『剣の歌』がある。特に『剣の歌』は推敲が十分でないように思われる箇所もある(作業途中で亡くなってしまったのだろう)。日本語訳では『ともしびをかかげて』が一番早い(おそらく、内容的に最も評価されているのではないかと思う。カーネギー賞もとっているし)。明らかに児童文学ではない『落日の剣』はともかく、児童文学作品でも猪熊訳と山本訳(と灰島訳)とに分かれる。版権取得の問題かもしれないが、あるいは猪熊の作業量の限界だったのだろうか(1928年生まれだし)。そもそも『夜明けの風』は『ともしびをかかげて』の割と直接的な続編といって良いだろう。なお、自分の親は子どもの頃に『第九軍団のワシ』と『ともしびをかかげて』を読んでいたようだ(サトクリフの名前を出したら「あの小説か」と反応があった。結局「三部作」を貸している)。年齢が結構高い人でも、その二つは知っているのではなかろうか。
英語圏では多分されていない「四部作」(第九軍団のワシ~ともしびをかかげて)という言い方も理由がないではない。この四つはシンメトリカルな構成をしている。『第九軍団のワシ』『辺境のオオカミ』と『銀の枝』『ともしびをかかげて』(つまり13・24)と並べられる。前者では、主人公は百人隊長として失敗したあと、北方辺境で名誉回復を遂げる。後者では、大陸への渡海という選択肢を捨て、ブリテン島南部で戦う。「四部作」はアクィラ家のアイデンティティがローマからローマン=ブリテンへと移り変わっていく物語なわけである(既に『銀の枝』でカラウシウス帝の口からローマ帝国亡き後にどうローマを残すのかというテーマが語られる)。そしてもはや「アクィラ」という名前が語られなくなった世でも、困難に立ち向かうアクィラ家の精神は、イルカの指輪に象徴されてあとからきた民族へと受け渡されていく。そして現代のイギリス人にも・・・というのがサトクリフの言いたいことなのだろう。
お気持ちだけじゃん、データ出せって言われるだろうけどお気持ちってわりと大切な気がするので…
帰国理由は、コロナ禍のあれこれを通して「この国やばくね?」と思ったから。それが徐々に確信に変わって帰国。
ぶっちゃけ昔は「日本のメディアって中国のこと悪くいいすぎじゃね?ひどくね?」って思ってた。
中国に来てからは人間らしく生きててあたたかい人たちと良くも悪くもスピードがある街、めっちゃいいじゃん、俺に合うわーと思って終の住処にするつもりだった。なんなら中国の発展に比べて日本もう終わりだなと思ってた。
なのに、ここ数年で「なんかやばい空気」が膨らんできて、それに耐えられなくなってきた。
ご存知の通り、中国って怪レいミッキーやドラえもん作ったりするじゃん。あれってもちろんアウトだけど、コロナ前は「他国のいいところを取り入れよう」みたいな姿勢がかなりあったんだよ。
なのにそういうのもマジで減った。他国をリスペクトするどころか、とにかく他国を下げて自分の国を上げるようになった。中国を批判されたらなりふり構わず反論する大きな赤ちゃんみたいな大人が増えた。
・「日本人が中国や中国人を絶賛する、負けを認め悔しがる」動画をわざわざ発注してSNSに載せる
日本も日本スゴイポルノにハマる人いるけどマジでその比じゃないよ。まもともと中国人は愛国心強いから余計。
・日本のニュースに偽字幕を付けて日本下げを行う(ひでえと思ったのは、岸田が真面目に話してる動画に「うちの妻が不倫しまくるから離婚します」という偽字幕つけてそれを信じる奴が多数いたという…)
日本もやってんじゃんって言ってくる人いそうだけど、マジでその比じゃないのよ。もちろん対アメリカはさらにやばい。
ほんと空気変わったと思う。
最近リアルで起こったのは、中国に行ってきた人が「日本より街頭がチカチカしてなくてよかった、無駄な電気が少ない気がした」みたいなことを言ったら、中国人がガチギレした、みたいな…なんか知らんけど日本より劣ってると言われたと思ったらしい。
意味がわからん。反射的に批判された!!ってなるんだろうけど…
こんなこと書くと反中プロパガンダだとか願望だとか言われそうだけど
なんつーか、早いこと日中関係良くなって助け合わねえかなあ。まあ今の様子じゃありえないけど…でも一般的な(ゴミネチズンじゃないという意味で)若者同士は昔の10倍くらい仲良い気がする。それは救い。
(追記)
独裁国家怖いなっていうのは違うかな。むしろ俺は中国が独裁国家じゃなくなったらリミッター外れてさらにやばいことになると思う。
というか、関係ないけど日本こそガチガチの独裁国家にしたほうがまだ衰退を食い止められる気がする。日本人全体が温室育ちすぎて。それが良さでもあるけど。
街頭のくだり、Twitterで同じことあったみたいでわろた。電気はなんか地雷なのかな。
あと、日本にいる中国人とどう接すればいいの?については、「中国は凄いよね。日本は全然敵わないよ。中国に見習いたいことがたくさんある」みたいなこと言えばいいと思うよ。それをポーズでも否定してくる人とはうまく付き合えるけど、全く否定してこない人は怖いかもしれない。個人的には。日本人だって、「日本すごいよね!」って言われて「いや、ゴミなとこもいっぱいあるけど」って言う人の方がまともでしょ。「そうなんですよ、日本は素晴らしいんです」って言う人怖いでしょ。アメリカ人じゃあるまいし。
ほとんどはいい人だけど、「中国は日本みたいに他国を批判することはないですからね」と返されて宇宙猫になった時がある。
あと、これを見た大陸の人がまためちゃくちゃ怒りそうだけど、批判したいわけじゃないから。俺が好きな中国をまた見たいけどそれが叶わないかもしれないことが悲しいだけ。
アメリカは悪!中国ロシアは光!みたいな人も噛み付いてきそうだけど、アメリカの酷さと中国ロシアの良さをごっちゃにしない方がいいよ。それぞれの国に良さがあり地獄があるんだから。妄信的に何かを肯定することと妄信的に何かを批判することは同じくらい愚か。それに、本当にプーチンやプーサンが世界を救う光の戦士だとしても、あなたはネットに一生懸命はりついてる凡人以下の可哀想な人だから散歩でもしたほうがいいよ。
(追記2)
中国はずっとそう、中国語が分かるようになって解像度が上がっただけじゃない?という意見があり、確かにそうかもと思った。
中国スゲー!だったのが、中国のおっさんのフルスロットル痰吐きの音で目が覚めたのかもしれない。まあ今も全然中国嫌いじゃないし凄いところはマジで凄いと尊敬してるけど。
嫌なこと思い出させんなよ。性格悪いな。アイヌ人か?琉球土人か?大陸土人か?
もう特定されて全然構わないから懐古するけど、高校の時ダンス部の女に「私の方が背高い!」とか言われて背比べさせられて「弟にしてあげる」とか言われて笑われたことあった。あの時は怒りのあまり親父が母親捨てる前に母親にあげたらしいロシア製のイースターエッグ粉々にした。その後妹に丸文字で偽のラブレター作らせて、そいつの名前で女の卓球部の先輩のロッカーに入れてレズ疑惑を流行らせて鬱憤を晴らした。
なんか過去に受けた色々な不当な扱いを思い出して本当に不快な土日になった。最近はsun値正常だったのに。全ては高身長の旦那と高身長の息子を称賛して低身長の男をバカにするツイートをしたあの主婦のせいだ。全世界の子持ち女は子宮頚がんになって死ぬべき。
ディズニーのヒロインがポリコレで黒人にされるみたいな騒動見聞きする度に、最初からアフリカや黒人の間で伝承されてきた物語を使ってやればいいのに、と思ってしまうのだが、彼らは世界で受けるような素晴らしい物語を持っていないのだろうか?
音楽はアフリカ由来だったりアメリカの黒人が育んだりした物が世界的に認められているのに、物語を作る才能は全くダメな人種なのかな? 黒い肌のアンデルセンやグリム兄弟は生まれなかったのだろうか?
人類が誕生して以来ずっと住んでる大陸なのだから、各国の神話や史実を脚色した英雄譚といった創作のネタがいくらでもありそうなのに。
アメリカの黒人が過酷な奴隷生活の慰めとして親から子に伝え続けたお伽噺をディズニーが感動的でポリコレ的にも完璧なアニメーションに仕立てたなら、トランプ支持者の田舎白人すら改心するかもしれないというのに。
なぜ白人作家が白人の登場人物を想定して書いた物語に無理矢理黒人をぶち込み続けるのか? それこそ黒人に文才はねーよという偏見に基づいた差別なのではないだろうか?
数年前に話題になった「羅小黒戦記」という中華アニメを劇場で見た。
クオリティは高かくて驚いたし、主人公たちが住んでいる精霊の故郷と人間の住んでいる街がただ単に「物理的に離れているだけ」なのに中国広いからそうなのかも、と思わせられたりという面白さはあったけど、ストーリーはどうも心の中に消化できない黒い澱のようなものを感じるものだった。
人間の街で明日も生き残れるかという境遇の主人公の精霊、幼い小黒がとある精霊仲間に助けられて彼らの街に行き、共に成長するが、その仲間は人間の開発によって故郷を侵食されていることを憂い、武力による戦いを志向していた。
小黒は彼らに愛着を感じつつも、人間界からきた保護者によって確保され、彼から教えを受けるうちに精霊仲間は極端な思想と恨みに凝り固まっていると改心して、彼らと戦う、という話だったように思う。
小黒の視点もそうなのだが、話が進むにつれ、キャラづけも精霊仲間は怒りた震えて狭窄なテロリストで、人間界の側は彼らを教えきれないことを理知的に嘆きつつ制圧せざるを得ない苦悩を滲ませる、しかし正しいのはこちらで、精霊たちはこちらが教化してあげることによって健やかな未来を共に目指せるのだ(でもできなければ武力で従わせるしかない)という感じ。
これって「中華こそが正統な大陸の支配者で、辺境の民は中華に教化され従うべき」という中華思想じゃん?って思った。
脇の話題に一旦逸れると、声優も務めた宇垣美里さんが「単純な戦いより大事なことを言っている作品で、ぜひみなさんに見てほしい」というようなことを言っていたが、戦う側が大喜びなわけはないとか、戦うにも理由があって一面的な悪みたいな単純なものではないというところなのかもしれない、でも大枠、最終的には主人公の小黒が人間側の理屈について恩ある精霊たちと袂をわかち、彼らを説教して戦うという流れではあるし、ロシアが「ウクライナなんて我々に率いられて大ロシアを共に目指すべきなのだ」っていう思想の枠組みでウエメセの暴挙に出てる今ふりかえっても、「そりゃ自分が関わったお仕事だからいいところ見てコメントするの当たり前だけどさ・・・」って思ってなんかがっかりした感じはあった。
本題に戻って、中国のアニメがクオリティ高い大作も作れるほどであるので、多分興味深い作品はある。
でも気合い入れた作品に外国人が見たら「これおかしなこと言ってるんじゃ?」っていう思想が練り込まれて、受け手はクオリティに感激してそこをスルーしてしまうような状況になっていくとしたらなんか微妙だなって思う。