はてなキーワード: 南京虐殺とは
http://b.hatena.ne.jp/entry/256573813/ で話題のこれ、買ってきたよ。
ところが、韓国や日本の支援団体や人権団体の一部が、アジア女性基金を「政府の法的責任を隠蔽するための欺罔的手段だ」なんてめちゃくちゃ批判した。彼らも「リベラル派」と呼ばれるのかもしれないけど、こういう人たちがいるから「リベラル嫌い」がふえても仕方ないと私は思います。
(p.34.)
ドイツと日本は、同じファシズムとか軍国主義の過去をもつけれど、ドイツは、自分たちの戦争責任の追及を、日本よりもずっと立派におこなった、という「神話」がある。これが、いかに神話か、ということですね
(p.35.)
日本軍の南京虐殺があった。あれがなかったという主張はひどいにせよ、中国がいう犠牲者三〇万人というのは大げさだろうと私も思います。
(p.38.)
dg_lawとのやりとり。一番最新。結構強烈。この定義だと私ももれなくレイシスト。
そのちょっと前に話題になっていたもの。ブクマページで「シャベッタアアァァァ」的なコメントがある。やはり珍しいようだ。
今度はscopedogのブログ。どうも、フェミ、政治にアンテナを張っているようにみえる。
2013/05/17 09:58 共産、社民党以外の国会議員を全員殺すくらいしないと、この国が立ち直るのは不可能でしょう。
Apemanのエントリにも登場。相手にされていなくて、ちょっとかわいそうだと思った。
2012/12/04 20:11 わたしは南京虐殺は100万人規模だと思っていますし、
それについて日本政府は永久に謝罪を続けるべきだと思いますし、
日本の国旗は日の丸にバッテンをつけた屈辱的なものに変更すべきだと思います。
2012/12/04 20:19 すみません、「屈辱的」というのは語弊があるかもしれません。
ネトウヨや橋下・石原や自民党の老人たちにとって屈辱的だろう、という程度の意味です。
個人的には国旗(国家)なんてなくしてもいいんじゃないかと思います。
オリンピック等も参加しなければいいだけですし。
hagexの記事にも現れる。これは例の岩手県議の自殺の件。あれから1年が経つ。
死んで当然だし死んでよかったとしか思わないですね今回の件は。
コンサルは仕事をする能力より仕事を取る能力のほうが大事なのか
(削除済。記事内容はコメントより「ああ、あの記事か」と各自お察しください。)
kiya2015 2014/02/04 11:33 有村にも言えるがリボ払い地獄に陥ってしまうような前頭葉機能不全者が天下国家を批判する資格はない。
bogus-simotukareとのやりとりが見られる貴重なページ。
2013/07/22 11:31 わたしも選挙区比例とも共産党に入れましたし、共産党の躍進が良いことであるのは間違いないのですが、
これでもまだ大惨敗した民主党17に対し共産党8でしかないというのはひとつの現実でしょう。
今度は打って変わってnoiehoieのブログ。穏当だと思う。
2013/05/14 11:03 ドライで普通な人びとは政治の話題なんかに首突っ込まずに自分自身の小市民的な幸福を維持することに注力していると思われます。
だってね、政権が自民か民主かとか右翼と左翼の政治的争いより、愛する人や家族と上手くいっているか、仕事が順調か、のほうが遙かに重要ですもん。人生にとって。
「はてサ」と括らずに個々の論者に取り上げるべきと言われたのでやってみた
2012/12/02 00:42 自分ははてサ全般好きじゃないですが、彼らを説得するなんて2chのまとめサイトにいるネット右翼を説得するのと同様に不可能だと思うので、なぜkanoseさんがこんな無駄なことに労力を割いているのか不思議です。
インターネットはかつては集合知を実現し社会を変革する強力な手段と期待されていました(自分も期待していました)が、現実は炎上マーケティングと進歩しないライフハックとありきたりな思想長文とSNSでの表層的なコミュニケーションしか生み出しませんでした。インターネットから生まれた運動も、フジテレビデモにしろ官邸デモにしろ(ウォール街デモですら)社会をいささかも変えませんでした。
ここで、村長に辿り着いた。すべては、やはりkanoseにつながっているのだろうか。現時点(同日14:00頃)で、すでに村長の観測範囲に補足(ブクマ)されている。
どうもお久しぶりです。元気なようでよかったです。
相手を説得できるとは思っていませんが、こういう事例があったという記録はしたかったというところです。
kiya2015 さんはネットでひどい目にあったから、ネットに不信感を持つのはよくわかります。同様にひどい目にあった人もあるでしょうが、同時にネットは強力なツールの部分もあると考えています。強力な道具にはどうしても光と影ががあると思います。
kiya2015氏はかつてネットでひどい目にあったという。これは、http://anond.hatelabo.jp/20140526231242の記事にあるkiya2014の存在が抹殺されたこととつながりがあるのだろうか。
謎は深まるばかりである。
私は世間で叩かれるほどの大物ではない。一介のエンタメ作家で、しかもキャリアも浅い素人みたいなもの。ただ、日本がいつまでも平和で、人々が安全に暮らしていける国であってほしいと願っているだけ。そのためには何が最善かを考えて発言しているにすぎない。— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2014, 5月 20
彼が海外における日本のイメージをどれだけ毀損しているか知らない日本人が多い。
なぜか。
日本人にとっては、彼は単なる探偵ナイトスクープの放送作家上がりの思想的に右よりの売れっ子作家であって、
彼がいくら「南京虐殺は存在しない」(数じゃなくて存在の否定!)だの「人間のクズ」だの、他国を馬鹿にする発言をしようと「また、百田尚樹が変なこと言ってるな」と捉えて終わりだ。
彼自身「私は世間で叩かれるほどの大物ではない。一介のエンタメ作家で、しかもキャリアも浅い素人みたいなもの」と言っているように。
「Naoki Hyakuta」なんて知らないし伝わらない。「一介のエンタメ作家で、しかもキャリアも浅い素人みたいなもの」と伝える訳がない。
当然見出しは「日本のBBCの放送局の委員が~」「安倍の側近が~」をしたという風に書かれる。
つまり、率直に、"NHK Governor: Nanjing Massacre 'Never Happened'と書かれる。当然だ。これを見た海外の人はどう思うだろうか。
http://thediplomat.com/2014/02/nhk-governor-nanjing-massacre-never-happened/
http://www.bbc.com/news/world-asia-26029614
”Japan's conservative government has made a series of right wing appointments to the board of NHK, one of the world's biggest public broadcasters.”
これは「BBCの委員がホロコーストを否定し、何のお咎めもない」に相当するものであって、
百田や籾井が失言をする度に、このような表現で報じられるので、もはや日本の国営放送は完全に偏向的で、日本人は過去の歴史を否定するようBrainwashedされてると思われている。
当然のように、このHyakutaなる人気作家はAbeのお気に入りでメンバーに選ばれたとの説明("handpicked by Prime Minister Shinzo Abe ")がされることが多く、それは実際正しい。
安倍首相も似たような思想を持っていると当然海外では思われているし、政府の抗議を受け修正したものの今年の3月に、NY Timesが
""He and other nationalists still claim that the Nanjing massacre by Japanese troops in 1937 never happened.""と書いたように、これが海外での共通認識となりつつある。
これは単なる漫画家であり、何の公的委員でもない、美味しんぼの作者が毀損する日本のイメージに比べても悪質だ。
結局のところ、百田尚樹がNHK経営委員であり続ける限り、この問題は続く。彼が「失言」をやめるはずがないからだ。
その度に、「JapanのBBCの委員でAbeの側近」があれこれした、こんな酷いことを言った、日本はどれだけ右傾化しているんだ、という記事が止むことはない。
海外の人は百田尚樹のことを単なる面白発言する関西弁の右よりのおじさんとは見ない。また「百田か」などと思わない。これは籾井に関しても同じだが。
日本の公共放送の代表の発言として見る。海外メディアは彼を公的な存在として報じるほかない。これを忘れてはいけない。
引退したら政治家になって、中国に行ってハニートラップにかかりたい!中国4000年の秘術を尽くした性技を堪能する。しかし国は売らない(キリッ)。で、恥ずかしいビデオを暴露されて、嘲笑の中で晩年を過ごす。RT @KAORIng117: 引退したら何して過ごすおつもりですか?— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2014, 5月 17
「ネット右翼/ネトウヨ」なる言葉が語られるようになってからかなりの時間が経ちますが、その間にネトウヨに対する揶揄の言葉というものがいくつか生まれ定型化してきました。
この記事で書かれている「そんなに韓国韓国って、本当は韓国が好きなんじゃないの?」「偶然日本人に生まれて、日本人という以外誇れることが何もないんだろ」というのはその代表的なものだと言えるでしょう。
はっきり言ってこういうのはあまり褒められたものではないです。「あなたの言っていることは間違っている」と発言それ自体について反論するなら批判として成立しますが、そうでなく発言の裏にあるものを勝手に決めつけてそれについてあーだこーだ言うというのは単なる揶揄にすぎない。「サヨクは反権力気取ってる自分が好きなだけ」とかそういうのと同じです。
そしてこの手のネトウヨへの揶揄が孕む問題というのは他にもありまして、というかこちらが本題なんですが、こういう揶揄って「ネトウヨ=底辺の負け組」という認識が前提になってるんですよね。まさにさきほど引用した「日本人という以外誇れることが何もないんだろ」なんていうのはその典型。
まあこれも無理ないことで、これまでネトウヨについての分析として「負け組の社会への不満が近隣諸国に向かっている」「持たざる者が日本人であるということにプライドを見出している」というような語りがされることが非常に多かったわけです。
これについてはいくつか理由があると思いますがとりあえずここではおいておきます。
問題は実際のところどうなのか、です。本当にネトウヨは負け組ばかりなのか。これについては批判的に見る必要があるのでは、と思います。
『日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学― 』(樋口直人)について
実はここで紹介されてる本は読んでないんですが、興味深かったので少し引用します。
“まず最初の筆者の主張は、「欲求不満を抱え、下方へ転落し、社会の縁辺にある者が担い手になる」というのが誤りであり、さらにそれを社会病理の範疇で捉えるのは間違いであるということ。在特会の構成員も、桜井誠のように高卒で非正規雇用というような人はむしろ少ない。経済的には、どちらかという「中産階級」が多いとのこと。日本の在特会の調査でも、社会階層の共通点ではなくむしろそもそもあった保守的なイデオロギーの共通点が特長的。安田浩一が『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』 で描く「しんどそうな人々」(経済的・精神的においつめられた人)というイメージも無理があるのではないかというところから始まる。”
ネット上でネトウヨ丸出しの発言をしている有名人が何人かいます。「ネトウヨレベル」なんて言われたりしてますが身分を隠して匿名で書きこんだらネトウヨとしか思われないんで「ネトウヨレベル」ではなく「ネトウヨそのもの」です。ではその人は社会の底辺なのかというと、東大を出て大蔵省に入って議員になった人だったり航空自衛隊のトップに上りつめた人だったり、底辺どころかエリートなわけです。つまり、ネトウヨになる理由を不満や生きづらさに求めるのはちょっと無理がある。個人的な実感でも「ネトウヨ=底辺」という印象はなく、これまで実際に出会ったネトウヨ的な言動をする人の中にいかにも生きづらそうな底辺の人というのはまるでいません。
おそらく、ネトウヨ底辺説については誤りであると言ってしまって構わないのではないかと思います。ネトウヨ若者説についても同様で、世代はそこまで重要なファクターではない。
そして更に踏み込んで、社会情勢とネトウヨの台頭を結びつける言説自体がそもそも間違っているのではないか、ということをここでは主張したいと思います。ネトウヨが増えているという社会の変化を他の社会の変化の反映であるとする発想そのものが間違いである、ということです。心の闇というのも関係がない。
アポロの月面着陸はでっち上げであるという説があります。子どもの頃、僕はこの説をテレビで知って、そして信じてました。
でっち上げ論者はいくつもの疑問をアポロの月面着陸につきつけます。そのうちのいくつかを紹介しましょう。
・月面には空気がないはずなのに旗がはためいているのは何故だ?
・写真の中で影の方向や長さがバラバラなのは何故だ? 光源が複数あるのでは?
・宇宙飛行士は月面で宇宙服を着たままカメラを操作したようだがそんなことは可能なのか?
・月に行くまでには大量の放射線を浴びるはずだがそれを防護する技術が当時あったのか?
・アポロ計画以後アメリカが地球軌道の外に人類を飛ばしていないのは何故だ?
これはほんの一部で月面着陸への疑問点は他にもたくさんあります。ここでは文字だけなのでちょっとピンとこないかもしれませんが、これがテレビで画像や映像を参照しながら語られるとかなりの説得力を感じてしまうわけです。そして「月面着陸は冷戦の中アメリカがソ連に対抗するためにでっち上げたものであり月面着陸映像はスタジオで撮影されていた!」という結論に「なるほど!」と納得してしまう。一応筋が通ってますから。
念のため断っておくとこの月面着陸捏造説はトンデモの類です。少し調べるだけで上記の疑問への答えは出てきますし、大真面目に唱えたら馬鹿扱いされるんで気を付けてください。
さて、この月面着陸捏造説ですが、これを信じる人を分析して心の闇だとか社会への不満だとかそういったものが出てくるでしょうか。普通はノーでしょう。これを信じてしまう人は単に騙されただけで、その人が騙されやすいか騙されにくいかというのは関係があるにしても社会がどうのこうのというのは関係がない。騙されやすい人はあらゆる世代、階層にいますから世代や階層もあまり関係がない。ネトウヨもこれと同じなのではないかと思うんです。
つまり、右派プロパガンダ・修正主義デマに騙されたらネトウヨになるという単純な話なのではないか、ということです。
もちろん、月面着陸捏造説との違いはあります。月面着陸捏造説の先に反米感情は用意されていませんが、修正主義デマの先には嫌韓・反中感情が用意されています。これはひとつのパッケージとしてある。実は嫌韓・反中感情があるからネトウヨになるのではなく、ネトウヨになる過程でそういった感情が「注入」されるというのが実際なのではないか、というのもここでの仮説です。
この感情との結びつきの有無の違いは月面着陸捏造説は広がりを見せないのにネトウヨ言説は広がりを見せるという違いを支えているものだと考えています。
まあなんにしろ、「南京で30万人虐殺されたというが当時の南京の人口はそんなにいなかった! だから南京虐殺は捏造だ!」とか言い出すネトウヨのことを僕は「大気がない月面で星条旗がはためいている! だからこれは地球のスタジオで撮影されたものでアポロは月に行っていない!」とか言い出す人と同じ人種として見てますし、「韓国ってこんなにひどいんですよ! ちゃんと勉強してください!」とか言って国民の知らない反日の実態とかアフィブログとかのURL貼る人については「アポロの月面着陸は捏造なんですよ! あなたは騙されてるんです!」とか言って怪しげな個人サイトのURL貼るようなアレなことしてんなあというそういう目で見てますはい。
僕も今度はあなたの言わんとしていることがいまいちピンと来ない。具体的な事例を挙げながら書いてくれると助かる。とはいえ、こちら側の主張をもう少し書いておく。
歴史家のヘイドン・ホワイトによれば、歴史というのは何らかの教訓なしには語り得ない。ただ起きたことを時系列的に書き起こしたところで、それは歴史にはならない。歴史を語った時点で、どうしても何らかの教訓が引き出されてしまう。その意味では、たしかに歴史修正主義の人たちも、歴史から何らかの教訓を引き出そうとしているのだろう。しかし、問題は、そこで引き出される教訓の質が低いことにある。そうした態度から出てくるのは、それこそ「仕方がなかった」という諦観か、「騙された」という恨みつらみ、あるいはプロパガンダ合戦に負けないようにしようという水準のものでしかない。
たとえば、某田母神さんが好きなコミンテルン陰謀史観。これは保守層にはそれなりに浸透していて、要するに「日本が泥沼の戦争に突入したのはコミンテルンの陰謀のせいだ」という話。もちろん、陰謀自体はつねに存在しうるわけだが、それによって日本が一方的に戦争に引きずり込まれたというのは、責任主体としての日本政府の責任を免ずるような効果を持つ。「戦争は日本のせいではない→したがって、戦前の日本の国家のあり方を反省するどころか、というかそれを取り戻すべき」みたいな思考の流れになる。そうなると、戦前日本においてまともな政策論争を不可能にしてしまうような言説構造がいかに生まれたのか、「空気」に支配されがちな世論と外交とをいかに関係づけるべきか、といった問いを考える契機も失われてしまう。
虐殺や人権抑圧に関しても同様。歴史認識問題に深入りすることは避けるが、僕はやはり南京虐殺にせよ従軍慰安婦にせよ日本側に大きな問題があったと考える。虐殺の規模や狭義の強制があったかどうかといった問題は措くとしても、「虐殺は存在しなかった」「慰安婦は売春婦に過ぎなかった」という主張からは、国際的なプロパガンダ合戦に今度は負けないようにしよう、ぐらいの発想しか出てこない。言い方を変えれば、修正主義的な思考では、当時の日本の社会や軍隊そのものについて考えるというよりも、「歴史の語り方」の部分に思考が集中してしまう。その挙句の果てが、NY州の議員に稚拙なコピーメールを大量に送りつけてかえって怒りをかってしまうという状況なんだろう。事実を事実として認めてようやく、それでは中国戦線において軍規が乱れてしまった原因は何か、兵員の管理に問題は無かったか、戦場での兵士の性をいかに考えるべきか、という問いが生まれてくる。
もちろん、歴史を考えるうえで、日本を一方的な悪役にする必要は必ずしもない。日本側の主張にも正当な部分はあったとは思う。しかし、結果としてアジアへの侵略をずるずると拡大し、無謀な戦争に突入してしまったということは大前提として踏まえておくべきだろう。
あと、「改憲したい人=反省してない人」なんて言っていない。一番最初の書き込みに「いまの改憲派の少なからぬ人たちが歴史修正主義的な価値観を持っているように見える」とは書いたが、全員そうだとは言ってないでしょ?改憲派であっても、歴史をきちんと学んでいる人はいる。ただ、そういう人たちの声があまり聞こえてこず、改憲論と歴史修正主義とがセットであるかのように同一の論者によって語られる場合が多いのが怖いということ。
以上。
http://anond.hatelabo.jp/20121127021313
自衛隊がパレードをするだけで「市民を威圧する」という理由で反対。しかし北朝鮮のロケット実験や中国の領海侵犯には「冷静に(キリ」だの擁護する。同国人の軍人は恐れても良いが、侵略意思をむき出しにしている外国の軍隊は恐れてはならないらしい。
朝鮮人のデモで日の丸が燃やされて、それに怒りを表明する人間を「ネトウヨ」呼ばわり。twitterで国旗を表示しているだけで「ネトウヨ」呼ばわり。そして右翼が韓国や中国の国旗を踏んづけただけで狂ったように喚き散らす。お前たちにとって国旗ってのは何の価値もないんじゃなかったの?
反日暴動デモについて、日本の歴史認識や政治家の言動が原因と話題そらし。一方でフジテレビ前デモや反韓流デモでは盛大に批判。韓国や中国の批判は絶対にしない。
60年前の南京虐殺や、それ以上前の関東大震災での朝鮮人虐殺も「解決」を望むくせに、現在進行形で未解決の拉致問題やチベット人虐殺問題については、だんまり。あまつさえ、これらの問題に取り組んでる中に保守・右翼団体がいるという理由で批判。しかし自分たちが強力に乗り出すことは決して無い。
支那という単語には敏感に反応して突っ掛かるが、日王という単語には突っかからない。保守・右翼言動を行う他人をファシストだのナチだのレッテル貼りするが、朝鮮人の犯罪者に罵声を浴びせたら差別主義者呼ばわり。
日本の歴史教科書には慰安婦などの問題を載せるべきと主張するくせに、朝鮮学校の生徒に拉致問題の教育をきちんと実施しろという日本人に批判を食らわす。
尖閣国有化は中国を刺激するだけだと批判し、反日暴動も擁護しながら、韓国大統領の竹島上陸については批判せず、日本人が怒り狂う様を冷笑する。
最近、何かと話題の市長の「南京虐殺事件はなかったんじゃないか」発言。
それについて思ったことを書いてみる。ちなみに虐殺事件があったか否かのことではなくて、日本での報道の仕方についてです。
その発言により、中国で柔道の交流イベントを開催するはずだったのだが中止になった。
これは新聞であまり大きいとは言いがたい大きさの記事として見た。
いちようテレビでのニュース番組は毎日チェックしているのだが、そのニュースは扱っていなかったような気がする。
そして数日後の、夜と翌日のニュース番組で同じように発言の影響によってイベントが中止されたことをやっていた。
・・・具体的にグループ名を出す必要ってあるの? 「アイドルグループ」じゃダメなの?
柔道はあんまりテレビで扱わないくせに、なんでそっちだけ・・・と疑問に。
ここからは推測だけど、人の目をひく度合いが「SKE>(距離は不明)>柔道」なのかもしれない。もしそうだとしても、それは報道の仕方に偏りがあるんじゃないかなと思った。
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670 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 19:55:44 ID:cTTejQa+0
今週号のロシアの新聞「アルグメント イ ファクト」(論拠と事実)に面白い記事が
載ってたので、拙い訳ですけど紹介しますね。
もし、スレ違いなら指摘してください。
『南京でのジェノサイドは共産国家陣営による作り物だった!!』
ソ連邦崩壊後、様々なソ連時代の公文書が日の目を見ていることは読者の皆さんも
良くご存知であろう。さて先日、ウラジオストークで開催された極東地区歴史学会で
(中略)
「南京ジェノサイド」の証拠として中国が挙げている写真の一部が、ウラジオストーク市
近郊の都市トルストゥイ・フイにあった「ソ連人民芸術局極東撮影所」で撮影されたことを
示す公文書が発見された。この公文書を発見したのは、ロシア科学アカデミー
極東戦史研究所のアーラヤ・ピズダ氏である。ピズダ氏の発見した文書によれば、
「南京ジェノサイド」の証拠として中国政府が公表している写真の一部は
上記の撮影所で撮影されたもので、ブリヤード人やシベリアのマイノリティー
など日本人そっくりの人を日本兵役で出演させ、「中国人にひどいことをする
日本人」という構図の写真を撮ったそうである。この研究所の副所長で
日本海の向こう岸にある町新潟の大学で教鞭をとったこともある親日家の
イヴァン・ドラチョク氏は「冷戦時代は西側陣営に失点を与えるために
こういうおかしな協力もソ中間で行われていたようだ。しかし、今は
そんな時代ではないし中国に協力する謂れもない。また、これに関心のある
日本の歴史家の皆さんを是非お助けしたいと思う」と語った。
このあとに詳細が載っていますが、全部訳す元気ないのでごめんなさい。
それと(中略)のところには、いわゆる「南京虐殺」についての中国側の公式
見解が書かれてますが、皆さんご存知でしょうから略しました。
----------------------------------------------------------------------------
という書き込みのコピペが流行っている。googleで"ドラチョク"と検索したらこれと同じ内容のコピペばかり約 354 件が引っかかった。
わずか二日間でこれだけコピペされるとはなかなかたいしたミームではないか。
ちなみにこれは2ちゃんねる既婚女性板の「中国・韓国・北朝鮮が大嫌いな奥様 6」というスレッドだ。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/ms/1287233369/
ネトウヨな奥様方が日々、中韓朝を嫌っていらっしゃるスレッドだ。
で。
それも、ちゃんと捏造であるということがその文中に明示してあるという良心的(?)な捏造だ。
鍵はその中の人名にある。
「アーラヤ・ピズダ」=ロシア語で「真っ赤なマ○コ」
やれやれ。可愛い奥様になんてはしたない文章をコピペさせるのか。元スレの670氏はお人が悪い。
でもこのネタを書いてるときの「おまえらこういうのが好きなんやろ?こういうのがエエねんのやろ?」というエロい顔はちょっとだけ同感する。
そういうわけでこのコピペを拡散させた奥様はちゃんと顔を真っ赤にして恥じ入っておくように。
670はあとで職員室に来るように。
「他人と過去は変えられない」とか言ってる奴がどの口でそれを言うのか。
自分を変えたとしても、そういう奴から見れば全然変わってないし、
未来を変えたとしても、そういう奴からは今ダメだった事を延々と責められる訳だ。
餃子の王将が「社畜研修やめました! やっぱり人材は大切にしないと」とか言っても、信用ならないし社畜大量生産した罪は消えない。
東浩紀が「やっぱり南京虐殺無かったとか言ってる奴は場から排除しないと」とか言っても、何か裏があるのか? とか思ってしまう。
pompom20が「小沢は起訴くらいならされてもいいかもね」とか言っても、釣りっすかwwwとしか思わない。
日本から差別を排除できても、真珠湾奇襲してアジア侵略した事実は消えない。
さすがにこれについては本人、この対談の中でもう少し触れています。
東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。
大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?
東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。
大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。
東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。
大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をまったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。
東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。
同 pp.222-223
東 今なら、南京虐殺について調べたいと思ったら、ネット上で、一瞬にして、いろんな立場の人の意見を読むことができる。だから、その意味では、大塚さんのいう「公共性」は実現している。で、読んだから何が起きているのか、っていう話です。読んだから、そこで議論ができる。本当に真実の議論ができるか、それはできない。なぜかといったら、真実になんて誰にも近づけないからです。そうするとそこで起こるのは、誰が優位に立てるかの競争だけです。(中略)情報量が大きくなると「誰が頭がいいか競争」しかできなくなってしまう。
大塚 それは情報量が大きくなったからじゃなくて、まだそこに生きるわれわれがそういった環境に対して、どのように情報の処理や判断をしていくかの訓練ができていないからだと思うけど。
東 ぼくは、リテラシーの発想では対応は無理だと思います。
大塚 少なくともリテラシーの問題として対応し得る部分が、ぼくには充分ありうると思うけど。
東 リテラシー論というのは、普通読者の側の論理ですね。つまり読む側の話です。
大塚 いや、リテラシー論っていうのは、発信者論でもあるんだよ。読者の論理ではなく、書き手を教育する論理だと思う。
東 (略)百歩譲って、受信者のリテラシーは教育可能かもしれない。(中略)しかし、発信者の能力を教育するというのは難しい。人びとがネットで好き勝手なことを流す権利は、教育では止められない。だって、彼らはそれをやりたいんだから。
大塚 いや、発信者の教育はできる。にもかかわらず発信者としてあるための教育が未だなされていないということが問題だと思う。(中略)だからぼくはインターネットによって書く主体や、書き手としての自分、発信者としての自分というものを、この国において全員が意図すれば獲得できるという環境が生まれたときに、少なくともそれを断念していいほどに近代を通じてまだ努力はされていないと考える。(後略)
「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ
と東を批判します。この批判は全く妥当だと私も思います。少なくとも、知識人という立場にあるものが、知や学問に対してこのように不誠実であってはならない。大塚はこの対談では一貫してそういう立場から、東への激しい苛立ちを隠さずぶつけ続けていきます。
しかし一方で、おそらく東はそんな批判は織り込み済みなのだろうとも思います。たとえば、上記のような批判に対しては、それでは「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を公共圏から駆逐していいのか、それが「公共圏」なのか?という反論も可能でしょう。そこまで下品な反論でなくとも、フレイザーは「複数のマイノリティによる多元的公共圏」は、それらの中には決して上品でないものも含まれうるが、しかしそれでも単一の公共圏よりはいいのだ、ということを「公共圏の再考:既存の民主主義の批判のために」で書いていたように記憶しています。
(もちろんフレイザーは、歴史修正主義公共圏?を容認はしないでしょうけれど)
さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、
(同、p.189)
公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。
(同、p.231)
市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。
と語ります。
つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。
とするならば、デリダが歴史修正主義を支持もしくは黙認した言葉が彼の著書にあるか、と聞くよりは、デリダの思想が、公共圏に対する東の絶望に結び付くのか否かを問うた方が生産的であるように思います。おそらく東本人も、デリダが歴史修正主義についてどう語ったかは問題ではないと語るでしょう。もちろんそこは、十分に問題ではあるのですが、そこで水掛け論を行っても仕方がない。
大塚―東対談における大塚は、激しい苛立ちと同時に、東から一生懸命言葉を引き出そうと我慢を重ねています。もちろん大塚の我慢を我々が共有する必要は微塵もありませんが、しかし東の公共性に対する批判を行うとき、どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする大塚の態度に私は共感を覚えるし、それに倣うべきだという態度を取りたいという志向は否めません。