はてなキーワード: 仏教徒とは
似てはいるんだけど、讃美歌=キリスト教っていうのは多くの人が結びつけられるという点でちょっと例はよくないかもしれない。
熱心な仏教徒が大好きになったアーティストの作品名がアーティストの言葉ではなくて、自分の信仰していない、聞き馴染みのない宗教の教えだったということ。
ツアーグッズにもその言葉が入っていたから、その仏教徒は知らないうちに違う宗教の教えを身に着けていたかもしれないということ。
これが例えば十字架だったり「God Bress You」みたいな、ある程度の大人ならキリスト教と結び付けられるようなモノ・言葉ならこの仏教徒は避けられたかもしれないのだけれど、この宗教の言葉というのは「暗黙の了解」として持つ知識とは言えないからファンになって初めて知る、というのが問題。
こっちは無宗教と言ってるのに宗教信じてると勝手に決めつけるな!
普段は「どんな宗教も信じていない」とおっしゃっている方たちが、それでもいざとなれば、親族の葬儀を仏式で行うことに違和感を持ちませんし、お盆やお彼岸の時期には当たり前のようにご先祖のお墓参りに出かけています。(大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した)
いや葬式でどうでもいい坊さん呼んで金払うことにバリバリ違和感あるから!
だいたいキリスト教徒に対して「お前は本当は神を信じていないだろう」とか言ったら大問題なのに、
https://b.hatena.ne.jp/entry/kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-4291.html
https://www.facebook.com/reel/389380193304358/
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https://news.yahoo.co.jp/articles/a7e9f40a298676f89eee8ca7beea7965aa4535ca?page=4
「日本はカルトの世界的な吹きだまりになっている。軸となる宗教がなく、信教の自由の幅が大きいために、カルトを規制できず繁栄を許してしまった」という――。
日本では多くの家で、キリスト教徒ではないのに、クリスマスにはツリーを飾ってお祝いをします。神道を信仰しているわけではないのに、正月には神社へ初詣にいき「賽銭」という献金をします。
仏教徒ではないのに、その前日の大晦日にはお寺で除夜の鐘をついたりもします。七五三は神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式はお寺と、考えてみればムチャクチャです。
日本人は、宗教にはきわめて寛容で、悪くいえばだらしない感じすらします。
もちろんこれは、柔軟で融通がきくとか、新しもの好きで好奇心も旺盛だとか、日本人のよいところの表れですから、一概に否定すべき話ではありませんが、それにしても、という印象を受けます。
私のイメージとは逆だなあ。むしろ多神教である神道の影響かと???思った。
あと井沢元彦だったか、戦後に日本人がキリスト教化しなかったということは無宗教ではない(無宗教だったらキリスト教化していた)みたいな事を言っていた気がする。間違っていたらごめん。
2022-07-23
■創価学会3世で未活動、関係も断っているが、公明党に票を入れてる
物心つく前から「勤行しないとバチがあたるよ!!」と、幹部だった祖母に仏罰の恐ろしさ刷り込まれ、学生部や男子部に上がるにつれそれが学会組織、公明党になり、学会と疎遠になっても私は票田として機能している。
一定の年代以上の福子は、絶縁されたり破門(って今は言わないのか?)される=仏罰が下る、という畏怖があって活動続けている人も多いと思う。
だから「創価学会はカルト」って誰かに言われると、反射的に「いやそれは違うよ」と言ってしまうのは、否定しないと自分にバチがあたるという恐怖が少なくともあるから。
興味深い。
波羅夷罪(はらいざい)[1]、あるいは単に波羅夷(はらい、巴:梵:pārājika, パーラージカ、波羅市迦)[2]とは、仏教の出家者(比丘・比丘尼)に課される戒律(具足戒)の内、僧団(僧伽)永久追放に値する最重罪の総称。
上座部仏教のパーリ律の場合、比丘(男性出家者)は淫・盗・殺・妄の4つ(四波羅夷)、比丘尼(女性出家者)には更に触・八事・覆・随の4つを加えた8つ(八波羅夷)がある[2]。
もし、出家者にして戒律や身分を捨てて還俗をしないで、この戒を破った際には、全ての資格ととを剥奪され、仏教教団から追放されて仏教徒では無くなり、二年間、一切の宗教活動を禁止しなければならない重い罪となる。
また、後に罪を悔い改めたとしても、仏教徒に戻ることは許されるが、再び出家者である僧侶となることはできない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E5%A4%B7%E7%BD%AA
書いてる私の略歴 中学で坐禅にはまって禅寺に通いはじめる。スピ系話が好き。ワクチンはP・P・Mで接種。年齢 中高年。
私が小学生の時、PTAのボス的存在に連れられて1946年に設立された教団に通い始める。
以下、母の証言による。
信者は皆の前で反省しなければならない。家のなかのあれこれを全部話させられる。貯金の額も申告させられる。
毎日布教に行く。母に同行した支部の班長は近所の不幸をあれこれ聞きだし、それを使って信者を獲得(○○で悩んでいた人が入信して良くなったみたいな)し、毎月信者獲得数トップで誉められていた。
布教の時に配る教団の冊子は信者が買う。沢山買って沢山配れば誉められる。返品不可。
ごく短期間で母ギブアップ。辞めるときにかなり揉めたらしいがなんとか脱退。
その後私が禅寺に通い始める。
退職後知人に誘われて入信。
一日中道場に詰めて連絡が取りにくくなるも、当初は留守番電話の設置だけ薦めて我が家は静観。
その後我が家に来て自分は清浄、我々は不浄な態度を露骨に見せ、他人の不幸を今まで以上に嬉しそうに話し始めたので、信者の自惚れに餌をやるタイプの碌でもない教団なのか、元々性格に難のある親戚だけがそうなって教団はまともなのか判らず我が家は対応に苦慮。
ご奉仕に身につけるエプロンは他で使うと穢れるとか、お守り袋作成の中に電話に出ると穢れるのとか、禁忌があまりにも厳しすぎ、自分達は守られているので医者に行かなくても大丈夫、薬は毒等々と言い出す。
うぬぼれはどこの宗教でも社会常識でも悪い事なのだが、それを抑えている気配が無く、禁忌によってそれを煽っているように見える。私の入門した禅寺の御老師様はこういうことにかなり厳しかったので絶句する。これはかなりまずいかもと退団の説得に乗り出す。しかし時既に遅く不浄な我が家の言葉は届かず、「守られている」と大見得切っているので事故や病気になったときに我が家に助けを求められず、却って事態が悪化すること数えきれず。
薬は毒だとか恐怖を煽りつつ、私たちだけは救われるんですよと優越感をくすぐる、宗教というより殆どマルチ商法という気がしたので「苦情の坩堝」や「悪徳商法マニアック」の体験談を読みあさり、なんとか脱退の糸口を掴もうとするも結局力及ばず。
晩年、教団墓地管理費を長年二重取りしていたことが判ったが(お金は返ってこない)、それでも結局親戚は死ぬまで信者だった。
親戚の死後、親戚が身につけていたお守りの事で親戚を誘った女性とも初めて会ったのだが、教団墓地の話ははぐらかすのに、突然の葬式仕切りで大忙しの私を道場へ何度も何度も誘った。控えめで気が弱そうで善良そうな女性がである。長年道場だけが重要で世の中の事は些事と教え込まれているとこうなるのだろうか。「世の中に間借りして修行させてもらってることを忘れるな」って御老師様は言ってたから、あんまり世の中を軽く扱うのもまずいのではと思う。
また信者に口寄せさせて、その人が話したことを真に受けて皆で実行していたようなのだが、そんな心許ないものに左右されてどうするのだろう。世間に対しては一々疑いや不信を抱くのに自分達の行いに対してはあまりにも信用しすぎなのもまずいと思う。「自分を疑え」「脚下照顧」と先達も諭しているのに。
通帳など紛失しているので判らないままだが、親戚が教団に納めた金額は8桁を超えていたようである。教団の維持にお金が必要なのはわかるけど、それも程度問題だと思う。
職場と家以外、人間には案外居場所がない。親戚にとって道場は第二の我が家だっただろうし、母も家とパート先以外の居場所が欲しくてあの教団に行ったと思う。でも信者獲得数やお布施の額で確保する居場所は良くないと思う。
余談だが、コロナが流行した年にこの教団の他県支部でクラスターが発生したらしい。薬は毒、我々は神様に守られている、発熱は好転症状と言い続けていたら、三密対策もとるにとれなかったろうとは思う。
タイトル通り。ある日知人ともう一人が冊子をもって布教に来たので、私は中学の時に禅寺に入門して受戒していること、今も信者である事を告げてお引き取りを願ったところ、「先祖供養はお寺任せではなく、自分でやらないと。ここなら自分でできるんです」と連れの年配女性。「自分でやってますが」と私。
しかし相手は怯まず他のやり方では駄目と言わんばかりに押してくる。
それなのに冊子には教団名が書かれてない。祈祷文をネットでくぐって漸く判明した。自信あるならちゃんと名乗れよ。
知人も過去の自分の不幸を開陳するのだが、母の体験もあるので私は一切自分の状況を口にせず「現状に大満足(大嘘)」で押し通す。キリスト教の告解は神父様だけにだし、仏教は仏に懺悔する。到らぬ身の人間相手に懺悔しても悪い結果にしかならないと御老師様も言っていたしね。
大宗教でも自派が一番優れているといってるけれど、それは大昔の、印刷術も電話もなく、人の移動がほぼ徒歩だった時代にアクセス出来る範囲にある宗教では一番と言ったわけで、色々な宗教信者が一緒に暮らす現在それをいうのは利より害の方が大きい。私の禅の師である御老師様は他宗教をくさす言葉は一言半句仰らなかった。
確かに小学校の友達が教会で入信したときに「私は救われるがあんたたちは煉獄」と言い放ったし、私が禅寺で入信したときクリスチャンの友人が牧師執筆の本を貸してくれ、そこには孝行を尽くした妹よりなにもせず親の死後仏壇を買った長男が誉められる仏教は間違っていると書かれていた。
事実に基づかない批判(貧女の一灯をしらんのか)を展開する行為の方が、私にはドン引きだった。さすがにこういうのは今は少なくなっていると思う。
常識を疑う、破るのは仏教にもあるが、それは修行が進んだあと、無意識下の刷り込みを打破するためのもので、一般信者が社会常識を踏みにじっていいということではない。
普遍的な道徳に照らしてアウトなものは宗教でもアウトだと思う。
この二人組は本当に何度も来た。コロナになってやっと音沙汰がなくなって悪いがほっとしている。
20代後半のある日、家で読経中に宗教の勧誘が来た。中断させられてイラっとした私は数珠袈裟のままドアを開けた。そこに立っていた男性は、私の数珠袈裟をみて「これはお邪魔をしました」と深く一礼した。近所のキリスト教会の牧師である事を名乗って、若い女で異教徒の私にもう一度お辞儀をして、信者を引き連れて帰っていった。信仰する者に出会ったことが嬉しいという顔をしていた。「美味これ淡味」本当に価値のあるものは奇をてらわない普通の姿をしているのだという御老師様の言葉が浮かんだ。私も深く一礼した。
自分と宗教は無関係と思ってる時点でカルトは自分の問題にはならない
そうなると人は動かない
自分が全く携わらないプロジェクトを覗き見してチケット作るようなお節介焼きそんないないのと同じ
まぁこれがLGBTとかの問題とも一緒なんだけど、別に反対票を入れたいわけじゃないけど、優先順位的に結局自分に降りかかる問題を優先してしまうのが人の性なんだよね
そして自分のことを無宗教だと思っている国民は60%くらいいるらしい
となるとその時点で過半数だし、仏教徒や神道だと答えた人の信心(というか宗教への関心)もなかなか疑わしいものがある
LGBTを認めるべきか?と聞かれたら認めるべきと答えるし、カルトは規制すべきか?と聞かれたら規制すべきと答えるけど、あくまでもオマケであり優先度低、ストーリーポイント1点くらいストーリーになる(対して経済問題はストーリーポイント8点くらい?)
だから、今絶好のチャンスと言わんばかりにカルト撲滅でアピールしようとしている野党もそこまで強い軸にはならないと思う、LGBTと同じくらいに収まると思う
ではどうしたらカルト問題に関するユーザーストーリーのストーリーポイントが上がるか?
日本人、基本的に宗教と自分は無関係だと思ってるし、それはほぼ未来永劫変わらないんじゃないかな
個人的には統一教会への優遇策の中に税金が教団に流れた証拠があったら優先度を上げる糸口が見つかると思う
結局政治とカネ問題でないと国民の関心を引けないんじゃないかなぁ
センセーショナルな事件だったから今は盛り上がってるけど、そこでカネ関係の問題引っ張り出せなかったら徐々に下火になってLGBTとかと同じレベルの問題に格下げされると思う
もしかしたら国葬問題(金がかかるので国民の関心はこっちの方がデカい)でカルト問題を事実上消滅させようとしてるのかも
仏教徒の皆さん、聞きました?
※個人の感想です。
このような事件が繰り返されてはいけないし、捜査は進められるべきだが、外野はもう少し落ち着かないだろうか。
私は元首相とは全く関わりが無い、むしろはてブで諸々のニュースを見て「こいつはよ引退しねーか」と思っていた人間だ。
しかし、今はこんな外野なぞより余程か深く親交があった人達が、故人の死を悼み祈る時間であって、外野があーでもないこーでもないと騒ぎ立てるのは違うように思える。
初七日は故人が三途の川のほとりに辿り着く日とされているようだ。
家族や親交の深かった人が、故人の最初の川渡りが穏やかになるよう願うらしい。
仏教徒ではないので少し調べた限りではある。
ただ、いち外野ですらまだ消化しきれないのに、近しい人こそ本当に苦しい期間ではないのだろうか。