はてなキーワード: 民俗学とは
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223
特定を恐れずに、その経験談を書いておこうと思う。
400文字詰原稿用紙のレポートを何度も書かされた。学校までの道案内や入学式の報告といった、無味乾燥としたレポートだ。
その400文字は、先生の厳しい添削で真っ赤になるのが常だった。
まともな文章をたった400文字すら書けない。その現実の中で僕らはもがいた。
本を読んだ。
プラトンから「神々の指紋」まである推薦図書のリストがあって、半分は読んだと思う。(神々の指紋は残念ながら読んでいない)
村上春樹や吉本ばななや江國香織が好きな人が仲間内では多かった。一方で、ラノベばかり読むグループもいた。
その時期いちばん読んで良かったと思うのは、佐藤信夫の「レトリック感覚」「レトリック認識」だった。
ただ、読んで良かった、という気持ちだけが残っていて、内容は詳しく覚えていない。
50枚書くことは難しくなかった。
夏にはもう初稿が提出できて、先生にはそれなりに褒めてもらえた。
しかし、自作が何となく気に入らなくて、勝手に最初から書き直してしまった。
書き直した作品は、生徒みんなの前で罵倒された。(トラウマだ)
合計で7回は書き直したと思うけれど、何度やっても評価はされなかった。
そちらも同じように失敗した。
レポートなども合計すると、2年間で2000枚は書いたと思う。
授業では色々な人から話を聴いた。
某有名ゲームのプランニングをしていた人・女性雑誌の編集長・とある古参ハッカー・ラノベの大御所・今ではずいぶん有名になってしまった当時の新人作家……。
映画や演劇もたくさん見せてもらった。レポートの宿題が必ず付いていたけれど。
民俗学で古事記を読んだり、美術学で有名絵画から聖書のシンボルを読み解いたり、構造主義を応用して物語のプロットを組み立てる授業もあった。
教えてくれる人はみんな(出来る範囲で)熱心で、青臭い自分の言葉もちゃんと聞いてくれた。
ちなみに、小説の先生は往年の一太郎ユーザーで、ESCから始めるショートカットばかり使っていた。
キーシーケンスの組み合わせを暗記していたようで、VimやEmacsに通じるところがある。
日本語IMEについて、ATOKは使い物になるが一番良いのはWnnだ、と言っていた。その真意は定かではない。
提出ファイルにはShift-JISのプレーン・テキストを指定し、タイトルや名前の入れ方も詳しく指示していた。おそらくマクロで処理したのだろう。
ただ、提出メディアがフロッピー・ディスクだった。もう10年以上前の話で、テレホーダイの記憶が鮮やかだった頃だ。
僕が通っていた学校に限れば、環境としてそんなに悪いところだとは思わない。
当初は周囲を見回して傲慢になっていたけれど、その鼻柱は見事に折られてしまった。
客観的に言って、使おうと思えばいくらでも使える環境だったと思う。
ただ、進路が難しい。学校を出た後でどう生活を立てていくかが難しい。
卒業生の進路はそれぞれだった。
定職に就いていない人間もきっと多いだろう。
頭の良い同期は大学に転入した。
プロとして活動していると言えるのは、50人の同期の中で3〜5人だと思う。
おそらく最良の選択は、大学に転入し、標準ルートに戻ることだ。
標準ルートを知ることも大事だし、それから生活を安定させてデビューを目指せば良いと思う。
(ただし金が掛かりそうだが……)
何も知らない自分に大きなトラウマを与えてくれたのは、本当にありがたい事だ。
ただ、自我の捨て方は教えてもらえなかった。
こればかりは、学校の外で年齢を重ねてから、知るほかなかった。
某純文学系の新人賞に一度だけ送って落選した実績しかまだない。
そして、日本語よりJavaを書く時間の方が長く、それよりもD言語を書きたいと思う毎日を、無為に過ごしているのだ。
トラバでも言われてしまったけど、「学んだこと」と言いながら、学んだ技術的な内容をあまり書いていなかった。
多少参考になる部分があるかもしれないので、追記してみたい。
ストーリー構成の教科書としては、シド・フィールドが使われていたようだ。
ただ、当時はろくな翻訳が無かったらしく、教師オリジナルのテキストを使っていた。
ハリウッド流の伝統的な4分割構成が基本で、自分のアイディアをとにかくそれに落とし込み、内的整合性を保って読者に提示する技術を教えられた。
たとえば下記のような点をチェックするよう繰り返し言われた。
他にも色々と細かいテクニックについて教えられた。書くときの気構えであったり、推敲や添削の方法であったり。
今はストーリー構成の良書も多いだろうし、自分で教科書を集めて勉強できる環境も整っているかもしれない。
だから、自分で体系的な資料を集め、先生になってくれる人や切磋琢磨できる仲間を見つけ、継続的に書く環境を整えられれば、わざわざ専門学校に行く必要は無いだろう。
専門学校などという人生を浪費する施設より、週末の教室+Webでの作品発表・添削という形の方が適しているかもしれない。今の時代はきっとそうだろう。
レベルの高い卒業生の作品を見ると、内的整合性の点では下手なラノベよりしっかりしているものが多かった。
しかし、
「全体的に整合性が取れていて、ちゃんとした盛り上がりがあり、伝統的な構成に従って無駄なく構成できているか?」
という問題と、
「それが商業的に売れるか?」
というのはまったく別の問題だ。
商業的消費はたぶん非体系的な世界で、体系的技術がそれにどこまで寄与できるかは分からない。
とあるデビューした卒業生の処女作は、内的整合性など何も考えていない、次々と新しい要素がひたすら出現する怪作だった。
その一方で、しっかりした技術のある人が、なかなかデビューの糸口を見つけられないでいる。
ちゃんとした構成や一貫性よりも、変に魅力的な脇役が愛されたりするのが商業の世界だ。
特に日本において、消費者は全体よりも部分を好む傾向が強いと思う。
そして、部分で受けることを狙うのはかなり難しい。
部分を愛する文化というのはきわめてハイコンテクストな文化で、普遍的・一般的な技術が原理的に存在できない気がする。
それは様式美に満ちた世界で、日本の文化はそういった様式美の継ぎ足し・連続で出来上がっているようにも思う。
こういった事は加藤修一の「日本文学史序説」に素晴らしくまとまっていて、とても面白かったので、創作に関わる人は序章だけでも全員読んだ方が良いと思う。
マンガもゲームもアニメもラノベも全部これで説明できるし、将来的にどんなものが日本で流行するか判別する目安にもできそう。
以上を要約すると、ちくま学芸文庫から上下巻で出ている加藤修一「日本文学史序説」を3000円で思い切って買おう、それを読めば専門学校に行かなくても大丈夫、場合によってはラノベを書かないで済ませられるかもしれない、ということだ。
男子中学生「おっぱい触らして」と懇願すること1時間 - Togetter
これ見て思い出した。
俺が中学生のときに一緒に図書委員してた女子がすげーかわいかったんだけど、シモネタ大好きだったんだよね。
本の整理してたら、民俗学かなんかの本っぽいのもってきて「これ見てこれ見てwww」って見せてきたのが、アフリカっぽい土偶で男性器がやたら強調されてるやつ。
一事が万事そんな感じ。
割りとシモネタ好きな自分でも女子に対しては自重してたのに、こいつ。。。と思った。
「。。。」の内容は、このこはやっぱり俺なんてどうでもいいと思ってるんだろうなーっていう落胆と、それ抜きにしてもかわいいのにそんなことを言うなんてという驚き。
マジでお願いしたら触らせてくれたかもとか今になって後悔してるよ。
小学生のスカートめくりしかり、その時にしかできないことがある重みっていうのを自覚したほうがいい。
って一番伝えたい相手は増田なんかまず見てねーだろうけど。
それが許されるうちは。
宗教学者の直江廣治や上田正昭の本に載ってるし宗教民俗学って著名な地方本にも書いてるけど
元来日本の神道は女性中心社会から出来てる。その中で処女は女性の中で最も美しい乙女とされてて、
例えば住吉さんは海神の使者として乙女=処女が選ばれて豊穣を願う祭を開催してる。
山口花祭りも同じく処女が神聖化されてる。大神大社では女性の蛇の神様を祀ってる(太陽信仰も実施)。
ちなみに東北山岳信仰においては男性が神格化されてる。中部では男根祭といって男の性器を祀るなど男性中心の社会が形成されてたりする。
でもこれらは全部仏教伝来後に広まった風習で昔からあったわけじゃない。
民俗学なんて差別の正当化のために作ったニセ学問でしょ、あんなの学問じゃないよ。古き良き日本が正しくて、日本人の男が女と外国人を支配する正当性を論じるってゆう、安倍と同じ思想でしょ。
ぶっちゃけフェミニズムもイズムですから思想で、やっぱりニセ学問だけど、女性や外国人に抑圧的な社会の悪を是正するための思想だからね。社会の悪を温存して差別を守るための思想と一緒にしないでくれる?
ケチャマンって言葉がありまして(下衆な言葉だしもう死語だけど)、キメェからできれば遠慮したい男が普通です
んで、ケガレ観念があった前近代の時代は、ケガレイコール気枯れであって、近づくと活気を奪われてしまうんですよね
近づきたいっすかね?
おぞましくて近づきたくないものであると設定することで暴力にさらされるリスクを軽減したのだという横増田の論は、民俗学の世界観では的外れじゃないですよ
そもそも、集落に何人女がいると思ってんですか?
「女の家」と言って、月経期間の女が何人か集まって作業や雑談をしてたわけでして、孤立はしませんよ
確かに差別ではあるんですけど、差別することで手を出したくないようにするって発想も確かにあるんですよ
アイヌが子供にうんことかいう名前を付けて神様が手を出さないようにしていたって話、聞いたことないですか?
(和人もしてたんですが、マジョリティの理屈なんて聞きたくないでしょうからマイノリティの理屈で説明しました)
「女性は差別されてきたんだ!許されざる差別だ!女性への抑圧だ!それ以外の解釈は許さん!」って前提と結論を最初から決定しているフェミニズムの世界観の方がよっぽど異常だと思いますよ
自分らで思ってるわりには有力でも有名でもないことで有名な私立大学の文系学部に入った春、僕は貧乏人たちと出会った。
奨学金の存在自体は知っていた。優秀な学生や困窮の極みにある優秀な学生が実質無料で高等教育が受けられるなんて、日本はなんて良い国なんだろうと思っていた。さすがは先進国だ。福祉が違う。おかげでどこかの学生みたいにバイトなんかしなくてもいいし、一心に勉学に打ち込める。うち程度の大学にはあまり縁のない話だが(まあしかしその程度でも援助に値する将来性のある人材はいるものだ)ともかくもすばらしい。大学全入時代とは、つまりみんなが好きに好きな分野を学べる、そういう幸福な時代なのだと勘違いしていた。国がお金を「くれる」ものと。
例えば目の前に一人の先輩がいる。彼をA先輩と呼ぼう。A先輩はまるで平凡なナリと面の童貞で、平凡な成績で、おそらく家庭環境も平凡なのだと推測される。父がサラリーマンで、母が主婦兼パートタイマーで、かつ子ども自身は地方公務員を志向しているような、僕の感覚すれば極めて平均的でありふれた家族。一億総中流の名残。
意味がわからない。彼の成績はなるほど悪くはないが、抜群ではないし、っていうか講義サボってるし、飲み会で聞いた生い立ちには生活保護の「せ」の字も出て来なかった。
その上バイトもしているという。
意味がわからない。あんた、奨学金受けてるんだろ? すると彼は不思議そうな顔でこう答えた。
聞けば、大学四年間で支援され他数百万を、後日弁済しないといけないという。する義務があるという。血の気が引いた。
地方公務員の給料というのがいかほどは知らないが、少なくとも完全に返済するのに何年もかかる額であることはわかる。自分の生活を切り詰めないと、ひねり出せないような負担だ。バカなのかと思った。なんでわざわざ借金しに大学に通ってるんだ? なんで高校卒業したら即就職しなかったんだ? そんないい大学でもないだろ? そんないい将来が望めるような就職予備校じゃねえだろ? マゾなのか?
もう一人、A先輩と似たような境遇の童貞が存在する。彼をB先輩と呼ぼう。バカのBだ。B先輩がA先輩と違う点は、大学院を志望している点だった。しかも、うちの大学の院。専攻は民俗学。
バカなのだろうか。バカ決定でいいと思う。
私立文系の院が絞首台への階段であることは今時分、三歳のガキでも知っている。僕ですら知っている。信じがたいことに彼は院で更に奨学金、もういい借金と呼ぼうこれは借金だ、大学院で借金を上積みしようとしている。っていうか2012年現在、彼は現在完了形で借金した。学部時代の借金と連結すると、総額で一千万に達する。
今のところ彼が富豪の隠し子で将来的に大いなる遺産が転がり込んできて紳士に成り上がるという予定は聞かない。今儲かるベンチャーの社長の出身のモードが民俗学博士号にあるという事実も聞かない。もしかしたら、その博士号がいずれ投資の倍額で売却できる日が来るかもしれない。
B先輩はA先輩や僕と違い、学問的なポテンシャルやアンビションに恵まれていた。
朝、大学図書館が開くとともに分厚い専門書を抱えて閉館時間まで篭りきりでノートをとるような人。専門外からするとフィールドワークとかしなくていいの?などと心配してしまうが、ある程度は優秀な学生ではあると思う。ある程度までは。
残念ながら、飛び抜けて優秀かといえばそうではない。彼以上の人材は世の中にゴロゴロしていて、たとえばそういう人達は国立大の院などへ籍を置いているはずだ。その差を埋めるほどに処世に長けているかといえば、大人しすぎて不器用な人なので、どうだろうか。
彼自身も漠然とした不安は度々口にしている。「このままでは先は暗い」「不安だ」。バカか。だったら、さっさとスーツ着て説明会行って訳知り顔で頷きながらメモ帳にこまめにネコの落書きを描きつつ質問タイムになったら何も考えてなくても元気よく手をあげろ。
けれど、僕はB先輩がそんなはしたない真似をできる人間ではないことを知っている。それだから、一千万の借金をひっかぶったわけだ。彼が引っ込み思案だという、それだけの理由で。まるでクソみたいに素晴らしい世界だとは思わないか。
こうした個別のケース経験から僕が学んだのは「『中流世帯』の家庭の子供もフツーに奨学金を得ている」「彼らは特に優秀なわけでも、学問的に意欲が高いわけでもない」という事実だった。一人暮らし先に引っ越す前夜、僕は父親から「お前の入る大学なんて、遊ぶかバイトするためにしか学校に通わない役立たずどもしかいない」と失望気味に脅かされたが、彼の認識は誤っていた。彼らは借金をするために大学に通っていたのだ。
ショックだった。僕はそれまで「大学に進学するには『普通の家庭』の収入で十分」と思っていたから。だって、そうじゃないと日本人の半分も大学なんかいかないでしょ? そうじゃないと誰もこんな大学入らないでしょ?
B先輩のように「学問しかない」人間ならまだ理解できる。人生を賭けるとまではいかなくても、わずかでも学問に興味を抱く人間ならば平等に機会を与えられるべきだと思う。でもほとんどの三流大学生に学習意欲などはない。彼らはただ高校時代や中学時代とおなじように「大卒」の資格を得るためだけに出席カードに名前を書いている。
わからない。そこまでして「大卒」の資格を得たいものなのか? 何百万もの借金に見合うような肩書きなのか? 半世紀前ならいざしらず、就職市場は冷えきっている現在では数年で借金を完済できるような職などまず望めない。学生時代にかけられた呪いと向こう十年二十年はつきあっていかなくてはならない。「大卒」資格と引換えに。
僕の地元の友人は、高卒で地元企業に就職した。彼は家に相応の金を入れつつ、こつこつと貯金をためながら現在の彼女との結婚のために準備しているという。
彼は兄を憎んでいる。彼の兄はやはり地方の無名私立大学に入学して、穀潰し生活の六年目に突入しており、その学費の一部は友人の「上納金」から出ている。長男にまだ一定の優越権が認められている田舎の話だ。
友人はそれなりに頭は良かった。勉強好きではなかったが、努力家だった。もし将来を見据えて本腰をいれて勉強に励めば、僕なんかよりランクが上の大学だって夢じゃなかったはずだ。だが彼は「うちにはお金がないから」という理由から進学を断念して、高校で僕と道を違えた。僕は彼の家の貧乏を哀れんだ。彼が「特別なケース」だと錯覚した。でもそうじゃなかったんだ。友人の進学を阻んだのは「お家は長男のために」という冷徹な田舎の力学であって、「経済的理由」は二次的な障壁に過ぎなかった。今うちの大学は、彼の家とそこまで経済事情の違わない別の地方の子供たちで溢れている。彼らには友人と違って、憎むべき「兄」が存在しない。自分を恨むしかない。惨めな私立にしか入れなかった自分の頭を。
就活生の狂気じみたテンションは、そんな後ろ暗さを払拭したいところから生まれたのかもしれない。そのチャンスを逃したら、借金は一気に人生を破滅させる獣へと変わるのだ。意識が高くないと、やってはいけないのだろう。
経済的価値においてはすでにひっくり返っている気がしないでもない「大卒」の肩書きを、それでも「行っといた方がベター」という空気のために、手に入れなければならない。「大卒」は「高卒」よりも選択肢の幅が広がるし、立派な生活が保証されるという。本当だろうか。東大京大早慶以外の大学でもその神話は有効なのだろうか? 明日潰れるともしれない中小ブラック営業職で十八時間労働を強いられる「大卒」は定時であがれる僕の友人より幸せなのだろうか。二十年後三十年後の給料に差はでるかもしれない。だが二十年後三十年後に前者はまだ生存していられるのだろうか。
飲み会の席で、A先輩の伯父さんが最近自殺したという話を朗らかにされた。
「そうなんだよ、死ねば奨学金帳消しになるんだよ、死ねばさあ〜」
なぜ彼は笑っていたのだろう。
なんか、前提が全然見えないのでお前が何を言いたいのかわからん。
人間の何について何の根拠をもって4種類に分類しようとしているのか不明。
お前が、解剖学を根拠にしているのか心理学を根拠にしているのか社会学を根拠にしているかによって科学的かどうかが決まる。
「丙午」(60種)は科学的な事になる
お前が、数学を根拠にしているのか、歴史学を根拠にしているのか、民俗学を根拠にしているのか、五行や風水、陰陽を根拠にしているのか、オカルトを根拠にしているのかで科学的かどうかが決まる。
因果関係や相関関係の複雑さが分母に現われるのだから、分母に文句を言うのは非常に科学的だと思うが。
人は他のいかなる動物よりも慎重に研究されてきたが、彼らが一つの種あるいは人種と見なされるべきかどうか、有能な調査者の間にも多様な意見があり、どれもあり得そうである:2(ヴァレイ)、3(ジャッキノー)、4(カント)、5(ブルーメンバハ)、6(ビュフォン)、7(ハンター)、8(アガシー)、11(ピカリング)、15(ボリセントヴィンセント)、16(デ・ムーラン)、22(モートン)、60(クロフォード)そしてバークによれば63。この判断の多様性は人種が種として認められるべきではないと言うことを意味しない。しかし、人々は連続的に変わっていき、はっきりとした区別がほとんど不可能なことを表している。
で、ほかのレス見てるとABO式血液型分類のことを言いたいらしいが、ABO式単独では日本人の2/3ぐらいしか分類できないんだよね。
というか、ABO式だけで分類すると輸血ミスるわ。
すでに、Rh式も一般的に使われているだろ?
血液分類法が100種類以上存在する現在において、ABO式単独なんて微妙すぎるんだよ。
さらに、ABO式だけ見ても、亜型って種別が存在する。
ちなみに、俺は普段はO判定されてたんだけど、血液検査でA型に振れたことがあって、調べた結果A3辺りじゃないかな?って感じ。
今年も怪談の季節がやってきた
某所でこの呼称を見て感銘を受けたので
非常に端的に特徴を表現していると思う
俺はそれまでは「僕の考えた最強の恐い話」とか呼んでたんだけどこっちのほうがいい
ネットで怖い話集めようぜとか言うと必ず出てくるひとつのステレオタイプな話の類型
匿名型なため作者は不明だが同一の作者を疑わせるほど起承転結がほぼ同じ
例えば八尺様・姦姦蛇螺・邪視・コトリバコ・ヤマノケ・リョウメンスクナなど
特徴的な部分としては
・ある日悪霊、妖怪、祟神と出会い死ぬかもしくは発狂するような強力で確実な呪いを受ける
・そのような非常に危険な存在であるのに筆者及びその仲間は地元でも誰もその存在を知らない
・カタカナや意味不明な漢字の名前を持つこの話以外ではほぼ聞いたことがない名称の存在
・その呪いを避けるために聞いたこともないような特徴的で手順の多い儀式を要求される
・その呪ってくる存在の来歴を事細かに説明してくれる存在が出てくる
・設定としては初めて聞かされた話のはずだが細かい部分までよく覚えている
・全体的に呪う存在の由来やそれを払う儀式の説明が事細かで非常に冗長
民俗学的には派生として各地に似たような話があるのは当然だと言う人がいるかもしれないが
個人的には怪談はつくり話でも怖がって楽しめれば一向にかまわないと思っているが
怖がらせようというよりも自分の設定を聞いてほしいというような自己顕示欲を感じるためこの手の話が嫌いだ
まぁ稲川淳二が嫌いでしょうがないという人もいるので好き好きなのかもしれないが
こういう話を書く人読んで面白いと思う人間はどういう人間なのだろう
例えるならリングを自分の体験した話として語られるような違和感がある
「生物としての」と言っているものに対して、民俗学や文化人類学を持ち出すことに違和感を感じなかったのだろうか(自然人類学ならまだわかる)。
じゃあ生物学。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%8D%E5%81%B6%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
生物がどの配偶システムを採用するかは食性や生活環境の影響を受ける。たとえば鳥類のように子が自力でエサをとるのが困難だったり、子育てに長い時間や大きな労力がかかる場合には一夫一妻制が発達しやすい。一夫多妻制と一妻多夫制はオスとメスの潜在的繁殖速度の差によってどちらが性が希少になるか(実効性比)できまるが、実効性比はやはり食性や生態の影響を受ける。
なーんかあなたからはオスは子を沢山ばらまくのが正しく、メスは一つの子を大事に育てるのが正しく、自然と一夫多妻制になる、というニュアンスを感じるが、バリエーションが多いから動物一般の性質として一夫多妻制というのは成り立たない(少ないとも思わないけど)。ヒトのように子育てに何年もかかる場合、一夫一妻制になってしまう。
俺の持っていた本は民族学・文化人類学だけど、ヒトの始まりの頃についてかなり詳細に論じていたので使ったまでです。そしてそれは生物学と整合的だ。
このお勧めタグいいかもとか使ったら似たようなのが複数作られちゃったり
こういうことありませんか?
目当てのタグがどこに行ったか分かりづらくなるのです
これは結構、いらいらするものです
というのがコンセプトです
私は次のHPを参照してます
日本十進分類法(NDC)9版 -2次区分表-
http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/ndc/ndc.html
例えば、この記事だったら
00 総記や
002 知識. 学問. 学術
形式としてはブログ
になると思います
たとえば、私のは今こんな風になってます※リスト形式表示
*ブログ(29)
*動画(90)
*本(19)
00 総記(2)
002 知識. 学問. 学術(55)
010 図書館(4)
140 心理学(9)
160 宗教(2)
20 歴史(6)
30 社会科学(9)
320 法律(5)
330 経済(4)
40 自然科学(8)
740 写真(18)
830 英語(7)
※ここから下は関連用語
爽快の一言です。
文系でlifehackの記事をペタペタ張ってるとこんな感じです
ちょっと手間かかるけどイライラっとしてる人は試してみてください
http://anond.hatelabo.jp/20081011132603
追記:暇だし面白いので、ブクマ向けに追記を。あ、オーガズムでしたねwご指摘有り難う。語源は一緒なんですかね?器官。
タイトルは釣りです、当然。idは書きません。それは、自分の責任だから。
はてなが出会いのきっかけだったというだけで、ただのよくある色恋沙汰です。ほんと、村ですねー、はてなは。夜這いとかありそう。って民俗学的に言ってみる。
ヘビーユーザーではないのですが。まさか、自分がこういうことになるとは。
私としては、彼女にしてほしかったのですが、あちらは単なる遊びだったみたいです。
そういうひとだと見抜けなかった私が悪い。
あーあ。
つらいので、はてな退会も考えましたが、やめるならむしろあっちだろと考え直し、やめませんw
じゃあちょっと僕もマジレスし返しちゃうよ!
この人のコラムでは民俗学的に差別の根源を追っているのであって、
確かに被差別部落の絶対数は東の方が少ないのはきっと事実だと思う。
しかし、四民平等を謳った明治の時代からもう140年も経とうとしているのに、
未だに根強い差別が残っているというのは考えにくい(住居移転の自由は明治憲法にだって記されているのに!)
だいたい、これを読んでいる中の何人が140年前の先祖がどこに住んでたか知ってるというのだろうか。
それじゃあ単なる母数の多寡以外に何らかの原因があるんじゃないかな? と考えたとき、
そこで思いつくのが同和ヤクザやアカの存在だったってわけですよ。
そいつらのマッチポンプのおかげで未だに差別があるように見せかけられたり、
また差別を生み出してるんじゃないかなーと。
興味があったら図書館でいろいろ調べられそうな事件をセレクトしてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%B9%BF%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AC%A1%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
農民の国だろjk
得意げな顔して何が、農民の国、だ。
お前は本当に農本主義者なのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、農民って言いたいだけちゃうんかと。
日本通の俺から言わせてもらえば今、日本通の間での最新流行はやっぱり、
網野史観、これだね。
漁民と職人ってのは定住地を持たず、文化を伝播させた。そん代わり国家からは把握されにくい。これ。
で、それに無縁・公界・楽(アジール)。これ最強。
しかしこれを言うと次から民俗学会にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
まあお前らド素人は、柳田の『都市と農村』でも読んで「常民文化マンセー」とか言ってなさいってこった。
古い。古いなー(笑
あの質問主は頭がおかしいわけでも何でも無い。宗教なんだよ。地下活動しているので知らなくても当然だが。
唯一神「ありがとう」をあがめるありがとう教の信者は、基本的には紹介制になっていて、近所の教会に飛び込みで入信するってわけにはいかない。というか、教会は持っていない。「この人は正しく倫理的で正義感にあふれ、礼の心を持ち合わせた強き人です」と既存信者に紹介してもらって、初めて入信の扉を叩くことができる。宗教と言うよりフリーメーソン型の結社と言っていい。
「ありがとう」は神の御名であり、軽々しく口にする事は冒涜に当たる。同様なケースはユダヤ教にも見られ、教徒は恐れ多い神の名(ヤーウェとも、ヤハベ、エホバとも)を日常口にするのを忌避し、その頭文字であるユッド(あるいはヨッド)で神の事を話す。この手の言霊信仰に近い考え方は世界各地に見られる。
ありがとう教において、唯一にして絶対の神の名は、正しい時と場所で、清らかなる心の元に発するものであり、軽々しく口にする事は万死に値する。一方で、基本的に地下組織的であるこの教団は、表立って「ありがとうを正しい心で」と布教できないため、信者は自分が選ばれたものであると言う自負と、愚民への怒りの間でさいなまされる事になる。
「ありがとう」という秘儀がこのように公の場で語られることは珍しい。だが、それに正しく応じているものがいることは、これが単なる怒りの発露ではなく秘密の通信の一部であることをにおわせる。たぶん「チチキトク・スグカエレ」で麻薬取引の合図とするような、何らかの取り決めがあったのだろう。
それにしてもうかつだっのではないか。意図せぬこととは言え、これほど一般から注目を浴びてしまっては、教団内部での地位が危ないのではないか。モーツアルトはフリーメーソンの秘儀をオペラ「魔笛」の中で漏らしたために殺されたとも言われている。この二人にどのような運命が待ち構えているのか、深く考えるのは避けておく。
ちなみに、ありがとう教のほかにも、おはよう教、しんせつ教、すみません教といった、秘密教団があってそれぞれ活動している。ぐぐっても引っかからないが、公安がマークしているし、時々民俗学系雑誌で話題になっている事がある。
人が人として獲得してきた物語の歴史において、圧倒的に「事実を元にした」の方が多い。逆に言えば「フィクション」なんてのは近代的作者が発生して以降のごく最近の発明で。物語=作者の内面の発露、ではなく、物語=おもしろくて役に立つ現実、なわけ。
ってゆー。あれだな。私見だけどこいつは性善説。「このおもしろい話をしている人が、誰の得にもならない嘘をついているはずはない」っつー。
たとえば? そうねぇ。世界でもっともヒットした物語である聖書のことを考えてみればすぐわかる。
「聖書がリアルじゃない」って認識がひろまったのはつい最近だろ? まして「聖書が本当だったか検証しよう」「聖書の本当の作者は誰だ?」なんてのも。
で、そーゆー古い意味での物語は、近代以降地下に押し込められたとは言え、常に揺り返しを試みてきているわけ。巷間の昔話、民話。あるいは民俗学で言う「世間話」。ちょっと前だと『本当にあった怖い話』『学校の怪談』ブームとかな。
で、現在。なんか「リゾームと自我の分散」とか言いたくなってくるんだけど、なんだっけ、美嘉だっけ、彼女って「作家」じゃないでしょ。いろんな意味で。近代的作家ってゆーのは確固たる自我と思想と内面と教養があって、「物語」はその従属物ってのがふつーでしょ。最初の方に書いた図の不等号はそういうことなんだけど。たとえバカにされがちなラノベの作家だって、そう意味じゃ立派な「作家」だ。川上未映子は川上未映子でないと『卵と乳』書けないけど、美嘉ってのは誰でも良いでしょ。
そして「恋空」は「昔話」。
それを近代文学の文脈で把握/批判使用とするのは無為なんじゃねぇのかなぁ。と。
で、これと同じ話は報道に対する姿勢とも通底する。
あるいはWeb上のあらゆる情報に対する「釣り?」という反応とも。
両方とも性善説というか、人間の「フィクション許容量」に関する話なんだけどね。
まぁそんな話を途中まで書いたんだけど、あまりの陳腐さに吐き気がして止めて2週間。
スティッキーズに残ってたんだけど、次に書きたいことが出てきたから邪魔だしもういいやっ、で公開してみる。
「女の子の指が9号っていうのは、女の子のウエストはみんな55センチっていうくらい嘘だ。都市伝説だ」とある友人に言ったら、「としでんせつってなに?」という予想もしていない斜め上の反応が返ってきた。でも説明できない私。「何ていうか……みんなが本当だとおもっている嘘話というか……ほら口裂け女とか、死体洗いのバイトとか……」と何とか言葉を搾り出すと、「口裂け女を信じてる人なんかおらんやろー」とすぐさまリターン。もごもご。「いや、あの時代小学生はみんな信じてたんじゃない?」とか弱いにもほどがある抵抗を示す私。「ていうか、ネットとかの一部の用語じゃなくて一般的な用語なん?」と聞かれる。それは間違いない。「民俗学とかで都市伝説を研究対象にしてる人とかいると思うから一般的な用語だと思う……ネットスラングとかじゃない……はず」「どういう字書くん?としって」「え、シティの都市な」「あーそういうのかー何か具体例挙げてよー」「ベッドの下の斧男とか…」「何それ?」「う…じゃあ、猫レンジ」「えーーーー!あれって嘘なん?」「そうやったと思うけど。訴訟社会を皮肉った小話があまりにも上手くできててみんな信じちゃっただったか、PL法かなんかの説明の誇張した例が事実だと広まったとか何とかそんなだったか」「えー…そうなんやーほんまにー?嘘ー私ずっと信じてた」
「多分都市伝説は、故意に広めた嘘話じゃなくて、自然発生的に広まって定着した嘘、みたいなもんなんだよきっと」ってことで決着した。むしろ友人は猫レンジが嘘だったことにしか興味を示してなかった。私はむしろ、都市伝説がよく知られた単語じゃないことにびっくりした。なんだろ、小説とかで知らない内に知ったのかな……
21世紀、恋や仕事やセックスなどにおいて「人間力」の重要性はますます高まるばかりだ。しかし、同時に私たちは「人間力」の奴隷と成り下がることは避けなければはいけない。『人間力』を出版したばかりのモハメド・サファリ・ビデ教授(社会学)に話を聞いた。
―――昨年暮に、ビデ教授は『人間力』(ごま書房)をお出しになったわけですが―
ビデ はい、おかげさまで。
―――ですが、昨今の「人間力」に対しては批判的なスタンスを堅持しているように見受けられるのですが。
ビデ そうですね。「人間力」は現在、特にヒューマンマネージメント界隈で濫用されている言葉ですが、もともとは社会学、とくに歴史社会学の厳密な議論の中から生まれてきた概念であることをまったく考慮されていない点は大変危惧していますね。
―――進化論を語る人の大半が、ダーウィンの原著を読んだことさえない、みたいな状況でしょうか。
ビデ ああ、それに近いですね(笑)。「人間力」というのは、まあ、直感的にわかりやすいでしょう?「人間」の「力」ですから。そこに、そもそもの誤解が生まれる余地があったのでしょう。
歴史的に見ると、「人間力」は、フランス系移民でありムチャパッカ王国の民俗学の権威、プロフェッサー・アナール de オナール氏(1915-1960)によってまず最初に提唱されました。非常に複雑難解な理論だったそうで、しかもかなりの攻撃的・先進的な性格を持った内容であり、当時の学会からは異端視され続けたことが明らかとなっています。
―――オナール氏の「人間力」理論が生まれた背景はどのようなものだったのでしょうか?
ビデ 数々の史料が明らかにするところによれば、ある時オナール氏が友人と風俗店に行ったときの出来事が直接のきっかけとなっているようです。2 人で行った風俗店で彼の友人が「Et mov li’nouvi moe favos noch…(特別なサービスがあったデヘヘ…)」と充実した顔で出てきた時、「Cheuvi oi montre favos noch o va monte! (同じ金払ってんのにオレには無かったぞッ)」と怒り狂い、オレには何が足りないのか?勉強もコイツより出来る、ルックスもそう悪くない、ナゼ?ナゼなんだ?オレには一体何が足りず「特別なサービス」が受けられなかったんだーっ!?と、風俗店の前で悩んだ事がキッカケで、人間の本質を見極めるべく彼の一生を賭して挑んだと証言されています。
―――なるほど。
ビデ その後ムチャパッカ王国はムツゴロウ王国と併合(ムチャゴロウ紛争1962??63年)、それに伴い論文「人間力」は歴史の裏側に葬られてしまっていました。しかし彼の論文に感銘を受けた一部の科学者が政府の目を掻い潜りながら秘密裏に「人間力」理論を元に個人の「人間力」を算出するマトリックスを確立、現在に至ります。近年では情報機関「A.N.A.R.U」をはじめ政府機関、一部の世界的トップ企業などで人材採用時に使われています。
―――その人間力「マトリックス」とはどのようなのものなのですか?私たちも利用可能でしょうか。
ビデ 「人間力」マトリックスは非常に複雑であり、正確な算出には困難が伴います。しかし勉強ダメでも仕事がデキる(どうして?)、ブサイクなのにちんこがデカイ(いつ使うの?)、バスト90でウエスト80(巨乳なのか?それは巨乳なのか?)等、いいのか悪いのか?何が足りないのか?目には見えないスキルを持っているのか?という事を人間として総合的に一目瞭然で判断する事の出来る素晴らしい公式であるという点では、非常に精密であり強力な理論です。
―――それは恐怖ですね(笑)。逆に言えば、支配権力によってに容易に利用される危険性もあるのでは―
ビデ そのとおりですね。したがっていま我々がすべきことは、人間力を批判的に読み解くこと、つまりA.N.A.R.U.リテラシーの育成のです。そして、そのためにはアナル教育が切に求められています。
―――今年もビデ教授は、アナル=アナリストととしてますますご活躍されることでしょうね。今日は貴重なお話をありがとうございました。
[Acknowledgements]
This interview is inspired by and based on http://d.hatena.ne.jp/nosweat/20051202/1133514330.