「他人の体温を感じられたら,束の間でも落ち着く」
わかります。
今こうやって書き込んでいるのも、それに近いです。
体温はないけど、誰かが反応してくれるってだけで落ち着きます。
「風俗通いしているダメ人間」なんて感覚が襲ってくるくらいに。
お互い乗り切りましょう。
うちもよく似たような感じで結婚したんだが,
子供が欲しいと嫁が言い出して凄くもめてる。
なんていうか,猛烈に嫁とセックスするのが嫌なんだ。生理的に嫌。
アソコが匂うとかそんな問題じゃなくて,嫁とセックスするのが単純に受け付けなくなった。
結婚前はそんな感じでもなかったんだけどな。。
本気でいま,離婚を考えてます。
惚れてるところに水を差すようで申し訳ないが
たとえ結婚しても長続きしないと思う
遠回しにフラれているようにしか見えない
俺は彼女には君の他にもう1人真剣に考えてる相手がいると見たけど、どうかな?
「万が一にも子供ができたらイヤだ」を本音を汲んで意訳すると
「万が一子供ができたらどっちの子供かわからない」ではないかと。
ショック与えてしまったらゴメン。
ただ、心の準備はしておいた方がいい
ほんと、心配りとかはできる子なんですよ。
ちょっと意地張るところも可愛いし。
でも、堅いなあと思うところと、意地なのかなんなのか、なんか弱いところ見せたくないのか。
そんなのがあって、今回些細なところからエスカレートしたのかも。
でも、そのまま平行線じゃもう……
私がヘタレ気味でもっと早くに相手の親とかにも会っておいたりちゃっちゃとすればよかったのかな。
察してあげるのが苦手な自分が嫌になる。
そっか,ゴメンよ。
俺も軽鬱みたいなんだが,人肌が恋しくて風俗通いしているダメ人間だ。
気が晴れるとか,そういうんじゃない。
他人の体温を感じられたら,束の間でも落ち着くものなんだ。
私が通った公立小学校は郊外の都営団地に隣接していて、同級生の半数以上は団地の子だった。都内郊外といってもいわゆるニュータウンとは違い、古くからの住民が多く住む町だ。団地の意味は例えば練馬や町田とはだいぶ違っていた。つまり、少し言いづらいことだけど、その近辺は地区有数のワイルドサイドと見なされていた。
日光に修学旅行に行ったとき、入口に大鳥居がある駐車場にバスが入ろうとしたことがあった。前方で先生方が何か話し合いをはじめ、バスは入口の手前で止まった。10人ちょっとがそこで下りた。振り返って見てみると、後ろのバスでも同じことが起きていた。宗教上の理由で鳥居をくぐれない子がいるので、と先生が簡潔に説明した。その口調から毎年同じようなことが起きてるんだろうなと思った。先に下りた子と私達は駐車場の外で合流し、そのまま滞りなく観光地だかお昼だかに向かった。家に帰ってから「うちは鳥居をくぐってもだいじょうぶなの?」と母親に確認して、「今までさんざんくぐってるじゃない」と笑い飛ばされた。
4年生の時、隣のクラス担任の先生の口癖は「勉強が好きじゃない子が無理する必要はない」だった。授業時間なのに校庭で騒いでる子がたくさんいるなと思って見てみると、隣のクラスの子達が半分外で遊んでいて半分教室で勉強していたということもあった。よく問題にならなかったものだと思う(なっていたのかもしれない)。50代にもうすぐ手が届くという年頃の男性で、決して声を荒らげない先生だった。当然のことながらPTAからの評判は悪く、生徒には人気があった。
6年生の時の担任の先生はやはり中年の男性で、保護者から有志を募って読書会を開いていた。うろ覚えだが、灰谷健次郎や村上春樹、アレックス・ヘイリー、それに上野千鶴子などがリストアップされていたはずだ。
君が代や国旗の問題がマスコミでちらほら取り上げられるようになってから数年経つ時期だった。式典では起立しない先生の方が多かった。高学年に上がると毎年8月は原爆のことばかり勉強した。ばりばりの日教組の先生が集まっていたと聞いたのは卒業してしばらくしてからだったが、たぶん小学生の頃に聞いても意味が分からなかっただろうと思う。
私はその後私立の女子校を経て地味な国立大学に進み、事務職に就いた。取り立てて特筆すべきこともない平凡な進路だ。
自分が通った小学校がどちらかというと変わったところだとはっきり気づいたのは大人になってからだ。それとももしかして私が勝手にそう勘違いしているだけで、その頃はよくあることだったのかもしれない。とりあえず私としてはけっこう楽しかったです。
>単純に金持ち=雇用者が海外へ行ってしまうと、日本の雇用が危うくなるって話。
金持ちといっても個人投資家のインパクトなんてたいしたことないからなぁ。
自社ビルの比喩でいいたかったのは、資本輸出自体は簡単にできても、
企業に重税をかける、のもっとも極端な場合は企業の国有化となります。
1950年代の英国でやって(あと共産圏の諸国でもっと過激にやって)、
少なくとも最初のうちはうまくいっているようにみえました。
世の中が進歩せず、実物資産のリプレースが必要なければうまくいくのです。
要するに社会主義化というのは「株主を追い出し、従業員が会社を所有する」
マネジメント・バイアウトを国単位でやることなので。
追記:今は資本輸出はほとんど自由ですけど、昭和の頃は外為法が厳しくて
外国の株や債券はおろか、海外旅行でぜいたく品を買うことさえ制限されてました。
もし日本が社会主義的になるとしたら、このへんの法律が厳しくなることに
なります。実際、金商法にはそういう側面があるわけです
逃げるって言葉で誤解を生んだみたいたけど、
単純に金持ち=雇用者が海外へ行ってしまうと、日本の雇用が危うくなるって話。
中小企業のほとんどがつぶれんじゃね?
元増田です。
基本的に気遣いのできない子じゃないと思ってるんだけど。
ちゃんと話したいから電話するよ、もう家着いて落ち着いた?(食事とかも終わってるかどうか)
って返ってきた。
仕事で本当に疲れてるのもあるんだろうけど。
メールもなし、ってあたりに。
ちょっと絶望を感じたよ。
インターネットがどんなに広大な世界であっても、自分の目の前にある画面はせいぜい十七インチ程度の小さな平面であり、大した奥行きもなく、ましてや地理的な広がりを体感することなどできない。海外から発信された情報を見ることと実際に海外旅行することのあいだには絶望的なまでの距離があって、前者はどんなに大金をはたいたところで平面的な視覚と聴覚から抜け出せない。いや海外なんて大袈裟な話ではなく、部屋の内と外、でもいいんだけど。
ネットで猫の写真を見るのが好きで、俺もデジタル一眼レフを買ってみた。東京の谷中に猫がたくさんいる、とネットで調べて、カメラを持って訪れてみたけれど、どこにもいない。帰ってきてまた部屋に引き籠もり、ネットの向こうの世界を狭い画面から覗き見て、悶々としていた。暗い部屋の片隅に縮こまって画面を覗いている自分が、覗き部屋にいるように思われてくる。映画『パリ、テキサス』の覗き部屋では窓の向こうに人がいたけれど、俺が見ている画面の裏側にはケーブルの配線があるだけで、あとは薄汚れた壁しかなかった。
ネットを利用する楽しみというのは、べつに性的な意味でなくとも一種の窃視症ではないかと思える。手の届かない、手に入らないものを、望遠レンズで覗き見る。情報収集に長けている者は600mmくらいの超望遠を持っていて、普通のネット利用者は55-200mmくらいのズームレンズでとりあえず満足する。遠くのものがよく見えたとしても、手は伸びないから決して届かない。手の届かないものをいつまで俺は追いかけてんだろう、十七インチの平面をいつまで俺は見ているんだろうと思い、ひどく疲れたので、畳に寝転がって天井を見た。
大の字になって見上げた天井と、四畳半の空間が、とてつもなく大きいものに感じられて目眩がする。自分の居場所を拡げたいと考えるなら、この部屋から地続きの平面や空間を探すしかないだろうな、と思った。ネットがどんなに広大かは知らないけれど、広大さを感覚として捉えられないなら、自分にとってはあまり意味がない。画面の中に入っていきたいとも思えない。『メトロポリタン美術館』の絵の中に閉じ込められたいとは思わないのと一緒だ。
夜になって、四畳半の外、窓の向こうから猫の鳴き声が聴こえるときがある。どこにいるのか判らないし、見つからなければ触れないけれど、画面の向こうの人々や猫に思いを馳せるよりは、こちらの猫を探すほうに希望があるように思う。窓を開けて外気を取り入れると、少しだけ居場所が広がった気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20080619200826書いた増田だが何だか嬉しいぞw
お前の前途に幸あれ。頑張れ。超応援してるぞ。