はてなキーワード: 反動とは
鬱と診断を受けたのは28歳の頃。
そうだろうなと思った。
社会人になって沈みっぱなしになり、結婚して働かなくて良くなったが、何もしていないことの怯えですぐ就職し、また疲弊した。
その仕事をやめて穏やかそうな仕事についたが、その職場が穏やかなんてことはなかった。
3つ目の職場でとうとう眠れなくなってメンタルにかかったら鬱だと診断された。
そこから5年。
少し良くなったが未だに体が動かない日が続くことがある。
しかし働くとまたうつがひどくなるし、もうどうしたらいいかわからない。
やりたいこともやりたくないけどやらないといけないことも、何もかもがだるく到底できる気がしない。
調子がいいときに頑張って片付けると反動で翌日倒れるように眠ってしまう。
こんなことはやめてしまいたい。
鬱は本当にめんどくさいし、なるべきじゃない。
仕事でイライラしたので瞑想して感情に向き合ったらふと涙がとまらなくなった。
自分はひとりでできた仕事を手伝わされたことも、メールをたった1件無視されたことも、頼んでいたことをやってくれなかった時も、私はたったそれだけで大泣きしたくなるくらい傷つくし、全部自分の思い通りにならないと気が済まない人間だったみたい。
でも泣くのも喚くのも全部我慢してずっとやってきてる。怒りだと思ってたのは泣きたい気持ちを押さえつけた反動だった気がする。
じゃあ嫌なことがあったら泣けばいいんだろうか。メールを無視されるたびにシクシク泣いて、催促のメールを送りたくなくてまたシクシク泣いて、そうやってれば少しは気持ちがラクになるんだろうか。
体育館や公園を整備して国民が思い思いにスポーツできる環境を整えるのは大事だとは思うけど、オリンピックいらないよね。
オリンピックが無くなるからみんなスポーツやめたり皇居ランニングやめたりする訳ないよね。
オリンピックが無いと困るんです、って言ってる競技もあるけど、それぞれのスポーツが自分たちで大会運営して自分たちで儲けられるようにすれば良いだけじゃない?
てか自分たちで儲けられないスポーツは趣味でいいでしょ。仕事の片手間に選手が金払ってやれば?
てかそもそもオリンピックの理念にオリンピックは必要ないよね。
卓越→エンジニアやサラリーマンの皆様(一部)が毎日卓越した技術を奮ってますよ
友情→世界的なプロダクトを作ってる企業たくさんいるし、毎日外国の人達と仲良くミーティングしてますよ
敬意→敬意ないと今コンプラ違反で怒られる世の中ですから前提です。てか、オリンピックって日本国民に敬意払ってます?
結局オリンピックって金の話でしょ?
偉そうな理念掲げてるけど、ただの金儲けするための道具。
それなら俺も同意するし、インバウンドで観光業や地方が潤うならいいと思う。
オリンピックの金儲けに関する意義は結構日本国民内でもコンセンサスが取れてたと思う。
その唯一コンセンサスが取れていた金儲けができないとわかったならさっさと辞めるべき。
国だってそれがわかってたから、今更無観客辞めようとしてるんでしょ?
ただその反動でお盆が緊急事態宣言で潰れたり、無理して在宅勤務を続けてる業種の在宅勤務期間を伸ばして業務効率落としたりすることが続くことで生まれた経済的損失をペイできるくらいの効果がコロナ禍のオリンピックで得られるのかね?
そういうのをちゃんと算出して、データに基づいた判断をして欲しいよね。
テレビ様にはかなわんやろ。
(これを書いてから調べたらYouTubeの利用率はテレビより高そうだった。勢いで書くのはよくない。)
いわば同接数百万人の配信やでアレ。
その反動でみんな反抗期の子供みたいに「テレビはオワコン」ゆうとるだけで
YouTuberがやってる企画なんてバラエティ番組のパクリばっかりやろ。
オタクも「テレビ要らん」とか言いながらテレビ局の作ったアニメを配信サイトで観とる。
新聞を馬鹿にしながら新聞社がYahooに配信してるニュースに毎日大騒ぎしとるように
テレビ局が作っとるコンテンツにどっぷり浸かってこれからも生きていくんやろネット民は。
気張りや。
・映画鑑賞...7年くらい
バイト先で知り合った友達とミニシアター系はしごしてたりした。
映画好きが高じてシナリオライターを目指すも、半年くらいかけて書いた作品がゴミのように捨てられるのを目の当たりにして挫折。
・カメラ...5年くらい
シナリオライターに挫折した反動で、シャッターを押すだけで写真が撮れるなんていいなあと思って始めた。
街歩きしながら写真撮るのサイコー。現像にまで手を出してヨドバシの兄ちゃんに教えてもらいながら暗室機材一式揃えた。
写真のワークショップにも通い始めてあまりにも自分の才能の無さに気づいて挫折。
・カラオケ...3年くらい
テレビの採点番組見ているうちにどうしても挑戦したくなり、毎週末ヒトカラに通い詰めて歌いまくる。
ボイトレにも通い始めるも先生とウマが合わず、ちょうどコロナの来たタイミングでフェードアウト。
どの趣味もはまっているときは本当に楽しいし、今でも好きなのには変わらないんだけど、一回飽きちゃうと不思議ともう一度チャレンジしようという気が無くなっちゃうんだよなあ。
よく子供の頃から鉄オタで、とか、プラモデル作って何十年、という話を聞くと、すごいなあと思っちゃう。
ずっと同じことやってて飽きたり、他のあっちの方が楽しそうだとよそ見したりないんだろうか。
趣味を長く続けるコツはなに?
自分は毎回こんな感じなので、友達には「あーあ、また始まったよ」と呆れられているし、最近では自分も「まあいつかは飽きるんだろうな」と思ってたりする。
ちなみに仕事はちょこちょこ職場は変わりつつも同じ業種で続けています。仕事LOVE。
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【以下追記】
思ってもみなかったほどたくさんのコメントついてびっくりした。
すごく参考になったし、逆に改めて考えると趣味って何なのかなとわからなくなったりした。
とりあえず趣味で3年とかは別に短くないと知ってちょっとホッとしてます。
結構指摘が多かったけど、承認欲求が強いのは自分でもそうなのかなあと思う。
でも趣味なんだから何でもありなわけだし、承認欲求のためとか探究心のために趣味をやったってそれもありなわけでしょ。
それでもし自分自身も含めての誰からもどんなかたちの何の評価も無かったらそれってやってて楽しい?
40年プラモ作り続けている人だってきっと「今回のはなかなかいい出来だ」と思って嬉しかったりするんだろうし。
あと自分の場合は趣味を長く続けるって言うのもまた他人に認めて欲しい承認欲求の一つになってしまうんだよなあ。
趣味にどんどんはまっていくうちに途中からもう趣味では無い何かに変わってしまっているっていうの、本当にそうだと思う。
考えてみたらもう前みたいにフルスロットルで突っ込んでなくても、映画鑑賞は普通に好きだし、写真はそれまで興味がなかった写真展とかに行くようになったし、たまにスマホで写真撮ってインスタにアップするぐらいはするし。
カラオケだってコロナが落ち着いたら前ほどじゃなくても時々は行くだろうし。
あの熱量で飽きずに今でも続けていたら、それなりの何かになれたんじゃないかと思わなくもないけど、継続が必ずしも力になるわけではないみたいだと今回のコメみて学んだ。
映画は当時まだ仕事が不安定だったこともあって、シナリオ書いたりしてたころは何ならこの業界で食ってこうと半分本気で思ってたし、そんなこともあって7年続いたんだと思う。これはもう趣味とは言えないか。
前に話題になった「カメラを止めるな」を見たときは制作側の映画愛に圧倒されて、あーーやっぱり続けてれば良かったと一瞬思った。
人生長いし、もしかしたらどこかでワンチャンあるかもと今でも心のどこかで思っている。
仕事が趣味と言うコメントもあったけど、どんなに仕事が好きでも仕事100%にはなれないんだよなあ。
脳がそういうつくりなんだろうか。
何かをやりながらまた別の何かをやりたくなってしまう。
歳取って退職したらきっと今仕事でやってるようなことが趣味になるのかも。
それでそもそもこのスレを投稿したのって、実は新しい趣味が始まりそうだからなんだ。
NHKでやってる「ソーイングビー」という番組が面白くて、男の人もソーイングとかやってるのを見てへーーと思っているうちにすっかりはまってしまった。
でもどうせまた飽きるだろうし金ばっかつぎ込んでも、とちょっと躊躇してたんだけど、今回のコメ見たりしていろいろ考えてやっぱり挑戦することにした。
それでも何とか職業ミシンを買うのは思いとどまって、初心者用の安いやつにした。
で、例によってさっそく近所の洋裁教室もリサーチしてコロナが落ち着いたら通ってみようと思ってたんだけど、これはしばらく様子みることにした。
いきなりトップギアではなく、ゆっくりやって長く楽しむようにしようと思う。
まずはマスクでもぼちぼち作ろうかな。
まあ基本暇なのかもね。
この人は読書を趣味にしたら小説を書くのかと書いた人、爆笑しました。それは俺だ。
そう言えば小説書いてた時期もあったわ。いいなと思って突き詰めていくと、どうしても作る側に回りたくなってしまう。
たぶんお前たちは自分を産んだカーチャンがぺちゃぱいだったのがトラウマで、その反動で極度にブラチラなネーチャンを求めるようになったんだろう。
お前らのネーチャンメンタルが弱った所にネットの悪い奴らが忍び寄ってきて、こう囁いたに違いない!
「本物の姉がいるとブラチラぐらいはどうでもよくなるよ」
と……
しかしうちではそのぐらいの価格帯の商品を買ってもらえるのは誕生日とクリスマスだけだった
子供には長すぎる数ヶ月を過ごし、ようやくそのタイミングを迎えたとき
ポケモン赤はプレゼントしてもらえたがゲームボーイは与えられなかった
代わりに与えられたのはスーパーファミコンに挿して遊ぶスーパーゲームボーイだった
素直にゲームボーイではなかったのは、携帯機であるため親の監視外で遊ばせたくないという思惑があったらしい
それに加えて
・小さな液晶を覗き込むよりTV画面の方が視力低下の影響も多少はマシだろう
という考えもあったようだ
友達と遊ぶときにはプレイ環境一式を外に持ち出すわけにはいかず
ソフトしかないのでそれぞれがゲームボーイを持ち寄って遊ぶ空間では自分はプレイすることはできない
公園ではもちろん無理だし
友達のゲームボーイを借りるにしてもみんなまず自分が遊びたいのは当然だ、貸してもらえることなど少ない
友達の家で遊ぶときでも、わざわざそこのスーパーファミコンを借りるというのも不自然でハードルが高く実現することは少なかった
そもそもその時に発売していた初代スーパーゲームボーイには通信端子が無いのだ
(通信端子のあるスーパーゲームボーイ2が発売したのはそれより後のことで、スーパーゲームボーイを既に持っている子供が買い換えるにもメリットが少なかった)
混ざれるはずなのに混ざれない
一番下が自分だった
悪意を持って明確に仲間外れにされることはなかったが
その場でポケモンを一緒に遊べる仲間の方が親交が深くなるのは当たり前で
それがすごく惨めだった
20年以上たった今、その時のヒエラルキーが流石にそこまで尾を引いているはずもなく
ふとあの時の疎外感を思い出す時がある
他と同等に揃えてもらえない子は
かつての自分と同じように寂しい思いをしているのだろうかと
ぼんやりと思いを馳せるのだ
はてブを見る限り、結構な共感があったようで、書いた甲斐があった。
寄せられたコメントの中からいくつか取り上げたいものがあったので、追記しておきます。
自分の回りにもいました。
貧乏だから買ってあげられない、というケースは見なかったけど、親の方針でゲームを買ってもらえない子。
90年代当時の親世代にとって、まだゲームへの偏見や未知なるものという認識は多かったと思います。
やはり、禁止されている子供は逆に執着してしまう傾向にありました。
大人になって反動でゲーム三昧の人もそれなりにいるでしょうね。
かく言う自分も、完全禁止でないにせよ少しずつ不便や不満を重ねていたので、
これは、当時は仕方のない話かと思っています。
特に恨んだとか、間違っていたとは考えていません。
子供のコミュニケーションツールとして重要なポジションにあったことは理解できていなかったのですから。
ゲーム世代が親になり、かつての苦労と大人目線での懸念から葛藤しているのもわかる話です。
ゲームに理解があっても程よい距離感で向き合わせるには難しいでしょうね。
ネット接続やSNSの広がりもあり、フォローアップしてあげることの難易度も上がってしまいました。
自分の家に呼べば友達がゲームボーイを持ってきて、自分は自分のスーファミで遊べますよね。
ここは地理的な問題なのですが、小学校から自分の家が一番遠くにあり、坂の上にありました。
いわゆる新興住宅地(○○台と名前のつくような所)です。集まるには不向きでした。
たまり場になる友達の家がありましたが、ゲームが多かったり集まりやすい立地にあったのが大きな理由ですね。
対戦というより、自分のポケモンを進めつつ、お互いの進行状況をその場で共有して楽しむ、という場でした。
ポケモンスタジアムは持っている子もいましたが、起動率はそこまで高くなかったですね。
ゲームボーイで何をしていたかと言うと、赤緑の出現ポケモンが違うので、
赤でしか出現しないマンキーを持ってない緑の子のためにその場でマンキーを捕まえて交換してあげる、なんて光景も有りました。
うちの地域でポケモンスタジアムが脚光を浴びたのは、ポケスタ金銀が発売されてからでした。
しかし、そこまで来るとポケモン一色ってほどのブームでは無くなっていました。
あくまで、ポケモン赤緑の一時期だけがそれ以外がほぼ無いぐらいに占めるコンテンツだったんですよね。
やりましたよ!スーパーマリオワールドや星のカービィスーパーデラックスなど。
ドラゴンクエストなど1人用RPGをプレイしている様子を眺めつつ、自分は置いてある漫画を読みふけるなんてこともしましたね。
その話を盛り込むと要旨がボヤけてしまうので、今回はポケモン赤緑の話に絞っていました。
みんな揃ってポケモンに傾倒した時期があって、そこで疎外感を覚えたのは大袈裟に受け取ったことでもなく事実です。
バトエンやカード、すごろくなんかも出ていたので、ポケモンブランドを冠した交流ツールはゲームに限った話でもないですけどね。
あ、やってます。
図鑑は剣盾時点までコンプしてます。アンノーンもビビヨンも今の所全種揃ってますよ。
対戦はあまり興味ないですが。
ええ、それを狙いました。
あの時代を生きていた人が「ポケモン」「スーパーゲームボーイ」と聞いたら
ピンと来るだろうな、という期待を込めてタイトルに入れておきました。
たぶんお前たちは自分ちで作ったチャーハンがべちょべちょだったのがトラウマで、その反動で極度にパラパラなチャーハンを求めるようになったのだろう。
お前らのチャーハンメンタルが弱ったところにネットの悪い奴らが忍び寄ってきて、こうささやいたに違いない!
と……
いいか正気に戻れ、落ち着いて近所の中華料理屋か、大阪でも餃子のでもなんでもいいから王将に行ってチャーハン頼んでこい。そして観察しろ。そうすれば気付くはずだ。
もちろんべちょべちょでもないんだが、それに比べて卵かけごはんチャーハンのパラパラ度合いは「やりすぎ」だ。パラパラになるのはなるんだろうが、その代償かのようにパッサパサになる。
ほんっとにパッサパサ。マジでパッサパサ。でもみんな気にしない。「べちょべちょじゃない」というだけで満足してしまう。ダメだ。そこから抜け出せ。あれはあれであんかけチャーハンとかに使うといいんだが、単なる具を混ぜただけのチャーハンであればパッサパサ過ぎて食うに困る。
べちょべちょチャーハンがトラウマになったせいで「お店のチャーハンはこんなんじゃなくて、とにかくパラパラの、もうめっちゃパラパラで、パラパラなんだ!」と思い込んでしまった人間による妄執の果て。それが卵かけごはんチャーハンだ。
ちょい固めのご飯を炊いて、鍋に油をたっぷり入れてカンカンに熱してから溶き玉子を先に入れて、そのあとすぐ白飯を放り込んでお玉の背中で米を均すように炒めると、まあ味付き中華ご飯ぐらいにはなる。悪いこと言わないからこっちにしておけ。
チャーハンとペペロンチーノの話題は荒れるとわかってはいるが、ただパラパラなだけのボソボソしたチャーハンを錬成して食卓が気まずくなってしまうのは忍びない。悪いことは言わん。卵先混ぜ式はもうやめろ。
将来自分の店を持ちたいとか明確な目標がある人ならいいけど、大抵は個人レベルの展望なんてしょぼいものになりがちだよね。
おすすめの方法は、その業種の動向から3〜5年後くらいの未来を予測してそれを語ること。
たとえば飲食店のバイトだったら、コロナ禍で外食需要が減り閉店したり宅配専門に切り替える店舗も増える中、美味しいものをみんなで食べたいと願う人は増えているように思います。いずれこの反動が来るはずで、緊急事態も終わって親しい人たちと安心して楽しく会食できるようになったときに、あってよかったと思えるような飲食店でお客様に美味しい料理を提供したい、そのために今から頑張って店を支える一員になりたいと思っています。
ECサイトのプログラマーだったら、コロナ禍の影響で世界中の人々の生活スタイルは不可逆的に変化して、今や買い物は自宅でするものとなったように思います。そういった個人の経済活動の中心となるECサイトは今後まだまだ急速に進化していくはずで、そのような厳しくもエキサイティングな世界に身を置いて変化の激しい技術を使いこなす技術者になりたいと思っています。
アイドルのオーディションなら、今のアイドルは入り口のハードルが下がったことで大変な競争社会になっているように思います。YouTubeなどを中心に事務所に所属せずセルフプロデュースの子も増えてきましたし、その道のプロとして食べていけるくらいの一芸を持っている子も大勢います。そんな世界で最後に生き残るのは、やっぱり正統派の本物であることだと思います。私は他の子に比べて尖った特技を持っているわけではありませんが、本物のアイドルとして王道を極める存在になりたいと思っています。
ただ、ケアできないくらい打ちひしがれている男性も多くいることを知っているのでそのことを語ってる。
最初は人生においていろいろなことをあきらめた男性①が静かに暮らしていたんだよ。
そのうちフェミニズム(特にSNSの時代以降の動き)が盛んになり、男性優位社会や暴力的な男性②が批判されるようになった。
また、その反動が匿名掲示板時代の口が悪い文化の名残も合わさって、フェミニズムに反論するミソジニー的男性③も目立つようになってきた。
出そろったのでまとめると、
ミソジニスト③は攻撃的なので、それに対する女性も攻撃的になり不毛な議論になりがち
そして、これら②と③の流れ弾が、静かに暮らしていた①に被弾して一番わりを食ってしまった。
この無害な弱者である①を区別して守る必要があったから生まれた言葉が「弱者男性」なのだ。
弱者男性はモテない程度にはキモいが、加害する男性とは別人だ。しかしなぜか一番攻撃の的にされてしまう。
キモくて弱い男は、きっと性格も悪く、生活も雑で、女を異常に求める一方ネットで女を攻撃し、リアルでハラスメントや暴力行為をするだろう、という偏見で見られてしまう。
それは別の人だよ、というために無害な人たちを弱者男性と呼んでいるのはわかってほしい。
もちろん弱者男性に社会的なケアがあるとありがたいとは思うけど、そこはあんまり期待してなくて、それよりも今殴ってる拳を一旦引っ込めてくれ、殴る相手をちゃんと見極めてくれ、というのが要望。