はてなキーワード: マガジンとは
主人公は運動部に入りたいけど才能ないからみそっかす扱いばっかされてる
持前の動体視力のよさと、負けん気の強さ、根性でうまくなっていく
打ち切られたこととショタ漫画だということと男の娘(正確には違うけど)漫画だってことだけ知ってた
初めて読んでみた
地味だけど面白いね
ただでさえ地味なのに主人公がどんどん活躍していくタイプの漫画じゃないから、
でも個人的には絵柄はすごく好みだしかわいかったしきれいだったし好き
お話も、周りのキャラひとりひとりにもドラマがあるってのが伝わってきて面白かった
ただ、ほかの作者だと、考えはするけど漫画には描かない、という判断をするであろう部分まで掘り下げられてて、
そのせいで主人公とかヒロインの登場回数が割を食ってたのはちょっと難しいところだよなあと思う
単純に嫌な奴、じゃなくて、そいつにもそいつなりの理由、信念があってやってるっていうのを書くのはいいんだけど、
最初の数巻の主人公メインだったときはよかったけど、後半になるとめっきり主人公の登場が減ったし・・・
ヒロムもまあなくはないが、やっぱり男としてはアキラたんハアハアということになりますわな
友情、努力、勝利要素あるけど、やっぱりジャンプで連載するって難しいんだなと思った
あとはところどころに松本大洋のピンポンへのオマージュがあったりした(背中から蝶の羽がはえる演出とか
まあはねバドほどじゃないけど
子供の頃買ってもらったドラゴンクエストモンスター物語が出てきたので、久しぶりに読んだ。
いやぁ子供の頃読んだ時はあまり分からなかったけど、スライムの進化とか、ベビーサタンの昇級の話とか面白いなぁ。
それでふと思ったのが、今の自分でモンスターを倒せるのかなと。一番弱いスライムを倒せるのかなと?
人の膝(子供の膝下)ぐらいの大きさとは、聞いたことがあります。(TRPG系の書籍で、とこかのコラムにあったとのこと*1)
ドラクエのミュージックビデオでは、一人用の鍋にすっぽり入るサイズでもありました。
(調理中に襲われて、手で払ったらぽちゃんと鍋に……と言うシーンがあった。……ちょっとグロかった。)
重さは、わかりませんが、中身が水より重いと仮定すると、子供一人ぐらいの重さは軽くあるのではないでしょうか?
1 本を確認してきました。
『ファンタジーRPG100の常識』2-42『スライムは可愛くない』より
ファミリーコンピューターマガジン(徳間書店)1897年4月17日号の読者の質問に答えるコーナーで、
プログラマの中村光一氏が『スライムは、君達の膝下ぐらい』と答えているとの記述がありました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1172130946
私もファンタジーRPG100の常識を持っていたので(上の西暦は間違えだね)、これを参考にしてもいいはず。
膝下とあるが、君達と書かれているので恐らく子供の膝下なのかなーと思う。
とりあえず30~50cm位でいいでしょ。
とりあえず5kgで
ボヨンボヨンしているし、本気出したうさぎ位の俊敏さはあるのかな。
とりあえずそれで。
自宅で寝ていると、外からモッチャンペッタンとなにやら粘着質な音が聞こえてくる。
家の扉に何かがぶつかっている。
「はーい」と扉を開けると、そこにスライムが!!
「え」と声を出すまもなくスライムは私の腹に体当たりをかます!!
鳩尾に強い衝撃が!!あばらにひびが!3のダメージ!
「ぐええ」
と私は廊下に倒れる。苦しんでいると顔にスライムが上からのしかかる。私はなんとか両手でスライムをはがし、
扉に叩きつける!しかしその時に手を噛まれる、両手の指を何本か無くす。2のダメージ!
ここでふと思ったのが、私のHPは幾つだろうと考えたが、多分10も無いと思うんだよね。
普通の町民の力なんてレベル1の勇者以下なんじゃないかと思う。
私は台所に行き出刃包丁を取り出す!そしてそれを持って構える!
スライムはこちらの様子を見ているが、馬鹿なので直ぐに体当たりをかましてきた!
「うわぁぁ!」
なんて倒せる感じで妄想してみたけど、最初の時点でそのまま倒れこんで頭打ったり、内臓破裂したり、窒息死させられそう。
追記
ターン制は無しとする
枝野がかつて発表した憲法私案では、自衛隊の存在を明記し、海外派遣についても容認している。
はてサはもちろん、それを分かったうえで、立憲民主党を歓迎しているんだよね?
(マガジン9)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-10/2013091002_02_1.html
ぶっちゃけ、これは安倍首相が今年の憲法記念日、5月3日に突然提案した加憲案に近いものだ。
安倍首相も九条を残したまま、自衛隊の存在を明記したいと言っている。
あと、はてサは前原誠司のことを改憲派だ、右翼だとボロクソに言っているけど、憲法観や安全保障については枝野と大きな違いがあるとは思えない。
枝野のほうが野党共闘に熱心とか、左派への目配せがうまいのはあるけど、そのせいで前原がdisられまくるのはかわいそうだった。
日本の三大RPGは何てことが言われだしたのが90年前後くらいの話。
それ以前はDQ一強だったところにFFが割り込んできて、じゃあ三大RPGなら何だろうみたいなことがよく話題になるようになった。
ブコメでも女神転生を挙げる人が多いし当時も多かったんだけど知名度も売り上げもDQFFには遙かに及んでなかった。
ありていに言えばメジャーどころのDQFFを嫌ってちょっとマイナー気味のゲームを推す人に人気だったってくらい。
そうこうしてるうちに90年代半ばにポケモンが登場する。機種はゲームボーイ。
当時の「ゲーマー」にはゲームボーイを微妙に見下す風潮があった。
ファミコンの登場から10年以上経ち、小学生時代にファミコンと出会いゲームと共に成長した世代は高校生とか大学生。
現在と比べると公衆の場でゲームをすることの抵抗感が大きかったというのもあって
ゲームボーイは子ども向けで自分たちの守備範囲外だと思う高校生や大学生は多かった。
大学生になってジャンプやマガジンを読んでる人は多くてもコロコロやボンボンを読んでたらちょっと恥ずかしいみたいな感じ。
ところがまあポケモンが大ヒットするわけだ。しかも日本のみならず世界中で。
ちょうどインターネットが普及しだして海外の情報が入って来やすくなってポケモンの人気がヤベえらしいと伝わってくる。
世界的な知名度でいえばポケモンがDQFFを一気にブチ抜いてしまった。
結果としてそれまでDQFFを不動の前提として語ってた三大RPGには何だかポケモンを入れづらい雰囲気になって
残りのひとつは何となくあやふやなままポケモンは別枠みたいな扱いになった。
以上が俺の記憶をもとにした印象論。
白泉社創立の由来は、当時集英社で織田信長みたいな、能力と才能を持ち容赦なかった若菜正の、ライバル・梅村義直追い出し策にある。その頃の集英社の派閥は大きなものが二つあり、少年ジャンプを中心とする長野規一派(少年漫画派)と、ノンノ・マーガレットを中心とする若菜正一派(少女漫画・広告取り雑誌派)がいた。両派閥の内部での結束と団結は強く、必然的に派閥外の者(特に二人より年長の者)は追い出されることになった。
梅村義直はかつてりぼんの編集長であり、それより出世して当時、りぼん内での独立系小派閥を持っていた。梅村義直の忠実な家臣の小森正義は、りぼんから別冊マーガレットに移り、さらに白泉社に移籍した。山岸凉子・三原順などのコネクションは小森に由来する。
小長井信昌は少年漫画の部門にいた関係で長野規の盃を受けた身であり、少年漫画編集の野望を抱きながら(それは後年、白泉社の少年漫画雑誌創立につながることになる)、その手法を少女漫画に生かし、別冊マーガレットで美内すずえ・和田慎二などを育てた。編集者の腕と頭の切れは抜群であるが、ワンマンで旗幟不鮮明な小長井は若菜正に警戒された。
「花とゆめ」創刊時は、付録つき月刊誌ということで、りぼんを意識しながらより低年齢の読者を対象にし、花とゆめコミックスの装丁もりぼんマスコットコミックスを模したものだった。
しかし、とある年に、週刊マーガレットのライバル雑誌だった講談社の少女フレンドが月2回の刊行になるという事態が生じ、売れ行きがさほど悪くなかった週刊マーガレットをそうするわけにもいかず、白泉社の花とゆめを月2回刊行のライバル誌にするという策を集英社は打った(余談だが、これは講談社のぼくらマガジンに対して小学館・集英社グループが少年ジャンプを作った策と同じである)。
当時の少女フレンドは大和和紀・庄司陽子・里中満智子その他強力連載・読み切り陣を揃え、花とゆめは苦戦したが、美内すずえ「ガラスの仮面」、和田慎二「スケバン刑事」という大和・武蔵級の作家によって巻き返しをはかった。
https://anond.hatelabo.jp/20170828024450
記事内の、オタ・非オタであるか、アマチュア・プロ(法人)であるか、営利・非営利であるか、などは本件に関係ない見当違いな意見だと思う。
真木よう子のコミケ参戦はコミケの目的に反している。というより、全くの逆の考え方をしていると思うのだ。(目的と理念については後述)
コミケは同好の士の為の場だと思う。自分の好きなものを表現したり、見つけたり、仲間を探したり、そういう場ではないだろうか?
しかし今回の真木よう子の作品は、そこに当てはまるように思えないのだ。
理由は、彼女のクラウドファンディングのページにある。参考:https://camp-fire.jp/projects/view/40020
皆様と一緒にフォトマガジンを作ろうと、試みて居ります。 出版社を挟まず、皆様の御希望の写真、ワタクシの本音。等、多数載せる予定で御座います。
とある。
つまり皆様と一緒に、皆様のご希望の写真+αをクラウドファンディング――出資者を募って皆様のお金で作ろうとしている。
先述した内容の通り、コミケが同好の士の為の場だとしたら、彼女は一体なにが好きなのだろう?
写真だろうか、それとも二番目のワタクシの本音だろうか、あるいは自分自身が好きでそれを表現したいと考えているのか。
究極的に創作はそういうもので、何らかの形式やジャンルを倣って表現するのは、その為の手段のはずだ。
彼女が自分自身を写真という媒体で表現したいなら、写真という手法で自分というオリジナルのジャンル(或いは自分の好きなもの)を表現するとも解釈できる。
しかし今回の件は違う。
彼女は、皆様をしきりに強調している。
皆様のお金で、皆様の御希望の写真を、皆様と一緒に作りたい、と。
さて、最初に『全く逆の考えをしている』と述べたのはこの為である。
つまり、彼女は表現者として自己から他者へ好きなものを提供するのではなく、他者から自己へ好きなものを提供してほしいと言っているように思えるのだ。
クラウドファンディングの使用は、この点をより顕著にしている。
より皆様とお近づきになりたく、この様な企画を思いつきました。
とあるのもそうだ。
上記の文は明らかに、好きなものを外に出したい=表現したいとは書かれていない。
(もし自分の本音やそれに類する表現したい内容があるなら、ここに書かないのは不自然だ。穿った見方をすれば、他者の好きなもの(或いは自己への好意)を内に取り込みたいようにも見える)
この根本的な表現の間違いが、"真木よう子コミケ参戦問題"の肝だと思う。
自分の好きなもの(内)を他者(外)へ出す、のではなく、他者の好きなもの(外)を自分(内)へ入れる、という目的では、まるで読者(受け手)の目的である。
例え結果的には同じ出版物であっても、コミケの、そして表現者の目的に反しているという点が、この件の問題ではないだろうか。
真木よう子氏は既に本件について謝罪しており参加中止を表明している。ネット上のコメントやまとめには、当記事と同じような発言も幾つか見られる。
それをわざわざ取り上げ反論したのは、記事の内容に不満があったからだ。
筆者に悪気があったとは思わない。コミケ文化を憂慮して書かれた記事だと思うが、結果として悪い印象を与えていないだろうか。
彼は真木よう子氏に問題はないとし、各々の批判に問題のない理由を挙げている。
(なお、当記事への批判は以下が該当するように思われる。しかし交流と表現は別物であり、作家は表現を前提に交流している。当記事の反論はその表現が目的に反しているというものだ)
彼のいうように、オタ・非オタ、アマチュアや法人、営利や非営利はコミケには関係ない。それには同意だ。
だが、最終的にオタが非オタを排除したような結論になっているのはどうなのだろう。
とあるにも関わらず、皮肉にもこの記事はその境界問題を蒸し返しているように思える。
個人的な話をさせてもらえば、自分が子供の時分は、まだオタクが犯罪者予備軍という印象が強く、オタクというだけで世間から白い目で見られる時代だった。
だが、様々なメディアを介して有名になり人気も上がり色々な人が集まるようになり、現在は既にオタクと一般人の境界は限りなく薄く微かなものになったと思う。
そうした時代にあって、この記事は結局はオタクと一般人(あるいはそれに類する言葉)の影に怯えているように見えるのだ。
彼にはそう思えたのかもしれないし、実際そのような考えの人もいるかもしれないが、オタクであるかどうかはこの問題を正しく捉えていると思えない。
と言っているではないか。
コミケの参加に関わる内容は、コミケ参加者とすべきで、不要な言葉のくくりを認めるべきではないのだ。
これからの時代に大切なのは、曖昧な境界に怯えるのではなく、境界を取り払い同じであると主張する勇気ではないだろうか。
最初、タイトルに理念と書かず目的にしたのは直観的なものでした。(タイトルを先につけた)
なんとなくコミケの理念なんて仰々しいものでなく、もっと単純で根本的なものだと思ったからです。
記事を書いている途中で見つけたのですが、http://www.comiket.co.jp/info-a/WhatIsJpn201401.pdf
コミックマーケットは同人誌を中心としてすべての表現者を許容し継続することを目的とした表現の可能性を広げる為の「場」である
とあります。
当記事は、その理念の前半の表現者について、表現の目的に反している、延いてはコミケの目的を満たしてないと論じて、後付けですが一応タイトル回収?できているのではないでしょうか。
いやほんと、長々と失礼しました。
PR記事のタイトルにPR表記をつけるか否かで盛り上がっているけど、それ以前の問題としてみんなそんなにWeb記事を楽しめているの?っていう。
Webの記事ってあれでしょ、どこどこ行ってきた、とかなになにやってみた、っていうのを写真で羅列して美味しかったです、とか、最高の街です、みたいなの。あるいは「●●をやる5つの方法」みたいな。
いや、昔は俺も読んでいたよ。好きなブログもあったしね。でも、今から思えばそれはほかに選択肢がなかったからなんだよな。
ちょっとお金出せば映画も雑誌も読める状態で、みんなそんなにWebメディアの記事を求めているの?
こっちはAmazonで映画見るのに忙しいし、Dマガジンで雑誌も読まなくちゃいけないし、Web記事にまで手が回らないよ。というか、映画や雑誌に比べるとやっぱWeb記事ってしょぼいよね。タランティーノの映画が流れている横で「ライターの俺がパン食べましたよ〜」とか言われても「どうでもいいわw」っていう。「お前なんでそんなんでトラボルタと同じ土俵に立とうと思ったんだよw」っていう。
PR表記どうこう以前で揉めているのを見ても、なんというか「子どもの世界」だよね。少ない予算でしょぼい企画をこねくり回して、それをフォロワー数多いライターに告知してもらってなんとかお金にしているという。なんというか、貧乏くさいよね。
Webメディアに「これから良いコンテンツって何かを考えて作ります!」とか言われても、「いやいや、もうあるからさ?」って感じなんだよね。「ハリウッドでめちゃくちゃ作られてるからさ?」「邪魔だからさ、同じ土俵に並べないで?」っていう。
横だけど読んでて思ったことを少し。
たぶん今ゆらぎ荘のエロ描写にギャンギャン言ってる世代って、いわゆるジャンプの黄金期世代を見てきた人だと思うんだよね。
ドラゴンボールとか、スラムダンクとか、幽遊白書とか、ジョジョの1~3部とかあのあたりが連載してた頃の。
当時のジャンプってサンデーとかマガジンとかとは比べ物にならないくらい影響力があって、それでいて硬派だったと思う。
魁男塾とか初期の頃に申し訳程度に女性キャラが出てから男しか出てこないマンガが人気になったりとか、とにかく男臭かった印象がある。
この「男臭い」も20年前のコロコロとかボンボンとかのギャグマンガによくあった何の脈絡もなく女の子の洋服が破けたり男キャラが悪気なくスカートめくったりとかそういうのじゃなくて、男同士で世界が成立するとかそういう感じの。
(ドラゴンボールや幽遊白書の初期にもそういうお下劣な描写はあったけどさ)
だから今の親世代にとって今のジャンプがどう落ちぶれていようと、基本的にはジャンプは「紳士的に男としての生き方を教えてくれるマンガ」という神聖視があると思うんだ。
ジャンプがお下劣な女性蔑視表現しなきゃ生き残れないくらいの雑誌になったのは、読者が若年層じゃなくて高齢化してることだっていうのは確かなんだろう。
その「小学生にはふさわしくない漫画」の内容は精々裸とラッキースケベ程度なわけだ
マガジンは思いっきりセックス描写があるものを載せても大して批判もされない
OK?
レーティングもそれに沿っているってだけの話
増田がいくら中高生向けと言い張ろうが、集英社はそう考えてないってこと
この前マガジンで過激な性描写の袋とじがついたというのが話題になったが、
マガジンでそれが許されるのは、マガジンの対象年齢がジャンプより高い(中高生向け)から
ジャンプが裸出す程度でも批判されるのは、ジャンプの対象年齢はマガジンより低い(小学生向け)から
単に君の友達グループでジャンプコミックスがやたら流行ってただけでは
年上の兄弟いてもジャンプは雑誌で買ってコミックスはサンデーマガジンからとかも普通にいたしなあ
持っててもおかしかないが