はてなキーワード: フリーライドとは
基本的には同感なんだけどさ、民主主義の国家である以上、「日本死ね」の「日本」の一億分の一は、言ってる本人なんだよね。
「こんな労働環境、こんな育児環境」を作った責任の一億分の一は、お前にもあるんだけど、それをちゃんと自覚してる?っていう疑問っつーか違和感を個人的には感じるのよ。
もちろん、民主主義を全否定するっていうなら、それはそれで筋も通ると思うけど、「日本死ね」って言ってる人はそういうレベルで日本を批判してるわけではないでしょう?
一方で民主主義の便益(自由権とかさー、すごく大事なことだと思うよ)を甘受しながら、一方で民主主義の弊害(民主主義って少数派はどうしても不利だよね)を無責任に批難するのは、フリーライドが過ぎるんじゃないってボクは思うな。
保育園に落ちたお前らは、東京都心に住んでて、子育てでキャリアの連続性が失われることを恐れるような、
エリート正社員のパワーカップルなんだから、保育園に入れなくたって、いくらでも金で解決できるだろ。
御託はいいから乳母雇えよ。それで解決するだろ。国は子育てを軽視するなって、軽視してんのはお前らだろ。
保育園に入れることを望むなんて、金持ちが安く済ませようとするなよ。ちゃんと金払って、手段確保しろよ。
お前らの世帯の月の手取りいくらよ?50万、60万、それくらいの額が当然のようにあるだろ。それを使えよアホが。
欧米じゃ、子供の面倒を他人に見てもらうために、片方の稼ぎが消えるぐらいの額をつぎ込むのは当たり前なんだよ。
お前らインテリが大好きな欧米だよ。見習えよ。アホが。男女平等の共働き社会ってのはそういうもんなんだよ。
国にフリーライドするな、子無しから搾取しようとするな、お前らの子供だろ、お前らの金を使え。
(世帯年収900万豊洲勤務バリキャリ総合職)子持ち「保育園落ちた日本死ね!」←これが現実だよ。
年間200本の映画を観るぼくがオススメする7つの映画と7人の映画監督 - 私を構成する映画監督 - - Hikikomotrip
信頼できる映画評を各人間を見分けるにはコツがいる。見ればわかる程度のアレもいるが。
一番わかり易い見分け方は、まずライムスター宇多丸のラジオ映画評番組(正しくは番組内の一コーナー)「ムービー・ウォッチメン」を聞くことだ。
信頼出来ないやつはそこで述べられた評言をまんまパクる。咀嚼せずにパクる。宇多丸はラッパーだけあってキャッチーでクリティカルなフレーズを次々と考案してくれるので、使い勝手が良い。
そういうのをアホは何も考えずに右から左で流すだけだから、「それってどういう意味なんですか?」と聞かれたときにうまく対応できない。
感想や評論のパクりが悪ってわけじゃない。むしろ、それが有用だと思えばどんどんパクるべきだ。
しかし、それにはあくまで自分の感性や理性というフィルターを通して自分なりに噛み砕いたうえで、自分の言葉として精製する過程が必要だ。
それがアホにはできない。
たとえば、コレ。
この人がぼくに与えてくれたのは「ヒップホップ」。彼の映画の作り方はとってもヒップホップの思想に近いと思うんですね。サンプリングやオマージュを多用するパッチワーク的方法論はまさにヒップホップそのもの。ぼくがラップが好きなのは彼の映画が好きだからなのかもしれません。
じゃあお前、ウンコとオシッコは似たようなプロセスを経て製造されるけど、オシッコほど喜んでウンコまるのみできる自信あんの???
こういうのは圧倒的リファレンスを有し、かつ日本ヒップホップ界のレジェンドである宇多丸が言うから重みがある(別にタランティーノを形容してヒップホップ的と評したのは彼が初めてではないし最後でもない)のであって、そのへんのやつが言うと「え? 具体的にどういうこと?」と疑問が湧いてしまう。タランティーノ映画観てて「あ、このBGM、『アラモ』だな」とか「あ、このシーン、『修羅雪姫』だな」とか思うか?本当にタランティーノにヒップホップ魂を感じているのか?ちなみにタランティーノ映画で流れるヒップホップってせいぜいウータン・クランくらい(っていうかRZA)だぞ。
いやいやタランティーノは我々の知らない引用ネタをさも知っているものかのように見せるのが巧くて……と言うのだったら、手法として最もヒップホップ(=引用のパッチワーク)的な『ジャッキー・ブラウン』が肌にあわないってどういうわけ?
結局、ヤクザか狂人が出てきて人が無残に殺される映画が好きなだけってなら最初からそう言えば?
そもそも宇多丸リスペクトしてんなら『ハート・ロッカー』以外の気に入った映画も劇場で複数回観ろや!
こういう何も考えずに宇多丸にフリーライドして周囲の評判を稼ごうとする人を業界では「紫の服の人」と言います。
用例:
映画会社社員A「このまえ公開された◯◯なんですけど〜ネットにひどいこと書かれてて〜見て下さいよこのブログ〜」
広告会社社員B「ん〜???ああ、このブログね。これは「紫の服の人」だから気にしなくていいよ」
というところで、本日の増田、お開きです。最後に増田がおすすめする本当にキモチいい七人の監督の七作を紹介してお別れです。
周防正行:『舞妓はレディ』と『終の信託』以外全部。入門編は「シコふんじゃった。」。シコったあとで『Shall We Dance?』を見ればこの監督独特のリズムに慣らされる。
キャスリン・ビグロー:『ハート・ブルー』と『ゼロ・ダーク・サーティ』。最初に観るなら『ハート・ブルー』。それを最後にしてもいい。
北野武:ヤクザ映画全部観た後でまだ北野武を知りたいと思う余力が残っていれば『みんな〜やってるか?』あたりも。『アウトレイジ』は単発として間口は広くても北野映画の入り口にはならないと思うので『BROTHER』あたりで覚悟をきめておこう。
タランティーノ:一通り全作観終わった最後に『デス・プルーフ』。この監督はフィルモグラフィー順に観るのが良い。よって入門編は「レザボアドッグス」
ポン・ジュノ:全部。入り口としてなら『グエムル』。度胸と覚悟と自らのゲスさに自信があるなら『殺人の追憶』から入ってもいい。
園子温:ない。七人のなかで一番優先順位が低い。強いて挙げるなら『地獄でなぜ悪い』(スラップスティック好きなら)と『冷たい熱帯魚』(とにかくエグい救いのない話が好きなら)。
クリント・イーストウッド:全部。ただ順番があって、西部劇諸作飛ばしていきなり『許されざる者』を、『許されざる者』や『ダーティ・ハリー』飛ばしていきなり『グラン・トリノ』観ても感動はしてもよく飲み込めないと思う。気軽に楽しみたいなら『インビクタス』や『ジャージー・ボーイズ』あたり。
環境が人を作るというならば、そんな暴力をふるうようなクソ男を見抜けないような状況で不幸な子供をつくるって状況は、環境が作ったんだからしゃーないじゃないですか。
環境が人を作るとするならば、子どもにはかわいそうですが、ひもじいまま死んでくれ、それはそれで仕方ないとなる気がしますが、その点どうなんでしょうか。
あと、少ないとはいえそれなりに稼いでそれなりに税を納めているとは自負してますんで、社会のお荷物と言われると腹立たしいですね。
なんかやれ東京五輪で自分の税金が使われるのが癪に障るとか騒いでる人もいますが、こちとらそうういうクソ男のケツをふく結果になっているわけですし。
そういう理屈は、こっちがびた一文税金払ってないときに成り立つのではないでしょうかね?独身だから扶養控除とか受けられんわけですし。
それよか、独身がフリーライドとかいう話も全く理解できませんね。別にこちとら嫁さん養うとか、子ども育てるとかそういうことを忌避してるわけでもないのに、そういう縁もなく、
一方でやれDVで別れた子供がひもじいとか言われても、はぁそうですか、しか思えないわけで。
ところで、そういう子供を作ってしまったクズな元旦那こそ、社会の寄生虫ではないんですかね?こちとら一応稼いで税金おさめてるんですけど、社会に迷惑かけてるのはどっちが上なんですかね?
199x年。インターネット接続が一般的になり、多くの人たちがやってきてweb村ができました。
村民は情報のやり取りをしたい人たちです。情報を拡散したい人と情報を必要としている人たちです。
彼らの多くは対価を求めることなく情報を受渡しあっていましたが、お金を支払ってでも情報が欲しい人は何らかの方法でお金(あるいはそれに類するもの)を渡して情報を得ることもありました。
彼らは基本的に村外の経済圏に仕事をもっており、web村で大規模な経済的エコシステムを形成することはありませんでした。
やがてweb村のことを聞きつけた広告屋が村にやってきて、情報を供給する人たちに言いました。
「供給する情報に広告を入れると広告主からその対価を得られますよ。良かったら広告主を紹介しましょうか?」
彼らは情報を供給する人に、広告を入れることで報酬を得られることを教え、広告を出したい人たちとのパイプ役を買って出ました。
こうして情報は広告まみれになりました。それでも「情報が先」の時代はまだマシでした。やがて広告を掲載するための媒体として情報を作るという「広告が先」の時代が訪れます。広告のための情報を作るコンテンツ屋がたくさん現れます。
情報を受け取る側の人たちは、自分たちが知らない間に村に経済エコシステムが構築され、そこに取りこまれていることに気が付き始めます。
必要としている情報にアクセスしたつもりが、そこは不要な広告であふれています。
広告と判断できればまだ良いほうです。隣人とおいしい飲食店について雑談していたつもりが、隣人はお店からカネをもらっていました。
村の信号機は、表示が変わるタイミングで広告を表示するようになりました。広告の後でないと赤なのか青なのかわかりません。
公園の水道にも広告が入りました。広告を見なければ水は飲めません。
村民が真っ青なな顔で公衆トイレに飛び込んできても、用が足せるのはyoutuberの商品紹介を見た後です。
こうした状況に憤った一部の村民が広告をスルーするツールを作り、供給し始めます。
広告を受け取ってもらえないなら、広告主は現れません。困ったのは広告屋とコンテンツ屋です。
「広告を見ることでコンテンツを得られるんだ!広告を見ないことはタダ乗りだ!悪質なフリーライドだ!」
それを遠巻きに見ていた村民たちは言いました。
「お前らが勝手に作ったエコシステムだろ?俺たちを巻き込むなよ。」
「気づかれないようこっそり作ったエコシステムに望まない人たちを巻き込んでおいて、排除されそうになったら逆切れか。」
「俺たちは、村から経済エコシステムが無くなってもそれほど困らないよ。もともとそういう場所だったしね。」
「村に経済エコシステムを構築してそこで食べていきたいなら、もう少し健全な形にしようとは思わんのかね?」
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俺はモノが大好きだ。モノを作り出す企業で仕事をしているし、服も本もPCもスマホも買いまくっているから家の中はモノで溢れている。
俺が稼ぎ、俺が金を使うことで経済を多少なりとも回しているという自負がある。
でも、当たり前だがモノを買うたびに税金がどんどんかかる。消費税8%の影響は相当大きかった。でも、負けずに消費活動を続けている。
俺からすれば、経済を回さないくせに豊かな社会にフリーライドしてる連中に見える。
もちろん、本当にお金がなくて活発な消費活動ができないという人はしょうがないが、
お金があるくせにミニマリストを名乗ってモノを買わない、低消費な生活をしてる奴らには、
フリーライドは悪だ。
経済が回っているからこそミニマリスト気取りの生活が出来ることを奴らは忘れている。
もし本当に心からミニマルな生活がしたいというのなら、進んで非消費税を払えばいい。
以下引用
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150522/p2
・・・たぶんWW2以降の世界的な社会民主主義の流れで、冷戦、対共産主義のために資本主義、自由主義陣営側が、再分配を強化していく流れがあったと思うのです。なんで、弱者による圧政と専制みたいな感じで、人権などのロジックを使って、これまで虐げられてきたり抑圧されていた層が権益を獲得していく時代だったと思うんです。
けれども、アメリカのアファーマティヴアクションが経た流れと同じで、これを進め過ぎた結果、逆差別が起こってくるようになってきたんですね。
弱者というロジックを使って既得権益の化け物と化して、リソースをフリーライドする方法が社会に蔓延る様になってきた。
また、それでも高度成長などの社会のパイが極端に倍々ゲームで増えていく時期には、それでも問題が多い隠されたので特に問題はなかったんです。けれども、成長がマイナスか、現状維持になって、かつ人口がマイナスに転じてくる時点で、リソースの配分は、正しくフェアでなければいけないという風になってきたんですね。
わかると思いますが、アファーマティブアクションは明確なる逆差別なので、そもそもフェアではありません。アメリカにおける黒人差別を例にとるとわかりやすいのですが、歴史の長きにわたって黒人が差別されたので、現在は黒人を優遇しようということです。けれど、そうすると、黒人以外の層、、、現代の白人、特にプアホワイトなどといわれる貧困層は、逆差別を受けるわけです。
その人たちからするとひどい話で、過去のご先祖様のやったことを、現代の人が責任を取らされているわけです。これ、自分がその立場になったら、やり切れないですよね?。仮に、歴史的に考えれば、それが妥当で正しくても。いやでも、白人が黒人を虐げてきたのは歴史的な事実だから、いま責任を取るのはフェアだ、といったとします。まぁ、これはある一定の妥当性があるので、アメリカ社会でも受け入れられてアファーマティヴアクションが続いているわけです。。。。
しかしね、、、これで何が起こったかというと、プアホワイトや白人層が、軒並み宗教や右翼にシフトしたんですよね。特に中産階級を形成していなかった貧困層の右翼への転び方は、すごかった、イラクやアフガニスタン戦争を遂行したブッシュ大統領の共和党の支持層は、まさにここですね。
えっと、何が言いたいのかというと、(1)勝利至上主義で、ちゃんと現実と闘って頑張った人が報われるべき!というのは、一つ目の正しさです。けれども、そうすると、(2)負けてしまった人々やそもそもマクロ的に頑張れない層が、才能の差によってもたらされたものをケアしろ!といってきます。これは、2つ目の正しさです。
そうして、(1)で頑張った人の努力を奪って再分配を(2)にするとします。そうすると、(2)の層は、その再分配を糧に、頑張る人と、何もしない人が出ます。ようは、(2)が、(1)に転じる人が出てくるんですね。そうなると、(2)で頑張らずに努力しなかった人へ、強い批判が集まります。特に、(2)から脱出した人が、凄い批判社になります、たいてい。これがスパイラルで何周回もしていきます。
ということをしていくと、社会的に不公平感が生まれてきて、特に頑張った層の中でも、それほど恵まれていない層が、右翼化するんですね。なんで、こんなにがんばっているのに、(2)の何もしない奴らに譲歩しなきゃならないんだ!!!って。さらに、(2)のなかでも、頑張らなかった層の中には、がんば『れなかった』人もいるわけです、社会マクロ的な要因や才能の差にしても、、、、そうすると、なんでできるやつにおれが責められなければいけないんだ!と怒り狂う。そんで、この人がルサンチマン化した左翼化になるようなんですね。あっ、ちなみに右翼化して、外国人や移民排斥などの、さらに弱者を探して叩くケースもよくあります。ちなみに、どちらかというと、ヨーロッパをみていると、現代の全地球的な傾向は、移民排斥をベースとした右翼の台頭が、基本のトレンドです。
原作にそういう文句の一つも出ないのは、当たり前だけどオリジナルで勝負してるからだろう。
結果として出来が悪かったとしても、金儲けだとしても、完全オリジナルな新作で挑戦する製作陣を「見る前から」悪しざまに罵る人間なんて普通いないだろ。
金儲けもある、っていうのと、金儲けがメインで原作人気にフリーライドする気だけ見え見えでなバッタモンってのじゃ大違いだろう。
原作者にお金としてマトモに還元してない業界の常識からもその辺りよく分かるよな。つい最近のテルマエ・ロマエの作者が文句言ってたみたいなさ。
そんな連中の撮る映画に原作に対するリスペクトが無いなんて当たり前だよな。実際駄作の山はそうでもないと量産できないね。ひょっとすると映画という文化そのものに対するリスペクトも無いかもしれない。そういう意味では原作ファンが怒る原因や背景から目をそらして「実写化アレルギーな連中が嫌い」とか言ってる奴も当然映画や原作に対するリスペクトなんてねえな。
知り合いが「バレンチノ大杉」と名字二つ並べたビバノウレッジな人名を二次創作で使っていて、そういえば自分もバレンチノのことは、1)ガラヴァーニがいわゆるバレンチノ、2)マリオの方が歴史は古い、ってことしか知らなかったので、ちょっと調べてみた。
いわゆるバレンチノ、あのVのマークとして最も知られている高級ブランド(岩波の人名事典や研究者の服飾事典にもそう書いてある)。Valentino Garavani(ヴァレンティノ・ガラヴァーニ.存命中)氏が創業デザイナー。工房の設置は1959年。日本では1970年から三井物産などが輸入を開始。日本法人は1974年設立。SPAの傘下?ブランド(というかライン)として、VALENTINO,VALENTINO GARAVANI,VALENTINO ROMA,R.E.D. VALENTINO,がある。逆に言えばそれ以外は別物。1996年まで,日本では宝飾以外の商標がVALENTINOで登録できなかったらしく,VALENTINO GARAVANIの方が多い。海外ではVALENTINOのみの表記が主。
2)MARIO VALENTINO(マリオ・バレンチーノ,マリオ・ヴァレンティノ)
1のバレンチノ以前、1952年に同名の会社を設立。今は総合革製品の中-高級ブランドだが、特に靴・サンダルで有名になった。被服類でのVALENTINO国内商標はこっちが1996年まで持っていた。創業デザイナーのマリオ氏は1991年に亡くなっている。
3)その他大勢
全部じゃなくて、程度の違い(全くのただ乗りから、実在するデザイナーを据えてるとか、イタリアに直営店持ってるとか、不幸にも被ってるとか)もあるけど、上の二つ以外はいわゆる商標の「フリーライド」扱い。Valentino Rudy,RUDOLPH VALENTINO,GIANNI VALENTINO,GIOVANNI VALENTINO......などなど。テレビのバラエティ番組(はなまるマーケットとか)でもこの話題が出て,便乗ブランドは100くらいあると。
「子なし夫婦は結婚制度へフリーライドしているのではないか?」という主張には前々からもやもやしていたが、ある程度整理できたので書いてみる。
まず、結婚制度の目的が「子作り」であると仮定する。ここで言う子作りとは性行為及び出産を言うので、里親・養子縁組は含めない。制度の目的が「子育て」であるなら議論の余地があるかもしれない。よって、ここでは取り上げない。また、将来的に同性カップルが子作りできる技術が普及するかもしれないが、現状において同性カップルは子作りできないとする。
すると、
の3つに大別される。子供を産まないという意味で2と3は同等であり、しかしながら2は制度の恩恵を受ける。それは良いのか? という問いがよく聞こえる。答えを先に書けば「良い」である。
まず、「制度」に関する一般論から入ろう。そもそも制度は目的に厳密に合致していなければならないわけではない。むしろ複雑怪奇な事情が生じる現実社会を四角四面の制度が厳密にカバーできるはずもない。例えば生活保護という制度は、どんな状況においても最低限生きていけるようにするためにある。一昔前に話題となった事例では、Kは莫大な収入があるにも関わらず、Kの母は生活保護を受けていたということがあった。ここでは、Kは悪意を持って母に生活保護を受けさせていたとしよう。これは制度の目的に合致せず、制度を厳格に運用すると言うのであれば、この穴を塞がなければならない。では、どのように塞ぐか? 親族に金があればダメとすると、DV等で逃げた人たちも生活保護を受けられなくなる。これでは当初の目的が毀損してしまう。
という筋の通らなさは、制度が目的を厳密に達成できないという事から生じている。Kの母が生活保護を受けているのに、金を持っている人が生活保護を受けられないのはおかしいといえるだろうか。どのような線の引き方をしても目的に合致しないことがあるから線なんていらない、というのは横暴である。
ではどのように線を引けばよく目的と合致するだろうか? 現状において
で、2と3の間に線を引き、2が不当な利益を得ている者だ。これをもっと厳格に区別する「結婚の要件」を定義することを考えよう。むろん、「男女」という以上の要件を加えた時点で憲法違反になるだろうが、ひとまず置いておく。
例えば
とするのはどうだろうか。なるほど、これなら子なし夫婦が減るかもしれない。しかし、「生殖能力がある」とはどのように定義するべきか? 治療可能なED等も含めるのか? それでは目的に合致しながら恩恵が受けられなくなる人が出てしまうのではないか。
では、
とすれば、子作りできる可能性が全くない者を排除できる。一方、結婚→子作り→離婚→生殖器喪失→再婚、というプロセスが踏めなくなる。
以上のように、目的を毀損せず、2のケースを減らす適切な制度設計が思いつかない(私が思いつかないだけなのだろうか)。疑わしきは被告人の利益に、ではないが、