はてなキーワード: 透明人間とは
○ご飯
朝:コーンスープ。チーズ。クラッカー。昼:カロリーメイト。玄米ブラン。夜:ヨーグルト。冷奴。キャベツと人参とエノキのスープ。目玉焼き。
○調子
○最悪なる災厄人間に捧ぐ
・はじめに
透明人間の少女クロと、その彼女以外全て見えなくなった少年豹馬の出会いから始まり、セカイを定義する理に挑む、ヒロインや主人公の命が世界の命運と直結してる系の恋愛もの。
視点人物である主人公はヒロインのクロ以外の人間を認識できないという突飛な状況で物語が展開する。
その都合上、20時間以上のプレイ時間の間、延々と二人っきりでストーリーが展開していく。
そんな強烈な縛りを設けながら、パラレルワールドや時間移動やループなどのセカイを定義する色々な技法を使い、様々な展開が繰り広げられる。
なので二人っきりというのはある意味本当であり、ある意味大嘘なのが、すこし不思議系の味わいがある見所。
・辛いくて重い
最悪なる災厄人間である豹馬と、透明人間のクロにはひたすらに最初から最後までずっと辛い展開が続く。
衣食住と言った基本的な部分の不自由から始まり、精神と肉体の両面から削る悲壮的なシーンが多い。
進めば進む程、最初に手に入れたものがこぼれ落ちていく展開なことも苦しい。
最悪なる災厄人間という言葉に込められた呪詛の重みの凄まじさとその悪意に読み進めるのが苦しくなった。
かなり人を選ぶ描写が多く、特に児童虐待と自殺の方法がかなり具体的な文章で書かれていたのは、露悪的が過ぎたとも思う。
ただこの二つは物語の根幹でもあるので単純に削ればいいとも思わない、しかしそれにしたって残酷な表現だった。
善意の空回りや、悪意のないシステム的な辛苦ではなく、妬み嫉みからくる悪意なのもシンドく、自分勝手な悪意に振り回される。
・クロは豹馬が大好き
登場人物は二人っきりだが、様々な事情で多種多様なクロが登場する。
勉強好き、運動好き、いたずらっ子、寝るのが好き、キャリアウーマン、猫、お人形さん、占い好き、ヤンデレなどなど、見た目も中身も違う沢山のクロが登場する。
しかし、どの彼女たちも基本的に主人公の豹馬が大好きという共通点がある。
ここは疑う余地のない絶対の聖域になっており、上述した辛いストーリーを乗り越えていく中で支えになる。
数多の苦難を乗り越えていく中でほぼ唯一の絶対に信用していい箇所がココだ。
それだけに、二人の関係値に名前を付けれないとするシーンの重みは凄かった。
世界中に二人っきりだからこそ、その二人に名前がある関係は結べないというのは、すごくロジカルでありつつ、愛は究極の差別なのだなあとしみじみ思った。
・Bさん好き
そんなわけで徹底して二人のストーリーなんだけど、数少ないそれなりに出番があるモブキャラのBさんが僕は気になった。
というのも、成人女性でありながら小学生女児のクロを教祖のように崇めペコペコする態度が可愛いかった。
主人公、クロ、Bさんで女性同性愛を含んだ三角関係的なサイドストーリーなんかがあったら面白そう。
まあ正直ただのミスリード要員で、あまり深掘りもされていない脇役なんだけど、妙な存在感がある。
・おわりに
人の悪意に振り回されながらも、二人っきりの世界で、客観的な善性を見出していく、ある種の道徳的ポリシーの高さが見所だった。
あくまで二人しかいないのは彼らの主観で、実際には周りには他人がいるという複雑な世界観にしたからこその、セカイ系に振り切らない良いバランス感だった。
セカイの存続と彼らの選択が密接な関係にある展開自体はらしいんだけど、その上で立ち絵も無い第三者達を意識した物言い、立ち居振る舞いを身につけていくのは、作者の真摯な態度のように見えて好きな展開。
ここ最近、学校でのいじめを警察に訴えるべきだと言う話がよく話題になっているように思う。
勿論それには同意する。そもそも教師の負担が大きい中で、明らかな暴力行為、法に反する行為があればそれは警察に任せるべきだろう。今まで警察に任せていたのがおかしい。
とはいえ、こうした報道、いじめに関する話題が持ち上がる度に、かつて自分が学生時代に遭遇したものはいじめだったのだろうか?と自信をなくしてしまう。
暴力などがあった訳ではない。ただ、無視されていた。いないものとして扱われていたというよりは、何をしていてもその様子を嘲笑して良いものとして扱われていた。
かつての自分は野球部に所属していた。同学年のメンバーは偶数人おり、その内自分も含めた4人のメンバーでキャッチボールやペアでのストレッチなどを行っていた。ある日は増田とAとのペア、BとCとのペアでキャッチボールを行い、その翌日は増田とB、AとCとでキャッチボールを行っていた、という風に。
それがある日突然、AとBとCが3人でキャッチボールやストレッチを始めるようになった。当然のように自分は狼狽えた。AもBもCも、人間関係が出来上がった中で今更他のペアに仲間に入れてくれとも頼めない内向的な増田が一人で狼狽えている様子を見てクスクスと笑っていた。他の同学年のメンバーも、戸惑いながらもキャッチボールの仲間に入れてくれるということはしなかった。突然仲たがいを始めたグループの面倒を彼らが見る必要なんてないから当然だが、自分にとっては全員が敵に見えた。当然のように、何もしていない自分は先輩に怒られた。何もやらないなんてやる気あるのか、とっととキャッチボール始めろ、と。そこでようやくA、B、Cに小さな声で「すみません、キャッチボールの相手をしてください」と言うことが出来た。三人はじゃんけんをして、当然のように負けた人間が自分の相手となった。負けたAに対してBとCが「罰ゲームじゃんwww」とか「あんな奴の相手させて悪いねwww」と、自分に聞こえるような声で言っていて、何も信じられなくなった。三人とも、昨日までは普通にキャッチボールをし、一緒にストレッチをし、一緒に授業のことや漫画のことなど、他愛のない話をしていたので、こんなに自分のことを嫌っていると思ってもみなかったのだ。
これが中学2年になってすぐ、ちょうど今ぐらいの時期の話だ。部活動というのはだいたい3年の夏の引退試合まであるから、あと1年半はこうした状況が続くことは間違いなかった。けれど自分には部活動を辞めるという選択肢はなかった。1つには小学生から野球をやっていて、何だかんだ愛着があったこと。もう1つは、辞めた後の選択肢がないこと。自分がいた中学校は部活動には必ず所属する必要があったが、今更他の運動部に行ったところで、キャッチボールの相手も頼めない自分が他の運動部で新たな関係を築けるとも思えなかった。文化系の部活だって同様だ。そもそも、田舎の小さな学校の中で部活動を途中で変える人間なんていなかった。前例のないことをするのは自分にとって非常に恐ろしかった。今現在でさえ部活のメンバーから浮いている自分が、更に浮いてしまう気がした。
毎日頭を下げることでしかキャッチボールやストレッチをさせてもらえなかった。少しでもミスをすれば、ストライクを見逃せば、ボテボテの球しか打てなければ、走塁をミスすれば、すぐ笑いものにされた。ABCがそういう扱いをしているという空気はどんどん部活内に伝播して、同学年も、先輩も、挙句の果てには後輩にも笑われるようになった。自分が空振り三振した時、空振りをする俺の打ち方を誇張する物まねが部内で流行した。「オイあれやってみろよwww」と何度も言われた。そういう状況だから、例えばチームに貢献するようなことがあっても、褒められることなんてなかった。自分がヒットを打っても、後でベンチに戻った自分とハイタッチしてくれる人は誰もいなかった。透明人間みたいに無視されたかと思えば、突然あっこんなところに変な奴がいるぞwwwwと笑いものにされて、全部が苦痛だった。ちなみに顧問は試合の前後以外全く練習に来ない人で、このようなことが起きていたことも知らなかっただろう。
このような思春期を1年半過ごした。もちろん1年半の部活生活だけで済まず、部活以外のところでも無視や嘲笑されることはあった。けれど部活以外の場所には信頼できる、突然自分のことを笑いものにしたり無視を始めたりしない友人がいたので、それだけが救いだった。これがきっかけで高校を選ぶ時には、なるべく同じ学校の人間が行かない高校を選んで進学した。それでも自己評価は下がったままだし、新しい友人を作る勇気も湧かず、高校も大学も就活も、あまりうまくいかずに過ごした。
全部が全部彼らのせいだとは思わない。元々かなり内向的な性格なので、いずれはどこかで何かしらの引っかかりを感じていただろう。それでも、あの無視や嘲笑が、いい歳になった大人になっても忘れられない。人を軽い気持ちでからかうような人間がこういうものを読んでも、無視される側に原因があるだろうとしか思わないだろうが、かつて自分を無視したABCの名前を検索すると会社の役職が出てきてしまって衝動的にこれを書いた。お前たちは同窓会にも来ない俺のことなんてとっくに忘れているだろうが、俺は忘れていない。お前たちの名前も、顔も、俺にしたことも全部。
なぜなら「普通の人間」は、進学も就職も恋愛も結婚も子育ても、ホモ・サピエンスのマジョリティ的イベント全てをそつなくこなすからだ。
それらをこなすことは彼らにとってみれば「空は青い」レベルの”当たり前”であり、それを”できない”という選択肢はそもそも彼らには”無い”。
弱者男性というのは、「普通の人間」からすると透明人間に等しい。彼らの目にはそもそも弱者が見えていない。
これは悪意があるわけではなく、自らの充実した人生とそれによる幸せを教授することに脳のリソースが多く割かれているためだ。
だから、この記事のように弱者側からその存在をアピールされると「普通の人間」は理解が及ばず困惑を始める。
思うに、地球外生命体が突如現れて、宇宙語で話しかけてきたかのようなショックなのであろう。
そして見当違いの批判をぶつけてくる。宇宙人のことなんて理解できるはずもないのだから、これは仕方のないことではある。
俺も弱者の一人だから分かることだが、弱者として生まれてしまったからには根本的解決方法はないと思う。
遺伝子的に劣っているのだからもはや何をしても無駄。ありとあらゆる努力は不良品の遺伝子によってかき消されてしまうのだ。
誠に残念なことだが、自〇する以外の道はない。
オレたち弱者族、みんなで〇のうや。
どうせ誰も悲しまない。
仮に誰か一人くらい悲しんだとてその悲しみでさえ100年後には灰と煙になってる。
ただし電車とビルはダメだ。他の人を巻き込む可能性がある方法は良くない。
というわけなのでまずは山奥に行って、ダム入水か、テント練炭か、高い吊り橋あたりがいいだろう。
とりあえず一度、吊り橋に行ってみよう。
その真ん中にしばらく立ってみて、再度自分と向き合ってみよう。
気が向いたらそのまま落ちればリセマラ完了、次の人生(鳥生か、虫生か、永遠の無かもしれないが)に挑戦してみよう。
健闘を祈る
中絶による身体的ダメージ、精神的ダメージは女性が引き受けるしかないんだけど理解してる?
しかも日本じゃ医薬品での中絶は無理で、内臓に器具突っ込む掻爬手術や吸引手術しか手段がない。
感染症、不妊、内臓癒着のリスクがあって、最悪の場合は子宮破裂するんだぞ。子供の養育を放棄しようって人間が、どうやってその責任を負うんだよ。
お前みたいなやつらってほんと女性器を鉄壁の肉袋か何かだと思ってるよな。想像力がないし、女性が人間だって忘れてる。
大体、社会の現状はお前の望みどおりになってるよ。
男に強いられて中絶せざるを得ない女、産んだら男に逃げられてシングルマザーになる女、
追い詰められて赤ん坊を殺して逮捕される女、そんな話はありふれてる。ニュース見ればわかるだろ。
そういう事件が起きても、男はいつも透明人間みたいに逃げおおせてる。
何が非対称だよ、バカが。
人付き合いが苦手だ。相手の事を常に気遣って別れた後にどっと疲れてしまうので、気を抜くとやらかして人が離れて行くか、自分が疲れて離れていくか。
LINEの雑談ですら疲労感が半端ない。相手から無難な内容が返って来るとホッとする。いや、無難な内容しか返してもらえないのだと落ち込む。
普通の人だと自分では思っているのだが、多分周りからは近寄りがたいキモい陰キャなんだと思う。いや、存在すら気にされない透明人間だ。やらかしてないから認知すらされない。
相手から重かったり面倒くさいと思われ害悪のレッテルを貼られ噂されるのであれば、表面上だけの付き合いがwinwinだと思ってそうしている。いや、誰からもレッテル貼られたりしない。誰から見ても存在していない。
でも時々死ぬほどストレスが溜まる事があって誰かに話を聞いてもらえたらと思うときがある。でもどこにもいない。
週の半分リモート(顔出しとか全然ないからパジャマ眼鏡)、出社してもパーテーションのある席で作業できて、
職種的に会社の外の人(クライアント)とは会わない、外出なし、
電話応対なし、ほぼ個人作業で、出社しても誰とも話さず終わる日もある
私の性格的に電話が始終鳴りっぱなしみたいな職場は無理だなと思っていたからありがたいし、普通にホワイトな環境すぎる
でもなんかなんというか不安になるんだよね
本当に私ってこの世の中で生きてるんだろうか?って感じ、透明人間みたいな感じ
フィードバックがなんにもなくて、なにも跳ね返ってこないから手応えがないっていうか
別に大層な仕事のフィードバックじゃなくても、例えば出社して髪の毛切ったんだねって言われるとか(まあそういうのが煩わしい、っていうのもわかるんだけど)その程度でいい
ある程度集団の中での位置付けとかキャラ付けとかなんでもいいんだけど、そういうのないとどんどんわかんなくなってく
今までの私の人生が周りの目に左右されすぎてたのかもしれないけど
12年前、
借りていた奨学金の募金活動で桜木町駅に日がな一日立っていた。
この活動に前向きで意欲的な奨学生もいるだろうけど、私はそうではなかった。
なぜ週末の駅中で、私は親を亡くしました。でも勉強がしたいのです。だからご協力をお願いします。と、楽しそうで幸せそうな人たちに向けて声を張り上げ続けなければならないのか。
多くの人は一瞥するも通り過ぎ、
あるいはこちらを見もしない。
俺だって大学に行っていない、甘えるな。とおじさんに言われたり、
ここの団体の資金のやりくりは不明瞭で、とそんなことをおばさんに言われたりした。(そんなことを私に言ってどうする?と思いつつ、聞かないわけにもいかなくてしんどかった)
募金と見せかけて
好き好んで親を亡くしたわけでもないし、
好き好んで看板を吊り下げて立っているわけではない。
あえてこちらを見ようとせずに通り過ぎる赤ちゃん連れの若夫婦などを見ていて、
足もしんどくなってきた夕方、
癖っ毛で眼鏡をかけた小柄なスーツ姿のおじさんが寄付をしてくれた。
ありがとうございます。とお礼を言うと、おじさんは何も言わずに去っていった。
しばらくして、さっきのおじさんが戻ってきた。
それを差し入れにくれるという。
募金活動の差し入れに甘栗。しかも殻付き。と思ったけれどありがたく受け取った。
おじさんはこう言った。
君らがここでこんなことをせなあかんのは間違ってるんや。僕ら大人が悪いんや。ほんまごめんな。ほんまごめんな。
おじさんは最後、少し涙声になっていた。
なぜこの人が謝らなければならないのだろうか(しかも偶然出張で桜木町駅にいるだけなのに)、と思ったけれど
私はずいぶんとこのおじさんの言葉に救われた。
1日立ち続けて
私たちはちゃんと存在して、見えていたのだな。ということがわかったことと、
なにより、おじさんのその気持ちに。
もう12年経ったけれど、
おじさんのことを忘れたことがない。
名前も聞かなかったし、もう会うこともないだろうし、
お年としては、定年を迎えられているのかもしれない。
どうか元気でいてくださいとおじさんを思い出すたび、祈っている。
人は人の心を挫くこともできれば、
反対に守ることもできるのだと
おじさんが身を持って教えてくれた。
おいしかった。
見ず知らずの学生の姿を認めて
耳を傾けて、言葉をかけてくれた。
あのおじさんのような大人になりたいと思ったし、
べこべこに凹んだ自尊心を守ってくれた。
おじさん、元気ですか。
あなたはもう忘れたと思うのですが、
あの時はものすごく嬉しくて
12年経った今でも