はてなキーワード: 自発的とは
たぶん誰かが言ってることだとは思うけど、親としては自分の子供が馬鹿に育って欲しくないわけで、俺はただゲームやりたいだけの馬鹿じゃないんだぜっていうアピールが必要なんジャマイカ。
PCってのは数年持つもので、進学するにせよ働くにせよ、たぶん高校生活終わってからも使う。つまり大げさでなくきみの人生の一部となりうる。
くどいようだけど親の立場に立ってみると、きみの人生の一部を形成するような決断にひとまず待ったをかけたくなる気持ちは痛いほどよく解る。そしてそれに抗いたいきみの気持ちも同様によく解る。
俺は馬鹿じゃないという証明が必要だ。具体的には、PUBGやるついでに英語を勉強する(PUBGのことはよく知らないが)とか、近い将来義務教育でプログラミングが必修になるから彼らに遅れを取らないために自発的に勉強がしたいだとか、10万前後の投資がなんとなくプラスになるような長期を見据えた理路整然とした説得が必要だ。
馬鹿に見られないようにするにはコツがある。常に自分を傍から見ているような気持ちでいることだ。努めて冷静であることだ。これが分かっていてもなかなか、頭ごなしな相手には難しい。自分の顔が見える位置に鏡を置いて親と話すなどが効果的かもしれない。バンプか誰かが歌っていたように、自分の真面目くさった顔というのは途端に興ざめする威力がある。
きみは子どもだが、子どもではない。これはそんな宙ぶらりんな時期にありがちで、今しか経験できない貴重な悩みであるとも言える。存分に考えて、このハードルを楽しんで欲しい。
これから書くのは私の主観であり、本人達の意向は知らないし、知る気もないただの新規の戯れ言です。ただ言いたかっただけ。
キラキラして、ギラギラして、てっぺん取るって京セラドームで泣いたあの日から1年半くらい経ちました。てっぺんには近付いたのかな。
私には遠ざかったように見えます。
ツアーの途中でこんなこと言うの違うとは思うけど、でももう耐えきれなくない?私だけ?そんなことないよね?
まず初めに。
変な噂を抜きにしても、どう考えてもやる気が感じられない。仲良し小好しで全国回って地方は旅行気分でヘラヘラやってるようにしか見えない。横浜と関西とその他地域の格差が酷い。
みんな言ってるけど、横浜の扱いは何なの?ツアーの初日は各種取材がいるからちゃんとやるけど、残り6公演はへろへろになってこなしてるだけ。何が楽しいの?東京Jrが付いてくれて、明らかにどう考えてもダンスはバックの方が踊っててしかも上手い。たった7公演のために振りも立ち位置も全部覚えてくれただけでも感謝するべきなのに、その子達よりもどう見ても手を抜いてる。デビューしたから偉いとでも思ってるのかな?
「開演前歌えよ?」問題
これ批判派多いのは皆さんご存知かと思いますが、開演前のアナウンス聞いてる?聞いてないよね?お姉さんが携帯の電源切ってとか言ってるやつ。聞きなれて聞いてない人もたくさんいるけだろうけど、あれだって大切な音なんだと思う。
それをかき消すかのように歌うことに意義はありますか?
自発的に歌ってくれてる、とかテレビで言って半強制的に「歌うよな?」って圧かけてるよね。実際歌ってるのなんて、半分も満たない10代の子くらい。
歌うことは強制することではないと私は思います。24コンの開演前、ええじゃないかが流れて口ずさんでたら音が揃っちゃった、みたいに自然と起きるからこそ特別で価値のあるものなんじゃないかなと、少なからず私は思います。
他のグループでもオーラスでトリプル前に自然と歌いだしたりはあるから、合唱自体に異議を立てたい訳では無いんです。それを"強制すること"に異議がある。
君らやる気なくない?
お金払ってこっちは見に行ってんのに、雑誌で平然と手抜き発言。歌番組で歌詞は間違える。間違えたり事故ったりすると笑って歌わない。おふざけ曲と勝手に決め込んで全く歌わない曲もある。
何を考えてるの????って感じです。
別に間違えるなとか音外すなとか言ってるわけじゃないです。そんなの仕方ないし。それを改善しようとしないことに物申したい。
歌詞は作詞家の方が、振り付けは振り付け師さんが、全部誰かの手で作ってもらったものなのに、当たり前のように歌わない、踊らない、踊っても手抜いて揃える気もない、上手くなろうという気概が見えない。
ツアーの終盤になっても音外し続けてるのどう考えてもおかしいと思わないのかなあ。ボイトレ行く暇もないほど忙しいの?
メンバーが振付したのに、サングラスで辛い顔隠したり、明らかに体がついていかないのは体力が無いからしょうがない?しょうがなくないでしょ、それが仕事なんだから体力くらい付けたらどうなの?そもそも随分休んだあとに踊ってるよね?
この1年でファンが減ったなと思います。Jrに降りた友人が何人いるかわからないくらい。
だって好きになった時に見た「売れてやる!!!」ってギラギラ感が無いんだもん。そんなやっつけで仕事してる人達のことアイドルだとは思えないし、応援したいとも思えない。
下がついにデビューするのにそんなんでいいの?って感じ。
いっそのこと仕事とファンがごっっそり減ったらいいんじゃないかなって思っちゃうくらい。
嫌いになったならファン辞めればいいじゃんって話だけど、私は彼らに売れてほしいと思ってるし、才能が無いとは思ってないから、だからそれを無駄にするのはやめて欲しいって思ってます。
私はそう思うけど、そう思えないようなら「今でもそれなりに売れてるし仕事もあるし困ってないから現状維持で仲良く楽しく可愛い子だけに手振ってればいいや」ってハッキリ言ってほしい。未練も悔いもなくただ嫌いになっておたく辞められるから。
もうすぐ5年。たった5年。まだまだ先は長いよね?まだスタートしたばっかりだよね?
https://anond.hatelabo.jp/20180318203608
最近極めてそれが激しいのは多分「最近の無能が有能の思い通りに動かない。有能と同じ土俵の上に立たない」からだろう。
最近の無能は例外はいるけど多くが「足るを知ること」を覚えてしまい、簡単に煽りに乗らない。
人類の歴史はある意味「有能が無能と同じ土俵で競争するか有能が無能を利用して無能が踏みつぶされ続けた歴史」だけれども最近の無能はそもそも同じ土俵には立たないのだ。
出来ないことはしないし、無駄なリスクや争いには首を突っ込まない。自分に必要がないことは関わろうともしない。
下手をすると私みたいに「ハイハイ私は無能ですから有能さんだけでやってね」と丸投げして後は知らんぷりをする。
理由はいくつかあると思うが、一つに桁違いに無能だとつらいが別に多少無能程度ならそれなりに生きていけること、
そして何より有能になることへの期待値の低さであろう。
例えば官僚。必死に成功しても最近話題のどこぞの元官僚みたいに下っ端にのみ偉そうで上にへーこら、用済みになったら政治屋たちにあいつが悪いと袋叩きにあったりするのだ。
袋叩きになってる側も見苦しいがしてる側も見苦しいだろう?
バブル期だと外車を乗り回し女を多数抱えるみたいなバカみたいな成功パターンがあったと思うが、今やそれも時代遅れである。
変にそんなのを抱えても今やめんどくさいだけというのが盛大にばれてしまっている。
そもそも今時の金持ち成功者なんてどこぞの会社社長みたいにツイッターで偉そうに叫んでるだけだったりする。
そんなのにいったい誰が憧れたりああなりたいと思ったりするものか。
独身志向の男たちが激増してしまったのも結婚という一昔前は一人前・成功の第一条件であった事象の没落とそれへの期待値壊滅が生んだ事象ではある。
結婚に昔レベルの価値があったら男たちに金がないと言っても今でも自発的非婚化なんて事象は起きていなかっただろうから。
他にもそういう事象は数え切れないほどあるだろう。
https://v.redd.it/3mv3gv4w7pq01
まさに更生施設だよね。
そして手厚い更生プログラムが用意されているらしい。
でも実際収容されて暮らしてみると徐々に気持ちが変わるんだろうね。
周りは熱心に社会に復帰しようと頑張ってるの見ててさ。
「俺にも出来るんじゃね」って。
やる気が出るのかな。
そういう時って生きてて良い理由が見つかった気分なんだろうなあ。
居心地よくして、あまり束縛せず、将来明るい事をさせ、自分が恵まれ生きてて良いことを実感させる。
健全な精神を宿すための健全な肉体を育む土壌があるってすばらしいね。
こういう自発的に社会にとって良い人間になるよう行動させる環境づくりと言うのは、仕事に応用できる側面が大いにあるのかなと思う。
うまく言葉に出来ないけれど
そういうプロトコル・文化・規則、なんでもいいけれど決まりごとを外部から否定するのは基本的には良くないと思った。
ただ、違和感を感じる基準がどこにあるのか、自分でもよくわかってない。
幾つかのパターンを考えてみた。
違和感* | 内容* |
---|---|
⭕ない | 相撲協会の中の人が「この事件で相撲が嫌いになった」と発言する |
⭕ない | 女性救命士が「この事件で相撲が嫌いになった」と発言する |
⭕ない | 無関係の日本人が「この事件で相撲が嫌いになった」と発言する |
⭕ない | 無関係の外国人が「この事件で相撲が嫌いになった」と発言する |
違和感* | 内容* |
---|---|
⭕ない | 相撲協会の中の人が「相撲協会の考え方は古臭いと思う」と発言する |
⭕ない | 女性救命士が「相撲協会の考え方は古臭いと思う」と発言する |
⭕ない | 無関係の日本人が「相撲協会の考え方は古臭いと思う」と発言する |
⭕ない | 無関係の外国人が「相撲協会の考え方は古臭いと思う」と発言する |
※ 「本当に古臭いのか?」については分からないが、少なくともこのように発言すること自体には違和感はない
違和感* | 内容* |
---|---|
⭕ない | 相撲協会の中の人が「相撲協会の考え方は間違っていると思う」と発言する |
⭕ない | 女性救命士が「相撲協会の考え方は間違っていると思う」と発言する |
⭕ない | 無関係の日本人が「相撲協会の考え方は間違っていると思う」と発言する |
⭕ない | 無関係の外国人が「相撲協会の考え方は間違っていると思う」と発言する |
※ 「本当に間違っているのか?」については分からないが、少なくともこのように発言すること自体には違和感はない
違和感* | 内容* |
---|---|
⭕ない | 相撲協会の中の人が自発的に「相撲は日本の国技としての扱いを辞退する」と発言する |
❓微妙 | 批判を受けて相撲協会の中の人が「相撲は日本の国技としての扱いを辞退する」と発言する |
❓微妙 | 女性救命士が「日本は相撲を国技として扱うな」と発言する |
❓微妙 | 無関係の日本人が「日本は相撲を国技として扱うな」と発言する |
❌ある | 無関係の外国人が「日本は相撲を国技として扱うな」と発言する |
違和感* | 内容* |
---|---|
⭕ない | 相撲協会の人々が自発的に、女性救命士に謝罪する |
❌ある | 批判をうけて、相撲協会が女性救命士に謝罪する |
❌ある | 女性救命士が相撲協会に謝罪を要求する |
❌ある | 無関係の日本人が相撲協会に、女性へ謝罪するよう要求する |
❌ある | 無関係の外国人が相撲協会に、女性へ謝罪するよう要求する |
違和感* | 内容* |
---|---|
⭕ない | 相撲協会の中の人が自発的に、女性も土俵に登ることを許可するよう相撲協会に要求する |
❌ある | 批判を受けて相撲協会の中の人が、女性も土俵に登ることを許可するよう相撲協会に要求する |
❌ある | 女性救命士が、女性も土俵に登ることを許可するよう相撲協会に要求する |
❌ある | 無関係の日本人が、女性も土俵に登ることを許可するよう相撲協会に要求する |
❌ある | 無関係の外国人が、女性も土俵に登ることを許可するよう相撲協会に要求する |
最近の女性差別改善の流れでは、「過剰な正常化」が行われているように思う。
相撲協会が「(我々が考える)女性差別」を行っていたとして、それで実害がない限りは放っておけばいいのではと思ってしまう。
自分で考えた指摘とそれに対する返答
もちろん私の価値観としては、その批判の内容は間違っていて女性救命士に過ちはないと思う。しかし、相撲協会が女性救命士にむかってそのような批判をしたとしても、「彼らの価値観ではそうなるだろうな」という納得はできる。
法律や常識、倫理など、なんらかの「絶対的な基準」があれば相撲協会が正しいのか間違っているのか、は判断できると思う。
(法律や常識が「絶対的な」基準として機能するのかという、また別の問題があるけれど)
「相撲を国技と見なすのをやめる」ように国に要求すること自体はありだと思う。
その実害に対する責任は相撲協会にはないと思う。仮に女性が土俵に上がれないことが理由で男性が死んでいたとして、相撲協会は法的責任を問われるのかは非常に気になる。
色々なパターンや指摘を考えていたら土日が溶けた。結局自分は何が正しいと考えているのか、よくわからん。
私は男、大学2年生、相撲は普段全く見ない人間で、私自身の意見は「日本には奇習が残っているんだなぁ」だけです。
阪神とかヤクルトとか、セリーグの一部の球団の応援では「くたばれ読売」というコールが使われている。もちろん公式の応援歌の歌詞に載っているわけではなくて、あくまでファンが自発的に言っていることだ。
一家揃って阪神ファンの家庭に生まれた自分は、幼い頃から球場に試合を見に行っていたのでくたばれ読売コールをすることに全く違和感を感じない。「常勝球団の巨人への羨みとリスペクトを込めて言ってるんや」という、2ちゃんねるの阪神ファンが自己弁護に使うような理屈を信じ切っていた。
けれど昨日はてブに上がっていた↓の記事を見て少し疑念が膨らんだ。くたばれ読売に傷つく誰か、眉をひそめる誰かがいるんだろうと気づいた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180403-00000009-jct-soci
さすがに、「くたばれ読売」は「原爆落ちろ、カープ」と並列に語られるほどの問題じゃあないんじゃないかと思うんだけど、生粋の阪神ファンとして育った自分の曇った眼ではこの良し悪しを判定できない。過激な言葉を使って相手を煽ること、その行為を応援の一種だと言い張ることは、褒められるべきではないような気もする。どうなんだろうか。今度球場に行ったら、いつもは声を張り上げて言っていたあのコールに参加するのをやめようかな。
阪神とかヤクルトとか、セリーグの一部の球団の応援では「くたばれ読売」というコールが使われている。もちろん公式の応援歌の歌詞に載っているわけではなくて、あくまでファンが自発的に言っていることだ。
一家揃って阪神ファンの家庭に生まれた自分は、幼い頃から球場に試合を見に行っていたのでくたばれ読売コールをすることに全く違和感を感じない。「常勝球団の巨人への羨みとリスペクトを込めて言ってるんや」という、2ちゃんねるの阪神ファンが自己弁護に使うような理屈を信じ切っていた。
けれど昨日はてブに上がっていた↓の記事を見て少し疑念が膨らんだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180403-00000009-jct-soci
さすがに、「くたばれ読売」は「原爆落ちろ、カープ」と並列に語られるほどの問題じゃあないんじゃないかと思うんだけど、生粋の阪神ファンとして育った自分の曇った眼ではこの良し悪しを判定できない。過激な言葉を使って相手を煽ること、その行為を応援の一種だと言い張ることは、褒められるべきではないような気もする。どうなんだろうか。今度球場に行ったら、いつもは声を張り上げて言っていたあのコールに参加するのをやめようかな。
最初から最後までほぼ泣いてたかもしれない。いい最終回だった。
終始笑顔で、それを見ただけで胸がいっぱいになる。まず髪切るときの報瀬。12話では、3人の前で躊躇していたときの報瀬は本当に曇った顔で「もういいから、じゅうぶんだから…」って言っていたのとは裏腹にすっごい良い笑顔になっていて、12→13における報瀬の成長が端的に現れている大好きなシーン。その後隊長とかなえさんに見せた笑顔はとても貴子に似ていて、「ああ、カーチャンがいた頃は、こんな感じに感情豊かな女の子だったのかな」とか「12話を経て報瀬がようやく本来の報瀬らしさを取り戻したのかな」とか思わずにはいられなかった。その、カーチャンの亡霊を象徴するノートPCを隊長に託す報瀬は本当に清々しく、12話で夢から醒めた彼女が悲しみではなく幸せで満たされていることが端的に現れてて「良かった・・・本当に良かった・・・」ってなった。その後カーチャンからメールが返ってきたときも、それまでの報瀬だったらどうなっていたのか分からないけれど、13話の報瀬は「知ってる!」と鼻にもかけず笑い飛ばした姿はすっかりカーチャンの背中に追いついていて、むしろ追い越している。どんだけ成長してんねん…。
加えて、今までの報瀬はどんな風景を見てもボケーっとしたようなシケた顔だったのだけれど、最後に満面の笑みでオーロラを見る姿はもう最高すぎた。
観測隊としての生活は相変わらず忙しそうなのだけれど、4人が「なんとなく、うまくやっている」という姿に感動した。報瀬も言っていたけれど、南極での生活はむき出しの感情がぶつかることもあるわけで、それでも4人は仲良くやっているので「何も大きなトラブルが起きない」ことで彼女たちの成長を表すという演出が最高すぎた。個人的にアイスオペレーション中のゆづ「死にますFOOOOOOOO↑↑↑↑↑」がツボだった。自分のことをネタに出来るって結構すごいことなんだよね。これだけでゆづが大きく成長していることが分かる。アドリブなんだろうけれど。
ラスト30秒。ここだけでずっと語れそう。
キマリが「帰ったよー」を送ったとき一瞬で既読がついてて、「ああ、めぐっちゃんは家族あたりからキマリの帰国日を事前に聞いていて、今か今かと待っていたのかな」とか「10話でキマリが「既読付くタイミングだけでめぐっちゃんが今何してるのか分かるんだよ」って言ってたし、キマリはめぐっちゃんの心情に気づいてるのかな」とか。
また、行き先が北極だった件について。10話における「南極にいるんだけど、SNSを通じてなんとなく(日本にいる)めぐっちゃんの気持ちがわかるキマリ」と立場が逆になっていて、かつてキマリが「めぐっちゃんの庇護のもとぬるくやってないで、自分の力で強くならなければ」と思ったように、めぐっちゃんも6~13話でキマリが日本→南極で経験した様々な出来事を、キマリのこと考えながら裏でこっそり通ってきたのかな、と思わせる。
めぐっちゃんから送られてきた写真には綺麗なオーロラが写っていたのだけれど、オーロラはその仕様上南極と北極同時に出現するので、キマリたちが南極付近でオーロラを見ていたちょうどその時、めぐっちゃんが北極でオーロラを見ていた可能性がある。そう考えると色々シンクロして考えちゃって、胸がいっぱいになった。
一方キマリのメッセージに速攻で反応するめぐっちゃんは、5話でキマリが絶交無効したあと(一方的に?)めぐっちゃんのことを親友だと思っていたように、めぐっちゃんもまたキマリのことを大切に思い続けていたんだろうなぁということまで伝わってきて、5話における2人の想いが両方とも叶った最高のハッピーエンドだった。締めのセリフ「なんでーーーーーーーーー!!!」も、5話にあった同じセリフとのニュアンスの違いにグッと来た。
「もし続編があったら~」という発言を各所で見るけれど、めぐっちゃんの旅を見たい、という人が多くて嬉しかった。最後の写真「オーロラをバックにめぐっちゃんがカメラを覗き込む構図」は公式のキービジュアル「4人がオーロラをバックにカメラを覗き込む構図」と対になっていて、つくり手がめぐっちゃんのことをもうひとりの主人公として描いてくれていたのかな。
主人公たちの成長を描く物語では、どのキャラクターに(精神的な)導き手の役割をもたせるのか、というのが重要なのだけれど、本作では(子どもたちだけで完結せず)大人たちが多かれ少なかれ寄与している。私はこういう「かっこいい大人」が描かれる作品がとても好きなので、本作もそういう意味で大好きだ。特に隊長とかなえさんはすごい良いキャラクターだった。何が最高って、13話で「実は大人組も4人の心意気に背中を押されてここまでこれたんやで」っていう心の変化が描かれてて、大人組も4人と同じ人間味あるキャラクターになっていたこと。物語におけるメンターが、物語の中で自身も成長するとか最高すぎる。
観ながらアホほど笑って泣いた作品だった。こんな経験は殆ど無かったのでとても新鮮だ。「病めるときも、健やかなるときも変わらず泣き笑いすることを誓う作品」っていうとちょっと大げさだけれど、私は疲れているほど自発的に笑ったり泣くことが出来なかったりしていく人間なので、こういう「心を奪われる作品」を大事にしていきたい。
以前ツイッター界隈で「各話において、クレジットされる作画監督の人数が多いほど現場は火の車になっている可能性が高い」という言説を見た。たまたま知り合った元アニメーターの方に聞いた限りあながち間違いではないらしい。そこで本作なのだけれど、グロス回で作監が3人クレジットされるくらいで基本1人か2人という感じだった。終始作画も安定していて、スケジュール的にうまく行っていたのではないだろうか。
また、公式ラジオで言っていたのだけれど、本作のアフレコでは完成された映像を見ながら声を入れていたらしく(最近は絵コンテ段階の映像で声を入れることのほうが多いそうな)、その点でも本作はある程度余裕を持って作られていた可能性が高い。
要は無理せず良いものを作って欲しいよね、という話。
Daniel Wendler “Improve Your Social Skills“ が良かったので、一部抜書きを共有。
会話の根本原理: “Invitation” と “Inspication”
Invitation は、相手に会話のきっかけを与える。ほとんどの Invitation は「質問」という形を取るけれど、いい質問をするコツもある。短く言うと Invitation は、相手が話す番だと明確にキューを送ることだ。
Inspiration は、良い会話の骨組みとなるもので、会話をより自然なものにしたり、相手との親密さや意見共有を促す。短く言うと、 Inspiration は、相手が自発的に話したくなるような何かを、あなたが話すことだ。
いつも高品位な inspiration を発する必要はなくて、重要なことは、あなた自身について何かを共有し、会話の相手が自身の何かについて共有することができるよう、スペースを作り出すことだ。
まとめ: 何か話すたびに、明確な invitation を会話相手に与えるか、または、相手が返信として何か共有することができるような inspiration を、相手と共有しよう。
1. 社交的な文脈を最初のトピックとして参考にしよう。たとえば、教室で誰かを見かけたら昨日受けたテストについて何か考えを聞くとか。
3. ストーリーを共有する。事実ではなく。「どこで働いているの?」と事実を聞くのではなく、「そこで働くのはどんなかんじ?」とストーリーの共有を促すような質問をしよう。
4. あなたも相手も興味が無いことをトピックとして選択しないようにしよう。
5. 相手の胴体があなたとは違う方向を向き始めたら、相手は会話を終わらせようとしている。
6. 複数の open-ended question を投げかけても、相手が短い応答しかしないようだったら、相手は退屈しているか不快に思っているかもしれない。トピックを変えるか、会話を終わらせる機会を作ろう。
7. 失敗する許可を自分に与えよう。どの会話も完璧にしようと思わないようにしよう。「ときどき勝利し、ときどき学ぶ」。会話に失敗してもくよくよせず、その経験から何かを学ぼう。
8. 会話について問題を感じていて、その原因が社交不安や自信についての問題によってならば、カウンセラーなどの専門家に相談しよう。
他人をコンテンツとして捉えるって発想がもうものすごく下賤で失礼なことだよね?
まあ自分をコンテンツとして魅せる芸能色の強い仕事をしている人は例外で、そう捉えていいんだけど。
普通の人は違うよね?たとえば逆に、
自分をコンテンツとして捉えて接してくる人、評定してくる人をどう思う?
普通は嫌だな居心地悪いなお前を楽しませるために生きてるんじゃねえよって思うでしょ?
でもさ、別にプロでも無いのに自発的に己をコンテンツとして見せようとしてる一般人いっぱいいるよね?
twitterとかinstagramとかで他人の興味を引くようなことばっかり言おうとする人とか。