はてなキーワード: 法律的とは
「こいつ、このままだと辞めるな」 と思いつつ何もしないまま、病気になって初めて反省する(フリをする)ってことは日常茶飯事なのは私だけではないはずだ。
法律的には知っていたことは悪意があったとみなされ、知らなければ善意があると捉えられるようだ。
個人レベルで 見て見ぬフリをしていることは後ろめたさこそあれ、ばれないかもしれない。
でも、その隠蔽された悪が忖度のような大問題として表出しているのは見てのとおりだ。
本来の責任者を糾弾せずに見過ごしたために、結局は未必の故意によってそのツケを払わされていまいか?
翻って考えるに、何もしなかった傍観者は損をしていると思う。
損するということを知りうるかどうかは各人の当事者意識に関わるところだとすると、ざっくり以下のような属性に分けられるだろう。
・当事者意識無+行動有→(該当なし)
もちろん、どの程度の行動が妥当かは任意になってしまうが、少なくとも日本社会の現状はあまりにも行動が貧相で、高まってきた人権意識の割に脆弱な社会だなあと思う。
ここまで読んだ人が罪悪感を抱かずに生きてもらえれば幸いです(笑)
実名でやっているブログもツイッターもあるのだが、そこで書くと炎上しそうで怖いため、増田で書くチキン野郎です、どうもすいません。
さて、まずはこのまとめ。
https://togetter.com/li/1244367
ブコメでは江川さんを称賛する声が多い。だが、正直に言えば、麻原の処遇に関して江川さんはわりと冷静さを失う感じがする。
そもそも、精神鑑定に関していえば、「行われていない」というデマが流れているというよりも、「まともな精神鑑定が行われていない」という疑問を呈している人のほうが多いのではないだろうか。
麻原の精神鑑定については、西山詮医師による鑑定が行われ、「訴訟能力あり」ということになっている。しかし、その一方で、正式な鑑定ではないものの、複数の精神科医が面談の結果、訴訟能力なしと主張している事実はある。
(参考)
https://diamond.jp/articles/-/8876?page=2
https://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/63db65c218a5ee890796ceededb22c87
上記以外で仄聞するエピソードと併せて考えると、麻原の精神が拘禁によって崩壊したのはたぶん事実なのだろうとは思う。「詐病」と判断するには無理がありすぎる。
だが、麻原の精神が崩壊したということになると、とても困る人がいる。それは特定の誰かというより、日本という国家そのものなのだろうと思う。
もし仮に、麻原が「心神喪失」状態に陥ったことを認めてしまうと、法律的に彼の裁判や処罰が難しくなってしまうからだ。
(参考)
刑事訴訟法314条
「被告人が心神喪失の状態に在るときは、検察官及び弁護人の意見を聴き、決定で、その状態の続いている間公判手続を停止しなければならない。但し、無罪、免訴、刑の免除又は公訴棄却の裁判をすべきことが明らかな場合には、被告人の出頭を待たないで、直ちにその裁判をすることができる。」
だが、言うまでもなく、麻原は戦後最大のテロ事件の首謀者だ(個人的にはその点に関して疑いはないし、これ以上の「真相解明」にも正直まったく興味はない)。その麻原を裁けないとなると、日本の法秩序に対する信頼が根幹から揺らいでしまう。いくら「法律的にできない」と言っても、世論はまず納得しないだろう。麻原およびオウムの幹部を処刑することは日本の国家意思だったと言えるのではないか。
「そんな法律は変えてしまえばよい」と言う人もいるだろうが、これは法律における根本的な思想(ルールを理解している者だけが責任や処罰の対象となる/理解できない者は対象とはならない)に関わっている問題なので、そう簡単にはいかないのではないかと愚考する。
ともあれ、上記の刑事訴訟法に抵触することなく、麻原を死刑にするためには、麻原に「訴訟能力」「責任能力」があるということにしておかねばならない。だからこそ、形式的な精神鑑定をやっただけで終わらせた。しかも病気でないことになっているので治療もしない、ということになったのではないか。
ここからは蛇足だが、小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会)には、次のような一節がある(p.157)。
自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
要するに、こういうことだ。何か事件が起きたとき、社会には大きなストレスが発生する。誰かに責任をとらせ、「落とし前」をつけることで、そのストレスを軽減させなくてはならない。だから、その誰かには「その事件の原因となる行動をしない自由があった(=したがって責任がある)」ということにしておかねばならない。行動しない自由があったから責任が生じるのではなく、誰かに責任をとらせるために、そのような「自由」があったことにされる、というのが上記の指摘ということになる。
この指摘を今回の件に応用するなら、麻原に「訴訟能力」や「責任能力」があったから裁判で死刑になったという理解は必ずしも正しくない。そうではなく、死刑にしなくてはならないから「訴訟能力」や「責任能力」があったということにされた…という疑念が拭いきれない。
もっとも、その是非については、判断はしない。国家の存続にはそういうフィクションが必要だ、という考えも理解できないではないからだ。ただ、それでもモヤモヤした感は残る。
そういう気持ち悪さが、今回の一件には、ある。
(追記)2018/7/9
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180708-00088579/
江川さんのこの記事で、「詐病」とか言っている人がいるけど、この記事でもやっぱり2000年代初頭の話までしか書かれてない。これ以外の詐病を疑わせる記事も、逮捕当初から2000年代初頭までの時点での話しかない。そこから15年以上の期間があるなかで、麻原の精神状態に変化があったとしてもなんらおかしな話ではない。実際、上でリンクを貼っている加賀さんの面談は2006年のものだ。
上で述べられている刑事訴訟法の規定は、「犯行時点の精神状態」ではなく「裁判や死刑をする時点での精神状態」に関わるもの。したがって、犯行時点において麻原の精神状態に責任能力が認められるものであっても、関係ない。
個人的には日本の法制度がそうなっている以上、麻原の死刑もやむを得ないとは思うが(そうでないと他の死刑囚とのバランスが取れない)、「麻原を死刑にしなくてはならない」という発想から、多くの人の事実認識が若干おかしくなっているのではないか、ということが気にかかるだけの話。
https://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/c34aa02a0f1770deebaa5ceafe30c3b0
(さらに追加)http://www.aum-shinsokyumei.com/2018/06/03/post-416/
id:blueboy 「詐病」だと言いたがる人は、たとえ命がかかっていようとも、糞尿垂れ流しの強烈な悪臭が漂う空間で、汚物まみれの布団で寝る生活に20年耐えられるかどうかを想像してみれば良い。無論、麻原の「宗教者」としての精神の強靭さがそれを可能にしたと考えることもできようが、それでは麻原を凡庸な俗人とみなす「詐病論」の人物描写との整合性がなくなる。むしろ、麻原が凡庸な俗人だからこそ、長期にわたる収監と死への恐怖によって精神に異常をきたした、というほうが説明としてはよほど合理的だと考える。
職務質問のときに上記のような「本物の警察官かどうかの確認」をするのは法律的によくないのかな?そうでなくとも何らかの不利益が生じるのかな?法律に詳しい方がいらしたら教えて下さい。
これは最重要でしょ
いや、みられたくないものとかいいたくないことがあるときもあるじゃん。
でもさ、仮に「最近は技術も発達してるから、あなたが本物の警察官か確認をしてから応じたい。つきましては警察手帳を拝見させてもらって、所轄の警察署もしくは交番に在籍を確認させてもらっていいですか?」なんて言ったら、「ええ、やましいことはないですし、どうぞご確認ください」なんて対応してくれるのかな?
たぶん、「ふざけるな」って対応になるんじゃないかな。そうでなくても、不機嫌そうな態度になるだろう。
でも、こっちがちょっといやがったり、ためらったり、不機嫌な対応をしたら高圧的になるんだよね。
まぁ俺が会ってきた警察官がたまたまそういう人ばかりだっただけかもしれないけど。
職務質問のときに上記のような「本物の警察官かどうかの確認」をするのは法律的によくないのかな?そうでなくとも何らかの不利益が生じるのかな?法律に詳しい方がいらしたら教えて下さい。
今はウルルと呼ばれるあの巨大な岩。
今回の死亡事故で知ったよ。
で、今は登っちゃダメなの?
ダメじゃ無いよね?
法律的に問題ないのであれば登ること自体は責められる理由はないわけだ。
アボリジニはオーストラリアの法と民族の法、いずれも尊重してベストな解を模索して来た。そんな中民族法だけを偏重し登る奴を叩くのはアボリジニに対して大変失礼である。
また、彼の年齢的に自重すべきという話だが、それは個々人の責任よりも、ロクに基準を設けず入場券を発行した公園の責任者にある。実際、「体調バッチリで登ってね👌」程度の警告があるだけで、年齢制限はおろか審査自体ない。
彼は今回不幸にも命を落としたわけだが、彼の行動自体は問題のないものとしてみるのが勝ち馬に乗れるというのが自分の見解である。
元増田です。詳しくありがとうございます。
僕は別にガチで法律の話をしたいのではなく、ブログ書き(とくにインテリ層が多いとされる「はてな」での)のマナーの問題として書いたつもりでした。
まず直感的に僕の感覚だと「画像が多すぎる」と思った。そして、「これはブロガー倫理として問題だ」と思った。で、他の皆さんの反応によると「お前の感覚はおかしい、これは適切な引用だ」という意見が多数なので、僕が間違っていたのでしょう。今回のことでそういう認識にいたりました。
でも結局のところ僕は納得してません。法律的にOKであっても。自分が漫画家だったらこんなブログ許しがたいからです。納得はしないけど受け入れるといった感じです。
皆さんはこれで納得されているのでしょうが、僕の感覚だと画像1枚につきあの程度の分量・内容だと「自己の感想が主」になってないんですよ。文章よりも画像の方が圧倒的に情報量が多いという感覚なので。画像1枚につき当たり障りのない創造性のない感想が1000字程度だと、ちょっとどうなんだろうという感じです。ただ、これは僕の個人的な感覚なので、世間の皆さんや法律家の多数が「分量的にも内容的にも適切だ」という主張をされるのなら、そっちが正しいのでしょう。でも僕が漫画家ならこういうブログはどんどん訴えたいと思ってしまいます。
ちなみに、
これは全然違います。「グレーゾーンなネタバレ画像やキャプチャ画像を絶対に安全なところから無料で見たいから他人の書いたつまらない感想ブログを見るのであって、ブロガーが書いている文章自体にはまったく興味がない」という意味です。
とにかく今回はあの程度の画像使用はOKっぽいということがわかっただけで収穫でした。コメントくれたみなさんありがとうございました。おかげで少し賢くなることができました。
そもそも、「お行儀のよさ」ってそれ、あなた(達)の感想ですよね?
ただ、「法律的にエロくない」もの(コンビニ本等)を排除しようとする動きには反対。
法律・条令で「エロいもの」は定義されているので、それをオーバーするまでは勝手。
最低限これを守ってくれれば軽蔑しないで済むのに
この辺を読むと無水銀品の回収はあくまで有水銀品の回収漏れを防ぐ安全策として行われているに過ぎない。であれば無水銀ボタン電池についてはその他の無水銀電池(乾電池やリチウムコイン電池)と同じ廃棄方法でも害はないように思える。
ではボタン電池以外の無水銀電池はどう扱われているか、ボタン電池回収事業を行う一般社団法人電池工業会のサイトに記述がある。
このページには一次電池の処理・リサイクルについて同会および日欧米三極電池専門家会議の見解も掲載されている。関連部分を抜き出す。
これらを踏まえてアルカリボタン電池(LR44)の扱いを考える
なお2018年から有水銀アルカリボタン電池の国内製造・輸出入が禁止されたことから主に問題となるのは過去に購入した有水銀品の適切処理。安価なボタン電池として有名なGoldenPowerも最近のものは0%Hg表示がされている。