2018-07-22

日本未必の故意に寛容すぎると思う

「こいつ、このままだと辞めるな」 と思いつつ何もしないまま、病気になって初めて反省する(フリをする)ってことは日常茶飯なのは私だけではないはずだ。

法律的には知っていたことは悪意があったとみなされ、知らなければ善意があると捉えられるようだ。

個人レベルで 見て見ぬフリをしていることは後ろめたさこそあれ、ばれないかもしれない。

でも、その隠蔽された悪が忖度のような大問題として表出しているのは見てのとおりだ。

本来責任者糾弾せずに見過ごしたために、結局は未必の故意によってそのツケを払わされていまいか

翻って考えるに、何もしなかった傍観者は損をしていると思う。

損するということを知りうるかどうかは各人の当事者意識に関わるところだとすると、ざっくり以下のような属性に分けられるだろう。

当事者意識有+行動有→良識的な賢者

当事者意識有+行動無→冷酷な愚者

当事者意識無+行動有→(該当なし)

当事者意識無+行動無→無知愚者

もちろん、どの程度の行動が妥当かは任意になってしまうが、少なくとも日本社会の現状はあまりにも行動が貧相で、高まってきた人権意識の割に脆弱社会だなあと思う。

ここまで読んだ人が罪悪感を抱かずに生きてもらえれば幸いです(笑)

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