はてなキーワード: 最期とは
カールじいさんの空飛ぶ家(爺が家を飛ばして大冒険映画)
特に老いをメインテーマに据えてるしわはいいかもhttps://youtu.be/8fIDtcTXOG0
最期の1行だけ書けば良いのに、アホだな。
ハティの最期の舞台を読んだ。解説で犯人当のミステリとしては簡単な部類かもしれないって書いてあってびびった。結構わかんなかったよ。思い返せばずばり犯人その人を描き表している部分があったけども。
大概のミステリがそうなんだけど、作中で犯人の名前が確定するまで作者の手の内で踊らされる糞雑魚読者です。
さておき、本作の内容について。最近の実社会の諸問題にも結構当てはまるけど、意図しない邪悪さが大概の悲劇の根底にはあるんだなあって思い知らされた。
殺されるハティは顕著だけれど、他の登場人物もそれぞれ罪深い我欲を持っている。とんでもない高校教師のピーターは言うまでもないけど、その妻のメアリにしたってもうちょっと夫婦間の接し方ってのがあるんだろうって思った。まあ介護やら仕事やらで大変なのはわかるんだけど。
この小説に登場する人物がみんな有してる罪深さって、ある種どうしようもないところに根差しているところがあるからしんみり来る。不倫の問題もそうだけど、他社への無理解とか、周りを無自覚に馬鹿にしているところとか、一本芯が通り過ぎている性格をしていたりとか、読んでいるとそうならざるを得ないよなあとか、そうなってしまうのもわかるわあって思わされてしまうから、一概にみんなを批判できないんだよね。
よく言えば主要人物はみんな肉付けがしっかりしているってことで、そういったどうしようもないところが人物に人間らしさなり人間臭さを与えているんだけど、それ故に軋轢が生じて問題に至ってしまうってのはさみしいなって思う。仕方がないことなのかもしれないし、そもそも軋轢の一切ない社会ななんてどんなデストピアだよって話なんだけど。
ただこの作品は、犯人が殺人さえ犯さなければ悲劇の度合いが幾分か軽くなっていたのかもしれない。人殺しはやっぱり駄目だからね。でもなあ、ハティがとんでもない怪物だから、こんな最期になるのも必然だったのかもしれない。
田舎町では異彩を放つとても賢い高校生で、他人が求めている反応をコミュニケーションの最中に読み取り活用できる天性の女優なんだけど、ものすごく邪悪なんだよね。愚かだといってもいい。
自分が被っている仮面がどれだけ罪深いか最後までわかってなかったんじゃないかと思う。自覚はしていたけど、認識がちょっと甘かったんちゃうんかな。
思うままに書くので文体が崩れたりしても見逃してほしい。
なんかもう、ハチャメチャに「死にたい!」と思い続ける毎日であります。
好きな人には「明日休みです!」とメールしたものの、酒を呑んでダルいので「インフルにかかりましたすみません」とその"明日"の昼間にこれまたウソをつく始末。
そして酒を飲む。
それでも心が休まらない。
お笑いの動画を見ていたのに、いつのまにか"最期のツイート"というまとめを読んで、ますます死にたさに磨きがかかる。
なんという悪循環。
鬱々しい気分の時に暗い記事を読みたくなるあの現象、ほんとなに?
下を見て安心したいのか、同調で安心したいのか、分かんないね。
どっちもだろうね。
ウダウダ書いてもアレなんで。
そんなこんなで鬱々とした気分のまま更にネットの真っ暗い記事で自分を追い込んだ結果、遺書を書いてみようかなと思いついたのです。
パッと浮かびました。ほんと、言いたい事はこれだけでした。
『出会ってくれた人、ありがとう。みんなのおかげで私ができました。
ありがとう。』
そんな私は悲しいことに今から自殺します!ってめっちゃ皮肉やんけ。おいおい……。
と、書いた数時間後に気が付いた。
でもって、遺書をしたためたら一回死んだ気になった。生まれ変わった気分!ときらきらした気分にはなっていないけど、まぁもう少し生きるか……という気になれた。
現代文の授業で山椒魚を初めて読んだとき、この捻くれ者は、私によく似ていると思った。だが決定的に違うところがある。それは山椒魚は世界の神であったが、私は神にはなれなかったという点においてだ。その違いとは些細なようであって、とても重大なことであると私は思う。それは、私が誰かの神に、世界になりたいのに、なれない不完全な出来の人間であるからだ。
まず前提として、この文章はすべて、井伏鱒二氏の短編小説である「山椒魚」を借り、私が私について語るだけの、極めて主観的でくだらないものであるということを示しておく。恐らく十八の人間が書く文章なんてたかが知れていると思うが、それでも私は山椒魚にとてつもない親近感を抱いているのである。それについて少しばかり、私が今まで思ってきたことを書けたらいいと思う。
まず「山椒魚」とは一体何かということを明確にしておく必要がある。山椒魚とは前述したように、井伏鱒二氏による短編小説である。山椒魚は自身の身体が成長しすぎてしまったことによって、住処である岩屋から出られなくなってしまう。外に出ようと幾度となく繰り返す山椒魚だが、それが叶うことはついになかった。外の世界を自由に生きる生物たちに嫉妬を抑えきれない山椒魚は、ついに悪党となり、山椒魚は岩屋に入ってきた蛙を閉じ込め、自身と同じ状況に追いやることで、自身の精神の安定を保とうとしたのである。蛙は屈することなく二匹は岩屋の中で激しい口論を二年にも及んで繰り広げるが、空腹で動けなくなり、死しか望めない蛙に対して、ようやく山椒魚は友情を感じるのだ。山椒魚は聞く。「お前は今、何を考えているようなのだろうか?」と。それに対し蛙は、「別に今でも、お前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのだった。
この山椒魚を初めて読んだ時の感想は、「二年も口論を繰り返していたのか」とそれに尽きる。だが数回これを読み深めていくうち、山椒魚とは、ただ友達が欲しかっただけの、普通の人間なのではないかと思うに至ったのだ。山椒魚には寓意が込められており、簡単に例えを出すならば「うさぎとかめ」のように、ほかの生物やもので真意や本質を遠回しに伝えるというものだ。私の中で山椒魚は普通の人間であるし、出られなくなった岩屋は肥大した自意識であり、蛙はそれらをすべてわかっていた人間なのだ。これらも前提に、本題へ入ろうと思う。
何故この文章の題名を「山椒魚は世界の神であるか?」にしたかは至極単純である。私にとって山椒魚は、世界の神であるからだ。もっと突き詰めて言えば、岩屋の中に閉じ込められた蛙の世界であり神であるということだ。まず先程書いたように、岩屋は肥大した自意識であると私は思っている。山椒魚はその自意識に閉じ込められた、或いはそこから出ることを拒んだ所謂可哀想な人間に過ぎない。蛙はその山椒魚の自意識を満たすため利用された、こちらも可哀想な人間であるという認識をしている。山椒魚は蛙を利用し監禁することによって、死の間際に、世界となり神となることに成功したである。
人間が人間の神になるために必要なことは、その標的からすべてを奪うこと以外に存在しない。山椒魚は蛙を自分の住処に閉じ込め取り入れることによって、蛙からありとあらゆる自由を奪うことに成功している。それがなければ山椒魚は神になれなかったし、もしかしたら山椒魚は図らずも神になっただけかもしれない。だがそれだけ、人間が人間の神になるということは難しいことなのだ。それが善悪のどちらに所属するかはまず置いておくとして、私はそれをやってのけた山椒魚を素直に尊敬する。山椒魚は悪党となることで蛙を閉じ込めたが、この時の山椒魚の心境を鑑みるに、標的が蛙であった必要はなかったのだと思う。よくニュースで聞くような、無差別殺人犯の言う「誰でもよかった」と同じように。ただこの「山椒魚」にとって、この蛙が蛙でなかった場合、二年間口論が繰り広げられることも、最後にようやく友情が芽生えることもあり得なかったのではないだろうか。
しかし、だからといって山椒魚が神であるということに相違はない。閉じ込められた蛙にとっては、憎むべき対象も、愛すべき対象も、結局は山椒魚しかいなかったのである。蛙は最後に「今でも別に、お前のことを怒ってはないんだ」と言った。それはおそらく、蛙自身も、山椒魚を神とすることで救われた一人の人間だったからだと思う。山椒魚が蛙を閉じ込めたとき、蛙は、閉じ込められた岩屋の中で堂々と「俺は平気だ」と宣言する。それは山椒魚を見くびってのことだったのか、それとも逆に、山椒魚ならば…という、敬愛の証だったのかもしれない。ただ私が思うのは、おそらく蛙も、もしかしたら山椒魚と同じような立場になっていた可能性があるということだ。メタフィクションのような話になってしまうが、蛙は山椒魚よりも体が小さいので、少なくとも岩屋から出られなくなってしまうということは考えにくい。なので、自由に飛び回ることのできる外の世界―要するに「山椒魚」の世界観で「社会」で、同じ立場になっていたかもわからないのだ。山椒魚は肥大した自意識から出られなったが、それはあくまでも人間の内側で起こっている出来事に過ぎない。自身の激しいナルシズムが引き起こす極端な自己評価と他者評価のギャップに悩み、それを見栄で隠そうとしたために発生した、ある種一時的な反抗期のような、よくよく考えてみれば、我々も通ったことのあるような道でしかないのだ。だが蛙は人間の内側でそれを発生させてはいない。人間と人間が大量に入り混じる、失敗の許されない、いわば監獄のような世界でそういった問題に悩まされていたとしたら、それはきっと山椒魚よりも可哀想で哀れな姿になっていたに違いない。山椒魚は蛙を閉じ込めることで、自身と同じ状況の人間を作成し、その結果精神の安定を保とうとしたが、それは蛙も同じだったかもしれないということだ。蛙は山椒魚に「わざと閉じ込められる」ことによって、可哀想な人間に捕らえられ逃げられない自分を作り出し、自分の社会に対する折り合いのつかない問題から逃げ出そうとしたと考えれば、最後の「今でも別に、お前のことを怒ってはいないんだ」というセリフにも納得がいく。
この文章を書くにあたって、自分の「山椒魚」に対して抱いた如何ともし難い薄気味悪さというのは、蛙によってもたらされた山椒魚への許しが生み出したものだと気付いた。小説であると一言言ってしまえば確かに終わりなのだけれども、例えば自分が身勝手な理由で他人に監禁され、しかもそこで死を迎えなければならないとなった場合、最期に相手を許すことが出来るものだろうか。それが愛する人や家族ならいざ知らず、どこの誰ともわからない人間にいきなり監禁された時点で、普通に考えて怒りなんて言葉では済まない。それこそ二年間によって繰り広げられた喧嘩でさえ、この最期によればおつりがくるほどだと思う。最初こそ「二年間も口論していたのか」なんて暢気な感想を抱いたけれど、少し考えてみたら、最期の蛙の言葉は、私にとっては最早呪いだ。もしも私が山椒魚だったとして、自分が閉じ込めた相手が死の間際に自分を許す旨の発言をしたら、嬉しさも喜びも何も感じることは出来ない。むしろ、「この人は今まで何を考えて自分の思い通りになってくれたのだろう」という不信感すら残ってしまうだろう。自分という一人の人間を殺したという事実から逃げるなよという、怨念のようなものさえ感じさせる。それを考えると、山椒魚が蛙を閉じ込めたというよりも、蛙のほうが、山椒魚を好きに操っていたようにしか考えられないのだ。蛙は山椒魚のことを、自分と似た人間だと思い、自身が社会に出たことで削られてしまった自尊心や自意識を回復するために、「わざと山椒魚と一緒にいた」ようにしか思えない。物理的にそこから出られなかったとしても、こころだけでも自由になることは出来たはずなのだ、山椒魚と違って自由に泳ぎ回ることが出来ていた人間ならば。だがそうではなかった。ということは、蛙は自由に泳ぎ回っているように見えて、その実、社会という檻から逃げられず、自分を肯定するために必死だった、ただの哀れな、普通の人間でしかなかったのだ。
最後にもう一度、これは私が井伏鱒二氏によって描かれた短編小説「山椒魚」を借りて書き殴っただけの、主観的で陳腐な文章であることを明記しておきたい。ここに書かれていることはすべて、私が勝手に作り上げた妄想であって、おそらく山椒魚には、これよりももっとポジティブなメッセージ(寓意)が込められていることだろうと思う。しかし私にとって「山椒魚」は、どうにもポジティブなものとは受け取れなかった。可哀想な人間が寄り添って、互いの削れた部分を埋めるために、互いの世界になろうとする。そんな常人には理解出来ない、孤独で閉鎖的でどこまでも自分本位な人間の本質を描いているように見えたのだ。
私は山椒魚に似ている。けれど私は誰かの世界にはなれなかった。私にとっての「蛙」がこれから現れることはあるのだろうか。山椒魚が蛙を操っていたのか、蛙が山椒魚を操っていたのか。本当のことは、誰も知らない。
了
https://0dt.org/vhem/argue.html
もし人類が自発的な絶滅に同意するなら、人類最後の世代はその名誉に喜びを感じている筈なので決して悲惨な最期とはならないでしょう。
人口減に合わせて人類の住処を集約し、文明を維持していけば例えば100年以上の耐久性のある住居やサバイバルキット、ロボットなどを用意しておく事で最後の世代も文化的な生活を送る事は可能です。
!!!!!!!!!!!
私は父親を一切尊敬出来ず、親しみも感じず、信頼もなく、早く勝手にのたれ死ねと思ってます。
私にとって父はもはや反面教師以外の価値を為さない、血の繋がりだけのクソです。
子にそんな風に思われたうちの父親の特徴を列挙したいと思います。
世のお父さん方にこうはならないよう活かしてもらえたらと思います。
私は幼い頃、泣いてたら泣くなと暴力を振るわれました。
鉄製の鈍器で振るわれたこともあり、死を意識したことをずっと覚えてます。
子供が暴力で泣き止むわけもなく、最終的には家から締め出されたりしました。
子が大きくなると暴力は止みました。
■思い通りにならないと癇癪を起こす
とっとと死んでくれたら良いんですが、宣言して死なれると死なせたみたいになり、引きずってしまうので、子供じみた最低の言い訳ながら、人の良い家族には有効です。
離婚についても離婚したら死ぬと言って母を脅しており、本当下劣です。
昔は私たち子供のために離婚しない道を選んだ母ですが、こんな子供じみた事言い出すとは思わなかったんだと思います。
■母(妻)を家政婦かなんかと思っている
我が家では母親が善性の人の見本となり、育ての親として認識されています。
そんな母を父はぞんざいにしか扱いません。
掃除や洗濯、料理と言った家事から、自分の嗜好品(酒、タバコ)の買い物まで。
更には自分の通院や車の車検やら家の契約関係やら、母を一緒に連れて行って管理を全て投げます。
挙句の果てには自分の友人が来た時に居留守を決めて全て母親に対応させたこともありました。
もはや意味がわかりません。
お茶を汲む、風呂を沸かすと言った些細なことも、自分はタバコを吸って来るからなどと意味不明な供述をしながらさせます。
母が寝ていても、風邪などで床に伏せていても当たり前のように言います。
■話が出来ない
父は自分の思ってることが全てです。
亭主関白で、自分を凄く見せるためのような、薄っぺらい事しか言いません。
口癖は「いいこと教えてやろうか?」で、クソどうでもいい事しか言いません。
人が風邪を引いてたりすると風邪を引いたのか聞いて来ますが心配してるわけじゃなく、二言目は自分も調子悪い、もしくは風邪引いたアピールです。
その癖、外の人から言われたことは影響を受けてころっと意見を変えたりします。
時には言われたことが行動に直結して、クソどうでもいいことや、すぐにはどうにもならないことを、すぐどうにかしようと収まりつかなくなり喚いたりします。
最近では自分の母親(祖母)を家に引き取ると言う話が顕著でした。
祖母は認知症で足も悪く、バリアフリーでもなんでもない我が家で引き取るのは無理だし、移動したら絶対認知症が悪化します。(一度外泊した時、早朝に脱走して一人で家へ帰ろうとされました)
父は自分が絶対に面倒見る(100%あり得ません)やら、聞いてくれないなら死ぬなどと宣いましたが、母がどうにかなだめてあれから半年、祖母に関して全く何も言わなくなりました。
結局、父は内弁慶で亭主関白な上、計画性がなく、死ぬ勇気もない意気地なしで、ただ弱いものに当たり散らす本当クソのような男なのです。
父のダメさ加減は大人になって、社会人になってより見えてきて、より落胆しました。
公務員の為せる技です。
公務員なので土日はもとより休みですが、合わせて5連休みたいなことが珍しくありません。
もちろん風邪だろうが体調悪かろうが病院は行きませんし、酒はしっかり飲みます。
一度だけ、サボってるのを見て呆れているとサボりじゃないと言ってきたことがあります。
最近では嘘か本当か知りませんが、うつ病と診断されてるらしく、それを言い訳にして調子の悪さをアピールしてきます。
うつ病と診断される前の父と診断された最近の父、我儘加減も何も変化ありません。
ちなみに最近ではうつ病だから優しく接しろと母に命令したりしてます。
母の普通の指摘に「言い方がキツい」と言い、すぐ癇癪起こしてます。
■小遣いは月一万円
父の外向けの自分は小遣い少なくてつらいアピールの定番ネタです。
この一万円に、昼食代、酒代、タバコ代、ガソリン代、飲み代(飲みは一回一万円)などなどは含まれません、服なども買い物は母にさせる主義なので含まれません。
何に使ってるんですかね。
昔から人が買ったものを羨ましがり、勝手に手を出す傾向がありクソ鬱陶しいです。
弟が付けた名前や、育成方針、ノミへの配慮などを一切無視し、自分で名前をつけたり、他の人間がいない時(仕事をサボるので一人が多い)に放し飼いにしたりしてます。
その癖自分の部屋でノミが見つかると大騒ぎしてバルサンを買って炊けと家内にさせようとします。
少し前には家の金がないのに勝手に風呂の改装の話を進めて、当たり前のように子に支払わせました。
300万。
ちなみに礼もなく。子に支払わせた後のセリフは「子の金は借金じゃないから気を使わなくて済む」です。
些細なことから大きな事まで、尽きる事ないクソのエピソードですが、掻い摘んで特徴挙げました。
もとい愚痴りました。
正直血が繋がってるのも嫌なくらいだし、最期はロクな死に方も葬いもないと思います。
父は空気が読めないので、家族に一切受け入れられてない家でも好き勝手できて居心地良さそうですが。
とにかく、私は母がいてくれた事で救われました。
愛犬が死んだ。
もう5日前のことになる。貴重な体験だと思うので文字にしておきたいと思う。もう心の整理はついているので、慰めたりしてほしいわけではない。ペットを飼っている人の何かの参考になれば、同じ動物好きとして嬉しい。
親バカでしかないが愛犬は「いい子」だった。お手、お座り、待て、伏せなどの芸をすんなり覚えた。散歩の時は自然と人の歩に合わせることを覚えた。おかげで足の弱ったじいちゃんの散歩にも付き合うことができた。じいちゃんの散歩は1人と1匹になり時間も距離も伸びたようだ。散歩の時にはどんな犬と出会っても仲良くした。吠えられることはあっても、吠えるようなことはなかった。近所の飼い犬とはお友達になった。野良犬さえ、愛犬と何やらコミュニケーションをとっていた。当然、人当たりも良く、ご近所のみなさんに愛された。散歩中に、近所の小・中学生によく遊んでもらった。お前はいつも楽しそうだった。怖がる子も、お前がペロッと舐めると笑顔になった。番犬としてもしっかり働いた。家族やご近所さんの足音をしっかり覚え、聞きなれない足音にしっかり吠えた。本当にお前は理想的な飼い犬だった。
大きな病気もせず、スクスク育ち元気に生きた。年老いて体が弱ったが、それでも死の2日前まで日課の散歩を続けた。死の前日に、以前から弱っていた後脚が立たなくなって寝たきりになった。急激に食欲が落ち、水を飲むのもめんどくさがるようになった。それでも自由のきく上半身で、お前はいつもの愛嬌を振りまいていた。家族の一挙手一投足をお前は見ていた。半日だけ有給を使って、ぼくが実家へ帰ってこれたのはこのタイミングだった。
夜には呼吸が苦しくなってきたようだった。自分で体勢を変えられないので、時々体を動かしてあげた。ただ、どうしても楽な姿勢は見つからなかった。それでも、一瞬は楽になるらしく、その間だけ眠っていた。最後の夜をゆっくり眠らせてやれなくて申し訳ない。でも、最後の夜を一緒に過ごしたことをぼくは忘れないだろう。ただただ生きようとするお前の姿があった。
最後の日の朝。とうとう上半身も動かせなくなった。僕が朝食を食べていると「自分にも分けろ」と甘えた鳴き声を出し始めた。でも、口元に食べ物を持っていってもお前は食べられなかった。精一杯の愛嬌だったのだろう。もう眼も鼻もきいていないようだった。ほどなくして意識も失われた。お前はお気に入りの、部屋の日当たりのいい場所で眠るようだった。
母が仕事のために出かけた。その音が耳に入ったのか、お前は意識を取り戻した。最後の力を振り絞ってか、動かない身体を動かして窓から外を見た。いつも誰かが出かけると、窓から家族を見ていた。自分も連れて行って欲しかったのだろう。その気持ちが最後の最後で身体を動かしたようだった。ほどなくして意識がなくなったようだった。最後の力を使い果たしたのだろう。ほんの少しの痙攣のあと、お前は旅立ってしまった。ぼくが仕事に出るわずか10分前のことであった。帰省できたのはわずか12時間程度だった。最期を見届けられるとは思っていなかった。最後に会えれば十分だった。おまえはいつも、本当にタイミングがいい。
僕たち家族は十分にお前の死を受け入れる準備はできていた。お前はそれだけの時間をしっかりつくってくれた。それでも涙が出てきた。どんな本を読んでも、泣ける映画をみても、泣いたことの無い僕が泣いた。たぶん、痛みや苦しみ以外の理由で僕が泣いたのはこれが初めてだろう。溢れ出る感情というものを初めて知った。
仕事のために家を出た。電車の中でも少し泣いた。職場で仕事をした。いつも通り仕事をしたつもりだけど、今思えばそんなことはなかったのだろう。一人暮らしをする家に帰り、夕食を食べた。徹夜ということもあって少し疲れたので、近所のスーパー銭湯に行った。不思議なことに、いつもは混み合う銭湯が空いていた。露天風呂にのんびりとつかった。突然、涙が溢れてきた。30分ほど泣いていただろうか。色々な思い出が頭を巡った。
最後に、愛犬に思うことは「感謝」である。本当に「いい子」だった。もともとは他の家の子になるはずだったのに、不思議な縁で我が家にやってきた。いつも家族のみんなを笑顔にした。イタズラをすることもあったけど。家族が成長し、それぞれの暮らしが始まっても、愛犬が家族をつなぎとめた。愛犬は家族の楔だった。
これから自分のところで同居させるかどうかや、実家の土地建物の処理について悩んでいるところ。
気持ちを整理したいのと、誰かに聞いてもらいたくて書いている。
母親とは長く連絡を取っておらず、正直あまり仲の良い親子ではないがはやり余命を宣告されたということで落ち込んでいる姿を見ると娘として何かしてあげなければという気持ちになる。
先日御見舞に行ったとき、少しでも明るく最期を迎えてもらいたいと「何かやり残したことはある?」と尋ねてみた。
そのときの回答は、特にやりたいことはないけれども「お前を託せるような男性がいてくれたら」といったことだった。
今時託すとか古いと思うかもしれないが、本当にそう言ったから仕方ない。
要するにきょうだいで唯一未婚の私に対して、この先も一人でしょう、寂しいでしょう、幸せになってほしいという意味で言ったのだと思う。
お母さん。
私のことを託されてくれるかどうかわかりませんけど、一人ではないんです。
お付き合いをしている人がいます。
女性です。
ここ数年いわゆるパクリで炎上しているコンテンツを複数みてきた
そのたびにオマージュとかパロディだとか黒だとか白だとか出てくる
確かに「巨大ロボット」も「密室トリック」もどこからか発想を得ているんだろう。
だから現代に氾濫している創作物は全てなんらかのパクリでありオマージュでありパロディなんだろう。
創作して飯を食っている人間がそうツイートしたり、RTしてたりするのだから間違いないのだろう。
けど、それでも言いたい。
プロならば隠してくれ。
ちゃんとしてくれ。
上手に消費者をだましてくれ。
パクリじゃパクリじゃないかなんて消費者に考えさせないでくれ。
私たちが目にしてるものは世界で一番輝いている宝石なんだと思わせてくれ。例えそれが模造品のおもちゃでもいいんだ。
最期までそれが本物だって思って死ねたら消費者としては幸せなんだ。
お願いだよ。
頼むよ。
もう疲れたよ。
「この作品がすきなんだ!世界にたった一つのものなんだ」って胸を張らせてくれ。
好きなものが何かの模造品だったなんて知りたくないんだよ。
裏で嘲笑っても構わないから、ちょろい奴らだって思っても構わないから、プロならば消費者を最後までちゃんとだましてください。