はてなキーワード: 教義とは
全然無宗教なんだけど、ここのところ「仏教入門」みたいなのをいくつか読んでいる。
昔話とか「昔の人も生きるの大変だったのね〜」的なノリでとても興味深いし、
たぶんお釈迦様って「あの人いっつも良いこと言うよね!」的な人だったのかなあーとか想像するのも楽しい。
(ちなみに、お釈迦様自体は静かに悟りを開いて手の届く範囲で教えを説いた人で、死後に弟子たちが教えを編纂することで、れっきとした「宗教」になった。らしい)
『日本では、幕末・明治維新以後から近年にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。』
らしい(Wikipediaより)。
で、そういうのって、得てしてものすごくうさんくさい(完全に主観だけど)。
いや、古い仏教もうさんくさいこと言ってる部分はあるし、キリスト教やイスラム教みたいな世界宗教もかなり怪しいところはある。
けど世界宗教の怪しいところって、時間を経るごとに権力者が良いように解釈した結果ついてきた怪しさだったり、
時代の流れ的にしょうがないよね的な不合理性だったりすることが大半なので(な気がするので)、
教えの本質だけみてみると、「はえー良いこと言う」くらいの気持ちでは理解・納得できる気がするんだ。
じゃあ、新興宗教の「うさんくささ」の正体ってなんだろうか。
暇なのでいくつかその理由を考えてみる。
もちろん信教の自由はあると思ってるので、別にその新興宗教を信じてる人をどうこう言うつもりはないけど
自分自身の中で何が「怪しさ」だと思ってるのか言語化してみたい。
Wikipediaなんかでそれぞれの新興宗教のページをみると、難しくて全然頭に入ってこない。
固有名詞が多いのと、概念的な話が多いのと、仏教系だと漢字が多いからかなあ。
だから、共感するとか云々の前に、そもそも理解できない。わからないものは「怪しい」と思う。という論理かな?
ただ、聖書とかも自分で読むとかなり意味不明というか回りくどい言い方多いし、「で?」みたいな逸話が多いし
経典なんかもすげーわかりにくいから、「誰でもわかる!xxx教のおしえ」みたいなのがあるといいのかしら。
デートとかしてて会話が途切れた時、「あ、あの建物変わってる!面白いね!」とか言った後調べて
なんとか教本部 とかだとなんとも言えない気分になりませんか。
考えられるのは、
・目立たせることで文字通り目を引いて、その宗教に興味を持ってもらいたいから
・でかかったり変わってたりすると、その宗教が流行ってる・勢いがあると思わせられそうだから
・お金持ちはアートが好きだから(宗教団体がやってる美術館とかあるし)
...あたりでしょうか。
なんか他に理由思いつく人、ご存知の人いらしたら教えてください。
仏教でもお坊さんが政治に介入してきた時代は途端にうさんくさくなったし。
ちなみにお釈迦様のもともとの教えでは、
お坊さんは働きもせず、他人からの施しで生計を立てているくらいなんだから、政治に介入とかしちゃダメ!って考え方だから
その意味で、お坊さんの政治介入はもともとの仏教的には「間違ってる」。はず。
新興宗教にしたって、そういう過去の経緯を経て(お坊さんは働かずにお布施で生活する等)税制とかいろいろ優遇されてる存在なのに、
さらに政治にまで介入してくると、なんか図々しいなと思ってしまうのかな?
あとその宗教が「この人に投票せよ」みたいな統制ができちゃうから、トンデモな政治家が当選する可能性もある。
あーでもこれは、候補者が演説したり後援会がいたりすることとどう違うんだろう?
xxx教の人だから無批判に応援しよう、ってなってるから違和感があるのかも。
その宗教に加入せよ も然り、私はxxx教です!も然り、それに興味のない相手に空気読まずにバシバシアピールしてくる感じが苦手なのかも。
ただ、宗教と布教活動は大昔からセットだったし、何を信じるのも自由だから別にいいはずなんだけどなあ...。
あれかな、アプローチしてくるのはいいとして、「やたら」ってとこがダメなのかも。
胡散臭いというか、興味のない相手に対して「しつこい」「鬱陶しい」って感じかな。
これは世界宗教にも一部言えることだけど、
「こういう考え方をすると、心に拠り所ができて、何もないときより精神的に安定するよ」はわかるけど
「これを信じないと不幸が起きるだろう」
「これを信じて実践する者のみが幸福になる」とかになると胡散臭さはぐっとアップするよね。
「霊波が」「オーラが」とか、「波動」「飛行」とか言い出すとまじでやばい。
ちなみにお釈迦様の肩ばかり持つわけじゃないけど、お釈迦様の教え的には
「絶対的な超越者などいない」「常に合理的であれ」って感じだから、かなり地に足がついててほーと思った。
政治介入についてもそうだけど、信仰すること=無欲であること、だと思うからなのか
宗教活動をするのに必要な以上の献金を迫るというのに違和感がある。
というかそもそも、「施し」ってそれに価値を見出した人が自発的にするもののはずなので、
月謝とかノルマとかみたいにお金を出せってのはおかしな話だよね。
ただ、今これを書きながら「信仰すること=無欲であること」という前提に偏りがあるのでは?とも思った。
で、信徒個人であれば、その宗教を信仰しつつバリバリお金稼ぐぞ!ってマインドの人がいても全然普通だけど、
「宗教」それ自体が分不相応なお金や権力を求めて身につけちゃうっていうのが危険だし間違ってるのかな
なお、檀家制度とか云々で分不相応にお金を持ってるお寺がある現状についても、同様の違和感を抱いてます。
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だいたいこんな感じかなあ。
自分の中でのモヤモヤはだいぶ整理できた気がするんですが、あまり頭が良い方ではないので
というか、そもそも別に議論することでもないし、着地「勝手にすれば」って話なんですが
もしなんかあったら教えてもらえると嬉しいです。
信仰を強要する宗教ってのは、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の流れ。
神道なんて、「世間はそういうもんだ」という思い込みの上に成り立ってるから、そもそも信仰は求めない。信じなければ罰が当たるだけ。
その理由を考えてみると、どうも信仰を持つ(⇔無宗教)ということのイメージが、こうしたことを言う人との間のそれと違うからではないかと思い始めた。
私はプロテスタントなのだが、信仰を持つということは、自分の罪を自覚し、それを贖ってくれたキリストを受け容れることだ。それに伴い、聖書に書かれた道徳に従った生活を送ることをも意味する。
何か問題にぶつかれば聖書を参照し、解決策を探る。それが自分にとってつらいこともあれば、救いになることもある。
他方、クリスマス・初詣・葬式しかやらない人にこうした要素は見出しにくい。
神を受け容れるという点について、初詣のときには神を受け容れる人が多いかもしれないが、その時限りのものだ。クリスマスや葬式は言わずもがな。
また、日常生活において宗教の教義を意識するなどということはないだろう。そもそも神道については教義があるのかどうかもあいまいだ。
でも、小さいころから、好きなこと何にもさせてもらえなかった。
お尻のあざが消えないうちにコードで叩かれた。中学まで続いた。
学校でも部活禁止。校歌斉唱禁止。お祭り由来の学校行事禁止。輸血禁止。週末は布教。
高校生になるころには終わりが来ているから進路なんて考えなくていいって言われてた。
でも、10歳のころに、教義が変わって、来るはずの終わりが来なくていいことになった。
結婚も推奨されてなかったから、結婚先延ばししたお姉ちゃんたち全滅。仕事も推奨されてなかったから、フリーターで鬱やニート乱発。
家庭的な人ばっかりだったのにもったいなーい!
でもね、そんな環境でも、環境を自力で変えていった人いたのよね。大学進学も自力でしたり、資格取ったり、どんどんうまく逃げていった、軽やかに羽の生えている人いるわけですよ。
世界は終わるんだよ、学校で一般人の友達作ったところでその友達終わりが来たら全滅だよって教えて、生き残らなくていいやって罪悪感万歳になる宗教で、足ぬけしても廃人がいっぱいいるんだと思う。
もうね、宗教内の長老に半レイプされちゃって妊娠しちゃって、親から半殺しの目にあって親がむせび泣いて親が世間に顔向けできないって自殺未遂した環境で、相手かばう必要ないのに言えなくて、日曜日ごとにあうのに言えなくって、黙って下ろしちゃって無力感で高校中退した私、ほんと馬鹿なんですよ。
私なんてカスですよカス。家出て風俗やってお金稼いでニートして高認取って風俗やって専門学校行って定職について、結婚して子供に恵まれてやっとワーキングマザー! 人並!!
ビバ神! 人なみ!!(感涙)
税金払えてうれしい!! 社会保険にカードが作れる身分うれしい!!
と思ってたら、もう今度パワハラ上司にタゲられてドロップアウトですよ。2か所連続ってことは、なんかオーラでてるんでしょうね。あは、人なみって無理なのかな! そろそろ私も死のうかな!
でも、圧倒的なハンデあろうが、乙武さんのようになさることなせる人はなせるし、世間がうらやむ高学歴でも一歩も外に出れなくて女に目を合わせられない人いる。
その差はどこから来るんでしょうか。ほんと知りたい。。
平気で努力できる人がいる。
やっとわかってきたのね、人生の責任が本人にしか取れないっていうの、時間が容赦なく残酷に過ぎていくよってことなのね。
だってさ、高校中退してブランクがある人間と、ちゃんと進学して新卒カード切れた人と、毎日毎日睡眠時間削って何かを積み上げて努力した人と、環境がどうだろうと積み上げられなかった人、差があるにきまってる。
モチベーションなくてもモチベーションを持てたら、もっと中学の時勉強してたら。高校を辞めなかったら。ずっと継続できるものを積み上げられたら‥‥‥。
30過ぎて何を積み上げられるんだろう‥‥
どうやって積み上げていけばいいかわからない。ほんとうは勉強の仕方もわからない。無理やり暗記して資格取っただけ。
格差はたくさんあると思う。才能、容姿、メンタル、体力、若さ、ストレス耐性、継続して積み上げていく人生‥‥‥。
子育てして分かったけど、勉強習慣って2歳の本読みから始まるし、毎日ちゃんと習慣づければ子供は自分から目をキラキラさせてやりたがる。
もう格差は始まってるんだと思う。
この子たちにこの社会の中で幸せに生きてほしいけど、お母さん今泥沼になっちゃった。。どうすればいいんだろう。お母さん、ちょっと疲れた。
http://anond.hatelabo.jp/20160901233756
論旨とはちょっと離れるが、神道の実質は無神論・無宗教でないかと思っている。
何でかっていうと八百万の神というほど神様を増やしてしまった結果、もはや信仰に値しない「神」がたくさん出てしまったから。妖怪と何が違うのかというレベル。
また、増田の言う通り神道には教義がない。「神様」の中にはありがたい謂れがあるものもあるが、どれも日本昔話レベル。現代人の苦悩に対抗しうる力を持った教義は存在しない。
結局こういう意味で、神道は無神論・無宗教であり、神道を何となく受け入れている日本人も無神論・無宗教なのではないかと思っている。
ただ日本はこうしてできました。こんなに歴史があります。だから天皇は偉いんです。くらいなもんで。
(江戸時代後半くらいから政治利用されるための宗教だったとかいう説は微妙に真偽不明なんでおいておく)
キリスト教はいろいろな宗派はあるにせよ、一応聖書をもとにしているだけあって人生とはとか、家族とはみたいなもんがきちんと宗教的あるべき姿として掲げられている。
宗教にどっちが優れているかはないだろうけど、今時の「なんで生きるのか」「なんで子供をつくるのか」みたいな根本的な悩みが出てきた時にすがるよすががあるかどうかはかなり重要なポイントになってくるんじゃないかと思う。
こういうと多分ネトウヨがわいてきそうだけど、戦中の神道崇拝なんて思想関係なしにただ「偉い天皇様を崇めなさい命をささげなさい」みたいな強引な思想を植えつけただけでさ。
アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。
ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。
「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の四度の繰り返しから始まる。
イスラム教国旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れるコーランの朗誦」といった記述が見られるが、
アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。
イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。
そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすハラームとして容認してはいないからである。
聖典の読誦であるキラーアやアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%B3
個人的に、あの件で興味があるのは、実行犯が(バングラデシュでは)高学歴の富裕層ってことだけだな。
死ぬ覚悟のある奴が死ぬ覚悟でテロをやれば、当然の結果として、誰かが巻き込まれて死ぬ。
たまたま彼らにとって憎むべき外国人である日本人が犠牲になったってだけの話だ。
それは間違いなく悲劇だし、悲しいとも思うが、不思議かといえば別にそんなことはない。
過激派がどうやって彼らをコントロールしたかだけだよ。あと知りたいことなんて。
オウムみたいなもんかもしれないな。あのうさんくさい顔の教祖やいい加減な教義には何の関心もないが、
彼らがどうやって人や金や女を集めるに至ったかには興味がある。
俺も別にフェミニストじゃないから、詳しくない人間同士で話してもアレだけど
知らんが、主婦という生態自体が家父長制度やらの封建的な環境で発生したものだから、それを否定するためには主婦の生き方それ自体を否定しなきゃいけないって教義なのがフェミニストなんじゃねーの。
おれの知ってるフェミニストはそこまで極端な主張する人はあんまいないかな。
「主婦という生き方がデフォルトになりがちな社会」のあり方は否定してるフェミニストが多いと思うけれど、
自覚的に主婦を選択する人をディスったりする人はあんまりいないし、
「主婦という生き方」のなかにどういった苦労があるかということをきちんと言語化しようというタイプの仕事をしてるフェミニストのほうが圧倒的に多数派だという印象を持ってけどな。そこでアンペイドワークがなんちゃらとか、そういう話が出てきてるのだと認識してる。
まあ、フェミにもいろいろいるから主婦という存在そのものをディスってるラディカル系の人もいるにはいるんだろうな。そういうフェミの人とはあんま近寄りたくないな。単にあたまわるくて話が通じなさそう
ようは避妊をしないセックスをしてもらいたい、ってだけの話なのに
日本社会の不思議なところは、これほどセックスが氾濫しているにも関わらず、
公(オオヤケ)で性について語ることが奇怪なほどタブー視されているところ。
性について語られるのは、単なる猥談かジェンダー論くらいしかない。
みんなが避妊をせずにセックスをすること。セックスの回数を増やすこと。
避妊や中絶を善しとしないこと(まるでカトリックの教義みたいだがw)
世の中が避妊や中絶を重要視するのであれば、それは少子化なんかよりも、
避妊や中絶によって守られる権益の方を重視しているという証拠。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/kirik/status/728156958004420608
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-29/ftp20080329faq12_01_0.html
「聖書を深く読めば読むほど、民主主義というものには反対です」と、きわめて危険な教義にたって、「昔の武士は、“生きるも、死ぬも、すべては主君のために”と言って、烈々たる精神に貫ぬいて(ママ)生きていました」などと封建時代の支配者の思想を理想とする時代錯誤もはなはだしい集団です。日本会議などでさえ口にすることをはばかる主張を展開しているこの集団の策動を許さない、社会的な批判が必要です。
あっ…(察し)
そして、他と差別化される
刺青とかコミュニティに帰属するか否かの分かりやすいスティグマだ
戒律はコミュニティが大きくなると複雑化し戒律の専門家が必要となる
その反動として、既存の宗教家を廃して新しい信仰に流れるのもまたいつものことで
由緒正しい神社仏閣をパワースポットと称する文脈無視のフリーライドな精神は
エルサレムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地となる過程を追体験しているかのよう
宗教の成り立ちにおいて、教義よりも宗教的聖地の方が先に存在するのだ
廃仏毀釈が一番激しかったのは鹿児島だそうで、寺がかなり迫害されたが
墓も墓参りの習慣も残っている
日本は、仏教、儒教、神道のちゃんぽんの言うなれば日本教の信者で