はてなキーワード: 司馬遼太郎とは
この数日、呉座勇一先生がツイッターの鍵アカウントで、ある女性学者への人格攻撃を行い、かつアンチフェミニズムクラスタと日常的につるんでいたということで、大炎上している。実績も地位もある歴史学者がなぜ、と疑問に思う人が多いが、このアンチフェミニズムクラスタについてあらためて考える必要がある。
真面目なフェミニストやリベラル派はアンチフェミニズムを「女性差別主義」と同一視しているが、そう単純ではない。今回、白饅頭(御田寺圭)氏がアンチフェミの「ラスボス」扱いされているが、彼は過去にシノドスにも寄稿して経済学者の飯田泰之先生とも対談するなど、リベラル派との付き合いがある一方で、日本会議的な右派や保守派とのつながりは全く見られない。彼が連載枠を持っている現代ビジネスも明確にリベラル寄りである。アンチフェミも厳然たるリベラル派の一部だということを忘れると、今回の問題が全く見えなくなる。
呉座先生も、これまで司馬遼太郎や井沢元彦などの高齢男性保守派に人気のある歴史家を厳しく批判し続け、歴史を「国民の物語」として語ることを否定してきたように、どちらかといえばリベラル派寄りだった(少なくともそう見えた)。だから、呉座先生は女性に関しては保守的・反動的だったからというより、彼のリベラルな価値規範の中で「筋が通っている頭のいい議論」に見えたからこそ、アンチフェミクラスタにはまってしまったと理解される必要がある。
問題は、ではなぜ不幸にも「筋が通っている」ように見えてしまったのかという点にある。これについて書こうと思ったが、頭がまとまらなくて断念。
(追記)
現代ビジネスや飯田先生が「リベラル」は雑な括りだというブコメがあったが、現代ビジネスは今回の当事者である北村先生も数多くの文章を寄稿しており、保守論壇誌と比較すればリベラルだと判断したが、確かに微妙かもしれない。飯田先生も荻上チキ氏やPOSSEと付き合っている一方で、右では高橋洋一や田中秀臣などの政権擁護派とつるんでいるので、「リベラル」括りにすると違和感を持つ人はいるだろうとは思う(個人的にはもう少し付き合う相手を選べと言いたくはなる)。
自分が恵まれてないとかツイてないとか、冷静に考えれば悲観するほど酷い境遇でもないのに
承認欲求と願望だけはネットで毒虫の様に肥大化して、ただ自分が金や女や称賛や社会的地位を得られればいいとか通り越して
自分の欲しいものわずかでも持ってる奴は、全員死ねばいいしなんなら犯罪にならないレベルで足引っ張ってやれるならやるってレベルで煮詰まって、社会や世界に自分の不満による不幸なら、社会や世界も同じように等しく不幸でなければならないというのは
劇画ヒットラーで司馬遼太郎がコメントを寄せてた「自分が不幸だからと言って社会や周りに同じ不幸になることを求めるのは通り魔の考え」って書いてたがその通り
ネット民は政治だ経済だ思想だと高尚ぶってあまつさえ政治問題だとか叫ぶけど
根っこは全部これなんだよね
去年
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
を書いた増田です。
去年は散々な一年でしたね。
私も、去年は個人的にも色々と散々な年だったんですが、そんな中でも「年始には半分釣りでタイトルつけたけど、ほんとに人生変わったかも」と思うところがありました。
まぁ正確には、変わってきたかも、、、?ですが。
以下つらつらと書いていますが、まとめると
「100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた」
それでいて、
それによって、去年一年で少し世界が広がったと思いますし、それでいつつ、本業で必要な知識の深化も出来たと思っています。
これが何故出来たかと言うと、一昨年本業と関係ない本を100冊読むという行為をしたメタ効果じゃないかな、と思うわけです。
以下詳細。
いきなり自分語りスイマセン。
去年もちらっと書きましたが、私は趣味の一つとして持久系スポーツをやっています。
レベルとしては社会人アマチュアでは上位1-2%くらいには入っていましたので、まぁまぁ本気の趣味です。でした。
が、一昨年(2019)の末に足をボキッとやりまして、都合4ヶ月ぐらい走れませんでした。
長い時間をかけて鍛えてきたものが為す術なく失われるのを見ているだけという喪失感は中々きつくて、だいぶメンタルやられました。
の上、御存知の通りコロナで夏以降の大会も全て中止、日常復帰後の練習モチベーションも上がらず正直一年で別人レベルまで体力落ちたと思います。
健全な肉体に健全な魂が宿る、あれは「だったらいいな」という話らしいですが、少なくとも肉体が「健全でなくなるカーブ」を描いているときには魂も降下カーブを描きますね。
振り返るとマジで生活全般にやる気の出ずやっとメンタルが上向いてきたのが晩秋ごろ、という一年でしたが、唯一分量を維持ないし増加させられた生産的アクションが読書でした。
結構これに精神的に救われていた部分もあると思います(クソみたいな1日だったが一応本は読めた。。。と言う感じ)。
春頃はもう死にたいとか思った瞬間もあった気がしますが、今は寝たきりになっても少なくとも本は読めるな、という心持ちでいます。
気持ちがどんだけ落ち込んでいても、ベッドの中でできる生産的活動がある安心感があるという感じです。
100分で名著解説本で掴んだペースを維持したかったのもあり、読書の方向性を広げる方向として去年はNHK出版のテキストを中心に選びました。
本の物理的サイズ、厚さ、章毎の分量等々が似ていたからです。(これは今まで読んでいた場所、時間、等々がそのまま続けられるということです。)
あと、NHKが好む文化人というのは大体決まっているので、百分で名著シリーズで知っている人が著者だったりして安心感あります。
結果読んだ数(下記しますが、28冊)が物語っていますが、良かったです。
NHKは番組内容とか受信料であれやこれや言われることもありますが、教育系のコンテンツは極めて良質だと思います。
前置きが長くなりましたが、特に読んでよかったのが宗教の時間シリーズです。
最初の7-8冊程度は、これは求めているレベルを超えている、九分九厘内容忘れるなと思いながら読んでいましたが、
これも何冊か読んでいうちに「知識がつながって」読めるようになってきました。
この年になっても、何かを身につける、学ぶことができる。それは読書による独学だけでもある程度可能である、ということは個人的に心強いメタ経験になっています。
逆に言うと最初の数冊はほぼわからないままなので、数年後また一気に読み返したいですね。
去年は、自発的にはまず読まないであろう本も、読んでみたいと思っていました。
そのための方法として、友人におすすめの本を聞くという方法を取りました。
また、一週間以内くらいには実際に読んで感想を伝えて内容についてやりとりするというマイルールを作りました。
これによって狙い通り、新しい関心フックが幾つか作れましたが、想定外の効果としてある程度親しくなった人とさらに距離を縮める手段としてかなり有効だったように思います。
一昨年以前の私だったら、それが有効だと知っていても負荷が大きかったでしょうが今なら別に無理せずやれる、むしろ楽しい、というところがポイントです。
今のところ猛烈につまらないものを紹介してきた人がいないのもありますが。。
何かについて知りたいと考えた時、ネットで検索するという初動は変わりませんが、さらに知りたいことがあるor体系化したいor記憶への定着率を挙げたい時、本を読むというアクションが自然に追加されました。
また、読書をするにあたって、ちょっとした障害になっていた事が怖くなくりました。例えば下記のように。
・中断:面白そうな本を見つけたらそっちを読み出してしまう。中断してもまた一週間もしたら読めるのだから。もし中身忘れていたら都度振り返ればいいのだから。とシンプルに考えられるようになりました。自由です。
・積読:いま読めなくても恐れることはない、そのうち読めると素直に考えられるようになりました。流石にそろそろ消化に一年ぐらいは掛かりそうなくらい本が積まれていますが、現在のところ三年後の自分を信じられます。
・読書履歴・読書キュー汚染:穏やかでない単語を使いました。これは要するに「話題になっているけど、こんな俗っぽい本を読む時間を~もっと重要な本が~」とか考えなくなったということです。気になったら読みます。
これらって結局全部やらない言い訳だと思うんですが、単純に読書に対する心理的ハードルを下げて読書量で解決するというパワープレイ(一昨年の私比)が可能になりました。
一昨年解説本を100冊読んだのは運動部一年生がやるような練習のための練習だと書きましたが、あれはそんなに外してないなと今でも思います。
百分で名著シリーズ:12冊(2021年1月分の「資本論」も、もう読みました)
で、個人的に出色なのは教養系の読書がたっぷりできたことより、仕事の本がたくさん読めたことです。
去年までは年間7-8冊ほど読んでるかな?という感じでした。
ところが、今年は読書に占める仕事本の割合は減ったにも関わらず、倍以上読めました。
本を読むという行為自体がスムースになったと言うか、「仕事の本は(趣味・教養の本より)重要である」という心の中の序列がどうでも良くなり、いつかは読めるのだから、になった効果だと思います。
はてなあたりで使われがちな「文化資本」「分断」あたりの用語の社会学的なバックボーンについて理解できました。
はてブ見てると「社会学者って、、、」と思うシーンも多いですが、必要な学問だと捉えなおすいい機会になりました。
面白くない話として社会を伝えて分析するのが社会学、という分類はなるほどと思いました。
逆に言えば、美しい弱者、貧者のストーリーなんかばっかり見ている人は社会学者とは言えないのだなと。こういう人はてブあたりでよく見る気もしますが。。。
年末だったのもあり、久しぶりに放送の方も全て見たのですが、やっぱりできたら放送も見るべきですね。
解説本の著者の言いたいことが、スルスル入ってきます。それと、伊集院光さんやっぱすごいなと。ああいうレスポンス返せる人間になりたい。
能楽師の安田登氏解説の古典説明本です。下記する「史記」でもそうですが、
漢字の成り立ちに纏わる深い知識(今ある漢字が成立した年代には開きがある)から独特な解釈をされています。
これが真実なのかはわかりませんが非常に興味深く、この著者の著書をあたったり、この視点で更に歴史を追ってみたいなと思わせてくれる本でした。
安田登氏の能舞台も見てみたいと思ったのですが、昨今の状況では難しいですよね、、、今年あたり何処かで見に行けるといいな。
タイトルのとおり、経典や歴史的事件ではなく残っている手紙から親鸞聖人の人物に迫ろうという趣旨の本です。
上記したとおり「何冊か読んだ効果」が大きいのでしょうが、これ読んで、はじめて浄土真宗わかった気分になりました。
ちなみにうちは曹洞宗なんですが、曹洞宗はいまのところわかったと思う瞬間がないです、、、
観無量寿経をベースに、浄土系の教えが中国~日本で花開いていった過程を追った本です。
私が読んだ中では最も単独で理解しやすく、去年おすすめした「集中講義・大乗仏教」と合わせて読むとより日本仏教の流れが理解できるかなと思いました。
宗教の時間は多くが前後編の2冊構成なのですが、1冊構成なのも読み返しやすくて良いです。
著者の釈徹宗さんには、もっといろんなお経の解説書を書いて欲しい、、、!!
単純に、日々の話題の元ネタとして興味深くまた著者が「面白い人」であると感じてとても読みやすかった。
独立した章立てで分割した読書もしやすく、何方にもおすすめできる本だと思います。
子供向けに実施された19世紀の科学講義を書籍化したもので、科学レクチャーの傑作と言われているそうです。
当時はプロジェクター等も無いため図があまりなく、正直、本として読んだだけでは当時の雰囲気を十分に味わうことは出来ないかと思ったのですが、
ファラデーという当代最高の学者がが全力をもって子供たちに科学の楽しさを伝えようとしていることはとても良くわかりました。
去年は西欧文明というか西欧社会の限界的なものが色々見えた年かなとも思うのですが、ソロモンの指輪もそうですが、こういった本を著した方々が繋いできたものはやっぱり尊いなと思います。
100分で名著の解説本を読んでから、絶対に読もうと思っていた原典の一つ。
下記の、薩摩焼窯元めぐりと合わせて水俣に行く前に読みました。
内容については私が今更感想をいうのもあれなんですが、「読む前と後で違う自分になっているような気がする」読書体験ができる数少ない本の一冊と思います。
あとがきにある通り、書かれていることは読んだ印象より遥かに創作の比率が高い、ということを差っ引いてもこれは日本人全員が読んだほうがいいんじゃないかと。
恥ずかしながら初・司馬遼太郎でした。焼き物が好きで窯元めぐりも趣味なもので、薩摩焼の里をめぐる前にと思って読んだんですが、面白かったです。
声に出して読みたい日本語というか、何でしょう、文章がうまいと言うより文章の響きが格好いいというか、流石昭和の大作家ですね。一気に好きな作家リストに載りました。
今、ちょっと重めのものもと思って坂の上の雲もちょっとずつ読んでいます。
タイトルの付け方も最高にうまいですよね、、頭にのこるというか。
6歳の我が子の事だが、成長が早すぎる気がして心配してる。
6歳なのだが、何かと私のまねをしたがるものだから、私の書架を漁って司馬遼太郎を読んでるし、私が勉強するときに一緒に勉強したがって既に連立方程式を解くことが出来る。
余りに理解が早いものだから、悪いことでもないと面白がって教えてしまうのが良くないのだろうが、知的好奇心を飢えたまましておくのも・・・と思い暫くは知りたいことを知りたいまま教えていた。
勉強をあまり進めてもまずいと思いなおし、将棋を教えたところメキメキと力をつけて、私も既に二枚落ちでは手こずる様になってきた。
子供らしく動物博士とかにでもなってほしいと思って、犬を飼い始めたが効果は乏しく、私のジョギングパートナーが出来ただけに終わっている。
そもそも「河井継之助が学んでいたという陽明学の和訳を読んでみたいから、図書館へ連れて行って欲しい」などと休日にねだるし、
バラエティーよりはドキュメンタリーを好んで見るような子供が公立の小学校で同級生と会話なんぞ成立する訳がないし、
大人ですら手に余るほど将棋が出来る子が同級生と将棋をやっていても楽しい筈もない。
なので、必然、孤立しがちになるし、本人も同級生よりも大人相手に問答してる方が楽しいと感じていて、それを気にもしてない。
正直なところ、この子の未来に不安を感じてしまう。早熟はいいとばかりは言えない。
小学校に上がる頃には自分は人と違うと自覚していた私よりも余程に成長がはやいのは問題がある。
親としては、子供らしくサッカーや野球でもやって、泥まみれになって帰ってきてほしいんだが、
バットやサッカーシューズよりも、中学数学の参考書が欲しいという子なので困るのだ。
将来の事を思って子供の間は外に連れて行かねばと思って、サッカーに誘ったり、山登り、キャンプなどに連れ出したりしてるんだが
私自身がインドア派で家で勉強でもしてる方が楽しい人間だから、親が好きでもないものは、なかなか子供には浸透しないものだ。
近頃はTVゲームなんかをかなり用意して、友達を家に連れてこいと言って同年代の友達でも出来ないものかと期待してる。
私も9歳くらいになると友達とサッカーをすることが他の何よりも楽しくなっていたので、我が子にもそうなってほしいのだ。
スポーツをすれば自分には出来ない事、上手くいかない事、自分だけが凄くても勝てない事の連続で、多くの事を学んでくれる。
大学受験の時期が来れば、この子も、どの大学だろうが志望校に入る位は苦も無く出来るとは思うし、今は勉強は全く大事ではない。
あと7,8年くらいは勉強なんかしないで、TVゲームで遊んでばかりで、悪戯でもしては大人に怒られまくる位でいいし、
中学生になれば彼女でも作って、どうすれば彼女とキスできるか知恵を絞る位でいいのだが、
子供というものは、なかなか親が思うようには育ってくれないものだ。
妻は、アホの子なんてとんでもない、今のままでいいなんて呑気な事をいっているが、私は非常に心配だ。
私の父も同じような心配をしていたのだろうか・・・と考えると、なんとも楽しい気分にはなるんだが、笑ってばかりもいられない。
ブクマが大量についてて驚きました。
ギフテッド教育やお受験は当然のこと選択肢にはあったけど、夫婦で話し合い特別なことをあえてしない事にしました。
そこには当然、良し悪しはあれども親である私の経験からくるものもあります。
私自身、大学に行くと決めるまでは1分も学校の勉強にいそしんだ事はないけれど
「色はなぜ見える?」「鳥や飛行機はなぜ飛べる?」
といった好奇心を満たすための書籍漁りや、それを読むために必要な勉強は幼少期から嫌わなかったというのもあります。
一方で水泳教室やら書道に通わされて、自分が上手く出来ない事が悔しいという思いをしたことも今となれば有難かった。
大学受験程度であれば、苦労なんてする必要もないし、また彼は苦労はしないでしょう。
それよりは普通の学校で色んなタイプの友達に出会い、海外旅行へ行って見聞を広めたり、友達とキャンプへ行ったり、サッカーやったり
恋愛したりで人としての裾野を広げて欲しいのが我が家の教育方針です。