はてなキーワード: ブラックホールとは
漫画のラストがどうにもピンと来ないのは、まさにラストのカットで、青々としていて陸地も雲も健在な地球がデカデカと写っていて、ちせちゃんの「地球はもうダメだぁ…」という説明に全く即していないからだなぁ、と。 (このカットだけ見れば、最終話のサブタイトルは『地球はいつでもそこにある』でも問題なさそうだ。)
あれだけ広大な陸地があれば、ゴキブリ並の生存力を持つ人類なのだから、どこかしらで一組くらい男女のカップルが生き残って、すぐにでも繁栄を取り戻しておかしくないな、と。 (『俺達の、人類の生きる意志をなめるなよ!!!!』みたいなSF物語を見過ぎているせいだけれど、多くの読者はそういう物語に慣れ親しみ過ぎていると思う。) 地球が滅びないのであれば、ちせちゃんや主人公が断腸の思いで手当たり次第に人を殺してきたのも色々と崩れてきてしまうわけで。。
単純にラストのカットが「地球はもうダメだぁ…」なビジュアルになっていれば良い話なので、「ちせちゃんが断腸の思いで地球を真っ二つにする」、「ブラックホールに吸い込ませる」、「地球が大激怒して全表面が灼熱に覆われる」などになっていれば話がしっくりくるはず。一番ビジュアルの差し替えが簡単な「地球のリトル太陽化」でラストシーンを読みたいと思う。
とはいえ、「カップル一組くらいは余裕で生存できそうな状態で残っている地球」と「その地球を『もうダメ』と言うちせ」が描かれているのは事実なので、テキスト論的には、「ちせが狂言を吹いている」線にも可能性があるのかもしれない。ちせちゃん健気だからパッと見難しそうだけど。
(それなりの製作環境の時代背景があって「まだ綺麗な地球」がラストシーンに出ている訳で、そこに読解の鍵があるとは思うけど。)
うーん急に探せないな。とりあえず。
例えばこれなんか良く書けていると思う。
ブラックホールと中性子星の境目を理論的に導出することに成功 - 理研など | マイナビニュース
発表した本人達がびっくりしていたよ。
クォークから中性子星の構造解明へ道筋 -中性子星の最大質量とクォーク質量の関係が明らかに- | 筑波大学 計算科学研究センター
あとは、記者向けでも一般向けでもない普通の研究会の内容が記事になっていたことがあって本気でびっくりしたことがある。
京速に関する記事なんだけど探し出せないなぁ。
生きる虚しさに苦しんでいる人へ
言いたいことがある。
風呂上りだから言いたい。風呂上りは血行がよくて脳にも血が巡り、冴えている。今言わなかったらもう忘れてしまう。
だから今言う。
あなたたち、わたしを含め、
何よりも正しい
と。
鬱や、無気力感や、理不尽なこと、理不尽な社会、どう考えても納得できる落としどころを見いだせない世界のありさまに、それをどうしようもなく素面で見て、見てしまったがゆえに、心の平衡を保つことが危うくなっている全ての人は、完全に正しい。その目で見た虚しさは、なによりも真実のあるがままだ。
うつ病の苦しさは、病気じゃない。ただ、醒めに醒めきっている、ただそれだけのことだ。異常じゃない。今の世界の測り方での「健康」のほうが、異常なんだ。見て見ぬふりをしているだけだ。やがて死ぬことを。どんなに文明を発達させようが、スポーツを究めようが、結婚しようが子供を産もうが、なにをしようが、やがてその人は死に、その人を記憶している人も死に、人類もいなくなり、生命もいなくなり、地球もなくなり、太陽系もなくなり、銀河もその中心にある超巨大ブラックホールに呑み込まれ、完璧に確実に無くなる。
人類とか宇宙とかはちょっと大げさすぎるかもしれない。が、個人の死は、今自殺しようが、数十年生きて老衰しようが、長いか遅いかの違いしかない。人生に意味はなく、意味があるだの生きがいだの言っているのは、このどうしようもない虚しさの前では、酒に逃げてやらなきゃいけない仕事をほっぽってるようなもんだ。
「そんなこと考えてもしょうがない」や、「どうせ死ぬんならやりたいことやったらええやん」や、「今日のことだけ考えて一生懸命生きる」や、そういった台詞は、この意味不明な現実から目をそらすだけでしかない。不真面目極まりない。欺瞞。別にだめなことではない。ただ、真摯ではない。
正しく、そしてまっすぐに、このグロテスクすぎる現実に、ギリギリ正気で、ブルブル震えながら、何にも逃避せず、することができず、直視しているのが、生きることが虚しくてしかたがない人だと思う。
そして、生きることが虚しくて仕方がない人が、常々死にたくて、消えたくて、実際に死んでしまったりするのは、まさに、見ているものの理解不能さ、感じているものの逃げたくなる衝撃的なほどの気持ち悪さと苦しさゆえにだ。人間ではたちうちできないものに、人間のままの理性で臨んでいるので、はなから無理だ。酒に逃げるように他のことで頭を一杯にするか、自己洗脳するか、または狂うか、または理性をもったままなら、自らスイッチを止めるしかない。
わたしが毎日飲んでいる精神科で処方される薬も、「正常」とか「健康」になるために飲むのではない。
現実のこの悲惨極まる戦場で、一時的に戦争を忘れるためなのだ。現実は戦場なのだ。無限に広がる荒野だ。
苦しんでいる人は、もう、しょうがない。苦しいものなんだから。正気でいたら、素面でいたら、苦しすぎるから。
もう、その「正しさ」、「真摯さ」、「正直さ」、を誇りにしていくしかない。そんなものほとんども価値ないけれど。
私は、それを胸に大事に持って、「正気」のままで行けるところまでいこうと思う。
私たちはなにもおかしくない。わたしたちの感覚は間違ってない。なによりも正確に捉え、正確な反応をしているだけだ。苦しいのはしょうがない。消えたいのも死にたいのも当然だ。ごく自然だ。
そして、その状況に、わけもわからない恐怖に、虚しさに、たった一人で耐えているあなたは、ほんとうに、ほんとうにほんとうによく耐えてきた。ほんとうに今まで、よくぞ、耐えてきた。誰にも理解されず、表面上の慰め・励ましだけかけられ、孤独で、毎日毎日、地獄の中を、ギリギリで。よく頑張った。どんなことよりも私はすごいと思うし、清廉だと思う。立派だと思う。
スパロボに「ブラックホールクラスター」という技持つキャラが居たのは憶えてるけど流石にPS2からは遊んで無いのでうろ覚えだから
そのキャラとは無関係で普段使っている「クラスタ」という言葉とある歌手のダンスを見て思いついただけ
ここは「アバンティの日常会話」「人生相談」「青春アドベンチャー」「ラジオ深夜便」「オールナイトはてな」を組み合わせたような
野崎まど『know』を読んだ。早川SFクラスタでやたらと評判がよいのでいつか読もうと思いつつも、過去に同氏の作品を拝見した中生まれていたわだかまりと作品の底のようなものが邪魔をしていたのだが、ここにようやく機会を得たので所感をはき出しておこうと思う。
一言でまとめると、『know』という作品はSF的/ライトノベル的想像力によって描かれた『ブッダ』である。つまり〝知ル〟という名の少女が正覚を得るまでの生涯およびその後の万人救済を、それに連れ添ったものの手で描いた物語の体裁を採っている。宗派は技術系過激派の大乗仏教といったところ。福音書と呼んでもよいのだが、本書に織り込まれた示唆(エピグラフとクライマックスが創世記の引用であることなど)に反して作中で知ルらが辿った道は真言宗のそれに近いように思えたため本稿ではそちらの用語を採用する。
こう考えると『know』というタイトルも知ルという少女を指すとも解釈できる。だが最もわかりやすいのは目次に並ぶ章題だろう。〝birth〟から〝death〟までまさしく一生が記されている。
さて本作の舞台は2081年の京都、情報材と電子葉という未知のテクノロジーによって情報空間と現実と思考との直結を果たした世界である。一方で情報へのアクセスと保護の格差は法律で規定されるまでに進む。そんな中、語り手を務めるのは作中トップクラスの情報エリートである。
〝birth〟の章では全知を定められた十四歳の少女・知ルとの出会いとともに、社会革新の原動力となった研究、そして彼女の誕生が描かれる。ちなみにこの配置のために作者は作劇上結構な力業を用いている。またここではもうひとりのクラス9・問ウも登場している。彼の姓であるアリステラというのは「最上級」を意味する名前。位置づけがわかりやすい。ただ女性名なのは気にかかるが……。
〝child〟では神護寺を訪ねて高僧と悟りについて問答する。ここで択ばれた真言密教とは即身成仏を極意とし、また教えを秘する——つまりオープンの逆をゆく——ことを是とする仏教の一宗派であり、つまりは作品の主題と密接に関わる教義を掲げている。物語構成上からも初日にふさわしいといえよう。
〝adult〟では京都御所に匿われた古文書を通じてイザナミ・イザナギの二柱の行いから生きたまま黄泉路を往く手段を学び取る。これで境界を越える準備は万端、残るは実践のみである。
〝aged〟において知ルは当初の目論見通り入定を果たす。その前夜、主人公と知ルは〝知恵の実をかじる〟と称して情報交換における無上の行為に達する。つまりセックスをする。
〝death〟では知ルの死後の肉体と、彼女の還りを信じる主人公の姿が描かれる。この情景は高野山の奥の院で空海が今でも生存しているという伝説を想起させる。
そしてエピローグでは生還した知ルによる革新が成った社会が語られ、物語は終わる。
——わけだが、この小説の価値はなんと言っても計算されたフィニッシング・ストローク(最後の一撃)だ。
作中では真理に至るための方法を量子葉によって脳を育て、高密度の思考による情報のブラックホール化を行うことだと説明しているが、これはあらゆる意味で知ルを育てた天才技術者の言うように「我々では無理」なのだ。彼の生誕は2014年であり、刊行年の一年先に設定されていることに留意したい。アーサー・C・クラークの名作『幼年期の終わり』は年少の読者に対して希望を残したが、この作者の意地の悪さはそれさえ許さない。
しかも知ルが死後の世界で目にし、人々に広めたものが何であるかは一切語られることなく物語は終わる。
この物語が抱える問題意識は情報格差である。作者はそれを人類間のレベルから、全知の存在たる神との格差へと推し進めた。だからすべての人が全知となった瞬間、格差は消滅し、万人救済が果たされることになる。しかしそれはあくまで作品世界内の話にすぎない。読者はその外にいる。その格差を肌で感じた瞬間、初めて読者は揺さぶられ、知ることへの欲求を呼び覚まされる——格差を埋めたいという渇望によって。ただ純粋に「知ることと生きることは同じ」と断じた知ルに比べて何と浅ましいことだろう。けれどそれもまごうことなき人間の本質である。語り手が中途半端な情報強者に位置づけられていたことも、妙に鼻持ちならない人物であったことも計算ずく。すべてはこの一行の効果を最大化するための小道具に過ぎない。
もとよりメタフィクションを指向する作家であると感じてはいたが、人工的な世界を下敷きにすることでより巧みにそれを演出できるようになったらしい。
で。
実はここまではすべて前置きである。読者を操ることを至上とするこの作家がメタフィクションへの可能性をこの程度のウェルメイドな小説に留めるはずがない。
この作品に残された最後の謎はずばり〝ただひとりに向けられた暗号〟である。正直な話、この解明に挑む資格があるのは野崎まどの全作品を電子化して常に携帯するような気狂いだけに違いない。
けれど非才を尽くしてその手がかりくらいは拾い集めておきたいと思う。
(後編へ続く)
死とは、不可逆の自称で、以後、再び動いたりしないことである。
として、真の生物でないドラえもんは故障後も再稼働に持って行くことは、現実的でなくとも可能だろうと思うに至り、生命ではないと、「私は」認識する訳です。
寿命の設定が無かろうが、一度完全に死を迎えれば、お終いの存在ならやはり生命だと思います。
ぴったりの表現で言うならニルバーナというか、蝋燭の火が消えて、お終いならそれは生命だというか。
ゾンビ。死語も活動していますが、やはり生命ではないでしょう。正体は創造者のロメロに聞いてください。
カーズ。死ねないと本人も仰っていますが、やはり太陽に突っ込むなり、ブラックホールに吸引されるなりで死ぬと思いますので、生命ではないかと。
キリスト。世界中で、唯一、死後に復活した例外。事実の確認が難しいので言及しません。(断じて、インチキだと決めつけているわけではないです)
呼んでくれた方の中に、曰く
「定義はちゃんとあって、
自己複製する
境界がある
代謝する
の三つなんだよね。
まあ定義が難しいとか論争があるかのように書かれているサイトは多いけども。
と仰った方がいます。
ここは見解の相違です。それは、一部の人が、便宜上決めた定義でしかないのです。
仮に上記の三要件を必ず満たす物が生物だと言うのであれば、種子を作る機能を欠いた植物は生命ではなくなってしまう。
ウィルスが生命でないというのは現段階で生命だと明言できないからに過ぎない。
と、まあそんな感じ?
ちんちん。
先ほどまで、「宇宙人侵略に対して、地球人はどう対処すべきか?」的な番組がなされていて、
宇宙人が攻撃に対して、地球人は核爆弾でも歯が立たないので、ゲリラ戦に持ち込む様子が描かれていた。
しかし、私見だが、「宇宙人の侵略を気にするのは、意味ないこと」だと思う。
よくSFとか映画では、宇宙人が地球に攻め込んで、それに対して地球人が様々な抵抗を試みるが、
なかなか成功せず・・・的ストーリーで描かれているが、なぜそういう描かれ方をしているか?
答えは「数日間は抵抗して、そこに人間ドラマを発生させなければ、映画が成立しないから」
もし万一、恒星間移動も出来るような超高度文明を持った宇宙人がいて、彼らが地球を侵略しようとするならば、
その侵略は、「地球人の反撃の時間的猶予を一切与えない、完全ワンサイドゲーム」になるに相違ない。
宇宙人がその気になれば、地球人は「0.000000000001秒」で瞬殺されるだろう。
地球人は「宇宙人に侵略された、という事実を覚知する暇もなく」幸せに全員死んで行く、
そう考える方が「自然」であろう。
映画の世界だと、「0.000000000001秒」で瞬殺だと映画にならないから、
1週間なり1ヶ月掛けて、宇宙人VS地球人の血みどろの戦いを描くのだが、
喩えて言えば、太陽系の近くで超新星爆発なりブラックホールが発生するのと一緒。
そのような破滅的天体事変が発生すると、人類はその破局を分析する暇もなく、
全員「0.000000000001秒で瞬殺」である。
なので、太陽系の近くでの超新星爆発なりブラックホールに対して、有効な対策を打ちようもないし、
ということは、「心配しても詮無いこと」だと思う。
万一そのようなカタストロフィーが起こったら、人類は、他の生物も一緒に、
考える隙間もなく、「0.000000000001秒で瞬殺」だから、ある意味幸せかも。
だから、「宇宙人の侵略に対抗するために、一定数の核兵器を温存すべきだ」論は、ナンセンスなのかもしれない。
宇宙人に取っては、核兵器なんて「水鉄砲程度の威力でしかない」
竹槍でB29をやっつける、的なナンセンスさがある。
なんかほんっとうにつかれた。何も言わないで急にツンケンされるのに。
急にブロックされたり、急に噛み付かれたり。
何回思い返しても、そんな悪いこといったりしたとは思わないし、何を謝っていいのかわからない。
周りがきがるにやりとりしているおしゃべりは私だけはしてはいけなかったんだ。ふーん。そっかごめんね。うざいよね。
でも切り口上でいきなりブロックするほどダメだとはおもわなかった。
空気よめっても同じ空気じゃないもんな。500キロばかし離れてるもんな。
へんな噂が耳に入って手のひらを返されてるのかもしれないけど、それを真偽確かめずに鵜呑みにする人にはこちらも付き合えないし。
この先も付き合いあるのかなー、うざいなーとおもったころ相手は別のジャンルではしゃいでんの。
へぇ。やっぱり若いとすぐ飽きるんだ。
風のうわさに勤め先辞めたっていうけど、余裕がないのに見栄を張ってるなら勤め切らないだろうなとしか。
風のうわさに発注が誤納品されたっていうけど会場でみっともなくいい大人が泣くんだったら最初に確認して発注すればとしか。
なんか声かけたりコメント入れただけで逆上されるからもう無視しなきゃいけないぽい。
差し入れしても定型以上のお礼が帰ってくるでもないし味も別に聞かないし多分捨ててる。
私のことを好きじゃないあなたのことは私も好きじゃない、って気をはって
相手の展示ブースは何も言わない聞こえないで6時間そばに座ってなきゃいけないのが本当にこっちもつかれるんだ。
なんか、あれだ、イナゴならイナゴ、雲上人ならそのつもりで売り子つければいいんじゃないかな。
ていうか、そっちのジャンル行っちゃってください。ダミーも在庫も綺麗に残さずに。ホントおねがいしますあっちでやって。
隣にブラックホールみたいなのがあって全部フラグ(つか言葉ね)踏み倒されるの本当きもくて疲れる。
クレクレちゃんじゃあないつもりなんだけど、こちらのお礼を無視されたらそういう立場にさせられるし、
もうこっちも笑顔が取り繕えないレベル。隣に何考えてるかわからない人が座ってると、
友スレみたいな暴力沙汰とかにならないかヒヤヒヤするんだわ。なんなんだろ。
中の一人には送ったデジタルガジェットきちんと返してからいなくなってほしいわ。
毎日使うものだから、余ってるから好意前提でさし上げたのだけど、
今ものうのうとつかってて、
いずれボロボロにして捨てるか転売されるんだろうなとおもうとイライラするわ。
多めに払ったカラオケ代までは請求しないけど、
なんで地方から泊まりがけで交通費かけて出て行った先でまでへいこらしなきゃいけないんだろう。
とにかくあの隣だとおもうだけでものすごく楽しさが消えて気が重い。
先に書き込んだのが気に食わないのか、ついコムの隣スペはまだ埋まらない。
是非のんきなのんびりやさんスペースが隣にきますように。
はー。
時間とか空間というものは今現在にだけ収束されていて、未来にしろ過去にしろ、縛られ細められた現在から遠ざかれば遠ざかるほど拡散しているんじゃないかな。
私が認知できる(あるいはそう錯覚しているだけの)現在は漸近線のようなもので、それぞれの過去から未来に伸びているもののそれらは互いに限りなく似通っている。
ただしその延長上に見える景色は無限大に食い違っていて、イメージとしては一昔前に流行ったような気がするホワイトホールとブラックホールが繋がっているモデルが一番近いのだと思う。
さて、無限大に拡散する過去と未来というものがあって、その屈曲率が過去と未来で鏡合わせの値であった場合、その過去と未来は究極的に言えばどこかで交わるのではないだろうか。
端的に言えばループが完成してしまうのではないかということだ。それがどんな流れになっているのかはわからないけれど、ぐるぐると同じ時空間を巡っていると想像すると面白い。
あるいは、何らかの弾みで現在を縛り細めている紐が揺れたり振動したとする。影響は遠方になればなるほど大きくなり、拡散した過去と未来の屈曲率は大きく変動することだろう。
そうなったとき、ループとして成立していた一つの過去と未来が切り離されて、全く別の過去と未来と繋がってしまったとする。
その際考えられるのはループが新しくなったなどというものではなく、拡散した未来の先に、すでに過ぎ去ったはずの過去が新しい時空として繋がることである。
現在の地点から見れば(それが可能であれば)、不確定のまま暗黒に繋がっていた未来が既知の過去に繋がることと同意であり、それはつまりその過去の先に観測者としての現在と同体の現在を眺めることでもある。
その瞬間現在は、不確定のままだった時空の繋がる先に、ドッペルゲンガーを見つめることになるのだ。
同じくして、過去を見つめた観測者は、記された過去の遙か向こう側に予想された未来を見つけることになる。その先には、たった今観測者たる現在を見つけて驚いている現在の姿を見つけることになる。
横からですので簡潔に。重大性が違う、と言いながら飛行機の安全でなく金融商品のリスクと比べるべきだ、という主張は全く理解できませんが(CERNのブラックホール実験開始前のアナウンスと比べるべきじゃないの?)、それより、
いや、彼ら「原子力村」に「安全」と宣伝する資格はありはしないよ。事故隠し・データ改ざんをしておいて、「安全だ」も糞もないだろう。
この部分が気になりました。
そんなのみんなやってるし、と言っては子供の言い訳になってしまいますが、事故隠し・データ改ざんをしたという理由で原発を排除するなら、他にもいろいろ排除しなければいけないものがあります。
たとえば三菱自動車のリコール隠しですね。あなたの論理を援用すると自動車村は信用できなくなるような気がします。それはちょっと無理じゃないですかね。
その事実に気がついたのがあまりにも唐突かつ脈絡の無いことだったので、わたしは心底びっくりした。
夜中に一人でテレビを見ていた最中のことだった。マグカップに紅茶を満たして、いやにCMが挟まれるアクション映画を眺めていたわたしは、ふいにわたしという内実が空虚であることを悟った。
それはもう天啓というか、ピンと光り輝く雫が頭の上に垂れてきたような発見であり、驚愕に眼を見張るだとか愕然のあまり硬直してしまうなんていう身体的反応をも許さず、呆れんばかりの正当性でもってわたしの身に降り掛かった。否定することも拒否することも叶わない。ただひたすらに、ああそうなんだ、と納得することしかできなかった。
わたしという人間は、その精神の底に到底見過ごすことのできない黒穴を孕んでいる。穴は、いわば吸引力を持たないブラックホールのようなもので、わたしが見たり聞いたり触れたりして得た感動なり情動をするすると呑みこんでいってしまっている。
思い返せば、わたしは誰かからよく冷めやすい性格をしているよね言われたことが多かった。マグカップをサイドテーブルに置いて記憶の糸を手繰り寄せてみると、出るわ出るわ、級友や部活友達、先生やサークルの仲間、同僚や上司からも、冷めやすい性格であることを示唆する言葉をたいへん多く頂戴していた。
家族からも頻繁に言われていたくらいだった。ぼんやりと映画を眺めながら、わたしはわたしの中にぽっかり開いた黒穴を意識してみる。
膨らみを持った円筒形のわたしの底に、黒い点がちょこんと穿たれているようなイメージ。上の方から注ぎ込まれたたくさんの感情は、円筒形のわたしに認識されながら、やがて黒穴へと近づいていく。ぎゅーっと引き伸ばされるように圧縮されて、底の見えない穴の中へと落ちていく。
なるほど。確かにそういうことになっている。それは紛れもない事実だった。確認はできないけれど、わたしはどうしようもなく確信してしまったのだ。気付かされて、受け止めてしまった。わたしの中にはびっくりするくらい何でも呑み込む黒い穴が存在している。
わたしは、助け出したヒロインを目の前で殺されてしまった主人公をぼんやり見やりながらふと、黒い穴に落っこちた感動や情動はどこへ行ってしまったのだろうなあと思った。わたしの中にある黒穴に落ちたのだから、当然わたしの中にまだ残っていてもいいような気がするのだけれど、なんとなくそれは間違いであるような気がしてならない。
なにせわたしには、受け取ったはずの感動を絶対的に手放してしまっているという実感があったのだ。いや、実感などというあやふやな判断で論じなくてもいい。事実として構造上わたしはそれらのものを汲み取ることができていないのだった。
記憶として、あるいは思い出としてならば、確かに追想することは可能である。感傷に浸ることだってできる。身悶えするようなこともいくつかは経験してきたのだから、そう言った記憶を思い返すことなら、わたしにだってきっとできる。たぶん絶対にできる。
でも、追体験だけは絶望的に不可能だ。わたしはその時その時で落ちゆく感動を確かに観測してはいたものの、それがいったいどのような感動なのか、どのような実像を持つ『もの』であるかを、記録すること以外に汲み取ることができなかった。いつどんな時であっても、わたしは落ちゆくものどもについて、実体があるものとして肉体的精神的感覚で感じ取ることができなかった。
つまるところ、それらの経験はただただわたしの前を通りすぎていっただけで、最終的に穴に落っこちたのだ。その先のことは全くわからない。どうなってしまったのかなんて今まで考えたこともなかった。
どうしてなのだろう。どうして穴の奥のことがわからないのだろう。考えて、わたしは黒穴の底を覗き込んでみようと意識を傾ける。わたしの中にある黒穴。きっと見つかると信じていた。目の前の画面では派手な爆発が断続的に生じている。誰かが大声で叫び声を上げている。紅茶は半分ほど飲んでしまっていた。結局黒穴の底はちっとも見通せなかった。
不思議なものだ。少し疲れたわたしは眼を閉じて深く息をついた。それからもう一度、不思議なものだと思い直す。わたしの中にあるはずの黒穴は、わたしではないどこかへとその穴をつなげているのである。その精神的構造上の不可思議さが奇妙だった。わたしはわたしとして今ここにいるはずなのに、そのわたしの中にわたしではないどこかへとつながる穴が開いている。わたしはわたしであるはずなのに、同時にわたしでない何か、あるいはどこかを内包している。受け皿としてわたしは、決してその穴の行く末を確認できず、ただただ呆然とすることしかできないのである。
すごいな。素直に感心した。わたしとわたしの中にあるわたしじゃない黒穴との間に生まれた関係性にひれ伏さんばかりに感心してしまった。不思議なことがあるものだ。三度そう思ってわたしは紅茶をすする。ずるずるずるずると。たいへん美味しく頂く。上手に淹れられたのだ。少なくなっていくのが惜しいくらいだった。空になってからも、寂しい気がして紅茶を吸い込み続けた。どんどんどんどん、吸い込み続けた。するとマグカップが、マグカップを持っていたわたしの手のひらがきゅーっと引き伸ばされて口の中に流れこんできた。音もなくわたしはわたしの身体を呑み込んでいく。するするするすると呑み下していく。右手を、肘を、肩を。喉は一度も嚥下していない。それでも勢い良くずずずと呑みこんで、右胸を下半身を、左脇腹を胃を肺腑を心臓を左腕を両耳を頭蓋を眦を鼻頭を、どんどんと口の中に含んでいく。
ついには口まできゅるるんと吸い込まれて、わたしはわたしの中にあった黒穴になる。黒穴がわたしで、わたしは黒穴の中にありながらまたその中に黒穴を抱いており、何度も何度も吸い込み吸い込まれていくことを繰り返している。
わたしという内実は空虚なのだ。
一際大きな爆発音と閃光がテレビから発せられた。はっとして我に返る。いつの間にかマグカップを手にしてぼんやりしてしまっていたようだった。
映画の中で助けだしたヒロインを主人公が抱きしめている。この先彼女は殺されるのだっけ。思ってぼんやり見ていたけれど、結局最後までヒロインは死ぬようなことはなく、悪役は倒されて幸せなエンディングを迎えることができた。
チープな物語。あんまり面白くなかった、と感想を抱きながら、淹れてから一度も口に付けなかった紅茶を飲もうとマグカップに手を伸ばした。
たとえば 空間(x,y,z)があったとして。
点(0,0,0)上で直径1の真円のマンホールの蓋Mが
点(0,1,0)上に1上げたとする。この時に真円のマンホールの蓋Mが点(0,0,0)の時と 同じ形をしていると保証されているのが地球というか、一般的な世界。
しかし、仮に 点(0,0,0)上と点(0,1,0)では、物体の形が変わると仮定してみると、真円のマンホールの蓋が必ずしも同じ形ではない。
よって、マンホールのふたを回転させると マンホールのふたの形が変わる可能性がある世界というものを仮定できる。そういった世界では、マンホールの蓋は円ではない可能性がある。
こういった空間はたとえば、点(0,100,0)上にブラックホールを置いたとする。
すると、マンホールのふたは上に持ち上げれば持ち上げるほどブラックホールの影響で小さくなる事が一般的な世界でも、想定可能であるので、突拍子も無いことは確かだがありえないということでもない。
よって、マンホールの蓋を円にすることで落下防止できるのは、空間座標に物の形が影響されない一般的な空間に歪のない世界でのみ有効であり。
そうでない世界では、蓋を回転させることにより、落下の可能性がある。
地球上はその落下しない条件に該当する。よって、
A.地球上では3次元空間の空間ひずみが0であるから。 = どの3次元空間上でも物が大きくなったり小さくなったりしないから
=ブラックホール近くでは物の形が変わる可能性があるが、それを考慮しなくて良いから
A. 1回で十分 2つの皿が付いた天秤という指定ではないので、8個の重さを個別に同時に量れるはかりを作ればよい。
という程度の回答を求められると思うが?
こういうのは知力や発想力よりも、社会階層とかどのような共同体に所属していたかを探る質問に近い。つまりふだんこういう会話をする人たちだ。
このような回答が受け入れられるだろうという共犯意識がなければ、このような回答はなかなかできるものではない。
A.地球上では3次元空間の空間ひずみが0であるから。 = どの3次元空間上でも物が大きくなったり小さくなったりしないから
これの意味が全然わからないんだが、もうちょっと詳しく書いてくれないか?
イコール記号の使い方もよくわからない。
Q.マンホールが丸いのはなぜか
Q.同じ大きさのボールが8つある。そのうち、7つは同じ重さで、残り1つはほかより少し重い。この中から重いボールをどう探す?使っていいのははかりのみ、ただし、2回しか使ってはいけない
A 落下防止
B 3個 3個の重さを比べ 重かった方を 1個1個で天秤に比べる 均等だった場合は 残った物を重いとする。
「なんでそういうことを聞くんですか?」
という発想にはならないと思うが?
A.地球上では3次元空間の空間ひずみが0であるから。 = どの3次元空間上でも物が大きくなったり小さくなったりしないから
=ブラックホール近くでは物の形が変わる可能性があるが、それを考慮しなくて良いから
A. 1回で十分 2つの皿が付いた天秤という指定ではないので、8個の重さを個別に同時に量れるはかりを作ればよい。
という程度の回答を求められると思うが?
私の知る範囲での事なので、全てには当てはまらないことを前もって言っておきたい。
というか愚痴だ。
理系、特に理学においては、「研究者になる」ということに、憧れを持つ人は少なくないと思う。
そして、一度はノーベル賞を取ってみたいと願い、
(行動はともかく)燃える時期があるのではないだろうか。
しかし、そんな気持ちはゆっくり熱せられ、急激に冷める。
おそらくピークは学士3・4年。研究と勉強の大きな違いにショックを受けるからだ。
そして、卒業研究が、彼らの望む研究とは遠くかけ離れたものになることも毎年のようにある。
彼らに全くやる気が無いわけではない。
1年で(正確には半年強だが)やれることなど、たかが知れている。
時間が不足しているのだ。
だから、担当教員は悩みながら、1年でできる程度の課題を彼らに与える。
不幸なのは、それに気づかず、
「大学ではたいしたことなど出来ない」と見切りをつけていく学生たちだ。
あるいは、エントリーシートの数百文字程度の内容には、なっただろうか?
(ここでの定義は、「最終学歴を大学院として、卒業大学より上位の大学に大学院生として所属すること。
その行為によって学歴はよくなるはずなのだが、己の学歴に対するコンプレックスを逆説的に強めてしまうこと。)
ただ、ネット上や、彼らの中でもコンプレックスの強い人物の心のなかには、はびこっていることだろう。
しかしながら、有名大学の大学院に進学することは悪いことではない。
現実的に、いわゆる上の大学になるほど、科研費その他もろもろにおいて、
資金は潤沢な研究室が多い。
良い研究をするには、良い環境の中でという考えもあるのだから。
問題はその一歩先にある。
大学院に進学したということは、「閉鎖性」に身を置くと同義である。
例えば、
・研究自体が一人=独りで行う
・取り組んでいること自体に特許や機密性を持ちうる
もちろん、例外は沢山ある。持ちつ持たれつで、他の研究室と交流する研究室もある。
これは私の強い主観だが、大学院生が学部生より無気力に感じる時がある。
彼らがモラトリアムを満喫しているのではなく、「閉鎖性」に慣らされてしまったのではないかと、
心配してしまう。
(本来は学部3年で考えておくべき事だが)
博士になるべきか否か?
ここで就職を選んだ人は幸せ者…と言われる(私はこの考えに賛同できない)
理由は明白である。
・学費をさらに3年以上も払いながら研究する金銭的問題。
・視野が狭くなる
あなたは他にも理由を挙げることができる。
いろいろな問題点があるが、ひとまず「閉鎖性」に焦点を絞りたい。
多く言われるのは、「論理的に物事を話せる(ロジカル・シンキング)」だ。
企業にとっては、その研究内容よりも、学部で学んだ専攻が重要だろう。
すると、「どのような閉鎖性を含んだ環境に身をおいたか」が重要になってくる。
・一つの物事に没頭できる環境がある
・日常生活の自由度という点においては、修士が最も高い。学部生には単位の問題、博士には博士号の問題がある。
・時間は研究に削られるかもしれないが、タイムマネージメントをすることにより、効率的に行動を起こせるようになってくる。
・学会発表等の機会が増え、「自分の考えを分かりやすく説明する(コミュ二ケーション能力)」
(社会人には負けるだろうが)
人間関係は学会・バイト・趣味・留学・お隣りの研究室で補うこともできるんだよ。
私はやる気のない受動的な人間ほど、閉鎖性のデメリットをもろに受けてしまうと考えている。
私の立場は、有機化学系の研究に携わり、仕事上ある研究室をちょくちょく訪問する研究員としておこう。
彼らの多くは就職先が決まっているあるいは、博士へ進むことが決まっている。
けれども、以下の状況からは、その能力を疑わざるを得ない。
・彼らは集団で、気に入らない博士後期の学生をいじめ、うつ病に追い込んだ。いじめられた学生は、病気を患ったまま研究室を去った。
彼の将来の生活は本当に闇。
ボディタッチはさすがにないが、下ネタを一日10回以上、同じ研究室の女性へ敢えて聞こえる言う。
担当教員は、セクハラに関して「男が多い世界だから仕方がない」とのこと。
・彼らは集団故に、上記の罪悪感は無い。
・研究に積極的に取り組んでいるのは少数。あとは担当教員の言いなり。
まぁ、言われたことはやれるんです。
だから、発表できる程度の結果は残し、大学院生としての最低限はクリアしている。
・気に入らない人間を探し、悪口とその人の不幸をいうのが日常の楽しみ
人間関係が研究室で完結すると、周りが気にならなくなるからね。
残念ながら、彼らはロジカル・シンキングのできる幼児に「成長」してしまったのではないかなぁ。
彼らは大学院生にならない方が良かったのでは?
学部生の時の方が実はピュアだったりして。
研究室が悪いのか?その担当教員の管理能力が悪いのか?彼らが悪いのか?
私はそういう原因を探る問いが有効な手段ではないと考えている。
出来れば、研究室の自然消滅かなぁ…。そうすると、私の食いぶちがなくなるので困るが。
彼らの人生はこれからも長い。他人を平気で潰していくのかな?
そして大事なモノを閉鎖性のブラックホールに吸い込まれてしまったのだろう。
移動するのはいいよ。本当は移動してないんだけど。各点はそのままなんだけどね。「ビニールシート」の理解がこの問題で一番ダメな理解の仕方なのさ。
どうせ例えるなら風船にしなさい。
で、ビニールシートにある点(太陽系ならそれでもいいけど)は、ビニールシートが拡大すると「外」の方角へ向かって動くわな。これダメな理解。
では、風船に点を打ったとする。そして風船をぷーーっとふくらます。さあ、点は「外」へ移動しましたか? その場所にい続けてるだけでしょ? そもそも球面における「外」はどこにあるのか。
この球面(ここからは風船じゃなく球面と呼ぶ)に、では2点、打ってみましょう。そして球面が膨張するとする。2点間はどんどん離れていくよね。でも2点は静止したままだ。
ここで球面の理解を「ゆがんだ平面(2次元)空間」と思おう。この面以外に世界はないと。こういうゆがんだ2次元のモデルは他にもたくさん考えられている。それぞれ「○○幾何学」というジャンルになるんだけど、我々がイメージする平面は「ユークリッド幾何学」に過ぎなくい。例えばユークリッド幾何学の公理としては「平行な2線は、どんなに延長してもぶつからない」とある。まあそういうものとして舞台となる平面座標を構築したわけだけど。ところが球面ではそうじゃないわけだ。地球の表面も球面だから、例えば君と僕がまったく並行に同じ速度で北に向かって走り出したとする。そうすると必ず北極でぶつかるんだ。球面はユークリッド幾何学の範囲外だからね。
現在、宇宙はこの「球面」が3次元になったものだと考えられている。だから「外側」という概念がないんだ。宇宙には中心はない、だから「外側」もない。
どうしてそう考えられているのか。
これにはいくつもの理由があるんだけど、分かりやすいものを一つあげると、「地球から観測できるほとんど星は、距離に比例した速度で遠ざかっている」というのがある。
普通に考えてこれおかしいよね。だって宇宙にどこか中心があって、そこを中心に膨張しているなら、地球から見て中心側にある星、外側にある星、地球と多少角度は違うが併走している横に見える星、すべて観測できる速度が違うはずなんだ。ところが実際はどの方角の星も地球からの距離にほぼ完全に比例した速度で遠ざかっている。
ここから考えられることは二つ。一つは地球が全宇宙の中心にあり、かつて地球のあった点でなにか大爆発があり、そこから飛び出た星が今も広がり続けている。ユークリッド幾何学的に考えたらこれしかないんだ。でも、これがありえると思うかい?
そこでもう一つ考えられることが先ほどの「球面」を3次元にしたモデルなんだ。球面のどこかに点を打って、そこを地球だと考える。そして他の点もバシバシうつ。そんで球面がバーっと広がると、あら不思議、地球から見て全ての星が距離に比例した速度で遠ざかっていく!
「空間が膨張」ということの正体はこれなんだ。だから宇宙には中心はない。中心がないから外がない。
ではなぜ、銀河がぶつかるか、という話。それは空間が膨張してるのに君と僕の距離がなぜ広がらないか、ということと関係している。答えは簡単。膨張する力より強い力で引き合ってるから。引き合う力はいくらでもある。分子同士の結合とか電気とか磁気とか重力とか。そんなこんなで引き合ってるから君と僕は離れないし地球も同じ大きさのままだし太陽系は同じ感覚でぐるぐるだし、銀河もぐるぐるなんだ。だから膨張する空間に流されずにくっついたまま独自のルートでうろうろ、そうしてるあいだにはお互いの重力でひきあって銀河同士が衝突なんてこともあるのさ。というか基本的に銀河同士はいつも重力で引き合ってて、その集まりで「超銀河団」てのを作ってる。超銀河団に集まっちゃうからそれ以外の空間てほんとうになんもないんだぜ。
で、「外」の話。外がないというけど、ちょっと考えを変えるとあるかもしれないという。それは「重力」の先にあるものなんだ。重力って何?ていうと、今ではこう考えられている。ゴム膜をピーンと張ったとして、そこに大きいビー玉を一個置く。するとビー玉の重みでゴムがゆがみ、その周りに小さいビー玉を置いても、最初に置いた大きいビー玉の方に転がっていってしまう。ゴムの膜しかない世界は2次元だけど、これの3次元バージョンが重力だと考えられている。
ではこれにものすごく重くて、だけどすごく小さいビー玉を置いたらどうなるか。膜が破けるかもしれないよね。そしてその瞬間そのビー玉の周囲にあったものは全部穴に吸い込まれていっちゃうよね。これの3次元バージョンがブラックホールで、その先に膜以外の世界=「宇宙の外」があると考えられている。
本人にも告げられず、mixiにも個人的すぎて書けないのでここに投下。
今日、K子からメールが来た。無題のメールで、本文は「辞めた!」
昨日、彼女から会社を辞める決意をしたことは聞いていたが、ついに辞表を出したらしい。
前々から、彼女の会社のブラックっぷりは聞いていたので、特に驚くところは何もないのだが、彼女のことを考えると実に複雑な気分になる。
僕とK子は、去年の暮れに知り合った。友人が、K子を待ち合わせしていた飲み屋に連れてきたのだ。
僕はその当時、仕事が辛くて毎日登山用のザイルで首を吊ることしか考えられなかったぐらいひどい心理状態で、その気晴らしに友人を誘ったのだが、
むかしから女っ気のない友人が何の連絡もなく女を連れてきたことで、僕は椅子から転げ落ちそうなぐらいびっくりした。
その飲み屋は僕の当時住んでいた家から徒歩で行ける距離のダイニングバーで、話を聞いてみると、K子の家もそこからすぐだった。
話を聞いてみると、K子は友人が前から話していた「好きな同僚」だった。友人とは大学の頃からの腐れ縁だったのだが、働きだして暫くすると
「同僚に同じ歳の女の子が入ってきた。彼女は日曜に教会とか行ったり、日本文学好きだったり、超童貞向きの子なんだ。最高」というような意味合いのことを言っていた。
僕は、友人からそんな話を聞く日が来るとは思わなかったので、驚くと同時に喜んだ。良いじゃない、君もそろそろいい年だし。ユー付き合っちゃいなよ。
あわよくば結婚しちゃいなよ。等々。
しかし、その後暫く経ってからその同僚のことを聞くと、同僚には振られたらしい。詳しい話を聞くと、なんとなく納得いかない点がいくつか
あって、僕は怒った。なんて女だ!友人を振るなんて、男を見る目がない女!なんかその同僚お高く止まってるんじゃないの?何様?どこ視点?ねえ彼女はどこ視点から
見てるの?許せないね!等々。
それと関係あるかないか、友人はいつしか会社を辞めたいと言うようになった。僕が鬱の階段を転がり落ちると同時期に、彼の転職話も進んでいったのだった。
そんな時に彼が連れてきたのがK子だった。その時点では、友人の転職話は既に決定していて、退職日も決まっていた。友人は、送別会の帰りに僕と飲む予定で、
それにK子を連れてきたのだ。
僕は、鬱と自己嫌悪の暗闇のなかで暗黒舞踏を踊っていたので、最初に周りの客が引くぐらい驚いたあとは、酔いにまかせてK子を無視して好きなことを喋っていた。
そもそも、僕は友人の話を聞いて、K子に対して良いイメージを持ってなかったのだ。どうせ一度会ってもう二度と会わないんだからどうでもいいや、と思い、
カンボジアのトゥールスレーン収容所の話や、ウクライナの女性首相の話や、LHCの話などをしていた。しかし、友人でさえ興味なさそうな話にK子は意外にも食いついて
きた。
早い話、話が合ったのだ。
それから年が明けて、僕も会社に辞表を出した。もう何もかも限界だったのだ。「可能な限りはやく退職させてください」と、僕は言った。「引き継ぎが必要な業務はありません」
そして、それから少し経って、連絡先を交換してないはずのK子からメールが来た。早い話が、「引っ越す前に飲みに行きませんか?」だった。うっぷす、なんというビッチ。
友人から連絡先を聞いたらしい。そして、退職してオープンマインドになっていた僕は、それにホイホイ付いて行った。正直な話、友人には悪いが僕もK子には興味があった。
そのようにして、僕とK子の友人づきあいが始まった。読んでる方にはおわかりのように、あまり良い子ではない。プライドは異常に高いし、打算的だし、ワガママだ。
僕と一緒に飲みに行くと、友人が彼女に対して持っていたイメージは、すべて彼女の作り物だということがすぐに判明した。そもそも、彼女が友人の会社に中途で入ってきたのは
前職での不倫が原因だったのだ。例のバーで、強いカクテルをごくごく飲み干した彼女は僕の手を握りながら言った。(そもそも友人は、彼女が酒を飲めないと言っていたのだ!)
「**君はどう思う?(不倫で前職の同僚が離婚したことについて)私に原因があると思う?ブラックホールに飲み込まれるべきだと思う?わたし」
僕は、その問いに対して声を大にしてイエス!と答えたかった。ブラックホールどころか、お前は超新星爆発を起こすべきだと思っていた。
「いや、僕はそうは思わないよ。そういうことは誰にでも起こりえるんだよ、しょうがない。人生一度なんだからね」
だが、話を聞いてみると、教会に通っているのも、日本文学が好きなのも本当だった。ただ、教会に行くのは、自分の(不倫して相手の家族を滅茶苦茶にしたことに対しての)
罪を償いたくて行ってるらしい。なんて自己愛の強い女!
その後すぐに僕は、東京の家を引き払って、地元の神奈川に帰った。そうなっても、なぜかK子との親交は続いていた。東京で会ったときは、明らかに色目を使ってきたK子も、
僕の地元で会ったときには頭のスイッチが切り替わったようにドライな態度を見せた。
「**君とは友達でいたいよ」とか急に言い出した。茅ヶ崎の海岸をふたりで犬の散歩しているときのことだった。「**君もそう思うでしょ?」
そんな自己中心的なK子の態度に、僕はそれから何度も怒って、そして何度も喧嘩した。僕をこれほど怒らせるのは彼女だけだ。僕の地元に来た彼女に対して、僕は他の女の名前と
呼び間違えるということをやってのけた。プライドを燃料として生きる彼女に対して、7回も呼び間違えた。たぶん、K子のプライドをこれほど傷つけた男も僕だけだろう。
そんなK子が仕事を辞めて実家に帰るらしい。今後は、看護婦の資格を取って鎌倉で暮らすのを目標とするとか。
とても長くなってしまったチラ裏だけど、僕はそんな彼女をとても愛している。この悪文を書きながら、彼女の苦悩や、浅はかさや、腹立たしいところを思い出しながら、やっぱり
どんな形でさえも、やはり幸せになって欲しいと願っている。K子の感性や、ユーモア感覚や、癇癪をやっぱり愛している。
それが、伝わればいいのだが、きっと彼女には理解できないだろう。