はてなキーワード: タイムラインとは
3年も前のツイートが今頃RTされておれのタイムラインに表示された。内容はこうだ。
おいスーパーの短冊で「彦星爆発しろ!」って書いた奴。マジレスすると17光年程度しか離れてない彦星ことアルタイルが何を間違ったか「よーしいっちょ超新星爆発してみっか」と要らんやる気出したら半径5光年は即死、50光年先まで壊滅だ。宇宙なめんなよ、お前の願いで近所のスーパーがノヴァい。
おもしろい。でもちょっと待てよ5光年は即死っておかしいだろ。超新星爆発は光速を超えるとでもいうのか。いや、ニュートリノは超えるかもしれないが、即死は言いすぎだ。
これをリツイートしてる連中はそういうの気にならないのかな。
気がつけばお前は死んだほうがいい、俺は死にたいということばかり考えている。
交差点を見ると轢いてくれないかなと思うし、階段を見ると滑って頭を打たないかなと空想する。でも最近は線路を見ても吸い込まれそうにはならなくなった。進歩かもしれない。
人と喋っていても(俺は会話できないから一方的に話される)ほとんど頭に入ってこない。言語能力の問題以前にコミュニケーションする気力が無い。人の話にそんなに興味が無いのが原因である気がする。俺は自分が最低なゴミだと認識しており口を開くと良くない言葉を発してしまうのでなるべく口を閉じるようにしている。能動的に発話する機会があるとあとで非常に後悔してもう二度と話さないぞという気分になる。
自称友達のいない人間や自称コミュニケーション障害の人間がツイッターの俺のタイムラインで仲良く会話している。非常にエモい気分になる。俺のツイッターは自分でもなんだかよく分からない独り言をつらつらと書いているだけなので読んでも気持ち悪くなる作用しかない。
いつから死にたいと考えていたか、遡ると小学校の頃からだったような気がする。その頃から俺はどうしようもないクズで人間の底辺だと日々自分に言い聞かせていたような気がする。楽しかったはずの記憶は直近のも含めて大体忘れてしまったり、俺が体験したのだという感触を失ってしまった。
大学に入学した直後、本当に死にたくなってさすがに不味いと思って適当な施設に駆け込んだ。尋問によって強迫性神経症?と診断されて薬を渡されて飲んでいた。飲んでいる間は確かに死にたい気分は失せていた。その代わりに何も考えていない自分が残った。半年程で通院を辞めた。死にたさは薬を飲み始めた前後で別の質感を持つようになった。薬は余っているけど今は飲んでいない。蓋しあそこは俺みたいな中途半端な人間が行ってはならない場所なのだろう。医者も快方に向かっていると言っていた。良いことだと思う。たまにDMが来て電話しろと言われるが電話が怖いのでしていない。
趣味はあったけど興味がだんだんなくなってきた。中学生や高校生の頃はプログラミングに傾倒してゴミみたいな能力しかないのに承認を貰うなどしていた。音楽とかも好きだった。今も気が向いたときに続けてはいるけど最近は何が楽しいんだか分からなくなってきた。技量もそんなに伸びなかった。新しく何かを始めてももう何にも熱中できないんだろうなと考えると絶望的な気分になる。これからの人生で楽しいことや運命的な出会いをすべて素通りして生きていくのだと思うとどうしようもなさしか感じない。
死ぬ方法はおおよそ考えている。どっかのYouTubeの自殺阻止を喧伝する動画で、コンセントに電線を指して胸に当てて死んだというのが大変参考になった。今は死にたさのラインが苦痛のラインを超えてないから当分は死なないだろう。でも将来も何も考えていないので早いうちに死んだほうがいいと思う。
本当はもっと書く予定だったけど書いたら安定してきた。プレビューを押すと全然行数が無いので驚いた。俺は普段から何も考えていないんだなと思った。
タンブラーに書こうかと思ったんだけどやめたことがあって、コミュニケーションに関することだからそれはどうでもよくなっちゃったんだけど、ここでタンブラーじゃなくて匿名ダイアリーに書こうと思ったことに興味関心が移った。
フォロワーって初期ツイッターのころの、RSSリーダーの大量フィード購読者みたいのとは別になっちゃったなぁという。
フォロワーとなんとない空気感の中で気のせいかもしれない相互的な人間関係というものが醸成されている。あ、タンブラーはいまでも初期ツイッタ的なのかな。俺の使い方が身近な人+αしかフォローしてないから、タイムラインからそういう感じを幻想的に受け取っているだけかもしれない。
まぁなんだ、俺のフォロワー話を聞けよ。二分で済ませるから。キーボード打つ方は10分くらいかけてんだぜ。さっき新星堂で買ってきた木村カエラのベストでいうと3曲分くらいかな。Sun showerいい曲だよな。ホレ、これだよ。 http://www.youtube.com/watch?v=lIt1k9TwtTg
Instagramなんかもまぁ俺は個人的な人間関係において使っており、Twitterはアカウントによるんだがまぁ大抵飲んだことあるか飲みたいねぇなんて話してたりそうでもない方々をフォローしフォローされておるわけだが、はて何の話だっけ。
自分のタイムラインを信じる、という感覚を抱く人は居ると思うんですよ。全く何を言っているのかわからないというひともいるとおもう。たとえば1000フォローしていたらこんな感覚はないだろうし、人付き合い重視でクソツマンネことしか書かないひともフォロー外さないとか、そういう人もこの感覚はないとおもう。
そんでその上で他人の、というかフォロワー氏のタイムラインが彼を裏切らないよう、自分がタイムラインの一部として踏み外さない。いつものみんなの範疇にとどまる。いきなり文科系コミュニケーション論とかタイムラインに流入させない。少なくとも自分はそう心がけようか、みたいな。
ていうかね、パーソナルブランディングなんですよ。セルフブランディングと違うよ。ああこれ両方多義語だ。ダミだ。つまり自分で自分を操縦するための規定をおくということ。その並走として自分のタイムラインを信じられるような情報流入のコントロールをしたり、他人に流す情報の属性や質を加減したりチャンネルを切り替えるということ。
こんだけ情報発信のチャンネルを切り替えやすい世の中もないですよ。マツコデラックスだって媒体によってモードを切り替えているというし、だからみんなたまにはmixi日記書こうぜ!
まず、前提として。この日記を書こうと思った理由は2つある。
ひとつは単純に自分の気持ちを吐きだしたかったから。2つ目は、「なぜ死にたいという思考までたどり着いたのか」を書くことで、自殺についてのケーススタディの役立つかもしれない、という思いがあったからだ。まぁこんな匿名の日記を誰が読むか、とか、好き好んでスタディするのか、みたいな思いは勿論あるが。
あと、書き手について。自分は大学4年生だ。大学は私立で、専門性も学費もかなり高い。入学時から東京の外れで一人暮らしをしながら通っている。就職活動中で、無い内定。
「死にたい」という気持ちは、複合的な理由から生まれるようだ。
【就職活動が上手くいかないこと】
正直なところ、自分の就職先は才能がものをいう世界のため、実力が無いと就職をするのが厳しい。勿論専門とは関係のないところに行っても良いのだが、どうにも夢を諦められない。しかし、才能が無い。ひとつの手段として、一般的な職に就き、専門のことは趣味に抑えることも考えた。しかし、そもそも職に就けないのだからどうしようもない。
自分は、大学生である今が一番幸せだと思っている。したいことができて、時間をゆっくりと使うことができる。しかし就職すると、自分の時間はぐっと減ってしまうだろう。さらにもし、仕事にきちんとした意味を見いだせなかったとしたら。それは長い苦しみの末死ぬのと同じではないのだろうか。だったら今、楽しいと思える段階で死ぬ方がよほど合理的ではないだろうか。
【やる気がでないこと】
自分は努力厨だ。努力すれば大体の物事は叶うし、努力出来ないのは自分がたるんでいるからだと考えていた。しかし今、その気持ちが首を絞めている。やる気が出ないから自分を責める、しかしやる気が出るまでやってみるも、うまくいかない。そしてまたやる気が無いからと自分を責める。責めてばかりなのでやる気も潰える。結果は出ない。そもそも褒められるようなことをしていないので、自己嫌悪のスパイラルに陥るのだ。
【その他諸々】
たとえば、臼蓋形成不全という病を患っていること。大掛かりな手術をしない場合、早くて10年年後、痛みで足が動かせなくなるらしい。あとは、数百万の奨学金という名の借金を背負っていること。中学のとき一度自殺を図った(方法はとても死ねるようなものではないお粗末なものだったが)ことによる人生の延長戦感。今まであまり必要とされてきたことがないこと。何をやっても感動しなくなったこと。ネット依存がひどいこと。今日は新学期の授業があったのに寝坊で出なかったこと。などなど。
自分の場合は全体を通して「理想と違う自分への嫌悪」が気持ちとして大きいが、やはりちいさなきっかけが積み重なってこうなってしまうのだろう。
○最終的な決め手
最終的な決め手は、自分でも笑ってしまうが「Twitterの退会」だった。
【依存による退会を決意】
自分のアカウントは、現実の知人とは一切繋がりを持たず、漫画やゲームの趣味でつながるものだった。アニメ化の話でリプライを飛ばしあったり、ちょっとした日々のことをツイートしたり。しかし、最近どうにも依存が過ぎた。リプライが来ないことにそわそわし、つねにタイムラインを監視しつづける日々。ひょっとしたらやる気がでないのは断続的にTwitterをやるせいでは無いのだろうかと思った自分は、思い切ってアカウントを消すことにした。アカウント連携を外し、理由は述べずに明日で退会する旨のツイートをする。これにはとても勇気がいった。(余談だが、同時に今まで積み上げてきたものをぶち壊す高揚感もあった)
【アカウント削除という擬似的な死】
Twitterを止めることは、つまり「ネット」社会的に死んだことに他ならない。「ソーシャル自殺」と言っても良いだろう。ネット世代の馬鹿な考えに思えるかもしれないが、直接的な繋がりのないソーシャルネットワークでは、消えたアカウントとは(新しくアカウントを作らない限り)永遠に会えなくなる。そしてこの擬似的な死を体験することが、死にたいという気持ちをはっきりと持つ決め手となった。漠然とした感情であった自殺を、バーチャル的にでも体験してしまい具体化することで、形を持ってしまったのだ。
自分も例に漏れず、孤独だ。孤独は嫌いじゃないし上手く付き合ってるつもりだが、「死にたい」という気持ちを加速させる力を持っている。
【何でも話せる友人がいない】
自分は昔から誰ともペアになれなかった。「AとBっていつも一緒にいるね」と思われたことは一度も無かった。そもそも、固定のグループにいることがなく、クラスのグループの3,4つを転々としていた。だからグループ全体での遊びに誘われることはほぼなかった。そういうわけで、周りに人がいるのに大して仲のいい人はおらず、ましてや「死にたい」などと言おうものなら中二病かと一笑に付されること請け合いだった。(そう思ってしまうくらい、プライドが高いということも理由のひとつだろうが…)
【親にも話せない】
バイトもしておらず、サークルも似たような有様だったので、自分は一人暮らしを始めてからずっと親にだけ相談をしてきた。しかし、「死にたい」という気持ちは親にも言えなかった。勿論生んでくれたから申し訳ない、という気持ちからでもあったが、それよりもっと大きな理由があった。まず、父はこのご時世珍しくはないが、心の病気を患っていた。母はそんな父の言動から「人生の希望」を失ってしまった。今の母は、ネットゲームを生き甲斐にしている。そんな彼らに「死にたい」とは言えまい。
というか先日、実際に「辛い」ということを電話で母に相談したのだが、「そんなこと言われても」「そうは言ってもやるしかないでしょ」「アンタは頑張ってるよ」と、返答した。
その間ずっと、受話器越しにキーボードを叩く音が聞こえていた。
そういうわけで、「死にたい」ということを話せる人間がいなかった。カウンセリングも対して役に立たなかったし、心療内科には毎週薬を渡されるだけで終わった。一番心が軽くなったのは横浜中華街の占い師だったなんて、いっそ笑えてすらくる。
ともかく、きっかけを与えられた「死にたい気持ち」は、孤独によってより膨らんでしまうということだ。
○で、自殺するの?
ここまで書いておいてなんだが、おそらくすぐに自殺することは無いだろう。勿論今も死にたいという気持ちはかわらない。未来に希望も持てないし、内定も無いし、やる気もでないし、自己嫌悪もひどい。しかし吐露したことによって気持ちの整理がついたし、少しすっきりもした。それについさっき思い出した、母に言われた一言が、自分の自殺をかろうじて止めてくれている。
「旦那が心の病気になったのは、自分の責任でもある。もしアンタもそういう病気になったら、私はもっと自己嫌悪が酷くなる」
だから自分は心の病気にもなれないし、自殺もできない。もう死ぬしか助かる道はないと分かっているけれど、両親の死や自我崩壊など、更に大きな決め手ができるまで、自分は「死にたい」という気持ちを心に持ちながら、生きていくしか無いようだ。
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http://anond.hatelabo.jp/touch/20140321060847
フェイスブックのタイムラインに出てきて、みんながみんな「なんでこんなことを言うんだろう」「悲しくなった」「不快だ」と言っている。
だけど、私はそんな風に思えなかった。
この記事のどこがそんなに異常なのかと不思議になったくらいだった。
就職活動をしていると、ある程度の常識を求められるというか、「おかしくない奴」であることが必要なんじゃないかという思いに駆られる。
そして、自分はそういう常識が人より欠けているのではないかとも思っている(正確には、去年の6月から始めた就職活動を通して思い知らされた。)。
大多数の人と違う感覚を持っているのではないか、この記事を読んでまたそんな風に思わされてしまった。
私はこの記事の執筆者が批判されるような内容を書いているとは思えない。
社員が就活生に会うのはコストだと思うし、就活生から学ぶことは何一つないっていうのも本人がそう思うのならそうであって、そこに他人がとやかく言うのは違うと思う。
考えてみれば、就活生に会って社会人が得るものとはなんなんだろう?
人事部の人なら面接をするスキルを磨くうえでプラスになると思うけれど、それ以外の人はどうだろうか?
学生の話を聞いて勉強になった、と言う社会人に会ったことは何回もある。けど、具体的に何が勉強になったのかはわからなかった。
その人の個性に触れて、知見が広くなることがプラスなのだろうか。
日本の社会人はほとんどが「元大学生」だと思うし、大学生と話す機会なんて掃いて捨てるほどあったはず。
ただ、社外の人と話すのと、社内の人と話すのと、学生の人と話すのでは会話の内容に大きく違いが出るだろうし、
面接ではその人の内面に迫るようなことを聞くのが普通なので、面接を通じて他人の価値観に触れる、と言う意味では学ぶことがあるというのも頷ける。
しかし、それとてどれほどのことであろうか。
今後何年たっても忘れらないような人物に会うことなんて、一年に一度あるかないかぐらいではないだろうか。
仮に、出会った学生すべてに関してメモを取り、保存しておいて、度々見返すようなことがあったとしても、それがいったい何の役に立つのか?
人生の経験としてカウントされるに過ぎないのではないだろうか。それかその学生と再び会った時に好印象を与えらえるぐらいか。
そんなこと、企業で働く社会人に必要だろうか。その経験を大切にするくらい社会人生活には刺激がないのだろうか。
「些細なことでも勉強になる」「刺激になる」ということを大切にするのはよいと思うけれど、それがどれほどのインパクトを持つのかという観点を私は大切にすべきだと思う。
正確には、何かのきっかけですぐ思い出す事件。
2010年に起きた大阪の3歳と1歳の子供が、母親に自宅に閉じ込められ餓死した事件。
あまりにも衝撃的で、詳細を知る度どんどん気持ちが沈んでいった。
私は今10ヶ月の息子を育てている。
妊娠中に散々インターネットで検索し、ある程度覚悟をしたつもりで臨んだが
何もかも初めての出来事、目を離したらすぐに命が散ってしまいそうな存在を四六時中見ているというのは
「でも愛する息子の為に頑張れるよね」みたいな綺麗事で済まされないような精神状態に陥ることもある。
慢性的な睡眠不足や行動範囲もかなり拘束されるので息子というより自分との戦いでもあった。
なので、この母親の「育児を投げ出したくなる気持ち」はわからないでもない。
しかしあくまで「投げ出したくなる」であり、完全放棄したこの母親は許せない。
許せないというより憎んでいる。実際に見たことも話したこともないけど憎い。ただひたすら憎悪がわく。
お母さんが全てと言っても過言ではない年頃の子供を、餓死という拷問のような殺し方をしたこの母親が憎い。
私という存在は「母が私を産み、育児してくれた」という結果だ。
特に仲の良い家族というわけではなかった。それなりに荒れてた時期もあるが両親には感謝している。
子供が大嫌いな人がいたとして、それは共感はできないが理解はできる。
そういった人はそもそも子供を持つ選択をしないだろうし対策はするだろう。
彼女は2度も産んでいる。計画的なのか、できちゃったのか知らないが。
子供ができたときも、かわいいペットにかわいい洋服を着せて写真をとるような感覚で産んだのかもしれない(全てのできちゃった婚がそうだと言いたいわけではない)
たしかに憎くて殺したくて、ドアに目張りをして閉じ込めたんじゃないと思う。
巨大なゴミ箱を作り、そこに捨てて見えなくして「なくなった」つもりでいた。
1日、いや1食でも食事を抜いたらつらいなんてわかるはずだ。
夏に差し掛かった季節に換気もせず閉じこめたらどんなに苦しいかなんてわかるはずだ。
どんなにひどい事をされても、まだ小さな世界にすむ子供は親の愛情を信じたいんだよ。
一度は来てくれたお母さんの迎えを、小さな姉弟はまた期待しながら、ゆっくりと死に向かっていった。
自身が虐待されて育った、だから彼女も被害者だなんていうがそれは違う。
ゴミの中で排泄物にまみれ、暑さから逃れるために裸になる経験なんかしなかったはずだ。
ひたすら悲しい。この子たちは守ってくれる存在が誰一人いなかったという事実が。
こんなのは氷山の一角で、この事件と似たようなケースもゴロゴロしてるんだと思う。
どうやら書籍化や映画化もされてるみたいだが、別に見たいとも思わない。
この事件をはじめに聞いた時は、妊娠も、結婚すらしてなかったが、本当に強く強く心に残った。
旦那にこの事件を簡単に説明したが、普段は非常に気が強くてタフな旦那が涙ぐむのを初めて見てしまったので何も詳しい事は話せず。
むごい事件の感想を楽しげな出来事がタイムラインに踊っていたTwitterに書くのも気が引けたので、増田を利用させてもらった。
なんでもかんでもすぐに共有したがるのはわかるけど、いろいろ人に伝える事はあるにせよ、その方法とか時期とかってもんがあるんだよ。
〜が天国に行きました、とかいうタイトル付けて、本文はありがとうとかそんなん。
当然わかりますよ、気持ちは。ただ、それを、みんなが適当な落書き帳にしてるSNS上にふわっとのせる神経が知れない。
そんな大事なニュースを自分だったらBOKETEのふざけた画像とか、わけわかんない動画やニュースのリンクのポストがあふれるSNSのタイムライン上に混ぜたいとは思わない。
SNSは基本的には中身のない、表面の感情や、表面的な裏の取れていないニュースのうわさなどが羅列されていて、それを話半分に斜め読みしながら楽しむ所なので、早い話、本当のことなんてまず流れてこない。
そこに、本当の悲しみを伴うニュースをのせるなんて無神経すぎる。
同時に読む人がどう思うかとかも全く考えてないんだろうなと。
今日もフレンドの最近の様子や、適当なニュースを軽い気持ちで斜め読みしようと思ってタイムラインを開いてる人々に本当の悲報を流すんじゃないっていうの。
Facebookをかれこれ5年ほど使ってる
登録したころは誰も周りに使ってる人がいなくて退屈だったけど
2年ほどまえから周りが使うようになってタイムラインにけっこう書き込みが出るようになった。
そこから2年位は楽しく「いいね」とかコメントとかやってたけど去年あたりから人の書き込みみるのがウザくなった
うざい書き込みはこういうのだ
とか
みたいなの
めちゃうざい。
おれもそういう気分の日はあるけど、これみよがしにこういうの投稿するなって思う。
こっちが滅入ってるときにそういうの流れてくると気分わりーよ。
いいもん食ってそれの写真とか上げてるのは普通にいいなーと思っていいねポチするけど
なんかオレ仕事頑張ってるぜー的な自営業者、特に零細企業の代表とかに多いけど
マジうざい。
まあ、自分で起業とかしてる分、普段から生きるモチベーション高いんだろうけど
周りの人はあんたらみたいにモチベーション高く生きれてないタイミングだってある。
とりあえず、これからも仕事のメッセとかやりとりでFB使うだろうから
うざい書き込みだけフィルタリング出来る機能つけてくれFacebook
たのむわw
同じように思ってる人めちゃ多いと思うよ
まあ、新着なんて3つもくれば載るわけだし、
はてなブログで書いてて、適当に人に読者登録なりして相手からバックもらって、
後ツイッターとかで適当にスパムフォロー繰り返してればそれなりにタイムラインとかに入って行くことを増やせるから、
その中で一言言いたくなるようなクズみたいな記事書いておけば簡単に載るでしょう。
最近のブクマ見てるとなんか信者?なのか本人の別アカなのか知らんけど、同じ様な人が最初にブクマしてるけどね。
本人が3番目とか新着入り狙って狙ってセルクマしてるから、おそらく自演ではなくて、ホントに馬鹿がブクマしてるんだろうけど。
※ブログがへんなのにハッキングされてこわれてしまったので場所借ります。
本当に素晴らしかった。
生とよみがえり
すべてをぶちこわしにしたくなったり
もう楽しすぎて何もおぼえていなかったり
そういうすべてが過ぎていくあっというまの一生
たった三時間でそのすべてがわーっとあらわれる。
ツイッターでもだいたい「良かった」と言ってた。
やっぱよかったんだなあと思った。
地井さんの代役を三宅裕司さんがやってるとか
おおかみこどもに似てたとか(どこがだ)
そういうのもタイムラインにけっこうあった。
いままでだったらそういう書きこみを見て
なんか映画の外に出たがってるなあとか思い
ちょうど父親くらいの年齢の人たちが
書いてるの見てしまいすごく嫌だった。
ものすごく残念でなんだこいつらとか思った。
でも「かぐや姫の物語」はそうならなかった。
いろんな人が今もなおいろんな状況にあって
その中で「かぐや姫」を見たんだなと思えた。
捨丸にいちゃんという重要な登場人物がいて
「だからなんだ!」の力強さが本当にすごくて
結果どうなるってのが分かっていたとしても
将来がどうだってかまわない、一番好きな今を
必死で握りしめて生きろ!というのがわーっと
最後まで伝わってきて今も書いてて涙が出て
しまうくらいすごかった。ほんとよかった。
絶対友だちになれない人とかいると思うけど
でも全員がかぐや姫のようにわーっと輝いて
「だからなんだ!」の力にひっぱりあげられ
月になんて帰りたくないと泣きまくってでも
生きることにしがみついたらいいと思った。
1つ1つはぐちゃぐちゃ汚いかもしれないけど
それぞれ命をばーっと燃やして死んでいく
一生って本当にきれいだなあと思った。
と思っていたこともあったけど
のかもしれないなあと思えた。
高畑さんは本当の遺作になるかもなあと思った。
かっこよすぎてずるいなあと思った。
今度お手紙でも書こうかな。
いい映画を本当にありがとうございました。
http://areyoukicking.hatenablog.com/entry/2013/12/07/095749
有吉弘行はtwittterで日本で一番フォロワーを集めているらしい。
タイムラインを見ていると、日本は政治家ではなくて芸人がTwitterフォロワー数No1
政治家の方がで、彼ぐらいの洞察、みんなが中々言えなくてモヤモヤした事を
一発秘孔付きで表現できるってそもそもそんな人いましたっけ?っていう。
初期の橋下知事?ぐらい??
chikirinや、基本的にあっていることしかいわない人って貴重。
それを笑いへと転化させ続けられる人って、今、有吉だったり、もしかしたらマツコだったりする。
そして、人の言えないことを短い言葉で指摘できるっていうのは、
ぶった切るっていうのは一種の欲望に訴えかける力なのではないかと思う。
ツボをつくと疲れが取れるように、精神的な疲労や、モヤモヤを代理で解消する力というか。
前にTVで千原ジュニアが、笑いを取ったときに、初めてSEXしたときより
そもそも笑いが持つちからは多幸感へつながるし、秘孔をついて、
モヤモヤを解消させるという力と合わせるとつまり有吉の笑いの力というのは、
人の欲望に①多幸感と②モヤモヤ解消の2倍で訴えかけるような力を持っているのかもしれない。。
などのご意見が多かったですが、言葉の多寡、責任の重さについてはいろいろあると思いますが、
(誰と比べてというと苦しいが)政治家より鋭い意見をいっている、それがユーモアに昇華している
という点で優れているかなと思ったってことです。
あと、政治家と比べてっていうのはあんま文章の一番言いたいことではなくて、