はてなキーワード: ガイジンとは
どうもMidasファンです。
もう少し左翼に好意的に言っておくとこの件(「消すぐらいならやるな」と憤慨してるひとがいるように)「政治は政治でちゃんとやれよ(天皇制を打倒したいなら『表現の自由w』とか言ってないで現実で打倒しろ」につきる。めざすべきはあくまでも現実世界での天皇制廃止ないしは社会改革であって展覧会で「これがボクたちの考えた芸術です」は単に『表現w』の世界へ逃げこんでるだけ(「現実では何も変えれない」敗北宣言にこれも等しい。
このへんの不純さ、不誠実さが(右翼のみならず)いわゆるノンポリのひとたちの嫌悪感を誘ってるのは疑いないので。結局「歴史上の人物だから問題ないですよね」がいまだに大失言だと気づいてないのはそういうとこ。「これは表現の自由だ」が『政治』になりうるためには当然ながらそんな2代まえなんかの肖像いくら燃やしてもアクチュアリティのかけらもないわけで(「歴史上」は「ノーカン」でしかないので)いまの天皇を燃やすべき。ところが令和の陛下が犯した悪行といえば柏原芳恵にラブレター書いたのと嫁の生理があがってオトコみたいなツラになったくらいしかないのであってその責任を問おうにもポイントがみつからない(お人柄もいいらしいし。
「2代まえのひとだから(歴史上の人物なので」と『表現の自由』だけを切り分けようとするほど政治的には効力を失ってしまうというジレンマがある。「いいかな?」とか言ってる場合ではないのである。かんたんにいうと今回の件が決定的にダメなのは(ちまたで言われてるような)「芸術の政治化(本来はニュートラルであるべき美術の世界に稚拙なプロパガンダ芸術をもちこんだ」からではなく逆「政治を美術化した」から。
政治の美術化とはいうまでもなくファシズムの最も簡潔な定義なので。政治を美術館での鑑賞の対象にするとは現実世界の矛盾を一見みんなで共有してるようでその実は単に審美的な判断をくだすだけ。くり返しいっとくが政治をギャラリーでの鑑賞の対象にして「考えさせられました…」とか言ってるのは現実改革をあきらめたしるしでしかないのである。政治を展覧会のネタにしてはならないとはそういうこと。
たぶんガイジンさんには今回の「表現の自由」いったいなにを争ってるのか全く理解できてないと思う。ちなみに「表現の自由がー」必死に言ってる連中もこれが極めて日本的な『どこに由来してる』か自覚してない。
(まさかと思うかもしれないが)この『表現の自由』はいわゆる『朝日的な』もの(サヨクん)ではなくルーツは雑誌『ぴあ』にある。町山が「はあ…昔の『ぴあ』はよかった…」言ってたのを軽くみてはならない。日本の68年以降の文化史ではそれまで『朝日ジャーナル』を小脇にかかえて歩くのが学生さんヤングのひとたち『かっこいい(政治意識がある』と言われてた。雑誌『ぴあ』はまさに『朝日ジャーナル』の次にあたる。朝日ジャーナルにかわってこんどは『ぴあ』をかかえて歩くのがかっこいいヤングの条件(ちなみに朝日ジャーナルのまえは『平凡パンチ』とか)になった。『ぴあ』がかっこよかったのはいわゆる『情報誌』だったから。
ロードショーから場末のポルノ歌舞伎展覧会にいたるまで情報を『差別』せずフラットに扱った最初の例が雑誌『ぴあ』。フラットに扱うとは『価値判断をしない』。ただしこの『価値判断をしない』がくせものであって…「町山さいきんクソサヨクになっちゃってどうしたの…(脳に毒がまわったのかな」ふしぎに思ってるひとも多いが情報のコンテクストにおける『価値判断しない』は結局は「愚弄する(冷笑する。もちあげない」なので津田やあずまくんにしてみれば「まさかこんな反発くらうとわ…」なのもまあわかる。あの「歴史上だから、まいっかと思って」もホントだったら慰安婦像つくったひとにむしろ「ふざけんな!」言われてるべき態度。
慰安婦像つくったひとは(わたしにいわせればデタラメもいいとこだが)マジで「日本人よ…はんせいしろ」思って(たぶん)あれつくってるので。津田やあずまくんがやってた「表現の自由」実はそこまでの政治性はない。
雑誌『ぴあ』が今週おこってるいろんなイベントをおもしろおかしく無差別にとりあげれたその点において表現が自由だった(ロマンポルノのとなりにハイソな演劇が並んでてよかったね自由な社会で)くらいのニュアンス。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。
高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。
みんな(とくに憲法がくしゃとか)大いに勘違いしてるけどこれ要するにそういうことなので(どうしてこんなかんたんなことがわからんのだという感じ。なぜそうなるかというとつまるとこ『インダストリー』のもんだい。たとえばこんかいあずまくんいきなり前言ひるがえしたりして「なんなのこのひとは…(このていどのこと最初からわかれよ」思うひともたぶんたくさんいるはずだが別に彼らに一貫したものなどありはしないので、こないだまで河村disってたはずのあずまくんいきなり「津田がわるい」になるの丸山ぎいん「みなさんNHK受信料はらうのは国民のぎむ」からの「NHKぶっこわす!」入りと全くおなじ。
インダストリーの問題とはすなわち文化産業の問題であり雑誌『ぴあ』の「表現の自由」が成立してたのはみんなが中産階級だと思ってたから。永六輔とか旧NHKこうした平等な社会の構築に焦点あわせてたしこの環境の産物。こうした文化産業の仕組み(従事してるひとたちも含めまだ巨大なインフラが半ば廃墟と化しながら残ってる)いまどきこれでやってけるはずない(もう残念ながら時代おくれ)と誰もが思ってるのは確かなので。
若干専門的な話でしめとくと(もうネットにたくさんいる情報産業のひとにとっては常識だろうが)おどかすようですまないがこれからは「情報をフラットに」ではなく「差別と排除」の時代なので(あれこれいってもムダ。差別と排除とはゲートキーパーが誰をはじくか決めてその(誰でもゲットできるはずの)情報へのアクセス権がそのひとの社会的な地位をしめすアレ(要は「ブロックだ!」「不可視にする!」みなさん楽しそうにやってるやつ。
表現の自由なんかよりそっちのほうがよっぽどだいもんだいじゃないの?wという感じだが世の中よくできたものでホントに重要なことは展覧会のテーマになんかなったりはしないのである(みんなのメシの種になってるから。
日本人の無意識に抱えている、ネイティブスピーカーへのあこがれは
ときには、動機付けになるが、多方、語学学習の阻害要因にもなりうる。
とくに、ネイティブ並みのコミュニケーション能力を目指す考え方は
恥ずかしい発音をしたくない、文法含め、間違ったことをいって恥をかきたくない、という心理が
どれだけ機会損失につながっているか、実践訓練を妨げているかわからない。
特に日本人同士では顕著だ。日本人同士で「あのさ、お前何言ってんの?」とは絶対に思われたくない心理。
なので、例えば、自分よりも会話能力が上回っていると感じた日本人とは自然と会話自体を控えるようになってしまう。
一方、留学したり海外旅行では、日本人の視線を感じないことも多いため、堂々と間違えることができる。
留学時、なるべく、日本人と接しないようにした、と告白する人が語学を身に着けていくのはそれなりの理由がある。
最近、フィリピン留学などが流行しているようだが、これは、非ネイティブという利点を有効に活用できてよいと思う。
ネイティブ並みを目指しているひとにとって、未熟な言葉をネイティブと会話するよりも恥ずかしさは少ないはずだ。
そのうちに、経験や機会を阻害していた自分自身のネイティブ並みへのこだわりも消えていくかもしれない。
忍者ハットリくんやマンガ道などで知られる藤子不二雄A。そのなかに「添乗さん」という作品がある。
これは1970年代、高度成長期を上り詰め、一般の日本人が海外ツアー旅行に行き始めた時代を背景に
添乗員の悲哀を通じて、人々の海外旅行観をコミカルに映しとったた名作だ。
この作品は、個人的には同氏の最高傑作のひとつだと思っている。
見開き2ページで構成された、この小噺集のなかに、とあるエピソードで
ネイティブ英語を鍛えてきたと自負するおっさんがハワイ行の機内でドリンクを注文する場面が登場する。
添乗員に対して「キミィ。英語のわかるスチュワーデスを呼んできてくれたまえ」といって、やってきたのは
しかし「スカッチャンドワーラー、プリーズ」と話しかけるものの、
見かねた添乗員さんが、スコッチを欲しいと言っています、とコソっと耳打ちすると
「オー、スコッチ・アンド・ウォーター!オーケー」といって、おっさん語をようやく理解できてスッキリした表情。
その他のエピソードでも藤子不二雄Aの観察眼はいろいろと鋭い。
当時は、「百万人の英語」のハイディ矢野などを通じて、リエゾンの重要性を洗脳されていた時代である。
試しにネイティブの発音をマネしてかっこつけて話そうとすると、通じないことが多かった。
恐らく、ニューヨーカーの発音、南部なまり、西海岸の英語、オセアニア系、ブリティッシュ英語、これらをジョークとして使い分けられる程度の能力があれば
相手に応じて、発音のコントロールができて、通じるようになるような気がしている。
えてして、ネイティブの多様性を理解できず、山形弁をマネしようとして失敗しちゃってる奴が大阪で話をしているようなものである。
しかし、それはあたかも大阪弁と山形弁を使い分ける変なガイジンなんであって、何を目指しているのか、という自問自答になるだろう。
スタートボタンを押してください ゲームSF傑作選 (創元SF文庫)所収。
30ページの短編。
すき家でワンオペにいそしむ男が強盗にあって殺されるが、直後その強盗になっていることに気づく。
その後もさまざまな人物に殺され、近くにいた人間になっている=リスポーンする中で最後にとった行動とは・・・・
という感じ。
All You Need Is Killのダメ男バージョンの焼き直しって感じで、最後どう落とすかが気になったけど、
そう来るか―って感じだった
期待以上ではなかったけど、まあ期待以下でもなかったかなあ
それ以外にも11この短編が入ってるけどそれは読んでない。
桜坂洋以外はみんな新進気鋭のガイジン作家らしい。後書きによると
パラパラとめくった限りでは翻訳SFにありがちなよみにクサはなさそうで読んでみたくなった
翻訳ものの読みにクサの原因のひとつはフォントサイズにあると思う
それがこの本ではな感じられなくて、普通の日本の小説くらいのフォントサイズと余白で読みやすかった
あとはこれがSFじゃないっていうそもそもの話もまああるんだろうな
翻訳者にもよるのか?
くだらないことだとわかってるんですが書きます。
苦手な点を挙げます。
①そうじゃない
店の椅子が1つだけ座面が広く、背もたれがあってなんとなく座り心地が悪いのですが(そういう椅子ってありますよね)、最近複数の常連のお客様や、新規の方からも「この椅子だけなんか座りにくいからあっち移動していい?」とか言われたりしました。
それくらい人気のない椅子というか、まぁ座りにくいようです。私もあんまり好きじゃない椅子です。
なので店長が連休明けで朝出勤して来た時に、伝えなきゃと思って「この椅子だけ座り心地が悪いみたいで、お客様の何人かから席変えて欲しいと言われたりしましたよ〜」と言いました。
すると店長は「別に俺その椅子座りにくいと思ったことないし」と言ってきました。
そういう話じゃあねえんだよ!!!
おめえの座り心地は聞いてねえ、第一おまえは客じゃねえ!この椅子に座らねえ!座っても客としてではない!!
客は寛ぎに来てるんだよお!!!お前の座り心地は一切関係ねえんだよ!!そんなことも分かんねえのか?!?!
次ィ!!!
②失礼
外国人のお客様もよく来る店なのですが、自分は英語が得意だと勘違いしている店長はものすごい早口(それが流暢だと勘違いしている)で店のシステムを外国人のお客様に説明します。
文法もめちゃくちゃだし、伝わればまぁいいとは思う派なのでそこは気になりませんが、命令形だったりhave toを多用したりするので横で聞いていてヒヤヒヤします。
現に私が接客している時に外国人の方からクレームが来たことは一度もないのですが、店長がやるとお客様が渋い顔をして短時間で帰られたりしますし、何度か口論になっている場面も目撃しました。
もう少し丁寧に、ゆっくり話してはどうですか?と私が提案すると
「いや別に英語伝わってるしいいじゃん、それに俺ガイジン嫌いなんだよね」
ハアアアアアアア?!?!
うるせーよ!!お前の拙い英語力でも向こうは最大限理解しようとしてくれてるんだろうがよ!!お前逆に海外旅行行ったら同じこと言われたくねーだろ?!!
そういう態度をするのは相手が日本人だろうと外国人だろうとよくねえだろうがよお!!!
国を超えて失礼さが伝わってるの逆にやべえだろ!!!アホか!!!!
以上です。
散々指摘されているようにバブル期には既に広く広まっていた言説であり、
さらにモテるのは「美しいから」ではなく、男に従順とか自己主張しないとか料理をするとかナンパに引っ掛かりやすいとか
要するに「男にとって都合がいいから」である、ってのが昔からの定説なんだけれど
(最近は日本産AVが海外に広まったのを受けて「AVの女性のようにエロいからという妄想を抱かれているから」ってのもあるそうで)
バブル期なんて、ネットは無いしマスコミで決定権を持つのも男性ばかりの時代で
(例え女性ライターが書いた記事でも、その女性に記事を発注したり記事を載せるかどうかの決定権を持つのは男性だらけだった)
今だったらネットでこんな女いねーよと突っ込まれまくるような記事も、誰も突っ込める人はいなかったわけ。
当時よくあった「日本人女性が海外でモテている」って記事も、当然男性の価値観が反映されたものばかり。
論調は色々で、「女は実はエロい生き物。その証拠に女は日本の男の目が届かない海外だとこんなにヤリまくってるぜ?」だったり、
「日本の男も頑張らないとガイジンに女取られちゃうよ?」だったり
「ガイジンにモテたと勘違いしているバカ女共に教えてやるけど、お前ら単に都合がよい女としか見られてないから!」だったりしたわけだけど。
それに突っ込みを入れたくとも、その突っ込みを公表する場もろくになかった時代。
女性誌などの女性向けの記事なら(作ってるのは男性だとしても)女性ウケを意識していたけど
「日本人女性は外国でモテる」ではなく「外国人男性はこんなに素敵」だったり「外国での暮らしはこんなに幸せ」ってのがメインだった。
(国際結婚して海外に在住している女性の素敵生活紹介とかが定番)
移民のシッターに押しつけてる外国人は、そのシッターが育児の専門知識もなければ資格もないしその国の公用語すら喋れないのを承知の上で
日本人が日本の保育園に払うより高い保育料をそのシッターに払って雇ってるわけよ
つまり少なくとも育児という労働にその程度の価値は感じてるし、その保育料じゃその程度の人しか雇えないってのも分かってる
でも日本人は、育児の専門知識と資格を持っている日本人が丁寧に育児してくれて小学校入学の準備教育までしてくれるサービスを
外国で移民シッターを雇うのより安い価格で買えて当然と思ってる
でも「大量の税金がつぎ込まれている」事を意識している人は少ないし、意識していても「それで当然」だと思っているから育児に高い価値を感じない
育児サービスに対する妥当な対価=大量の税金をつぎ込んだ上での残りかす程度、だと素で思ってる
だから働く方はブラックになるし、客は大した金も払ってない癖に要求だけが大きい勘違いモンスターだらけになる
外国人実習生を保育園で働かせろとか(恐らく皮肉で)言ってる人もいるけど
移民だろうが実習生だろうが日本で食っていきつつ自国に仕送りも出来る金額稼げないなら来ないだろうし
それだけの金を払うなら日本人保育士雇う場合の給料とさほど変わらなくなってしまう
つまり利用者は現行の(日本人保育士しかいない)保育園と同じだけの保育料を払わなければ成立しない
で、育児の専門知識も資格もない、日本語すら喋れない移民スタッフしかいない保育園に対して
日本人の保育士しかいない保育園に払ってるのと同じ保育料を文句言わず払う親いるか?