はてなキーワード: ドラマとは
みたいなの意見を以前ネットで見てめちゃくちゃ同意されてたんだけと、個人的にはどうだろう……という感想。
あまりの怒りに駆動されて「はぁ?」をまともな人間が使うという場面はたまにある。
それよりも、
目を大きく見開いて、口をあんぐり開けてそのまま静止するという
的な表情をやってみせることがある奴のほうがヤバい印象だった。
ていうか体感だとガチ有害系キチガイだったパターンが100%だった。
性犯罪方向の騒動起こす奴、パワハラモンスター、普段は優男なのに店員をヤクザ口調で脅す奴とか。
「はぁ?」と違って、「目見開いてお口ぱっくりで固まる」ってリアクションはあくまで漫画やドラマで定番のある意味では不自然な表現であって、リアルで思わずとってしまうことはない。
それをあえて
昔からはてなブックマークをやってた人なら流れをうろ覚えしているだろうけど、漫画『海猿』というのは昔は「原作・小森陽一」とか紹介されていて、ドラマや映画がヒットしてる最中に佐藤秀峰先生は小学館と揉めて、原稿を引き上げて権利を取り戻したって経緯がある。
小森陽一先生は海保や海自などをテーマにした海洋漫画をいくつも手掛けてる漫画原作者で、『海猿』では立ち上げ時にちょっとだけ関わりあったけど原作者といえる仕事はしていないでしょって揉めた。「漫画原作者」の定義って普通は「原作小説の作者」か「ネーム(脚本)執筆者」かだけど、アイデアや資料提供程度の仕事だったんだろうと。
映画2作目の時に主演俳優が会った「原作者」というのは小森陽一先生のほうだったのではないか。その時に編集者も帯同して「これは漫画家からです」って事前に描かせてたサイン色紙を渡した光景が想像できる。
その後、佐藤先生は出版社と決裂し、フジテレビとも突撃取材問題でトラブルとなる中で、交渉の結果、映画3作目と4作目の制作契約が結ばれ、原作者として「初めての」撮影見学に行った際に雑な対応をされて嫌な記憶を残してしまったと。
過去ブクマ探してたら佐藤本人がサバサバと「海猿」と小森の関係を語ってる昔の記事見つかったわ。戯画化されてる「描くえもん」よりかはわかりやすい。
そもそも『海猿』は「ヤングサンデー」の編集者が、当時、映像制作会社に所属していた小森陽一(『海猿』には原案取材としてクレジット)さんと知り合いになって、お互い海が好きということで、海上保安庁の話を描こうとしていた。そこで小森さんが原作を文章で書いて企画会議に出して、「原作としては使えないけど、海上保安庁というのは珍しい」ということで、企画だけが残っていたんです。それを編集者が「佐藤君、描いてみないか」と持ってきて、話を受けたんです。なので、僕は小森さんの書いた原作を読んでいないのですが、小森さんは自分が原作者だと思っていらっしゃるようで、そこからお互い齟齬があったんですよね。
いい加減、アニメ業界はターゲットを昭和~平成初期の高齢オタクから若者に変えた方が良い
長期的に将来の顧客を育てるって視点を欠いて、目先の銭を追いかけて高齢オタクに媚びるから、
海猿の佐藤秀峰先生が「ドラマの原作」の作者だから原作者の扱いが酷いって話になってるけど、マンガ「海猿」は取材して原案を作った人が他にいて、佐藤先生はそれを翻案して漫画化した翻案者なわけじゃん。
原案とどのくらい離れたのか、もしかしたら桃太郎と芥川龍之介桃太郎、海底2万マイルと不思議の海のナディア、魔女の宅急便と魔女の宅急便くらい違うかもしれないけど、もしかしたら「いいひと。」とドラマ「いいひと。」くらいの感じかもしれないじゃん。海保の取材の労力とか考えたらわりと原案の0→1度が高そうな素材の気がする。
映像化も原案がクレジットされ続けて、たぶん映画版のシナリオ書くにあたっての取材元とかもけっこう原案者が寄与してそうな感じもするし、あの作品、作者と原案者の関係性(仲の良し悪しもあるけど、それ以上に、作品への寄与度)が客観的に分からんとよう分からん。
新人B「決定に必要な情報が無ければ、何も決められないというのが狙いですか?」
社員A「そうだ。この場合は、脚本家と直接接触させないことで、脚本家の真意が分からないようにするんだ。
●原作者
改変は最低限にとどめ、原作に忠実であってほしい。
本業に影響が出ないようにしたい。
映像化で読者が増えるのは嬉しい。
⇒原作の「ここだけは変えたくない部分」を理解しているとは限らない。
⇒原作者の手間を増やしたくないので代弁者にならざるをえない。
⇒工数上、やりとりをそこまで増やせないので細部まで監修できない。
⇒原作ファンはすでに原作を買っているため、映像化では原作ファン以外に見てほしい。
原作者と編集部と交渉先(この場合テレビ局)の意向の潤滑油でありたい。
前例を何より重視する。
⇒権利交渉の窓口役ではあるが、個々のコンテンツには詳しくない。
⇒渉外役としては、交渉先寄りの意見を持ちやすい。前例、慣例を重視するため。
⇒橋渡し役がボトルネックになるわけにいかないので、時間のかかる交渉はしない。もめごとは現場に投げる。
そのファンの数を最低ラインとして、映像化(映画orドラマorアニメ)で爆発させたい。
⇒原作のファンは忠実でも改変でも「映像化で違うところ」を気にして間違い探しで視聴するので、原作ファンの声は気にしない。
⇒むしろ忠実だとわかると全部知っている原作ファンは離れる確率のほうが高い。
⇒完全新規の視聴者の興味をひくため、ファンが計算できるキャストやスタッフを集める。
⇒集めたCMの本数と額で予算が決まるため、スポンサーを集めやすい仕込みを増やして商品設計を行う。
●監督
与えられた材料(原作、演者、ほか脚本や音響などのスタッフ)を調理して作品に仕上げたい。
現場は生き物なので撮影中にどんどん手を入れて作品のクオリティを高めたい。
⇒何かやるたびにまわりの意向を聞いていたら一生撮影が進まないので現場判断重視。
⇒ドラマやアニメは毎話が勝負。チャンネルを変えられたら終わりなのでメリハリを強烈にし、CMを見せるために引きを作り、エンドロール前にインパクトを作るのが必須。
●脚本
映像化してよかったと思われたい。
⇒マンガや小説は必ず最初から最後まで読まれる前提なので、ベタ起こしだと単体では意味がわからないシーンや設定が増えすぎる。
⇒尺にあわせて削るだけだと成立しないため、10分15分単位で盛り上がるように脚色・構成する。
⇒「ここをおさえておけば原作の大切な部分は守れている」と判断したところ以外は映像向きに最適化するのが役目。
⇒特に最初の3話、または各話冒頭3分にインパクトをもってこないと継続視聴を切られてしまうので極端にしがち。
CMを見てほしい。
⇒見込み客の人数は原作の部数に比例する。つまりすでに大ヒットした作品以外は、原作ファンより新規ファンのほうが多い。
⇒複雑な話、引きが弱い話はCMを観られない。
自分をよく見せたい(=いい役、いい場面がほしい)。
売れっ子のスケジュールは先まで埋まっているので、よほど条件がよくないかぎり受ける必要がない。
●原作者
改変は最低限にとどめ、原作に忠実であってほしい。
本業に影響が出ないようにしたい。
映像化で読者が増えるのは嬉しい。
⇒原作の「ここだけは変えたくない部分」を理解しているとは限らない。
⇒原作者の手間を増やしたくないので代弁者にならざるをえない。
⇒工数上、やりとりをそこまで増やせないので細部まで監修できない。
⇒原作ファンはすでに原作を買っているため、映像化では原作ファン以外に見てほしい。
原作者と編集部と交渉先(この場合テレビ局)の意向の潤滑油でありたい。
前例を何より重視する。
⇒権利交渉の窓口役ではあるが、個々のコンテンツには詳しくない。
⇒渉外役としては、交渉先寄りの意見を持ちやすい。前例、慣例を重視するため。
⇒橋渡し役がボトルネックになるわけにいかないので、時間のかかる交渉はしない。もめごとは現場に投げる。
そのファンの数を最低ラインとして、映像化(映画orドラマorアニメ)で爆発させたい。
⇒原作のファンは忠実でも改変でも「映像化で違うところ」を気にして間違い探しで視聴するので、原作ファンの声は気にしない。
⇒むしろ忠実だとわかると全部知っている原作ファンは離れる確率のほうが高い。
⇒完全新規の視聴者の興味をひくため、ファンが計算できるキャストやスタッフを集める。
⇒集めたCMの本数と額で予算が決まるため、スポンサーを集めやすい仕込みを増やして商品設計を行う。
●監督
与えられた材料(原作、演者、ほか脚本や音響などのスタッフ)を調理して作品に仕上げたい。
現場は生き物なので撮影中にどんどん手を入れて作品のクオリティを高めたい。
⇒何かやるたびにまわりの意向を聞いていたら一生撮影が進まないので現場判断重視。
⇒ドラマやアニメは毎話が勝負。チャンネルを変えられたら終わりなのでメリハリを強烈にし、CMを見せるために引きを作り、エンドロール前にインパクトを作るのが必須。
●脚本
映像化してよかったと思われたい。
⇒マンガや小説は必ず最初から最後まで読まれる前提なので、ベタ起こしだと単体では意味がわからないシーンや設定が増えすぎる。
⇒尺にあわせて削るだけだと成立しないため、10分15分単位で盛り上がるように脚色・構成する。
⇒「ここをおさえておけば原作の大切な部分は守れている」と判断したところ以外は映像向きに最適化するのが役目。
⇒特に最初の3話、または各話冒頭3分にインパクトをもってこないと継続視聴を切られてしまうので極端にしがち。
CMを見てほしい。
⇒見込み客の人数は原作の部数に比例する。つまりすでに大ヒットした作品以外は、原作ファンより新規ファンのほうが多い。
⇒複雑な話、引きが弱い話はCMを観られない。
自分をよく見せたい(=いい役、いい場面がほしい)。
売れっ子のスケジュールは先まで埋まっているので、よほど条件がよくないかぎり受ける必要がない。
ドラマ制作側が、原作者が首つっこまなくても適切にドラマ化をしてくれていたのならば起こらなかった事態だろうよ
その大前提である原作通りにというのも、いざとなればラストは私が書きますというのも脚本家に伝わっていなかったよね
原作者は小学館と日テレの「ドラマ化しましょうよ悪いようにはしませんから」攻撃に耐えきれなくて
連載中作品なので原作通りということなら、という条件でしぶしぶ承諾したんだろうよ
ドラマ化決定する前から主演女優がベリーダンス練習していて局側では既定路線
漫画連載を抱えながら2023年はじめあたりからドラマ化攻勢との折衝をして
決定した後は脚本監修の作業、さらにラスト2話は自分で脚本書く
作品の最終的権限を持つ原作者だからどれも他人に任せられないし悩みや苦労を分かち合えない
そうして放送もなんとか乗り切ったと思ったら脚本家がボヤいてる
3行で要約してもらってきた~キャッキャッ
与えられた文章は、小学館によるある著者の悲劇に関する声明に対する批判的な解説であり、その主張は文章が「著作者人格権」問題を不当に強調し、本質的な問題を逸脱していると指摘している。
特に、小学館がドラマ制作サイドに著者の意向を適切に伝えられなかったことが問題の根本であり、声明はその責任を逃れるための欺瞞と自己保身の手段として用いられていると批判している。
ChatGPTで要約しといた
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小学館第一コミック局編集者一同の声明に対する批判的な見解を提供しています。問題の文章は、作家、読者、関係者に宛てたものであり、著作者人格権の問題を時系列や本質から逸らし、小学館自体の責任を隠蔽しようとする意図を持っていると批判されています。文章は内容が曖昧で、著作者人格権に関する認識の不足を後悔するというスタンスを取りながら、その実、本質的な問題から目を逸らし、責任を逃れようとしていると指摘されています。
批判の核心は、小学館がドラマ制作過程において、芦原氏(故人)の意向を適切に伝達・保護することに失敗し、その結果、彼女が心身ともに追い詰められる状況を招いたことにある。小学館の声明は、このような状況を矮小化し、誤解を招くような内容であり、本質的な問題解決に対して何の寄与もしない虚妄に基づいていると非難されています。
さらに、文章は芦原氏の言葉を捻じ曲げ、著作者人格権の問題にすり替えることで、小学館の責任を隠蔽しようとする不誠実さを示しており、このような姿勢が非常に問題であると強調されています。また、芦原氏への言及が、批判を避けるための手段として利用されていることも指摘されており、このような行為が非常に不適切であると批判されています。
最後に、この問題は小学館だけのものではなく、メディア化の過程における構造的な問題、テレビ局の体質的な問題、SNSの問題など、さまざまな複雑な要因が絡み合っていることが指摘されています。それにもかかわらず、小学館がこの悲劇を防げた可能性があるにも関わらず、問題を避け、責任を回避しようとした姿勢は批判されるべきであると結論づけられています。
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。
下記の奇行をしたのはネット民はネット民でも脚本家ご本人と日本テレビですよ
事実だとわかるのは、
該当の脚本家は指揮権のあるプロデューサーに困惑や苦い気持ちをSNSで伝えたわけでもなく、
何故か2次創作者の立場でありながら同業者と原作者をSNSで批判したこと、
日テレもプロデューサーも出演者もそれを放置したこと、
ただこれだけだぞ
だから無限♾️に同じ投稿してるんだと思うけど、何がそんなに難しいんだ?
日本は法律と契約に基づいてお仕事をするって事実、何が増田の理解を妨げているの?
該当の脚本家は指揮権のあるプロデューサーに困惑や苦い気持ちをSNSで伝えたわけでもなく、ドラマの制作のあり方を批判したわけでもなく、
何故か2次創作者の立場でありながら同業者と原作者をSNSで批判したこと、日テレもプロデューサーも出演者もそれを放置したって事実、何が増田の理解を妨げているの?
遺書も公開されていませんし、たとえ遺書にある内容が公開されても、それが事実かどうかわかるのも、亡くなった本人だけですよって事実、何が増田の理解を妨げているの?
該当の脚本家は物理でも物理以外の面でも殺人を犯したわけではない、もちろんそれ以外の人も殺人犯ではないって事実、何が増田の理解を妨げているの?
スシロー皿ペロ・バイトテロと同レベルの行い(炎上して当然)をしたところに、複数の不幸が重なって今回の悲劇になっただけ
本ケースに限らず、あらゆる自死はさまざまな不幸がタイミング悪く重なった結果であって、何かひとつの不幸でどうこうは基本的にないって事実、何が増田の理解を妨げているの?
それぞれが意見や感情を述べるのはいじめでも叩きでもないです。少なくとも犯罪ではないですね (犯罪なら件の脚本家連中は逮捕されている)あと誰も代理戦争はしてませんって事実、何が増田の理解を妨げているの?
ここのどこにネット民が出てくるの?
事実だとわかるのは、
該当の脚本家は指揮権のあるプロデューサーに困惑や苦い気持ちをSNSで伝えたわけでもなく、
何故か2次創作者の立場でありながら同業者と原作者をSNSで批判したこと、
日テレもプロデューサーも出演者もそれを放置したこと、
ただこれだけだぞ
一般人は仕事内容が第三者にわかる状態でSNSで関係者を非難したり愚痴ったりしないんだ
大問題になるし、場合によっちゃクビや損害賠償だからね 。何のための秘密保持契約(NDA)って話ですのよ
誰も得しないので黙っているが正解だったけど、何がなんでもなにか申したい、危ない橋を渡ってでも『私じゃないもん』やりたかったなら、
せめて下記のように発言すれば、よかったよね、これなら表立っては誰からも責められずに『私が書いたんじゃないから』をできた
『最後の2話は、な…なんと!!!原作者様がご自身で脚本を書いてくださいました!サプライズプレゼント🎁🎄でしたが、原作ファンの皆様にも喜んでいただけるような作品に仕上がったと自信を持ってお伝えできます』
こう言っとけば、ゴタゴタが取り沙汰されても、下記のように言えば全部問題片付いた
『このドラマの製作過程では、チームメンバーの間で様々な意見が飛び交いました。それは、原作のファンやドラマの視聴者に、最高の作品を届けたいという共通の想いがあったからです。原作者の方にも、貴重なご意見やご協力をいただきました。おかげさまで、素晴らしい作品に仕上げることができました。ぜひドラマをご覧になって、製作チームの情熱を感じてください』
それすらもしないで、2次創作者の立場で原作者をドラマ出演者と一緒の写真を添えて非難という傲慢な奇行、そりゃ燃えるよね🔥
ただ、これ何度も書いているんですけど、日本シナリオ作家協会の振る舞い見ていてもわかる通り、
TV業界に連なる脚本家業界って世の常識が通じる世界じゃないんですよ
物書きに必要な能力と関係ない、コネ、コネ、コネ、そしてコネ、あと学歴みたいな世界です
(高卒・中卒のコンテスト出身の叩き上げ、高卒・中卒の劇団出身のとかもゼロではないが・・・・)
忘れた頃にしれっと活動復活しますよ、そんなナイーヴな業界じゃないし、今どきTV観てる人はそんな賢くないです(すぐ忘れる)
実際、ナチス大学教授、「延命治療やめろ」&「(小山田氏の障害者イジメに対して)裁判するにも知能がいるしね」の社会学者もTVに出てますしね