はてなキーワード: メルヘンとは
http://anond.hatelabo.jp/20120130150137
元増田です。友人のAさんにおもしろい指摘を受けました。
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
なるほど!!!
それでは、問題の画像はあくまでミッキーの着ぐるみを描いたものであることが文脈上明らかであるとして考えてみます。殺害表現でないとすると、名誉声望保持権を主張するのは無理筋に思えます。すると、同一性保持権侵害の線で押してくるのではないでしょうか。
(同一性保持権)
第20条
著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
同一性保持権侵害を構成するには、その行為が著作者の『意に反して』いる必要があります。ミッキー(の映画(の原画))の著作者は当然ウォルト・ディズニーだと思いがちですが、実はこの点はずいぶんと争点になっていて、正直なところ「結局誰が著作者なのかよくわからない」んですよね。ウォルト・ディズニーは当然ながら、ウォルトの盟友アブ・アイワークスあるいは二人の共作、はたまた二人の作り上げたディズニー社の団体名義だとする説もあります。
しかし、彼らの意向は明らかです。彼らは口を揃えてこう言ってきました(たぶん)。
『中の人などいない!』
誰が著作者であるにせよ、中の人など決していないんだ、ディズニーランドに行くと笑顔で迎えてくれる彼はあくまでミッキーという生き物であって着ぐるみではないのだ。そういう世界を彼らが作り上げてきたことは明白です。「中の人などいない」ことが、ミッキーマウスという著作物を構成する重要なアイデンティティである。だから絶対に首なんか飛ばない。これが主張として認められれば、ミッキーマウスの着ぐるみの頭を吹っ飛ばすという表現は同一性保持権の侵害となるかもしれません。
でも、どうでしょうね。
まず、視覚的に表される「絵柄」ではない抽象的な要素については著作権が認められないという判例が多くあります。「中の人などいない」はこれに該当する可能性が高そうです。また、着ぐるみを作って売ったならともかく、着ぐるみのイラストを描いてそのイラストの頭を吹っ飛ばしたわけですからね。ミッキーマウスの著作権は既に切れているとすれば無償で着ぐるみを作ったり絵を描いたりすることは問題ないですし、あとぶっちゃけ、彼らが何と言おうと、ディズニーランドにいるミッキーが着ぐるみであることは悲しくも事実なのですから…。
この辺、本職さんの本気の弁論をぜひ聞いてみたいところです。
というわけで、あれは着ぐるみの頭が吹っ飛んだだけだよ!と主張してみるだけで、なんとも馬鹿馬鹿しいメルヘンな問題になることが判明しました。こんなにメルヘンな裁判はそりゃあ是非とも見てみたいわけですが(きっと世界中が大注目するでしょう)、怒りのメールを送ってきたのがディズニー社であるにせよディズニーファンであるにせよ、恐らくはあの画像を「ミッキーの頭を刎ねて殺害している場面」と受け取ってのことだと思います。とりあえず落ち着いていただく&名誉声望保持権侵害の疑いを回避するためには、首が飛ぶ前後の文脈をきちんと公開した上で、「あれは着ぐるみなんだよ」と説明するとおもしろいよいのではないでしょうか。
161 ほとんどコピペ :2011/02/24(木) 03:29:45.26 ID:q32K6zHQ
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ekken と同じくスナイプ系だが、こちらはユーモアも混ぜるより柔らかスナイパー。
やみふうは語らない、ただブクマする。その件数がただ 8 万あるというだけ。
学術的な記事をよくブクマ。
彼のハンドルネームを手打ちで打てる人は誰もいない。本人でさえも。
Chikirin の粘着ブクマユーザ。彼の批判が活き活きしている時は、本体の Chikirin の記事も面白い。最近イマイチで寂しい。
HiromitsuTakagi と共にフィーチャーフォン、スマートフォンの脆弱性を愚直に丁寧に発見する。野生のセキュリティホールディガー。
BM98 の作者だったり、人気の iPhone ゲームアプリを全力でほめけなしたり、コンピュータ将棋を全力解説したりの(いい意味で)オールドタイプなオタクの開発者。
昼休みじゃ足りなかった件。
思いの外、たくさんの方にブクマして頂いて感謝です。今回列挙したユーザは、自分が普段ブックマークのページ + はてな Chrome 拡張で見られるコメントしてる人を中心に主観で選考した方々です。自分の知らない「この人も有名だよ」っていうユーザを紹介されたりして、同じはてなユーザでも視点が違う(見ているページの傾向が違う、コメントに共感するか等)と全然目に止まらなかったりするんだなぁ、と気付かされました。
パーマリンクもなく捕捉されにくいブクマコメントは、twitter 等のように槍玉に挙げられて炎上することも少なく(たまに引用指摘されるくらい、そのくらいはご愛嬌)馴染みの喫茶店の連絡ノートのように人知れず栄える討論の場のような空気感でいつも楽しませて頂いています。これからも皆様ひっそりぽつぽつとコメント頂けますと嬉しく思います。
yteppei, yaneurao, heimin
pollyanna, kensuu
ニコニコ動画にしてみても、2ちゃんねるにしてみても、ツイッターにしてみても、というかありとあらゆるインターネットの形態として、どうしてコメントを残すことが流行っているのだろう。例えば面白い動画なり書き込みがあったときに、そのレスポンスとして草を生やす行為にいったい何の意味があるのだろう。あるいは短い一言、「泣いた」とか「ご飯食べてる」とかそういうもの。その発言は、本当にする必要があるものなんだろうか。何の意図があってそんな発言をするのだろう。
無論、その一言を誰かに伝えたいというのが根底にはあると思う。そういった伝える誰かを想定した書き込みならまだ理解できる。腑に落ちないのは、そういった誰かを想定していない文章、いや文章ならまだわからないこともないのだけれど、突発的な反応とか予定なんかを発言することだけはどうにも度し難い。何で「私はここで笑いましたよ」「ここが面白いと思いましたよ」なんていう感情を記号で表さんといかんのか。表さないと気が済まないのか。その一言を書きこむ前に、その一言を書きこんでどうしたいのか疑問に思わないのだろうか。
確かに初めこそ真新しさから書き込みをしたくなることもあるとは思う。でも、次第に飽きてくるものでしょうに。いや、もしかしたら飽きている人が大勢いるのかもしれない。そして、そういった何気ない意図を持たない(あるいは今のところ理解出来ない)コメントをしなくなっている人が増えてきてるのかもしれない。その減少傾向よりも新規のコメンターが多いのかもしれない。ツイッターなんてその最たるものなのかもしれない。
はっきり言って、自分が今何をしているのかとか何をどう思ったのかなんてことを呟くことに価値は見いだせない。逆に、よくそれだけの呟きに自分の思いをまとめられるものだと感動する。更に逆説的(使い方間違ってるかもしれない)に考えるに、やはりその呟きというものは突発的な短絡的な発言でしかないのである。突発的ないし短絡的な発言は、その時そのタイミングで本当にしなければならないものなのだろうか。もっと後から考えてみて整理して、そうして発言するに値するか考えてもいいんじゃないのかな。
まあそういった発言をする行為を否定するわけではないけれども。
自分個人としては、ここまで書き込んだこのチラ裏にしてみても削除を検討してしまうので理解がしにくいだけなのだ。だって、どう考えても音声だとか感情に生まれた「呟き」なり「発言」は、それを文にする際に客観的にならざるを得ないものでしょう。今現在私がどのようなことをしようとしているのかが目の前に提示された際、それに何の意味があるのか――違うな。本当はわかってるんだなあ。意味なんてないけどそうしてしまう時の心情というものが。文字にすることは自分には無理だけど、感覚的にわかっている。少し落ち着いて考えて見れば、少なくともわかったような気にはなれる。そして、そのことに疑問を呈する不毛さもわかる。馬鹿馬鹿しいことだよなってわかる。
さて、ここでよっぽど問題にしたほうがいい事柄が持ち上がってきた。けど、一瞬のことだったので忘れてしまった。何につけても自分は忘れっぽいのが良くない。←この一文を書いてしまったことによって、いよいよ本格的に思考の流れとでも言うべきものが全くの別方向を向き始めてしまったので始末に終えない。上に書いてある、よっぽど問題にしたほうがいい事柄ってなんだったんだろう。なんとなく持ち上がってきたけど、また沈みやがった、ちくしょう。こんな築一経過を報告したチラ裏を発言するつもりなのかどうか、それはまた別問題なのでこの際横に置いておく。なんていうか、かくあるべき発言みたいな問題は今は考えないようにしたいし、そもそもそんなものはあり得ないのでどうでもいい(とか言いつつ、理想のあり方みたいなのを考えてみて、結局それにも欠点というか、見方によって性格ががらりとかわることがあるのでどうでもいいなんていうゴミクズじみた結論にしか達しないのだろうなあ)。また忘れた。推敲ってした方がいいのかしらん。仮にもこれは不確定多数の誰かに見てもらうことを想定した、あるいは見られてしまうことが確定的な文章なのに、こんな破茶滅茶な形態でいいのだろうか。良くないと思う自分と、これはこれで味があっていいのではないかしらんなどとふざけたことをぬかしおる自分がいる。
ああ、問題点。何となく当て嵌まる適切な言葉を見つけた気がする。
『不確定』。これこそが、先に記述したよっぽど問題にした方がいい事柄であり、ありとあらゆる物事に対した時に生じる自分の問題点だ。問題点とするとネガティブすぎるかもしれない。厄介な性分としたほうがいい。そのほうがより適切。それともう一つ。ころころ興味が移り変わること。泡沫の種のようなものが次から次へと沸き上がってくるくせに、そのひとつひとつを発芽させることができない愚図であるということ。それから適切という解決策についても。不確定に対する今のところ思いつける唯一の解決策。自分という個人が不確定な波のような人間であるなら、最適を求めるのは酷(というか無理)であるので、より適切なものを探すという方向性でいいのではないのだろうか。
はあ。それにしても結局最後は内省的なことになってしまうなあ。太田光みたいだ。こんなことを書くと氏に迷惑か。いや、迷惑になるほどのものでもあるまいて。
自己分析ついでにもうちょっと自己嫌悪じみたことを続けようかしらん。無計画と計画と呆気無さとハードルとか、そんな諸々のことについて。あー、でもそれっぽいキーワードを並べたら、頭の中でそれっぽい答えが出てしまったからもういいかなあ。面倒だ。でもそれでいいのかしらん。それっぽい答えで満足してしまうことが自己分析なのかしらん。
結局は自分が気持のいいことしかしてないんだよねえ。ナルシズムに酔っているというか、僕ってこんなこと考える奴なんだよって喧伝したいみたいな。また同時にそうあるある自分を馬鹿馬鹿しくも思っていて、いやいや違うんです自分てばそんな奴じゃないんですよははは、みたいにフォローしてみたくもあったり、フォローしている自分を自慢したかったり。堂々巡りなんだな。目立ちたいというか、言葉が出んなー、そうだ誇示、誇示したいっていう欲求が大きいもんだから、それを恥じて。
なんていうか、 誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→Endless……))) みたいなことが往々にして起きていやがる。面倒くさい。こんな奴関わりたくない――みたいな書き込みをしてまたエンドレス。
これは考えているのかどうか。わからん。考えていなんじゃないのか。考えるってどういう事を言うんだちくしょー。思うことと考えることと感じること、いや感じることは違うか、思うことと考えることって具体的にどう違うんだろうなあ。ロジカル。規則に則って順序立てることが考えることならば、自分は考えることができない人間だ。いつだって思ってる。いかなる時でも考えずに思ってる。なんてメルヘン。ロマンチック。もう訳がわからんくなってきた。わからんっていう言葉は便利だよね。思考放棄にはもってこいだ。あれ、思考って言葉にはどっちもついているのね。つまりは考えることと思うこと。どちらもそれほど違いはないのかもしれないわねえ。それほど重要でもないのかもしれないわねえ。重要でもないことにどうしてこんなに時間を使ってしまうのかしらん。みんなから面倒な奴だと思われちゃうじゃない。まあそんなんはどうでもいいのだけど。でも、重要かどうかって、そんなに重要視すべき問題なのかしらん。重要じゃないことを云々唸りながら思い悩んでいたっていいじゃないねえ。そんな姿勢を馬鹿にはできない。しちゃいけないと思うわけで。いやいや、馬鹿は褒め言葉とも言うか。もうね、いいんだよ。もう全部いいよ。どんなことをバッチコイだ。あっていいよ。悪いことなんてねえよ。あ、あって悪いことって意味ですね。ありとあらゆる事象物事ははあり得ていいのです。そのことがらがそのものごとがあることには何に罪も糞もないのです。あることはもう仕方が無いのですからね。しょうがないのです。我々に出来ることといえば、それを受け止めることだけなのです。その存在を否定はできない。疎ましく思うことも、邪魔臭いと思うことも、消えてしまえばいいと思うこととも大いにあるでしょう。危険視したり、抹消してしまいたくなったり、暴力的な情動を抑えきれなくなることも多いかもしれません。でも、そんな生じ得るありとあらゆる反応レスポンスをもひっくるめて、今存在している遍く全てもの物事は存在していていいのです。というか、存在している限り仕方が無いのです。仮に今その存在を消し得たとしても、その存在があった記録は残る。記憶は残り続ける。ならば、その存在は永遠に消滅し得ないのです。あるということはそういう事。あるということは時間を超越するのです。そして、私たちはありとあらゆる在るという事象の中で存在しているのです。だから、その存在を否定することは不可能。在ることは仕方のないことなのです。であるからして、自分としては在ることが混在したカオスティックな状態を享受したいと思うわけなのです。更に言えば身勝手甚だしいことに、自分が心地いいと思う状態が続いて欲しいと願うわけです。しかしながら、自分が心地いいなどと思う状態というものは恒常的にそこに在るのでしょうか。また私が心地いいと思う状態そのものは恒久的に不変であるのでしょうか。そんなわけはないと思います。わからないけれども。ね。結局何が言いたいんだという。暴走したこの書き込みはどう始末を付けたらいいんだろう。増田に落とせば迷惑がかかるかもしれないと危惧してしまう。ならば削除してしまえばいいのだが、それはそれで悲しい。確かにこのような無為な文章を書き綴った記憶は残るかもしれないけれど、その記録が残らない。ハネムーンの写真を友達に見せびらかしたい気分だ。祝女でいつかやってた。あの新婚さんは今の自分の気持ちに似ているのかもしれない。
でもどうしよう。こんなもの、チラ裏にしても性質が悪すぎる。
二股の末に振られた相手である元彼はとうとう「さすらいのボヘミアン」になりました(本人談)
(「さすらいのボヘミアン」を読んだ直後に「ボヘミア~ン♪」とアレが脳内再生されたw)
いまだによりを戻そうと持ちかけられている。
ポケットの中の通帳は叩いても残高は増えないねとか、
マッチを灯してもすてきなご馳走は出てこなかったとか、
もう笑いのネタを提供するためにメール送ってきているとしか思えないwww
さらにこの大震災。
お望みの求人なんて皆無なほどまでに冷え込み、ハロワに行ってもなにもない。
「もう日給30万(原発作業員)しかないのかな」と同情を誘っているけれど、
そんな度胸なんてこれっぽっちもないって、よーく知ってるよwwwww
携帯アドレスからメールが来なくなったので、滞納解約か壊したかしたんでしょう。
Gmailから何度か来てるけど、週に何通か濃いのが来るだけになった。
ちなみにアドレスはbokeo.lovelove.masuda@gmail.com(名前なので伏せた)だ。馬鹿だこいつ。
当然、返信は一度もしてない。
小便の切れが悪い。
残尿感とか言うほど大袈裟なものではないのだが、んー…果たしてコレって残らず排出されたと見てよいものか。という懸念というか、不明瞭な感じがいつもある。
そこで便器の前で排尿が終わった後の時間を長く取り、微妙に屈伸運動をしたりつま先立ちを繰り返したりして、これで完全に排泄されたのだという爽快が訪れるのをいちおう待ってみる。けどもう長らくその爽快は味わっていないようだ。仕方なくしまい込む。やれやれと立ち去る。この一連の儀式は我ながらなかなかに哀しくて間の抜けた絵面である。とてもよろしい。
それはそれとして、この不甲斐なさが一体いつ頃からのことなのか今ひとつはっきりしないのである。子供の頃は小便を終えた後、もっとすっきりした感じがあったような気はしている。けど意外にそうでもなく、すっきりしてなかろうが格納した後に垂れ流そうが子供特有の無頓着で意に介さなかっただけという話もありそうである。長じて快便を体調良好のバロメータとする意識を持つようになったせいで、不健康や衰えとは無縁であったはずの子供時代を美化しすぎているのかもしれない。「昔は良かった」は容易に陥る思考の陥穽だ…って、要は記憶を辿ってもよく分からないということが言いたいのである。
似た話で起き抜けなどに鏡を覗くと、そこにある皺にふと違和感を覚える時がある。あれ、こんな所に皺などあったっけ?という疑問が浮かぶのである。寝相の関係で圧迫されてできた皺が一時的なクセになるのはよくある事だけど、そうではなくて明らかに顔の一部となっている。すると昨日今日でホイホイできたとは考えにくい。ということはむろん前からあったものなのだという結論になる。けれどそれが一体いつ頃からそこにあったのか、今ひとつはっきりしない。
どうも近ごろ、私にとっての過去というものが加速度的に曖昧でおぼろなものになってゆくようでそこはかとなく恐ろしい。これはあったはずの出来事を忘れてしまうというだけの話では収まらない。
それまで「当たり前」どころか「前提」ぐらいにすら思っていた、私なりの物の見方や感じ方。そういう、いわば私の存在の中核となっていたもの、「私はこういう人間だ」と規定していたもののかたちでさえ次第に風化して崩れていっているように思われてならないということである。私という人間の輪郭が段々とぼやけていっているということである。
大きな喪失を感じるのが、そのときどきで抱いた感情や内的体験の味とか匂いのような質感が失われてゆくことである。幼児の頃の私は、なんでもないような絵や光景によくメルヘンな気分を味わった。子供の頃には、些細な風景写真や映画によく世界の広大さそのものへの憧憬の念のような感情が湧き起こった。
気恥ずかしいが、そういう「ときめき」がどんな感じであったか、さかしらに言えばときめきのクオリアとでも呼ぶべきものが思い出せない。ごくたまに、なにかの偶然がトリガーとなって自分の中によみがえる(匂いがきっかけとなることが多い)ことがあるまで、そんなものがあったことすら忘れてしまっているのである。けど私にとって、そういうものこそが生の実感であったはずのものだった。どうも今の私は魂を抜かれた抜け殻が生きているかのようである。
ご存知のとおり、人の肉体は固定されたものに見えて実は流動的である。代謝によって肉体を構成する物質が絶えず入れ替わり、我々がふだん石や木材のような固体のイメージで捉えている骨でさえ骨代謝という働きにより成人3年で完全に入れ替わる。言い換えれば3年前の私と今の私は正真正銘別物である。生命とはモノではなく、コトなのであって、渦とか波とかの現象と質的に同じなのである。こういう話を聞くにつけその確かな拠り所の無さ、脆さ儚さを思わずにはいられない。うたかたに例えた古人はまことに正しい。
まして人間の精神のような無形のものの流転の様は推して知るべしなのである。「私はいつだって私だ」というのは単純に言ってただの錯覚で、絶えずアメーバのように形を変えているイメージがより近いと私は思う。自分では一定の形を保っているように思っていながら、そのじつ絶えずなにかが流出し、知らずになにかが流入し続けているのである。朱に交われば赤くなるのだ。
下り坂の年齢にあると、その流出してしまったものの大きさのほうが堪える事実である。流入してくるものも無くはなかろうがどうも良いものには思われない。
Japanische Präfekturnamen auf Deutsch
青森 (Aomori) → Blauwald
岩手 (Iwate) → Felsenhand
秋田 (Akita) → Herbstsreisfeld
宮城 (Miyagi) → Palastsschloss
茨城 (Ibaraki) → Dornschloss
栃木 (Tochigi) → Rosskastanienbaum
群馬 (Gunma) → Pferdeherde
埼玉 (Saitama) → Landspitzenball
千葉 (Chiba) → Tausendblätter
神奈川 (Kanagawa) → Gottesapfelfluss
新潟 (Niigata) → Neulagune
富山 (Toyama) → Reichberg
石川 (Ishikawa) → Steinfluss
山梨 (Yamanashi) → Bergbirne
静岡 (Shizuoka) → Silent Hill (ドイツでもゲーム名一緒だしこれでいいと思うw)
滋賀 (Shiga) → Mehrfeier
京都 (Kyoto) → Hauptstadt der Hauptstädte
和歌山 (Wakayama) → Harmonieliedsberg
島根 (Shimane) → Inselwurzeln
徳島 (Tokushima) → Tugendinsel
高知 (Kochi) → Hochweisheit
佐賀 (Saga) → Unterstützungsfeier
長崎 (Nagasaki) → Langkap
宮崎 (Miyazaki) → Palastkap
鹿児島 (Kagoshima) → Hirschkalbsinsel
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漢字読めない人用にローマ字もつけて、あと地名っぽくなるよう一単語にまとめてみた。
結構実在する単語も多くて「昔のドイツ人も似たこと考えて地名とか考えたんだな~」と思う。
「私は傅かれるのが当然で、困っていたら周りの人間が何とかしてくれる。
私に何とかならないのは下々の体験と退屈さだけ。
私の思い通りにならなかったら、変なひともいるんですね~で済ませてしまえる。
なんせ周りがチヤホヤしてくれるから、私の価値など疑ったことが無い」という感じか。
鳩山さんも、多分こんな感じであの年まで来てしまったんだろうな、と思う。
私達のような庶民だと「人の心がわからないと苦労するよ!」って教訓をどこかで学ぶ。
でもこの階級の人達は学ぶ必要がない。というより、学ぶ機会を与えられない。
いつでもニコニコして、求められたら自分のあまり余った資源を使って人助けの真似をしてやればいい。
決して意識しては偉ぶってないのだろうけど、根っこの部分で何かが違うのだ。
大学の時この手の人(戦国時代の九州の武将の末裔)が書いた詩集を
読ませてもらったことがあるけれどすごいメルヘンチックだった。
この人にとっては、これが現実なのかと頭が痛くなった。
でも、私は彼が自分の持っているものを活かして、
本気でそのメルヘンチックな願望を現実に変えてくれたらそれはソレでいいかな、と思った。
だからこそ、ムギって偉いなと思う。いや、偉いってのはあくまでこっち側からみた発想なんだけど。
正直、分かり合うことは無いと思う。というより彼女に私達の常識を押し付けることは
天皇に庶民感覚を求めるくらい無駄なことだ。(そういうバカな報道もたまに見かけるけど)
もし彼女が下層階級におちても、彼女は一生メルヘンの世界に生きている。
別に私は彼女に不幸になってほしいとは思わないので、
彼女が、私達下々になど関わらず(どうせ理解できないのだから)上流階級と仲良くしながら
彼女なりのやり方で日本を良くしてくれればいいと思う・・・無理かな
私は鳩山さんや麻生さんが庶民感覚を持っていないといって責めたマスコミが死ぬほどバカに見える。
私達は彼らが私達を理解することを求めているのか?違うだろ?
「私○○女子高生。ちょっと自分に自信のない女の子。■■くんのことが好きなの。
彼の前では素敵な女の子でいたいけど、
彼の前ではアガッてしまって自分の恥ずかしいところばかり見せてしまって自己嫌悪になる。
どうせ私なんてこんなもの。
でも彼に見られるのはハズかしけど嫌じゃない。彼ならそんな私も笑って許してくれそう。
彼に会うまでは自分なんてつまらない人間だと思ってたけど、彼のおかげで私自分のこと好きになれそう」
みたいな、ベタベタアマアマメルヘンメンヘルな話を想像されるかもしれないけど、そんないいもんではない。
31になってまだ独身だと、
「もっと自分に自信もて、自信がないから男を避けちゃうんだ」みたいな
余計なお世話を焼かれることがたまにあるが、別にそういうわけじゃない。
私は人のことはすぐ好きになる。男の人普通に話もするし、男性が嫌いとかいうことはない。
自信がないわけでもない。別に私がすごい人間だとは思っていないけれども、
他人様と比べて圧倒的に駄目な人間だとも思っていない。
ただ、私は、人を好ましいと思えば思うほど、
自分が誰かを好きであるという状態が気持ち悪く感じられるのだ。その状態自体が気持ち悪いのだ。
脳みそに人を好ましいと感じる部分と嘔吐中枢が近くにあるか直結しているんじゃないだろうか。
だからなんだというわけではないのだけれど、
生理的な理由で私は「人を好きになること」と「その人を好きな自分を好きでいること」が明確に分かれている。
前者は素晴らしいことだと思うが、後者は気持ち悪いことだ。
多くの人がこの2つを区別せず使われているけれども、人と関係を結ぶためには、両方が必要であろう。
私は「人を好きな自分」を好意的に受け止められない限りは、
本当の意味で人を好きになることは出来ないんじゃないかと考えている。
ちなみに萌えという概念がある。これは私と逆の欠陥を抱えた人だと思っている。
前者がおぞましいもので、後者だけを必要とする奇妙な感覚なのではないか。
前者はそういう意味で好きになれるものであればなんでもいいのだろう。
よく二次オタと呼ばれる人が気持ち悪い人扱いされているが、自分の周りにいろんなものに萌えている人がいる。
対象がなんであれ、恋愛という基準に照らしてみれば、どちらも欠陥がある意味で変わらないだろう。
私のように誰かを好きな自分を好きでいられない人も、
他人よりも自分を好きになってしまう人も、
他人とこのましいかんじょうを持って一緒に居続けることは難しいのではないか。
誰かと長いこと付き合い続けられる人は、それが友情であれ恋愛であれ素晴らしいことだと思う。
でも、それは素晴らしいことなのだから、他人とそれを分かち合おう、他人にも薦めようということならともかく
それが当たり前だといって押し付けたり、できないからといって見下したりしないで欲しい。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20081214/p1
上記エントリーへのブクマコメに対してIDコールを頂いたので、ここで回答を書いておきます。
自分のブログで書け、と言われそうですが、既に全く更新してない廃墟なので。
id:thoughtplace 取り敢えず「努力しないことは道徳的な悪ではない」には異を唱えておく。怠けているせいで低待遇なのは当然であって、働き者にとっては比較対象にすらならない。クリエイティブなものを生み出す「怠け者」って何? 2008/12/15
id:y_arim 単なる賃金の差に道徳上の善悪を見出すってほとんどメンヘル思考だぜ、それ。それとも16世紀のプロテスタントか何か? クリエイティヴなものを生み出す怠け者については、村上春樹の執筆時間とか考えよう 2008/12/15
単なる賃金の差を悪だとは思いませんよ。
元エントリの前提は「スキルアップ努力も貯金もせずに浪費しまくり、ギャンブルや女遊びなどの自堕落な生活を続けて失業しちゃった人達」です。
元エントリ自体が、「職も維持出来ない程に怠けきった人」と「職は確保した上で適当にやっている人」を混同して書いている節があるので、認識にずれがあるかも知れませんが、前者を「単なる賃金の差」で済ます方がメルヘンだと思うんですが、如何でしょうか?
では、前者を何故「悪」と呼ぶかと言えば、「ただ怠けている」と言うだけの理由で、他の人に「救済」して貰っているからです。
「国家」なんて持ち出さなくても、何の収入もなく生活している以上、その人を養っている人(多分家族)が居るでしょう。
そういった人達の収入を食いつぶしても平気で「努力しない」で居られるのは、充分「悪」だと私は思います。
そんなのはカビの生えたプロテスタントの考えだ、ニート万歳! と言う方も居るかも知れませんね。
私とは相容れませんが。
一応補足しておくと、「職は確保した上で適当にやっている人」に対して発生する「単なる賃金の差」に対しては「怠けているせいで低待遇なのは当然であって、働き者にとっては比較対象にすらならない。」とコメント済みです。
日本でも裁量労働が導入される様になって大分経つのに、随分前時代的な思想ですね。
まぁ、そういう考え方もあるでしょう。
ですが、村上春樹が村上春樹である為に掛けている時間は執筆時間だけですかね?
村上春樹と同等の知識や発想力や表現力を得る為に必要な時間はどれ程のものでしょうね?
村上春樹はそれを「努力している時間だ」とは言わないでしょうし、むしろ「俺は怠け者だ」と言うでしょうが、「スキルアップ努力も貯金もせずに浪費しまくり、ギャンブルや女遊びなどの自堕落な生活を続けて失業しちゃった人達」とは次元が違う事は議論する必要も無いと思いますね。
こんな所で回答になったでしょうか?>id:y_arim
from id:thoughtplace
イッツ・ア・スモール・ワールドは別段好きではない。
むしろwktkして乗ると案外単調で退屈だったりして、肩透かしを食らうこともある。
だけどアレに乗らないとどうしてもディズニーに行った気にならないのだ。
で、何でそこまで思い入れがあるんだろうと考えていたら、
自分はイッツ・ア・スモール・ワールドの持つ「時代遅れで嘘くさい」雰囲気に、どうしようもなく惹き付けられるんだと気づいた。
アレは「なつみSTEP」に近いような、そこはかとない不安定さ・危うさが漂ってる。気がする。
待機スペースの無駄なだだっ広さ。壁一面を彩る幾何学的でメルヘンな絵、にも関わらず天井とスロープは真っ黒。むき出しの鉄パイプ。
急旋回もアップダウンもなくただゆっくり進むだけのボート。張り付いた笑顔でカクカクと単純な挙動しかできない人形たち。
違うゾーンに入るとタイミングが合わず変に混じった歌声。うつろな目をした仮面が描いてある民族衣装。
ディズニーのアトラクションはたいてい良くも悪くも作り物っぽいんだけど、
それぞれの世界観に合わせて徹底的に作りこんであるので、個々がきちんと「夢の世界」として成立している。
しかしイッツ・ア・スモール・ワールドに限っては、年季入ってて若干寂れてる上に、ツメが甘いというかボロが出てるというか、なんとも「虚構の現実」感が凄まじい。
そのへんのテーマパークならそこまで違和感ないんだろうけど、天下のネズミー王国にあるだけに浮いて見える。
そこにテーマのリアルさもあいまって、見ようによってはシュールの連続で、ある意味強烈にエグい。
そもそもディズニーは夢と魔法の王国なのに、どうしてアレだけはストーリーも主人公もないんだろうか。
これはきっと、「世界平和なんて魔法の国の小さな世界でしか成立しねーんだよ!」というディズニー自身のメタ的な自虐・・・おっと誰か来たようだ。
さんざんなこと書いたけどやっぱりイッツ・ア・スモール・ワールドが好きです。
もしもこの先大幅な改良が加えられて、プーさんのハニーハントばりにギミックいっぱいで充実したアトラクションになっちゃったら、それはそれで面白いだろうけど、
それはもうイッツ・ア・スモール・ワールドとは呼べないし、たぶんもう二度と乗らない。
せっかくid:heartless00が起こしてくれたので、森岡正博×宮台真司 なぜ日本人は結婚しなくなったかに好き勝手突っ込んでみる。発言順の編集有。
30~34歳の未婚率
70年 男 11.7% 女 7.2%
05年 男 47.1% 女 32.0%
しかし30代前半ということはこれから結婚の可能性が高く、単に晩婚化を示した数値だからなあ。寿命が延びて教育が長期化した当然の帰結だし。「なぜ日本人は結婚しなくなったか」がテーマならせめて30代後半、生涯未婚がテーマなら40代以降の数値を出して欲しかった。
まあどの年代の数字を出してもこの傾向は示せると思うけど、テーマに対する的外し感と一番数字が離れて見えるとこを狙った感が見え見えで萎えるなー。
早く男性性なんて捨てちゃえばいいのにね。2人口で細々やっていくか、女に食わせてもらうのも普通になればいいんだよ。
女の子は女の子で、その汚い射精や劣情を惹き起こさせる存在である自分を汚いと思ってるよ。どうせ汚いなら他人の汚さ(を喚起するという自分の性質)に振り回されるより自分でなんとか出来る方がいいじゃんね。自分の汚さの源泉が他人の欲情だったらもう本人にはどうしようも無いよ。鈍感になるくらいしかないよ。女に生まれたかったなんて考える潔癖症気質の繊細クンは実際に女に生まれてたらもっとドツボにはまってたと思う。(そういう性質の人にとっては)男に生まれてラッキーだったと思うよ。
宮台:アキバ殺傷の書き込みを見ると、「顔が醜いからモテない」それが彼を絶望に追いやっているが、これはありえない勘違い。ナンパカメラマンは平均的な顔で、イケメンはむしろ女性に警戒される。
女の行動原理は自らに向かうナルシズムであり、イケメンはナルシズムの妨げになる。話は逸れるが、女性描写でこのナルシズムを正確に書いてあると、やるなこの筆者と思う。男から見た俺が女だったらこうだろう描写が多すぎるから。「顔が醜いからモテない」はその典型例だなー。お前が顔重視だから他人もそうだってことにしといた方がリアルティがあるんだろ。
武田:キャリアウーマンの女性は・・ネタなのか、自分を負け組と定義していたりはするようだが・・
宮台:あれはむしろ女子高文化的、「他とは違う自分」肯定の身振り。
宮台うぜーーー。お前が負け組語りをするとしたら「他とは違う自分」動機しかありえないってだけだろーが。まさに手前が○○だから他人もそうだってことにしといた方がリアルティがあるメソッド発動中。女で高学歴高収入高キャリアってのはヒエラルキー的には下がるんだってば。履歴見ただけで高慢で嫌な奴だと推定されるからお腹見せスタンスではじめてバランスがとれるんだよ。お笑いで生きづらさを解消してるんだよ。他にもピエロ役いっぱい買って出てるって。そんなん現代を生きていたら嫌というほど分かるって。
森岡:事実婚というカテゴリーはどうなっているのか。ヨーロッパでは事実婚が大きな位置を占めている。
森岡:婚活とか言われているが、法律婚にすぐ結びつくのは危険。男女の関係、いっしょに生活をする観点から考えれば法律婚だけが結婚ではないはず。法律婚一種類を前提にすることが少しおかしい。もっと多様な結婚形態があるべき。
法律婚とか待ってるから少子化とかするんだよ。もっと婚外カップルやその他のパターンの婚外子を想定すべきだよなあ。そんで授かったもんは全部有難く育てればいい。産む人と育てる人が別でもいいよね。養子制度がもっと普通になってさ。
森岡:「草食系男子の恋愛学」は恋愛のススメではない。今の社会は「恋愛しなればならない」という言説が振りまかれすぎている。その言説によって苦しんでいる男女がたくさんいる。それは問題で、「恋愛しなければ一人前じゃないというのは嘘だ」というのは前提として・・。
森岡:私の若い頃はモテず、好きな女性からは必ずフラれていた。それでも恋愛したかった。肉体的な欲求もあったが、もっとメルヘンチックな感じの欲求があった。
どうでもいいけど非モテとか草食系男子(予備軍)とかは非モテ同士でくっついて慰め合って、必要ならセックスもそこですればいいのに。お互いに一番よく分かってるじゃんね。メルヘンチックな欲求も劣等感も。そんなもん他人に向けんなよ。
森岡:それは微妙で・・。世界的に見ても「男たるもの、マッチョたれ」という言説があふれてて、「草食系でもいい」というメッセージはあまりない。だから私はそういうメッセージを投げたかった。
森岡:僕の場合草食系だったけど、モテるためには肉食系にならなけばならないと思って、筋トレしたり、マッチョに付き合ったりしたんだけど、結局アイデンティティークライシスに陥った。
読めば読むほど自分(達)で完結すべきで、他人を巻き込むなよと思うんだが。森岡はストレートに先輩非モテから後輩非モテへのメッセージだけしてればよかったのに。なんでそこで女を介さないといけなかったのかね。対象にされた方は気分悪いよね。
森岡:私の場合は思春期の頃、自分が男として生まれてきた事がどうしても肯定できなかった。今だからその感覚を言語化して考える事ができるが。社会は男にマッチョたれとずっと言って来た。稼げ、戦えとか。それも疑念だったがそれとは別に、男は汚いと思っていた。すね毛は生えてくるし夢精はするし、肯定できなかった。
宮台:僕もまったく同じで、自分が女の子だったらよかったのになと思っていた。小学校の頃、女の子とよく戯れていて、男子中高で女の子と接しなくなって、大学に入ったらショックを受けた。合同サークルの女の子達は男に色目を使う性的な汚い存在だった。
再び女の子になりたい発言。しかしこの発言、この2人の対比がよく出てるな。どっちかというと森岡氏の方が付き合いにくそうな。こういう思考が内に篭るような、なんかあると全部自己に帰着させちゃうタイプの人は扱いにくい(哲学者なんで本業のためにはいいんだろうけど)。女なんて汚ねーとか言って外に出してしまう方がまだ健全な気はする。
森岡:社会は男の子はかくあるべし、と言って来たし、いつのまにか女の子もそれを内面化してたのかもしれない。僕は今でも女の子が2人で手を繋いで歩いてるとこ見ていいなぁと思う。男同士じゃ出来ない。
そんなこと言わないで非モテ同士で手をつないで歩けば世の中も平和になるのに。その代わりこっちも一切の男性性を求めないから。
宮台:デートレイプの話ですが、今は彼氏彼女がいてもメルトモがいたりする。束縛男の場合、疑心暗鬼になって相手の携帯を見る。30分おきに居場所を報告させる。自分がいるところの写メを送らせる。そんな監視状態に置かれた女の子がどんどん増えている。それは暴力的で、女の子開放してあげたいと思うし、男の子も不自由だと思う。監視を承認の代替物として受け取っている。そんな男の子にどう言えばいいのか。
いや宮台それはちょっとレア事例すぎだよ。それになんでこれがデートレイプなんだ?いくらなんでも言葉を軽く使いすぎじゃないの。
ステージ(笑)。前後で言ってることは間違っちゃいないけど、それ以上に、こういうことを高いだの低いだので発想するのがそもそも「ステージが低い」わ。陳腐過ぎて眩暈がする。このひとホントに言論人かね。想定読者を意識して意図的に言ってるんだとしても、読者を馬鹿にし過ぎな印象。
しかしこの引用しながら偉そうに言いたいこと吐くid:**********メソッド(各自好きなidを入れてお楽しみください)ってうざいな。我ながらキモいものを書いてしまった。
はてブを見たら、追記をしておく必要を感じたので。
この記事を書いた自分は、射精や男の体そのものが汚いとは全く思わない。しかし「思春期の男子が」「射精をする自分は汚い」と思う、そう思ってしまう子が一定数いるのは無理もないと思う。そして自分の欲望を汚いと思いながらそれを向けるとき、向けられる側としてはどうしようもないということ。欲望を持つ側がそれを汚い欲望だと思えば「汚い欲望を喚起する汚いわたし」になるし、そう思わなければならないで済む。
帰省中。家にあった「ドラえもん」をなんとなく読んでたのですが。
のび太たちが,地底世界で生きのびていた恐竜の末裔,地底人と会う話。
ロー(地底人の女性)とのび太たちが,地底の湖のほとりで話している。
地底世界には「日光ゴケ」がはえていて昼夜はあるけど,空もないし季節もない。
しずか
「地上ではもう秋で 赤や黄色の枯葉が風にまってるころだけど。」
ロー
「木の葉が赤や黄色になるの?」
「えっ,地底には紅葉がないの。
そりゃぜひみせてあげたいな 夕日にそまった紅葉の山の美しさを。」
「そうそう そこに雨上がりの虹でもかかればもう最高!!」
ロー
「雨? 虹?」
「なんだ雨もしらないの? 雨はね 雲の水滴が……,」
「だめだよ,まず雲からせつめいしなくちゃ。
雲ってのはね,地上の青い空にポッカリと……。」
「夜になると月がでて,星が空一面にピカピカキラキラ。」
ロー
「まるで夢の世界みたい…, いってみたいわ。」
(p.121-122)
ああ,ほんとうにそうだ。
思えばなんてメルヘンチックな世界にわれわれは生きているんだろう。
でもこんなこと,それこそ夢にも思ってなかった。
こういうふうにものを見られる人って,そういないよな。
さすが藤子・F・不二雄,というところだろうか。
「いらっしゃい ぼくがガイドしてあげる。
近くロールスロイスを買う予定だから…。」
僕は、ブゥ編の最後、地球上のみんなにサタンの呼びかけによって元気玉の元気をもらったシーンちゃん!
エネルギー波を飛ばしたり、月や惑星を軽々破壊したり、月を見ると巨大猿化したり、瞬間移動したり、
国王が犬だったり、三つ目だったり、鼻がなかったり、しっぽが生えてたり、
柱に乗って飛んでいったり、舌だけで人を殺したり、一度倒された後、改造人間になって現れたり。
でも、そんなことよりも、あれはずっと現実離れしていると思う。
「多くの人になにかを分かってもらう」という行為は本当に難しい。
どれだけ広告や広報の方法論が進化したとしても、多くの人に伝えるのはなお難しい。
パロマのガス器具の回収は全戸に郵便した上、毎日CMで延々と告知していた。
それでも全部の回収は終わらなかったはずである。
地上波デジタルも裁判員制度も、もうすぐ来るというのに、世間の多くの人はまだなにも知らない。
そう考えると、あのシーンが一番メルヘンだと思う。
しっかし、バトルマンガの最後がテレパシーで決まる、ってのも興味深いものがあると思うんだ。
強大な敵を倒すために、(世界の)みんなから力を借りる、というのはドラマツルギーとしてよくあるんだよね。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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株式会社カルチャーブレーン(CULTURE BRAIN INC.)は、主にコンピュータゲームを製造、販売している会社。1980年10月5日設立。
本社は東京都葛飾区宝町2丁目30番16号。東京事業部および第二本社(登記上本店)は東京都江東区亀戸3丁目47番17号。
代表作に飛龍の拳シリーズ、スーパーチャイニーズシリーズ、ウルトラベースボールシリーズなどがある。
目次
[非表示]
* 1 主な開発タイトル
o 1.1 アーケード
o 1.2 ファミリーコンピュータ
o 1.3 スーパーファミコン
o 1.4 プレイステーション
o 1.5 セガサターン
o 1.6 NINTENDO64
o 1.7 ゲームボーイ
o 1.8 ゲームボーイカラー
o 1.9 ゲームボーイアドバンス
o 1.10 ニンテンドーDS
* 2 関連項目
* 3 外部リンク
主な開発タイトル
* 飛龍の拳スペシャル ファイティングウォーズ(1991年6月21日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター(1992年7月31日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター ハイパーバージョン(1992年12月11日)
* スーパーチャイニーズワールド2(1993年10月29日)
* スーパーチャイニーズワールド3(1995年12月22日)
* コンピュータ脳力解析ウルトラ馬券(1995年5月26日)
* 動物キャラナビ占い2 個性心理学+恋愛占いパズル(2003年9月18日)
* プロ麻雀「兵」シリーズ 女流雀士に挑戦??私たちに挑戦してネ!!??(1999年11月2日)
* 忍たま乱太郎64 ゲームギャラリー(2000年4月21日)
* スーパーチャイニーズランド1・2・3(1996年9月13日)
* スーパーチャイニーズファイターGB(1996年12月28日)
* 忍たま乱太郎GB えあわせチャレンジパズル(1998年6月19日)
* スーパーチャイニーズファイターEX(1999年12月24日)
* 女流雀士に挑戦GB ??私達に挑戦してネ!??(1999年12月17日)
* ハムスター物語GB+マジハームの魔法少女(2002年8月9日)
* フェレット物語 ディア・マイ・フェレット(2000年4月28日)
* 「アカギ」 ??闘牌伝説/闇に舞い降りた天才??(2006年3月3日)
* おしゃれプリンセス2+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年12月20日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー(2003年9月26日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー2(2004年12月17日)
* 仔犬といっしょ! ??愛情物語??(2003年8月1日)
* 昆虫の森の大冒険 ??ふしぎな世界の住人達??(2005年8月11日)
* スーパーチャイニーズ1・2 アドバンス(2004年6月24日)
* スウィートメルヘンのケーキ屋さん+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年11月1日)
* ツインシリーズVol.1 めざせデビュー! ファッションデザイナー物語 / かわいいペットゲームギャラリー2(2004年8月12日)
* ツインシリーズVol.2 おしゃれプリンセス4 / 恋愛占い大作戦(2004年10月22日)
* ツインシリーズVol.3 昆虫モンスター(ムシモン) / スーチャイラビリンス(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.4 ハムハムモンスターズEX / ファンタジーパズル ハムスター物語魔法の迷宮1+2(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.5 わんわん名探偵EX / 魔法の国のケーキ屋さん物語(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.6 わんにゃんアイドル学園 / 仔犬といっしょスペシャル(2004年12月10日)
* ツインパズル「1.きせかえわんこEX 2.レインボーマジック2」(2004年12月17日)
* ハムスター物語3EX、4、スペシャル(2003年11月28日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(1)「わんにゃんアイドル学園」(2003年12月26日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(2)「きせかえエンジェル」(2004年3月25日)
取るに足らない末節の部分に気を取られ、本質を見失う。
だから往々にして、どうでも良いとても下らない事で 折れる。 無様な音を立てて。
それは言い訳でしかなく、時には本当に好きでは居られなかった、という証拠をまざまざと見せつける。
本当に愛していたなら、裏切られた等と決して言う筈があるだろうか。
まず最初やりたかった事は何なのか。
それをどうでもいいものに惑わされて見失ってしまう事ほど悲しい事は無い。
経緯や背景がどうであるとか、後から付け加えられた義務感が重荷なら振り切ってしまっても構わない筈だ。
形の無い言葉を振り払ってしまう程の価値があるのならば。信じているのならば。その程度の力ぐらい充分に有るだろう。
本当に大事にしているのは何か。
それを何故忘れるのか。
それとも本当に大事ではなかったという事なのか?
#ここで「いやそんな筈は無い!」と思うのなら、迷っている場合じゃないと思いますが
そこを譲り渡してしまった瞬間、作品は何かの奴隷になる。
創作である限り全ては第一に作品の為であり、いずれの所有者の為に限った物に成り下がるのは不毛だ。
#「いずれの所有者」とは 創作者と受け取る側 両者を指して言っています。
逆に言えば、誰かに受け入れられない事を恐れて
本来目指そうとした姿を歪めてしまうのは本末転倒である、という事です。
そもそもそれは妄想で、所有者の数が不定(時間と共に増減する)である以上、断定してはならないと思います。
良い反応を期待するにしたって、出てみないと本当の姿は解らないですからね。
「全ての願いを満たす」と作品自らが望まない限り(それがコンセプトとか原点・究極の目的の場合、という事です)
一切の迷いや厭いは多くの人にとって喜ばしくない不純となり得る、という事です。
ましてや、現実として人間には尽くす力に限界がある。 はっきり言うと言い訳だが、これは動かない事実だ。
少なくとも最初からそれが見えている人(露骨に例を挙げるとするならZUNさんネー)は聡い。そしてごくごく僅かだが、そうでない者より強い。
目的に対し盲目ではないが(時に、見えすぎている事は残酷である)、そこへ到る道が最初から全て見える事は決して無い。故に紆余曲折するのだ。
だが周囲は不安である。 自分達の願い(?)が満たされるかに期待を持ってしまうからこそ。
地図の断片を持っている可能性はあるが、基本的に目標を知らないので盲目だ。 故に事有るごとに一喜一憂する。
それぞれの立場で、自分が出来ると思う範囲で足掻く事も、自分がそうしたいと思っている以上良い選択だろう。
だが、そういう意味では最初から期待していない、というのも案外一つの利口な判断かもしれない。
少なくとも思いこみが邪魔をする事や、視野を曇らせる感情的要因…つまり要らない情報の垣根を自ら作る、という事は無い筈だろう。
どんなに自分を強く突き動かすものがあったとしても、それが本当に自分を動かすに足りる物か否かを検める事も大切だと思います。
その垣根が自分を覆い尽くす時、世界は腐り、そして程なく息を引き取るのだ。
時として下らないものが情熱を殺す。 認めたくはない、悲しいけれど殺されてしまう事がある。
私の中にもそういう物が確かにあって、出来るものなら全部大鍋で煮込んで食らい尽くしてしまいたい。
そんな小さな世界のお話。(読み返してみて、視点が一貫してないなあ)
むしろ、こんな話が出来る時点で それは既にメルヘンなのですけどね。
例によって つれづれです。 短いので興味のある方のみどうぞ。
多少激しい文章表現もありますが、攻撃ではなく挑戦的な意味合いで悪意ではありません。
有り体に言ってしまえば、物事が出来てしまう事そのものにはそこまでの価値は無く
そこまでの過程にほぼ全てがある、と言う事になります。
もしもその間に何も無ければ、あるいは限りなく薄ければ
人がそれを行う事そのものに意味が無い というより
それは既に完成してしまっており、人が手を加える余地など無いか、
又はそれが出来ているつもり という事になります。
人が手を加えなくても回る世界であるとしたら、
それはゲームコーナーでコインを入れずにレバーを弄っている子供の姿に似ている。
実際手を加えなくても回ってしまうのですが。 そして手を加えたところで回る保証など無い。
押した力に応じた手応えが返ってくるだけだろう。
思えば、コインを入れるというのは知らず知らずのうちに その決意を表していた行為なのかも知れません。
理不尽な世界に身を委ねる不安と、そこに進もうというささやかな意思がワンコインだったのではないか。
全ては無駄だから、無駄の中に無駄を探し出すしかない。
徒労を惜しむことなく、省みる事すらなく無駄を探しつづけているのです。
幸せが幸せのままでは終わらず、続きの話があると解っていても、
それを求めずにはいられないのですから。
それは期待ではなく、いや最初から期待出来るものではない事を知っているからこそ
ただ力を注ぎつづける と言う事かも知れません。
敵は倒せる様に設計されているだけであって、
基本的に倒されるために出てくる訳ではありません。破壊されるだけの物体のどこが敵と呼べますか。
そうではない場合、他の敵を生かす為に囮として現れる場合か本当に弱い(あなたにとって敵の内に入らない)かのどちらかです。
敵には敵の都合があって当然なのです。 自分で都合の良い状況を作り出すしかありません。
全ての人間が最初から達成出来る確証が有る、というのでは
プレイヤーがわざわざ動かしている意義がありません。
まず「何とかしてもらう」のではなく、「何とかしよう」というのが大切です。
その為の武器は必要以上に搭載されているので、扱い方は各自で考えてください。
ですが極端な話、必要最低限のショットと避けだけでも充分な力を持っています。
自機は敵を遥かに上回る力を持っています。(そうでないSTGも珍しいですが……)
スペック上最強であるのに何故勝てないのか、その理由はどこにあるのか、逆に言えば違いをもたらすのは何なのか。
自機はあの世界でのあなたの強さと弱さをダイレクトに移す鏡です。
経験の有無も影響します。 新しい世界ですから。(STGの基礎的なスキルと共通する部分も多いですが)
最も自由な存在はあなたです。全ての強さと弱さはを自由に伴なうものです。
雰囲気を味わうだけが全てなら、コントローラを握る理由は無い筈です。
凶器を振り回すだけなら、人間でなくても出来る事なのですから。
色々な人がいる。それぞれ違った問題を抱えている。苦手な事も得意な事もバラバラ。
だから適切な難易度と言う言葉は実体を持たず、幻影でしかない。
それは上下の幅の問題であって、ベクトルの軸は一本ではない。そしてそこに中心はありません。
有り得ない”一般のプレイヤー像”に擦り寄って本懐を濁らせてしまう事は危険です。
初心を忘れ、核心は薄れ、誰にも伝わらない物になり下がってしまう罠があります。
人を選ばないというのは甘い幻想だ。本当にそれを目指すなら正直に人の数だけモノを作れ。
プログラムがゲームを動かしているのではなく、プレイヤーがゲームを動かすのです。
なぜならゲームの最後の要素はプレイヤーであり、もっとも自由で多様性の有る要素だからです。
だからゲームに動かされてはいけない。組みこまれてはいけない。何も与えてはくれないし、誉めてもくれないのです。
最も重視したいのは、あなたがそこに立っている意義を。 コントローラを握る意義を。
そう 全てはあなたの尊厳のままに。
……と、言いますが、私は
作り手本位でも、プレイヤー本位で作っているのでもありません。
全ては作品本位です。
もし仮に私が皆さんの事を大嫌いだとしても、作品が好きだと言えば そのように従います。
もし仮に私が皆さんの事を大好きだとしても、作品が求める以上の余計な事は極力しません。(ここで全くしないと言えないのが私の弱さです)
それだけは信じても良いです。
低ラン大はバカ比率高し、なんて大学単位で学コン話に花を咲かせている増田もおりますが、多くの学生さんは、まず自分の大学でバカを発見するのではないでしょうか。
また、バカと一口で言っても程度や具体は様々。そこで今日は、同じ大学に通うバカ女<G子>を例に挙げ、“バカって何だ”という愚かしい命題解法の一助にしたいと思います。サッカーは関係ありません。
G子は、本当に困った女です。まず精神構造がメルヘンです(メンヘルではない、近いが)。自らをお姫様と称し、白馬の王子様への焦がれを周囲に訴える、成人女性です。
口癖は「なんでみんな、物事を複雑に考えるの!?単純でいいのに!難しく考えたくない!」。
BL系の素質があるのか、はたまた女には生まれつき備わっているのか、何かと知り合いの男と男をくっつけたがり、一人で興奮して悲鳴(甲高い)をあげます。
http://anond.hatelabo.jp/20070623084221(なぜ『のだめカンタービレ』はセックスしないのか)
この点は上の増田が参考になりそうです。妄想甚だしい王子様を待つ恋愛観の人間は、具体的な男性性を避けるために、BLという空想世界に浸り込むのでしょうか。そこはどのような恋愛も許されるユートピアでしょうから。
話がそれましたが、G子は通常の挙動もおかしい。落ち着きがなく、「地がぶりっ子」という究極の属性持ちです。これを「ヂブリ」と周囲では読んでいます。
精神構造はメルヘンと言いましたが、言い換えると、文化記号弱者、というのがピッタリな気がします。
例えば、結婚が人生のゴールだ、どんな占いも信じて疑わない、女性向けメディアの価値捏造にひれ伏す、といった具合です。
しかし、G子の最も困る点は、コミュニケーションできない、ということです。まず人の話を絶対に聞かない。人が話をしているとボーッと呆ける。一対一なのに。そして、何事もなかったかのように自分の話をし出す。
そこで私は、彼女が喋る間ずっと黙り続け、話が途切れた時の反応をうかがうことにしました。そしたら、数秒の間を空けて、何事もなかったかのように次の話題を展開し始めたのです。末はサンマか噺家か。
こんな彼女と、数日前にキャンパスで遭遇してしまいました。1ヶ月ほど会ってなかったのですが。たまたま用事で一緒に歩いていた友人(男)と僕をみて、「本当に○○君たちって愛しあってるのね、ステキ。私はぜんぜんモテない…」と言い出す始末。どちらかというと僕は連れの友人が嫌いな部類で、用があるとき以外は一緒に歩きたくない。しかし、こちらが「何を言ってんだ?」という空気を流しても全然動じず、目の前にあるBL刺激剤を貪ろうとする。否定する声には聞く耳もたず、友人が海外へ留学するという話が出ると初めて反応し、「○○君が寂しくなるよ??!だめじゃん!」と怒り出す。
BLの標的にされた嫌悪感で吐き気がし、この界隈から脱出しようと強引に前進したところ、私はG子と接触してしまったのです。
G子はおかしな(形容しがたい、気持ち悪い)体勢でBL語りをしていたので、すぐにバランスを崩し、ゴロリと転がる。そして半笑いで涎をダラダラこぼしながら、「砂食べちゃった」とワンピースの裾で顔を拭く。起きあがり際、パンプスの踵をすべらせ、もう一度こける。
バカらしくなった私は、手を貸したが何も問わず、その場を去りました。
バカにもいろいろな基準があるようですが、私の思うバカとは、「付き合っているとバカらしくなってくる」種類の人間です。
以上、お付き合いいただき、ありがとうございました。
http://blog.livedoor.jp/takahashikamekichi/archives/51599973.html
田中康夫さんが有田芳生さんと組んで、参議院選への出馬を発表しています。いまも信州で田中さんを支持する人たちの間では、「誰が長野県での支援を担うのか?」に関心が集まっています。田中さんが人物を評価する基準は「マスコミで有名か、どうか」ですから、産婦人科医の根津八紘さんあたりがやるのかも。
かつて田中さんの後援会の活動をしていた人たちの近況を尋ねてみると、自殺した人、職を失った人、経営していた旅館やお店が無くなってしまった人が、少なからずいるので驚きます。「しなやか」とか「改革」とか、口当たりの良いメルヘンのようなスローガンに付いていっても活路は見えない。それより具体的かつ実践的に、「いま何をするのか?」を考えて実行する段階に入っているのです。田中さんに追随する人たちは、いまだにマスコミを中心に世の中を見ている人たち。暮らしと経済を考える私は、別の道を歩んでいます。先の県知事選で田中さんのビラを配っている人たちには、いかにも善良そうな高齢者の姿が目立ちました。