「スポーツ選手」を含む日記 RSS

はてなキーワード: スポーツ選手とは

2017-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20170418201529

もちろん大多数の人間は気にしない。

ガムを噛むのは集中力を高めるためで、スポーツ選手にとって必要ルーティンだ。

ガムを噛む選手が異常なのではない、ガムが気になって気になって仕方ない奴が異常なのだ

クチャラー問題があるのではなく、クチャクチャ程度に怒り狂う奴がおかしいんだという認識も、そろそろ共有されればいいね

http://anond.hatelabo.jp/20170418200537

スポーツ選手がくちゃくちゃガム噛みながらプレーする国か・・・

あれ中継見ていてアップにされると不快だけど、気にならないか普通に映すのだろうなぁ

2017-04-17

[] アライ

「アライ」とは、英語で「同盟支援」を意味するally語源で、LGBTレズビアンゲイバイセクシュアルトランスジェンダー)の

当事者ではない人が、LGBT代表される性的マイノリティ理解支援するという考え方、あるいはそうした立場を明確にしている人々を

指す言葉です。非当事者であることを明示するために「ストレート異性愛者)・アライ」とも呼ばれます

北米に端を発するアライの活動は、芸能人スポーツ選手など多くの著名人共感を得て、世界中に広がっていきました。

https://jinjibu.jp/keyword/detl/738/

2017-04-14

一部の発達障害と「共感」する力について

発達障害のある人の手記を読んで思うこと

「私が」ではなく、「周囲の人が」困ったり、迷惑をする時の感情に思いを馳せる力。それはすなわち、他社の感情に寄り添う「共感力」に他ならない。

これは「定型」発達者が、成長の過程でおのずから身につけてゆく力だ。

最近は、職場発達障害の疑われる同僚に接するようになり、障害の様々な態様について関心を持つようになったのだけれど、

そんな中、発達障碍のある人の手記を読むと、この力がポロリと欠け落ちているように感じられることがある。

「私」がこう思った。「私」は、こんなふうに苦労した。だから「私」は今、こんなふうな生き方をしている、等。

論証の視座が自己に偏っていて、どこか一人称小説を読んでいるような気分になる。

特にアスペルガー症候群と診断された人の手記には、この傾向が色濃く出ている。

ex.

アスペルガーの私が、マルチタスク命!のコンビニで働いた結果…」

https://h-navi.jp/column/article/35026205

 →著者ヨーコ氏の他の記事も参照

申し訳なさ」が成長・発達を促す

敗れた側のスポーツ選手はいう。「こんなに応援してもらったのに、応えられなくて申し訳ない」と。

オリンピックワールドカップで、また欧州サッカー選手監督がそういった反省の弁を口にしているのを見ることがある。

から、この「申し訳ない」という感情は決してこの国特有のものではないのだろう。

そして、このような反省悔恨を述べた後、選手監督が次に口にするのは「だから、次はもっと努力したい」という言葉だ。

このとき申し訳ない」気持ちは、周囲に迷惑をかけないために、または、誰かの期待に応えるために、その原動力として働くようになる。

こうすまい、ああすまいと、「自分以外の誰か」にとってよくない結果を避けようと努力し、自らを発達させるエネルギーを生み出す。

自分のせいで落胆したりや辛酸舐めることになる他者への共感=「申し訳ない」という感情が出発点となり、人は成長・発達を遂げることができる。

共感力を伸ばす

こんなことを書くと、発達障害で苦しんでいる当人に、さらに罪悪感を持たせようというのか、という意見もあるだろう。

それは確かにそのとおりだ。

このような「申し訳なさ」に至る=気づくためのメソッド治療方法があるとしたら、それは前出のような手記を書くことのできる状態発達障害のある人にとって望ましいものだろう。

少なくとも、自分がこの世に存在することが申し訳ないというような、極度の抑うつ状態にまで達している発達障碍の人には、すでに禁忌である

私のような素人が、決して軽々しく日常生活に応用していいものではない。

しかし、こちらもまた感情ある人間であって、ふとした瞬間に、相手に対して非難いたことばを掛けることを制御しきれないのも事実だ。

ここで主張したいのは、こういった発達障害のある人から申し訳なさ」を引き出すような問いかけ・コミュニケーションを一概に否定するのではなく、

時には負荷をかけることが有効場合もあるのでないか、ということだ。

罪悪感という負の感情を克服するために、克服したいという意思を持つがゆえに、人は自らを発達させようともがく。努力する。

申し訳ない」という感情に含まれる、他者存在距離を感じるところから視野が拓かれ、自らの発達障害に深い理解が及び、ひいては、その克服に至ることがあるのではないか

以上のようなロジックで「申し訳なさ」を引き出すことが発達障害のある人のためにもなるという主張をしてみたいと思う。

なんでこんなことを考えざるをえないか

望むべきは、私自身がもう少し発達障害の疑われる同僚に気を使ったり、自らを押し殺したりすることなく、時に軽やかに時に遠慮なく、モノを言えるようになることだ。

発達障碍のある人の周囲の人間の負荷。

まったく陽のあたらないこの負担を担ぎながら、私もまた、私自身を視座の中心に据えて、こんなレントシーキングまがいの呟きをしている。

発達障害を望ましい個性であるとか、多様性の発露であるかいった主張だけは受け入れられない。発達障害が克服・改善されない限り、かならず誰かが負担をこうむるのだから

以上。徒然おわり。

2017-04-12

民放でもあるまいにスポーツ選手引退トップに持ってくるの勘弁してほしい>公共放送ニュース番組

2017-04-11

フィギュアスケート選手として終える」って変な日本語だよね?

好感を持っていただけに残念。

1行目の文章くらいは、きちんとした文章を書いて欲しかった。

「終える」は何かを終えるか、何かが終える。

練習を終える」とか。「仕事が終える」とか。

「……として終える」って何? って感じなんだけど。

スポーツ選手って影響力が大きいので、この表現が広まってしまうのも困るなあ。

過去に、英語意味全然違う「リベンジ」が広まったことがあるからなあ。)

今日テレビでやたら目にしたり耳にしたりで、すっかり、気になってしまっている。

いちおう日本語を専門に勉強してきた自分なんだが、この考え方は変?

もし「いや、お前が間違ってるよ。この表現でいいんだよ」っていう人がいたら、

ぜひ詳しく説明をお願いします。

2017-04-09

スポーツ選手はなぜ一人称が「ボク」なのか

大人のくせにワタ(ク)シと言えない情けない連中。

というか、スポーツやってるようなやつらなら普通一人称は「オレ」のはずだ。

なぜわざわざ「ボク」と言うのか。

なぜ「オレ」と言うのをやめて「ボク」と言うのか。

なぜ「オレ」と言うのをやめて「ワタ(ク)シ」と言わないのか。

なぜ「ワタ(ク)シ」ではなく「ボク」を選ぶのか。

若さアピールなのか。

学生気分なのか。

そんなんじゃ社会通用しないぞ。

2017-03-30

http://anond.hatelabo.jp/20170330174222

え、声がでかいおっさんのことを想定した言論じゃないの?

童貞に対して「ソープいけよガハハ」みたいなこというおっさんイクメン嫌がらせするおっさん、そういうのがフェミの敵でしょ?

EXILEとかスポーツ選手みたいなモテそうな男を想定していないのはわかるけど、いかにも童貞くさいコミュ障も男社会主人公としては想定してないと思う。

掲示板にいるミソジニー男は敵というよりバカにする対象しかない。

2017-03-28

よくスポーツ選手が道具に当たったら批判されるけど、ミュージシャン業界でもギター折るのは「けしからん」とか言われないの?

2017-03-27

死んでも代わりはいくらでもいるという現実

上司が死にました。

突然でした。

会社に来たら「昨晩亡くなりました」と。

隣のチームの上司だったけど、大して仲良くもなく、仕事で絡むこともなく、それまで会話という会話はしたことがないけれども、それでもやはり驚きました。

過労死ではないとは思うけども、そこそこ多忙仕事でした。

月に2回程度の国内出張に、3ヶ月に1度くらいの休日出勤代休なし)、残業時間は月60時間くらいでした。

いわゆる過労死判定される80時間には届いていないので、過労死と訴えられることはないと思う。

それだけ働いていた人だから、さぞいなくなったあとは大変だろうと思われるだろうけども、

確かに後任の人が来てその人が慣れるまでの一ヶ月くらいは同じチームの人たちは大変そうだったけども、

後任の人が慣れてからは「亡くなった」という事実すら忘れ去られるくらいに何事もなく仕事が回るようになった。

結局、どこかのアニメであったセリフ、「私が死んでも、代わりはいもの」は真理なのだ

余程名の売れている漫画家とかスポーツ選手とか芸能人でもなく、単なるサラリーマンである場合は、その人の仕事なんてその人が死んだら別の人がやるだけで、いくらでも代わりがいるのだ。

から仕事のために無理をしてプライベート健康犠牲にしたりするのは無駄以外の何者でもない。

「この仕事は俺にしかできないんだ!( ー`дー´)キリッ」などといって、気張って無理をするのもいいけれど、結局自己満足で、自分しかできない仕事なんてそうそうこの世の中にはない。

遊んだり、家族時間を過ごしたり、友達と笑ったり…そういう時間は、自分しか過ごすことのできないかけがえのない時間だ。

仕事プライベート、どちらが大事なの?」なんていう、使い古された命題は、

死んだあとも何事もなかったかのように回る職場を見て一定の答えを得た気がする。

本当に、上司は死んだんだろうか。

上司が死んだと思っているのはその上司家族だけなのではないだろうか。

同僚である私達にとっては、後任の人が普通にその上司がやっていた仕事をこなしてくれているので、

上司が死んだ」のではなく「上司が異動した」という感覚しかならない。

あんたが死んでも代わりはいもの

「私が死んでも代わりはいもの

人間なんて、そんなもんだよなー。

2017-03-24

久保」の優秀さ

優秀なスポーツ選手は「久保」が多い。

久保久保〇などのバリエーションがあるのも大きいところ。

小久保大久保久保田などなど。

これが例えば「佐藤」という有名な苗字でもこの懐の深さは存在しない。

かろうじて佐藤錦というさくらんぼが思い浮かぶくらいだ。

私も「久保」になりたい、そうすれば栄光の道を歩める気がする。

久保」さん結婚してください。

2017-03-11

さよならAC

2011年3月11日、未曾有の大災害東日本を襲った。影響は各方面に及んだ。福島原発は爆発し、首都圏を含む広域な交通網は打撃を受けた。多くの人が亡くなり、多くの人が家をなくした。

この震災を受けて、企業各社はCM放送自粛した。震災時のCM放送が法によって規制されている訳ではなかったが、CM放映による非難企業自主的に避けようとしたのである。代わりに、テレビ局人畜無害ACCMを流した。 繰り返されるCMにより、ACは一躍その名を高めていった。

震災から一週間が経った。震災による犠牲者は一万人に迫ろうとしていた。テレビでは未だACCMばかりが流されていた。企業としてはそろそろ通常のCM放送したい気持ちだったが、もし自分会社けがそうすることによって「不謹慎だ!」と言われてしまってはたまったものではない。ネットではとあるACパロディ動画があげられていた。それは冷静に見れば面白くもなんともないものだったが、きっと他に見るものもなかったのだろう、驚くべき再生回数を記録した。その人気にあやかろうとしたのだろう、次々とACCM関連の動画アップロードされた。大の大人が「ポポポポーン」と叫ぶという、滑稽とも見苦しいとも取れる動画群であったが、人々はそれを不謹慎とは受け取らなかった。

二週間が経った。各国から支援が続々と寄せられていた。人々は(被災していなかった地域を含む人々は)それを見て「A国は素晴らしい」だの「K国はやっぱりクソ」だの言っていた。その頃、国会ではある法案が審議にかけられていた。アンチコマーシャルメッセージ法案通称AC法案である。この法律では、震災復興を達成したという判断政府が下すまで、企業テレビCM放送禁止規定していた。何故こんな法律が審議されることになったのかはよく分らない。しかイメージダウンを恐れて企業法案に反対できなかったし、当然のことながら猛反対の立場をとるテレビ局各社は盛んにこの法律弊害を訴えたが、震災報道ヘリコプターを使って被災者迷惑をかけたり、衝撃的な映像をまくし立てるように放送し続けたりしたテレビ局視聴者は既に愛想を尽かしていた。結局AC法案は難なく両院を通過し、テレビで映るCMACのものだけになった。

一ヶ月が経った。とある実業家による億単位義援金や、さるスポーツ選手によるツアーの賞金全額寄付宣言世間では話題になっていた。テレビ局スポンサーに働きかけるのに必死だった。自社のCM放送されないのに企業お金を出すなんてことはおかし論理だったが、それを認めたらテレビ局は立ち行かなくなってしまう。結局、「番組内で可能な限りスポンサー商品を紹介する」ということに決まった。出演者スポンサー企業ロゴ付きの服を着ることが常識になったし、番組の中でそれまでの流れとは関係なく唐突商品の紹介が始まることになった。それでもスポンサーから今まで通りの料金を徴収することは叶わず、経費削減の為にギャラの高い大物芸能人は締め出され、金のかからない素人芸人の起用が急速に高まっていった。ネットではAC関連動画の盛り上がりが、最高潮に達していた。

三ヶ月が経った。全く前例のなかった計画停電が行われ、都心優遇ぶりに一部の人々は憤慨していた。結局テレビは何とか放送を続けられていたものの、以前との差は歴然としていた。番組の内容もそうだが、間々に挟まれCMが全てACの為、テレビ自体一種カルト宗教的色彩を帯びていたのであるAC側もCMバリエーションを増やしはしたが、それも焼け石に水と言える程度のものだった。もはや国民ACの名を知らぬものなどいないという有様だったが、多くの国民は良い感情を持っていなかった。余りにもCMが繰り返された為、段々ネットACパロディにする人も減ってきた。

半年が経った。さる地方テレビ局が、番組内で東北地方のお米をセシウム米と表示したことが大変な物議を醸した。ただてさえスポンサーからの金が期待できなくなっているのに、その上この不祥事ではもはやなす術がなかった。結果、番組のみならずテレビ局までもが潰れた。テレビ局が潰れるなんてことは前代未聞だった。この事件の後極度にテレビ局各社は不祥事を恐れるようになり、人々の反感を買いそうな発言ますます避けるようになった。ネットでは、(直接的な関わりはなかったものの)ついにACは局を殺したと言われた。

一年が経った。大震災の模様が改めて各メディアに取り上げられた。問題は未だ山積みであったし、それとごろか原発を中心とした被害は更に拡大していったが、人々はというと大震災のものより、原発は推進すべきだとか廃止すべきだとか、与党を変えるべきだとか変えないべきだとか、そういった話題に興味を持っているらしかった。AC以外のCMが消え失せてしまったことも、もはや当たり前のこととして受け止められつつあり、誰かが思い出したようにACネタにした動画を作るだけだった。

二年が経った。被災者を除くと、人々は既に震災に関する興味を失っていた。時代は変わった。震災後急速に衰えていったテレビに代わってインターネットが主要なメディアと見なされるようになった。人々はテレビを見なくなり、テレビACCMしかやらないことなんてもう誰も気にしていなかった。企業は力を失ったテレビに代わってインターネット上での広告に力を入れるようになった。ユーザーの好みにピンポイントで合わせた商品宣伝から、見るだけでお金が貰える斬新な広告までもが生まれた。それはかつてのテレビCM以上に多彩で、ユニークで、興味深いものだった。テレビなんてものパソコンが使えない情弱だけ見てればいい。そんな声が強くなっていった。

 五年が経った。この年大震災テーマにした映画が公開された。それは大変な好評を博し、歴史に残る名作とまでも言われた。しかし、人々は未だ故郷に戻れぬ仮設住宅暮らしを強いられている被災者がいることを知らなかったし、被災地寄付することなんて思いもよらなかった。震災は感動という名のビジネスの道具となっていた。同じ年、政府によりAC法案の解除が発表された。瀕死テレビ業界はこの宣告に狂喜したが、すぐに期待は裏切られた。なぜなら、AC法はこれより四年後、2020年東京オリンピックの開催と共に解除だということが知らされたからだ。明らかに、国が立ち直ったことを国内外アピールするための政府戦略だった。このころになると、テレビは見てはいけないものとさえ思われるようになり、まだあどけない子どもたちが何かの拍子にテレビを見て、「ポポポポーン」なんて言った日には親から叱られる始末だった。

 震災から九年が経った。遂にテレビCMが復活する時が来たのである。既にテレビは最盛期を思えば哀れになる程衰退しており、CMを復活させたところでかつての威光を取り戻すことが不可能なことは誰の目にも明らかだった。各局はなんとかスポンサーを見つけようとしたが、もはやあえてテレビで自社のCM放送しようと考える企業はいなかった。「もうこの業界は終わりだ」最後希望を打ち砕かれた業界関係者たちは嘆いた。

 そしてその日がやってきた。オリンピックの開催とともに、首相によって震災から復興が全世界に高らかに宣言された。AC法も解除された。人々は56年ぶりの首都でのオリンピック熱狂した。散々興味がないと言っていた人までも試合の経過を見守ったり、見たことのない程人で溢れかえる東京に驚いていたりした。オリンピックは、成功裏に終わった。

 その一方で避難者は七万を下らなかった。福島出身の子供に対する苛めも収まらなかった。東北地方の食に対する信頼も回復しなかった。原発放置されたままだった。しかし、そんなことに心を痛める人はもういなかった。人々は震災被害なんてものは遥か昔に回復したものだと思っていたのだ。

 それから人々が震災のことを忘れるのに時間はかからなかった。いや、震災のことだけじゃない。この九年間で人々はテレビを忘れた。テレビだけじゃない。テレビで嫌というほど繰り返されていたACのCM―かつてはネタにして面白がった、それから先は忌み嫌うものとして見なしたCM。特異な状況であれほど繰り返し放映され、国民全員がこの先忘れることはないだろうとさえ思ったCM。そのCMのことすらも、震災に関する全ての記憶とともに、忘れていたのだ。

2017-02-27

芸術家漫画家ユーチューバーあたりの加齢による身体能力の低下があまり障壁にならない夢を追う人にとっては

ベーシックインカムはありがたいと思うし、そういう職業レベルが上がれば、その利益一般庶民享受することができるから良いとは思うけど

流石に30過ぎてスポーツ選手の夢を負うってのはきつくないか

既にプロに慣れた選手が、引退後に第二の夢を追う、とかになら大いに役に立つとは思うが……。

2017-02-26

ゲーム実況見ていて、面白い人・人気のある人って語彙が豊富だったり知識が広くて、上手い下手はそれほど関係ないんだなあって思う

今見てる実況の人、一生懸命喋っていて楽しませようとしてくる所がいいなと思うんだけど

ゲーム内に登場する某人物パロディキャラクターを同ジャンルの全く別の人物とずっと勘違いしてたり

割りと有名な映画スポーツ選手パロディにも気づかなくてナニコレナニコレイミワカンナイって言ってたりするのがむず痒い

2017-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20170218041424

現代社会で働く上で一番重要なのは脳だからだな。

スティーブン・ホーキングくらいの全身麻痺とかまでいけば別だけど、それは優れた脳を持っていればそんな状態でも偉人になれるということを意味してもいる。

逆に脳がダメだとどんなに身体が屈強でも何にもならないんだよね。スポーツ選手(の一部)は需要あるかもだけど、そんな仕事現代にはほとんど存在しないからね。

2017-02-09

ほぼすべての重大事故の元凶である人間運転する自動車

ほぼすべての重大事故の元凶である人間運転する自動車

イギリスプリンセスダイアナ妃、自動車の後部座席に乗っていたなかで事故により無残に死亡した。

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bakenshikabuya/20121009/20121009101020.jpg

スポーツ選手中川大祐も自動車の後部座席に乗っていて事故で死亡した。

漫画家山崎あつしも、自動車運転中に死亡した。

サッカー奥大介も、自動車運転していて事故で死亡した。

オートバイレーサーの高橋江紀 も、自動車運転していて事故で死亡した。

音楽家森村亮介ワゴン車を運転中に事故を起こして死亡した

騎手の井西泰政も自動車運転中の事故で死亡。

他多数。有名人自動車乗車中に死亡したケースはゴマとある。未だ年間約1300人が自動車の車内で死亡している。

プロレーサーの青山繁晴

自動車免許なんて取るな!自動車など運転しないにこしたことはない。』

自動車なんか危ない、乗らないほうがいい、乗らないことにこしたことはない。自動車ステアリングちょっと間違っただけで(たくさんの)人様の人生を壊してしまう』

http://blog.livedoor.jp/show10a/archives/51777782.html

青山氏による心から良心良識のある聡明な言葉に従い、息子たちは30歳を過ぎても自動車免許を取る予定はない。

自動車に乗るのは終わりにしよう」  /毎日新聞

http://mainichi.jp/articles/20160726/ddl/k02/040/014000c

もし自動車大惨事でも起こしたら… 免許証返納した夫

http://www.sankei.com/life/news/160528/lif1605280018-n1.html

2017-02-08

最近日本すごい!的な番組嫌悪感を抱く人が多いが

確かに多いと感じる、

それに対して「調子に乗るな!」「恥を知れ!」的な発想は、いかにも日本人らしくも感じます

しかしその批判はどれも表面的で、子供感想文の様な稚拙さを感じます

自然と感じるくらいに日本を称賛する番組は増えました。

でも昔からそういう番組があったわけではないです。

いつ頃から増えたか?それは5~6年前だと記憶します。

その時に何があったかと言えば、それは


東日本大震災


日本中に衝撃が走りました、しかしそれは世界中にも衝撃が走りました。

そして日本が驚いた事、それは「何で台湾が一番寄付金が多いの?」でした。

台湾日本がとても尊敬され、とても愛されている事を日本は知りませんでした。

でもその他の多くの国で、多額の寄付や援助、深い祈りを日本に向けて捧げてくれていました。

世界中で著名なスポーツ選手文化人アーティストなども一斉に心配や祈りをささげるメッセージを発してくれました。

日本世界中から尊敬や、愛を受けていました。

その事を連日の報道で見聞きする中で、自分の周りの友人知人の中から少なからず出てきた言葉が、


日本世界から嫌われているのかと思ってた…」でした。



昔、日本戦争世界中迷惑をかけたと、教育でも大人からもそう聞いていました。

バブル期には、アメリカへの自動車の輸出やアメリカ不動産の買い占めからジャパンバッシングが起こり、

その連日の報道はまるで、世界中から日本が嫌われているかのような内容でした。

日本の働き方はアリだと揶揄され、七三分け出っ歯メガネが同じスーツ着て一斉行進、

それがジャパニーズビジネスマンスタイルだと風刺されているという報道

ショックを受けながらも仕方がない、日本からと受け入れ、

天皇万歳は悪い事、日本万歳は悪い事、また昔みたいに迷惑かける国になるから

そんな考えが根底にあるのが普通でした。


でも日本戦後復興経済発展は、世界的に見ても奇跡的で、

多くの国で日本を手本にしようとしている事を知りませんでした。

日本世界中に、いろんな形で寄付や援助を戦後から長くしており、

その事に心から感謝している国も多く存在している事を知りませんでした。

日本終戦後、アジアの国の独立の為に現地に残り、戦い続けた日本兵

何千人もいて、その事に感謝をしている人たちがたくさんいる事を知りませんでした。


嫌われ者日本と思っていたのに、世界中感謝尊敬をしている国がある事、

それが震災の時の寄付支援で、日本がこんなにも世界と繋がっていたことに戦後初めて気が付いた。

そんな時でもあったと感じます


今の「日本はすごいんだ」という番組がもてはやされているのは、

そんな「日本世界嫌われ者」と永く感じながら過ごしてきた、その反動だと感じています

ただ、戦後初めての事なので、世界との距離感がまだつかめていないのも事実でしょう。

なので「日本人馬鹿じゃね?」と世界から思われるのも必然だと思います

そうやって距離感を学んでいくのでしょう。

そして波はいずれ収まります

きっとオリンピックが一つの節目になるでしょう。

それを踏まえて、戦後65年経ってから反動5年、まだ浮かれててもいいんではないでしょうかね。

増田フォント変わった?

注目され始めたスポーツ選手が急に化粧っ気を出してきた時みたいな妙な白々しさある。

2017-01-23

ねがいねがい

好きな男の子ラインしてたら

よく言われる「エロい写真ちょうだい」

私は嫌われるのが怖くて

せっかくうまくいっている空気ダメにしたくなくて

すぐおっぱい写真とかあげてしま

するとだいたい相手男の子エロいしかふってくれなくなる

もっと新しいのちょうだいとか、もっと見せてとか

最初の頃は

好きなスポーツ選手の話とかシュミの話とか友達の話とか

いろいろしてくれていたのに

もう話しててもつめたい

なんだか邪険なかんじ

エロい要求してくる時だけはこっちをむいてくれる

それでやっと、もうそんな目でしか見て貰えなくなったんだ

いつか真剣恋愛してもらえる相手ではなくなってしまったって気がつく

でもさ好きな子に君のエロい写真ちょうだいっていわれたら

嬉しくて断れないんだよね

ねがいされたらなにも断れない

お小遣いちょうだいっていわれたらあげてしま

買ってっていわれたら買ってあげてしま

どうしても断れないよ…

http://anond.hatelabo.jp/20170123123545

金出してやってんだから男を性的に喜ばせられない奴は槍玉に挙げられて当然ってことね。

それこそサッカー野球で何億円も稼いでるプロならファンを喜ばせるのも仕事だろうけど

そうじゃないならスポーツ選手は男女問わず自分がやりたいから、打ち込みたいかスポーツしてるだけであって

性的サービスするから金出してくれなんて思ってる人はそうそう居ないと思うんだけどなあ。

まぁ下半身に脳が付いてる人には女性であれば職業わず風俗嬢に見えてるんだろうけど。

女性スポーツ選手容姿を叩く人たち

女優さんやアイドル容姿についてあれこれ言うのはまだ分かるけど

スポーツ選手について、その能力じゃなく容姿に対して「劣化した」「でもブスじゃん」「男を知った顔」とか言う人たち。

あれは一体どういう感情で、自分達にはそれを言う権利があるという認識はどこから来るんだろう?

自分が言われてる訳じゃないのにすごく不快だし腹立たしいし、

最終的にはこの世界が憎すぎて死にたい復讐するには集団自殺しかない気がしてならない。

2017-01-11

死滅して欲しいまとめ系例

有名人なりの検索をすると

〜の恋人は?家族は?

みたいなまとめが山ほど出る。

芸能人スポーツ選手とかの汚染具合は本当ひどい。

ドラマ映画のあらすじ転載サイトレシピ転載サイト。消えてなくなれ。

2017-01-02

抱負

 小さいこからテスト勉強というもの意味理解していなかった。なんでこんなことをしなければならないのだろう、ペーパーの点数が取れたところでそれが実際に使えるかどうかとはまた別の話であるのに、と。

もちろん学力のある学生ありがちな勉強ゲームとして楽しむという姿勢はそこそこあったのだが(だからこそ今の大学にいるのだから、そこは感謝しなければならない)、中学生ぐらいの頃にはゲームに飽きてしまっていた。

 今では、テスト客観性を最大限に取り入れる制度の賜物であることは充分に理解しているのだが(コミュニケーションスキルだとか、仕事をしていく面ではすごく重要視される能力が見られないのはいかがなものか、とは思うのだけど、なんとか上手く潜り抜けた側としては『ありがどうございます』)、今ですらなお、医師国家試験だの期末試験だの、試験に追われる日々なので、うんざりしてしま毎日だ。

母親教育ママだったおかげで、変な中高一貫校入学することになり、一部の奇抜な天才達と六年間を過ごして、物を批判的に見るという目つきだけは養われた。おかげさまで色んな人の自慢/考えを聞いていると、『なんかこれは違うな』とか『なんなんだよそれは』という疑念が、浮かんでくるようになった。

2016年はこれに凄まじく苦しめられた1年だった。自分の考えにすら『お前それは違うだろ』『お前のその姿勢自分を苦しめているんだぞ』と、そういう考えがポンポン浮かんでくるからだ。

『圧倒的成長』というものがある。あれって、なんなのだろう、と思っていた。もちろん、僕だけでなく数多の人が『圧倒的成長』には疑問を感じているのだろうけど、『意識高い系馬鹿である』という前提をなくしても、かなり多くの人が疑問を抱くはずだ。『出る杭は打たれる』という、成長志向の者を叩き潰そうとする圧力をも取り払ったとしても、多分疑問は残ると思う。

では、疑問はどこにあるのか。僕がいろいろと見るに、彼らの姿勢には、『圧倒的成長をするのは誰のため?』というのが、基本的に抜けてしまっている。

もちろん、常日頃から自身の肉体の強化に励むスポーツ選手のように自身頭脳スキルの強化に励むのはいいことではあり、それ自体推奨すべきことではある(そこから始まるものだっていくつもある)。けれども、『手段の目的化』が起きてしまっていて、そこで身に付けたものを何か役に立てないと意味がないんだよ、ということを重要視したい。かのスポーツ選手ですら、テレビでその輝かしい肉体を見せることで少年少女に夢を与えていることを忘れてはならない。

もちろん『勉強で勝つこと』を目的とするのならそれはそれで良いんだけど、もっと選ぶものがあるだろうに……笑

自分大学における二年間を振り返れば、それはまさに、自分基準に当てはめるとするならば、『意識高い系』に違いない、と今は断言する。自分手段を知らなかった/手段がそこにはなかったのだから、そして、失敗に怯えていたのだから

能力の向上にひたすら執着した二年間だったし、実際向上したのだけれど、ただただ苦しかった。もちろん、ハードワークを強いられるので、その辛さからくるものもあっただろうけど、どちらかというと、大手を振って歩けない、あるいは、お天道様を見られない、そういうものがあった。背徳感というか、なんというか、『自分は正しいことをしていないよな』、そういう感覚と常に背中合わせだった。

もし。似たような感覚を抱いている人がいて、それでなおかつ、『努力したい』という考えがこころの底にある人がいるならば、『誰かのため』という視点自分の中に入れてみると良いと思う。この考え方がまだ自分の中にスーッと入ってこないなら、あなたはまだまだ苦しむべきだし、もし、この考え方がスーッと入ってくるなら、僕はそれをなによりも喜ぶと思う。

なんだか、纏まりの無い文章になってしまったけれど、意識高い系の人とか、意識高い人とか、成長を心の底から望む人に贈ります

僕も2017年は頑張って誰かの為になるような事をするから、おたがい頑張ろう。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん