「NIMBY」を含む日記 RSS

はてなキーワード: NIMBYとは

2023-04-20

anond:20230420141841

文句言ってる人の性別の違いの問題ではなく

金銭的な優遇に対して、経済的弱者文句を言ってる場合は男女関係なく同情されるし

子供に対してうるさいとNIMBY的な文句だと、男女関係なくモテないだのなんだの

2023-04-19

スープストックが全店で離乳食無料提供

一部店舗で始めたとき「さすがスープストック!」と絶賛されてたのに全店で始めると発表したら大炎上してまさにNIMBYで笑っちゃった

笑えないー

2023-03-06

誰がどんな格好をしていようと自由社会がいいよね→

「でも女子トイレに入るなら見た目は女性であってほしい」

これってNIMBYでは?

2023-01-10

???障がい者雇用ちゃんとやれ!」

「じゃああなたの子供の世話は障がい者雇用した方が担当します。精神疾患を抱えて非常に不安定です。」

???「それはちょっと…」

「じゃああなたの部下に障がい者雇用した方を割り当てます精神疾患を抱えて非常に不安定ですがあなたケアしてください。」

???「それはちょっと…」

典型的NIMBYの結果の対策だよねこの話も

2022-12-20

anond:20221220144134

賛成派がNIMBYを前提にしてるからだよ

東京に作れっていうのも東京湾にだって良いんだよ

anond:20221220011848

なぜなら障碍者NIMBYで実際MyBackyardにいない

一方弱者男性はそこにある危機から

2022-12-07

anond:20221206210542

NIMBY問題に対して、我慢しろならまだしも迷惑に思うこと自体けしからんと言うやつまでいるからやべーよな

2022-12-06

お前らは知らんかもしれんけど騒音問題の近隣トラブル戦争なんだよ

追記: 1日経ってスマートフォンで読み直してみたら非常に読みにくい文章(1文1文が長く、文脈を掴みにくい)になっていたため、可能ならPCで読んでもらえるとありがたいです。また、節もつけて多少読みやすしました。文章自体は改めていません。簡単趣旨を要約すると「騒音問題での近隣トラブル戦争になることもあり、それは自分が直面する可能性もある(※騒音問題トラブルが必ず戦争になるというわけではない)」です。

長野市遊園地問題で近隣トラブルになっていて、どうやらじいさんがクレーマーだとして叩かれているらしい。

自分長野市住民でもなんでもないが、昔の激怒していた自分を思い出して体中が震えだしてしまったのでここに吐露して発散していく。長野市の件については、その裏にある事情は知らないので、自分はそれが良いとも悪いとも見当もつかないが、外野が好き勝手に述べてじいさんを罵倒したり「クソ自治体」みたいな発言をしているのがとにかく気に食わないのでここで色々と述べていこうと思う。また、自分はじいさんの擁護者ではない。

NIMBYと、子どものことを考えろ主義について

まず子どもが集う施設というのは、NIMBY(我が家の裏には御免)というカテゴリに属する施設である。これは誰がなんと言おうが、子どもが集う施設というのはもうそういうものであるNIMBYとは、社会全体には利益を与えるが、その近隣住民には損害を与える施設のことだ。こういうものはたくさんある。基本的には「社会全体のためにお前が我慢しろ」という施設になっている。また、補償がないことも多い。子どもが集う施設に関する補償特になにもない。「子どもの声」を「損害」扱いという部分で怒りを抑えられなくなる人もいるだろうが、いったんそういう考え方の人がいると思って飲み込んでほしい。「騒ぐ子どもの声量は大きい」と「大きい音に耐えられない人もいる」という2点については、誰しもそれぞれ同意できるはずであり、「世の中には、騒ぐ子どもの声量に耐えられない人もいて、そういう人は損害だと感じていそうだ」というふうに、客観的視点で読み進めてほしい。実際そういう人は存在している。

話がややそれてしまったが、なぜ騒音問題子どもがつくと大きなトラブルになるかというと、「子どものためにお前が我慢するべきだ」という強制が働くからだ。こういう考え方を「子どものことを考えろ主義」といい、詭弁一種である

子どもを抜きで考えた場合騒音問題は「騒音に悩まされて可哀想に」という話から始まる。ここでは明らかに騒音我慢するべきだ!」というようなことは言えないだろう。しかしそこに子どもが入った途端、「子どものためだからね。めでたしめでたし」という概念で上書きされる。しかし、騒音問題自体はなくならない。「騒音問題の話はどこに消えた?」である

子どもは当然守られるべき存在だが、「子どものことを考えろ主義」をその親が使ってくると非常に厄介である簡単に例えよう。

あなた限定品が欲しくて、あるお店でその限定品のために並んでいたとする。あなた限定品を無事手に入れることができたが、その後ろに並んでいた親が急に「それはうちの子どもが手にするべきものだ」「お前が大人のくせに限定品を得ようとしたために、子どもはひどい目に遭う。子ども可哀想だ。全部お前のせいだ」と強硬に主張してくる状態のようなものである。(あくまで例えであって、騒音問題と同等の主張であると言いたいわけではない)

別の例で例えると、ベビーカー子どもを載せて電車に乗る行為問題ないが、ベビーカーを振り回して席取りをしようとしている親だったり、「ベビーカーを持っているのでそこに座らせてもらっていいですか?」というように尋ね、断ると「子どもがいるんですけど……非常識ですね……」と言ってくるような、子どもを使って権利を主張してくる大人たちがいるということだ。彼ら彼女らは「我々は少子化に対抗する戦士であり、それに抵抗する存在邪悪である」という信念を持っている。

子どもとの戦いではなく、子どもを盾にする親との戦いであることについて

こういう行動を起こす人々は「子持ちの人」というカテゴリで括られるべき存在ではない。彼らは容易に「子持ち全体に対する挑戦をされた」というように論理をすげ替えようとする。そして「子どもがいるのに酷い」「こうやって少子化が広がっていくんだ」という論理を使っていく。ミサンドリストフェミニストと名乗るようなものである普段は人を攻撃するが、都合が悪いと子供を盾にして自らを守り被害者になろうとするという、文字通り子どもを盾にするのである。彼らにとっては、子どもとは、自分利益をもたらす便利なツール・グッズ・免罪符しかない。

誤って解釈してほしくないが、子どもは大切なものである。「子ども排除せよ」と言っているわけではない。容易に論理を捻じ曲げられるので注意しなければならない。小さい子どもに罪などは一切ない。子どもではなく、その親と戦っているのだ。

そして、実は「子どもの出す騒音」それ自体は、それほど大きな問題ではない。子ども騒音は確かに問題であって長期間続けば耐えられなくなりノイローゼになりかねないという状態になり、たいへんきついものだ。ただし、事をより大きくするのはそれに対する適切な対応が全くなされないことにある。『「子どもが出している騒音」にクレームを出すクレーマー vs (可哀想子ども+それを守る善良な大人たち)』という構図そのものが、騒音を出している側のロジックによる考え方であり、これがこの構造のまま大衆化されると、非常にテキトーな扱いになる。「子ども騒音に端を発する問題」という形で、その周辺の問題も含めて、すべての問題の焦点が「子ども」になっていく。しかし、子どもが悪いわけではない。子どもが悪いわけではないというのは、何度でも言っておく。その親が悪いのだ。ここは間違えてほしくない。本当に簡単すり替えてくるからだ。

実際の問題は、子どもの出す騒音について「なんら対策をしない」「対策をしようともしない」「それを指摘する側に問題があり『異常』だと周りに噂を流す」だったり、わざと嫌がらせをするだったりである長野市で言えば多くの車の長時間アイドリングや、盆栽の踏み荒らしなども発生していたらしい。こうなってくると、もはや子ども騒音というのは問題ではなく、大人 vs 大人の、れっきとした権力闘争の構図であると思う。(※注意: 長野市問題については自分意見を持たず、どちらの側にも立たない。じーさん側に問題がないとは言っていないし、子ども可哀想であるのはそのとおりだと思う)

子どもを盾にする人側のロジックでは、「キチガイがまた『大したことでもないこと』でクレームを入れてきた」という観念を抱えているため、対話不可能であるそもそも最初は当然対話をしようとしている。(また、クレーマー側でも意味不明クレームを入れている場合も多くあるはずであり、自分は常にクレーマー擁護したいわけでもない)

子どもを育ててるだけなのに、クレームを入れてきて迷惑だ」vs「ふつう暮らしているだけなのに、騒音解決しようともせず、当然のように我慢を強いてきて迷惑だ」という状態になってしまうと大変面倒なことになる。どちらも正義だと思っている。これは戦争である

近隣トラブルでの対応の非常な困難さと、想像以上のストレスの大きさについて

これについて、刑事でも民事でも事件化はできず、自治体警察も非常に難しい対応を迫られる。「対応」とはいうが、実質何もできないのである。ただ「犯罪がないかどうか」「合法かどうか」しか見れないのだ。よって、合法下での自力救済しかない。法はあなたを守ってくれはしない。誰もあなたを守ってくれはしない。あなた自身の力か、金の力しかない。日本では、騒音問題は「それは運が悪かったですね。我慢してください。それが法ですから」ということになっている。社会とはそういうものだ。

「そんなところを選んだお前が悪い」「引っ越せ」という、思慮に欠けた意見散見される。当然そういう場合もあるだろう。ただし、こういうのは事前にわかものではないし、引っ越すには尋常ではないお金がかかる。持ち家であれば尚更で、下手すると数千万単位で金が変わってくる。つまり人生の中でもかなりの上位に上がってくる最強最悪のトラブルである。嫌いなやつのためだけに数千万円は普通は払えない。数千万円は言い過ぎかもしれないが、ただ引っ越すだけでも、引っ越しというものは50万円だったり100万円かかるものだ。月に2万ずつ貯めていたとしよう。4年の努力を捧げることになる。嫌いなやつのために。普通我慢ならないだろう。

そして、トラブル悪化すると、人生で最も嫌いな存在自分のすぐ近くに住んでいるという状態になる。「考えないようにする」ということができなくなる。騒音存在をすぐに思い出し、精神が持っていかれる。「殺す」か「殺さない」か、そういう考え方が頭にのぼってくる。これはジョークや笑い事ではない。精神が奥深くまでやられる。絶えず戦闘モードになる。戦時下という気持ちだ。あとはもうやるかやられるかだ。どちらも異常になる。人はいとも簡単に狂う。自分だけではない。相手が『「自分が死んでくれればいい」と思っている』と思うようになる。

死ね!!!!」と絶えず言い合っているのに離れられない関係というのは、歪んだ親子か、近隣住民以外には人生においてそれほどない。会社なら簡単ではなくても辞められる。家は簡単には辞められないのだ。

もし少子化対策のためというならば、社会全体でなんとかしなければいけない。「ミクロ個人単位我慢解決すべき」という結論は誤っている。それは子育てする側からみてもそうであると思う。ここでは、「子育て側の方が悪」のように見えてしま論理展開をしているが、子育てしている親は窮屈な思いを抱えているはずであり、れっきとした社会問題であると捉えるべきだと思う。しかし、現実的には、社会はそう簡単に変われるものではないため、個々で見れば自衛するしかない。

無関係立ち位置の人でも、可能ならば心に留めておいてほしいこと

「近隣トラブル戦争」というのが理解できない人や、「結局子育てする側が我慢しろってこと?」という理解になってしまう人は、せめて平和に家で暮らすことができているという幸運を噛みしめるべきであり、自分の子もの周りでそういった話を聞かないという場合は、人知れずして我慢している人がいるのかもしれないことを知っておくべきだと思う。「静寂」「平和」は贅沢品である。いい人は、同じ目にあっても「まあ子どもからしょうがないですよ」「いやいや!子どもは騒ぐのが仕事ですよ」と言えるのだろう。それはたいへん立派なことだと思う。ただしそれは余裕があっての論理や、他人事であるからそう言えるだけであることを忘れてはいけないし、強制できるものではない。全員が聖人君子になれるわけではない。

これはアンモラルがどうのとかそういう話ではない。あなたもそうなればわかるかもしれない。

ただ、そうなってから気付いても遅いのだ。「そんなところを選んだお前が悪い」のだから

そして残念ながら、今の社会解決できるほどの余力はない。ただ「そんなところを選んだお前が悪い」のだ。

ももしそうなったとしたら、自分あなたと同じように苦しんだことを覚えておいてほしい。身の周りの誰もがあなた理解してくれなかったとしても、世界にはそういうことをわかってくれる人はたくさんいることを覚えておいてほしい。それだけで心の荒みはやや緩和されるだろう。

ただこの話は、伝えたい人には伝わらない話でもあると思う。この話を見て「自分自分の子どもが他人にそんな思いをさせてるかもしれない……大丈夫かな」とすぐに心を痛めた人に心を痛めてほしいわけではない。そういう人たちには、ただ「子育てを頑張ってください」とだけ伝えたい。この話は「はあ?身勝手。黙ってろ。うるせえな」と、気にもとめない「子盾の親」たちに伝えたい話である。伝わらないだろうけど。

まり、運が悪ければ、そういう人と戦争することになる、ということだ。そしてそういう人たちもまた、「我々」戦争することになる。

まあこれが2022年日本だということ。少子化は仕方ない。

2022-10-13

anond:20221013080500

結局NIMBY問題なだけで沖縄けが特殊なわけじゃないんだよ

ただあそこの基地がなくなれば日本に打撃だから盛り上がってるだけで

2022-10-12

https://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2022/10/12/165927

やっぱり ヨッピー沖縄問題に対する理解が少ないのが一番の問題だな。

この文章で例示しているNIMBYは「まだ被害が出ていないけどこれから被害が出る可能性が高い」だよね。

基地問題って言い方も騒音とか含めたニュアンスが出てしまっている。

沖縄は、違うんだよ。レイプ被害とか直接被害が十分出ているんだよ。

東京新聞の今年の記事2022年5月1日

https://www.tokyo-np.co.jp/article/174853

12少女が3人の米兵暴行され…それでもアメリカに物言えない政府沖縄は復帰したのか~50年の現在地

例えばいじめ

友達同士で陰口をたたかれているのにブチ切れて殴り掛かった

という温度感なら「暴力絶対反対」はアリだよ。

数年間にわたっていじめられっ子がクラスメイトの前で公開オ〇〇ーさせられて、たばこ押し付けられて、

保護者と一緒に教師に訴えても教育委員会に訴えても無視されて、

苛められたときに殴った。

その暴力最初いじめに全く言及しないで「暴力ダメ」って発言するかい

2022-10-08

anond:20221008001255

本土国民全体を平均した場合沖縄問題への関心が他の社会問題への関心と比べて高いかいかといえば低いだろう。

ただし、関心をもって注視している人も一定数いて、決して本土国民全体が無関心なわけではない。

軍事基地ごみ処理施設火葬場のような迷惑施設であってなおかつ国防必要不可欠であることから、どこかに作らなければいけないのは事実としてある。これが沖縄だけに集中しているのは本土人間としても心苦しいものがあるし、申し訳ないとも思っている。

しかし、国力を背景に挑発行為を繰り返す中国や、あたおか総書記のいる北朝鮮念頭に置いたときに、地理的戦略的重要となる沖縄日本国領土内における基地配置の上での最適解となることは一定客観性を有しており、心情を一切排除してどこに配置すべきかという問題として捉えたときには沖縄ベストといわざるを得ない。これは日本国防のかなりの割合を担ってくれている米軍も同様に考えると思って間違いない。

ただし、一つの県に基地が集中するのは異常な状態公平性平等性の観点から沖縄基地は減らすべきと言える。

本来米軍基地日本領土にあること自体おかしい。日本主権行使して領土内に米軍基地などを作らせてはいけないのだが、敗戦で牙を抜かれ、米国国防依存している状態では米軍意向が働くのはやむを得ない。米国としても守ってやるんだから当たり前だろがというのが率直な思いだろう。

なので国防を自前だけで担えるようになり、米軍が常駐することな他国侵略を抑止できるレベル軍事力を有して初めて米軍基地をなくせる可能性が生まれてくる。

大声をあげようが、座り込みをしようが何しようがただのNIMBY的な反対運動では何一つ変わらない。国全体の問題として国防を考え、憲法改正して、米国抜きで自衛できる一人前の国家として主権を取り返すことが、遠回りに見えて沖縄基地問題解決する唯一かつ最短の道であることをきちんと共有すべきだと思う。安倍晋三が目指してきたのはまさにこの方向で、実は沖縄のことを一番真剣に考えていた総理大臣だったかも知れない。

本土人基地問題に無関心」は誤認識だと思う

色んな人が「本土の人は基地問題にずっと無関心だったのに、急に不正確とか言い出すのはおかしい」と指摘しているが、それは間違いだと思う。

本土人間は、基地問題に多少関心を持ち続けてきたように私には思える。

ただしそれは、基地反対派が期待するであろう「現地の人がんばって」という肯定的な関心ではなくその逆、「めんどくせえなあ、必要なんだから基地を受け入れててくれよ」という否定的な関心である

だがこの本音を表に出すのはお行儀が良くないことはわかっているので、一部の右翼ネトウヨ系の人をのぞき普段は隠している。

それでも基地反対運動への反感は人々の心の中にあったので、ひろゆきの悪ふざけで心の鍵が開き、彼のおちょくりに乗っかりたくなる人たちが少なからずいるのである

しかしたらひろゆきはそれがわかっているか意図的に、人々が隠してきた本音をくすぐったのかもしれない。

とはいえ現状では「必要なんだから基地を受け入れてろよ」と言い放つほど反対運動を嫌っているわけではないし、反対運動側にも理があるのを理解しているので、ひろゆきもそれに乗っかる人も、直接的には看板の誇張を批判して、反対運動自体へは間接的な悪印象を匂わせるにとどまっているが。


増田の『基地反対の沖縄県民からたこ騒動anond:20221008001255)』では、

なんで数年間こちらを見向きもしなかった人間のために、ずーっと「誤解のない、正確な表現」に気をつけなきゃ行けないのか。

と語られているが、実際は本土人間はチラッチラッと沖縄を見ていたのだろう。

反対運動、うっとうしいな。それにニュースネット映像を見ると、ああい運動って盛った表現とか大袈裟スローガンとか使ってるよな……言わないでおくけどさ」と本土人は思っていた。

それをひろゆきがはっきり口にしたから「あ、言ってもいいんだ」となったのだ。

しかしたら増田は、基地反対運動を内心で嫌っている層も指して「SNSネトウヨみたいなのが増えてて悪化してる」と表現しているのかもしれないが、それらはネットSNS以降に発生したものではないと思う。


そしてこの反対運動への否定的な関心というのは、沖縄基地問題だけでなく、反原発デモ護憲デモ平和教育などへの冷ややかな眼差しとも似ている。

沖縄やそこに住む人といった、地域に対しての悪印象があるわけではないと思う。

だが、「なるほど、全共闘の失敗以降の日本人左派いか」とまとめると、それはそれで取り落としがある。

左翼全体への悪感情は確かに影響しているのだが、それが全てではない。

たとえば裁判などで「全面勝訴」とか「不当判決」とかを墨書きしたものを出す瞬間が冗談タネにされることが結構ある。あれは、大袈裟さや表現の盛り方が面白がられているのである

主張の内容によらず「活動家」的なアピールの仕方が胡散臭いと思われている面もあり、きっかけがあると反感が噴き出るのであろう。

右翼集会も当然嫌われているが、あれらは活動家的な嫌われ方というより、暴走族やヤの字的な嫌われ方だと思う)

また、本土内にも米軍基地はあり、反対運動をしている本土人のグループもいて、それを別の本土人たちは否定的に見ていることからわかるように、普遍的NIMBY(Not In My BackYard)問題としての衝突という面もある。


話をまとめる。

本土人間基地問題に対して無関心ではなく、そこには否定的関心があった。

NIMBY的に地元には基地のない状態を保ちたい自己保身、左派嫌い、活動家的誇張嫌いなどなどが絡み合った、否定的関心を本土人は基地反対運動に対して隠し持っており、今回の騒動はその一端が露わになったと考えた方がいいのではないだろうか。





レトリックについて追記

「関心がある」という言葉は、修辞技法的に使われて、ただ興味を持っているだけでなく、賛同しているという意味を含むことも多い。

理解がある」という言葉が、知識が有るだけでなく、心情的な賛同もしていることを含みやすいのと近い。

(余談だが、このような修辞には、ある物事に十分な知識や興味があれば当然それに肩入れするはずだという、人間の楽観性があって面白い。

また、「犯罪者心理に詳しい」だと犯罪者冷徹分析するプロフイラーのようだが、「犯罪者心理理解がある」だと支えたりカウンセリングする人のようなニュアンスが漂うのは不思議でもある)

今回の騒動における関心という言葉もまた、賛同を修辞的に含んでいたり含んでいなかったりするだろう。

なんなら同じ文章の中で、基地反対運動賛同していないという修辞的用法で「本土の人は基地反対運動賛同していない、つまり無関心だ」という言葉を使い読者に受け入れさせたうえで、関心を興味や知識意味する用法さらりと切り替えて「本土の人は基地反対運動に無関心だ、つまり興味もないし無知から勉強しろ」という主張に繋げる人もいるように見える。

まあ、このような、修辞的な用法と素朴な用法を繋げることで何らかのイメージを与えるやり方は、意図的というよりも無意識的なことが結構あり、私自身も文章をまとめようとするうちに自分レトリック自分で飲み込まれてズルい書き方をしてしまたことが結構あるので、強く非難するのは躊躇われる。

あるいは逆に、ある言葉レトリック的に使われているのをわかっていながら、素朴な使い方として受け取って反論する、というズルさもよく見るし、これまた私自身やったことはある。

なんにせよ、文章を書く側でも読む側でも、ある意見を主張する側でも反論する側でも、ある言葉を修辞として使ったり素朴に使ったりすることで印象を誘導していないか、というのは気をつけた方がいいと思う。

2022-09-09

男性が母と妻にだけ弱さを晒そうとするのは、皆に原因があります

母親や妻についての反応が先述のエントリanond:20220908185524)に幾つかあったので、そこについても書きました。

賛否が分かれやすい「女をあてがえ論」に触れるので、先のエントリに比べて説得力が弱いかもしれません。



過去男性が弱さを晒していいとされてきたのは、母親や妻(この文章の妻は恋人なども含む)に対してだけだったと思います

「男は家の外に出れば七人の敵がいる」という慣用句は、逆説的に家の中にいる母や妻だけは味方のはずだということを示しています

歴史に残る権力者金持ちであっても、愛してくれる女性を求めて身を滅ぼしがちなことに疑問を持った人は多いと思いますが、それは、自分含めて誰からも気遣ってもらえない男性人生の唯一の安息場所としての妻を求めずにはいられなかったからではないでしょうか。

そのような状況について、母や妻に男の世話という役割押し付けてきたという指摘は正しいと思います

ただし、そのジェンダーロールの押しつけを行っているのは男性ではなく、女性も含めた社会全体であることには注意が必要です。

男を気遣ってあげるべきは母や妻だけということは、一般女性にとっても、自分の息子や夫以外の男性の弱さや繊細さを想像する必要はないということですから

社会のいたるところで監督保護を受ける女性と、監督されづらいが保護もされずただ母と妻にだけは保護を期待してよい男性、という構造があったわけです。

母親が息子に対して過保護になりがちなのも、女性ダメ男に「この人は私が面倒見てあげなくちゃ」と考えるのも、社会男性女性男性の味方をしたがらないことを察知しているので、母や妻である自分けが助けてあげられると感じているからでしょう。



それが昨今では、母と妻に負担押し付けすぎだという気づきや、家族解体非婚の増加により、女性社会から監督保護を受けて、男性監督保護も少ないという構造に近づいてきています

これはこれである種のバランスが取れてはいます

しかしこの状況が心身を傷つけられることが少ない強者男性に有利で、弱者男性にとっては厳しさが増していることはわかると思います

そして、フェミニズム的な潮流によって、女性に対する監督は今後減っていくことが期待できるため、「女性社会から保護だけを得られるようになるが、男性監督保護もない」というバランス崩壊した未来を予想する人もいますさらに悲観的なら、男性保護されないのに危険存在として監督だけされるようになると考える人もいます)。

そこで弱者男性からは、男性への保護(と、明言していないが一定監督)を求める声が上がるのですが、それはいわゆる「女をあてがえ論」だという批判を受けやすいです。

私は、男性保護が「女をあてがえ論」に近くなりがちだという点にはある程度頷きます

しかし、「女をあてがえ論」だからナンセンスだし黙れ、という扱いをするのは良くないと思います

「女をあてがえ論」が出ざるをえないのは、男性のせいではなく、社会全体のせいです。

男性ではなく、我々皆が、男性の弱さ辛さを気遣い保護監督を与える存在として、母と妻以外を準備できていないのです。

それは、社会システム面、意識面、能力から説明できます



社会システム面について。

単純に、男性は法や福祉支援を受けづらいということです。

もっと改善が期待できるのはここではあります

個人的好悪ではなく、立法政治的駆け引き職員職務意識が上手く回せれば、改善は着実に訪れるでしょう。

ですが同時に、効果限定的だとも思っています

児童支援女性支援貧困支援障害者支援を見ればわかる通り、現実問題に対して福祉焼け石に水であることは否めません。(それでも水をかけ続けることは大事ですが)



意識面について。

母と妻に負担押し付けすぎだと現代人は気づいたと書きましたが、しかしその一方で、男の弱さを保護するのは母か妻だという意識は、実は大して変わっていません。

現代の「ジェンダーロールから解放」を表現する物語であっても、大抵は、男性が辛さを吐露して受け入れてくれる相手は妻や疑似配偶者であることに、端的に表れています

「母や妻に男の気遣い押し付けるのは良くないよね。でも男なんかを気遣ってあげられるとしたら母や妻だろうね」という歪な感覚現代意識なのでしょう。

そしてじゃあ母や妻以外に誰が? となった時、誰も適切な答えを返せません。まるでNIMBY問題のようです。

ここに「男性同士でやればいい」と答えようとすると、次で説明する能力面の問題に突き当たります



能力面について。

母と妻以外に男性の弱さを気遣う存在として、男性があげられることはあります

しかしそれは能力的に困難です。

先述のエントリで書いたように、男性は様々な場面で粗末に扱われる人生を生きていくためには、自分に対しても他人に対しても気遣う能力を退化させざるをえません。

多くの男性ケア能力は既に鈍麻し退化させられているのですから男性同士が集まったからといって気遣いあえるわけがないのです。

から男性の集まりは、競い合うライバル関係、お互いの得意分野を見せ合う趣味の会、外部に発見した敵と戦うことで一体感を得る集まりなどになりがちで、弱さへの気遣いをしあうことができません。

ならばケア能力を退化させずに生きてきた人たちが手を貸すことが望ましいですし、男性能力を失っている以上その中心は女性になるでしょうが、それは「女をあてがえ論」だと言われてしまうわけです。



男性にも社会から監督保護ケアを与えようとするのであれば、女性が、自他を気遣う能力師匠をやる時期がしばらく必要だと思います

師匠存在は、「ずっと女に押しつけておけ」というものではなく過渡期として必要施策であり、悪しき「女をあてがえ論」だと否定するべきではないでしょう。

100年後くらいに、気遣う能力を潰されずに中高年になれる男性も増えたら、男性同士での気遣いも、気遣い能力教育可能になり、女性ばかりが師匠をやらなくて済むようになるはずです。

(私個人は、先述のエントリで書いたように基本的には男女ともに監督保護も少ない男女平等の方が実現可能性が高いと思っていますが、男女ともに監督保護が増した世界を目指すならこのような考え方がいるだろうという思考です)



このエントリは、前のエントリに比べて同意を得られないでしょう。

特に、一番同意されないのが、男性自分たちを気遣う能力喪失しているか能力のある他者が助けなければいけないという部分だと思います

しかし、そこがもっと男性能力のなさ、即ち男性の弱さと助力の懇願を赤裸々に書いたパラグラフのはずです。

男性の多くは、この分野(自他を気遣うこと)においては自分達の面倒を見る能力喪失させられている」までは前のエントリで書いたことと同じであり、一定同意を得られたはずです。

ですがそこから「なので、能力が鈍磨させられづらい人々が助ける必要がある」というSOSになると、一転して反発され、助けなくていい理由や、他者集団を頼らず自分たちの中で何とかすべき理由が沢山考えられる。

プライドなんか捨てた方がいいというアドバイス世間に沢山あるけれど、いざプライドを捨てて金の無心を始めた人間に対してはみんな冷たくしはじめる、という状況を連想させます

男性の弱さが世の中に認められづらいという傾向は、このような抽象論のうちは同情されても具体論として実際に助力を求めだすと拒絶されるという現実にも強く表れており、それが男性たちの「結局弱い男なんて誰も許さないんだよ」などの捨て鉢言葉に繋がってしまうのではないでしょうか。

2022-05-23

anond:20220523081642

でも変な格好した中年おっさんがお前の近所うろつくのは嫌なんでしょ

ありのままがどうこう言ったって所詮NIMBYしかないってバレてるんですよ

2022-05-09

anond:20220508183336

欧米にもNIMBYって言葉があるし似たり寄ったりでしょう

2022-01-10

anond:20220110011705

見知らぬ他人がやるなら実際どうでもいいが自分に近い奴にやられた時が困る

NIMBY的なアレ

2022-01-04

anond:20220104145327

トラックバックならびにブックマークを含め

みなNIMBY正当化するため

お子さんは無敵の人としてすくすく成長し

ガソリンを手に社会へ立ち向かうのでした

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん