はてなキーワード: 耳コピとは
どんなに超絶技巧プレイだったのとしても俺は注目されないだろう
というか、俺でなくても、超絶技巧プレイヤーはまったく注目されてない
俺はチェックしてるけど、多分、ほとんどの人は、なんかすごいね、で素通りしてしまっているのだろう
それより、初心者記事とかが強い、ギタースクールの講師とか、スタジオミュージシャンのうんちく語りとか、楽器屋店員の雑談の方が見られてる
あと、エッチなかっこのお姉さんが演奏した方が爆発的に注目される
ぼっちざろっく!でぼっちちゃんに水着でプレイしてもらおうという話はあながち間違っていない
際どいコスプレでピアノを弾くのと、普通のオッサンがピアノを弾くのと、どちらもレベルが同じだったら、みんなはどちらを見るのか?
つまり、デブでキモイ童貞で中年の俺ではギターヒーローどころか、視聴者を不快にさせたと運営に通報される方が近い
なるほど、となると音楽理論のうんちく、というか、俺はちゃんとした教育受けてないから偉そうなこと言えないし、間違ってる可能性もあるけど、
あの有名な曲は、こういう仕組みで作られていて、つまり、作者はこういうことを伝えたいという意図があると考えられる、
耳コピをすることで、作曲者の意図を推察することができる、みたいな話を書けばいいのだろうか
でも、それもそんなネタないしなあ
はなわはベースだったけど、イングヴェイやインペリテリがお笑いやったら面白いだろうか?
いや、それも違うか…
5年やってるやつに耳コピ勧めて恥ずかしくないの?
白鍵の音を一つ鳴らせば何の音かは分かる。黒鍵は怪しい。
和音も知ってるやつなら分かるかもしれない。適当にグチャッと鳴らした音は全く分からない。
ギター弾いててなんかチューニングズレてるなというのは分かるけど、高いのか低いのかは分からない。まして数ヘルツの違いとかは全く分からない。
ごく普通の絶対音感だと思うけど、これって音感というか単に記憶なんじゃないかって気もする。
音を聞いても素直に音階が浮かばない時、おれは展覧会の絵の一音目のGを頭の中で流す。他にもっと好きな曲なんかいくらでもあるけど、なぜだかこれが一番明確に思い出せる。そのGを頼りに、相対音階でつじつまを合わせていく感じで音階の見当をつける。
これって絶対音感を働かせてるのとはなんか違うよなって感じがある。単なる音の記憶と絶対音感の違いが何かって言われたら分からないんだけど。正確な絶対音感を持つ人の身体の感覚を体験する事なんてできないし。でもカゼ薬飲んで音が低く聴こえるようになった時は滅茶苦茶気持ち悪かったな。通学する時にイヤホン刺した途端滅茶苦茶違和感があった。
「一度聴いた曲ってその場でリプレイ出来るんですか?」「音が分かった所で細かいフレーズとか全部覚えきれない」
いわゆる持って産まれた超正確な絶対音感持ちの人はこういう事を言うらしいけど、いや分かるのは分かるのかよって思う。人体の神秘を感じる。
よくある耳コピってピアノでメロディだけとって適当にコードガチャガチャ鳴らすようなのが多いけど、ああいうのすごいダサく感じる。おれは初めて聴いた音源を親だと思う習性があるので。絶対音感持ちの人が正確に再現したらもうちょっとかっこよくなるんだろうか。そもそもバンドサウンドとかをピアノ一台に押し込むのがナンセンスというのもあるけど……
ほんそれなー
ピアノをひくことじたいを趣味にしろってのは本末転倒なんだよねえ
絶対長続きしないわ
おいらは中学生の時に19、ゆず、スピッツをひきたくてアコギさわって基本のメジャーマイナーコードと指すフォーくらいまでおさえられるようになって、
ネットのコードみて適当にそれらに変調したらひけるていどになったしてきとーな耳コピもしたりアルペジオもそこそこできるようになって満足したけどエレキは買ったけど一人で家でやりにくくてほぼやらずにおわっちゃったなー
ピアノは妹がエレクトーンならってたんだけどコンクールでひくようの曲をいえで練習して妹と同じ曲ひけるようになったけどピアノとは勝手ちがったなー
それでもff10の座なる感度やらairの夏影やらふたりやらひきたくて大学生のとき練習してひけるようになったのはうれしかったなー
https://www.youtube.com/watch?v=3yL_Z9ZxUxk
夏の夕方にきいたり引いたりしたらすごくしあわせな気分にひたれる曲だったんだよなー
地方に文化がないとは思わないのだが、特定の分野に強く打ち込みたい場合、分野によっては地方に住んでいることが非常に不利になることがある。
特に移動の自由のない子供にとって、住んでいる場所による格差は顕著に表れる。俺にとっては音楽がそれだった。
昭和末期に地方の山間部の村で育った俺は、幼少期からクラシック音楽全般、特に演奏と作曲に強い興味があり、
自分で作曲した曲を五線譜に書いて小学校の音楽の先生に見せたり、テレビで聴いた曲を耳コピして鍵盤ハーモニカで演奏したりしていた。
しかし周囲にクラシック音楽に理解のある人はおらず、ピアノ教室に通うのを切望しても通わせてもらえず、演奏会などは遠くて行けず、やりたいことがほとんどできずに燻っていた。
やがて中学校に進学した。地方山間部の中学なんて公立一箇所しか選択肢がなく、医者の息子からヤンキーまでみんながそこに通う。俺も当然そこに通った。
その中学校では全生徒が何らかの部活動に強制加入させられたが、選択肢は運動部数種類と吹奏楽部しかなく、
かつ吹奏楽部は男子の部員は一人もおらず女子しかいなかった。なので男は強制的に運動部に入るしかないような状態だった。
しかし俺は男だがどうしても音楽をやりたかったので、周囲の反対を押し切って吹奏楽部で唯一の男子部員となった。
教師すらも俺を奇異の目で見たが、俺が音楽に熱意を持つのは有名だったらしく、まああいつなら…と認めてくれたような形だった。
しかしまあ、部内で馴染むことは最後までできなかった。部内でも異端中の異端だった俺は孤立し、一人黙々と練習する日々を送るしかなかった。
部自体のレベルも低く、コンクールで良い成績を残すこともなかった。そんな環境の中で、俺の音楽への熱意はすっかり薄れてしまった。やがて中学を出て高校に進学したが、俺はもう音楽をやることはなかった。
音楽と無縁な高校生活を送った後、大学に進学した。そこで管弦楽団の勧誘が目に止まり、また音楽をやってみるかという気持ちになって管弦楽団に入ってみた。
しかしそこで俺は、他の団員たちと自分の差に愕然とすることになる。
小学校の頃からバイオリンをやっていたという人、中学生の時に全国大会に出たという人、親が音楽家だという人。
幼少期から豊かな音楽に触れて、環境にも仲間にも指導者にも恵まれた音楽エリートたちがそこに集っていたのだ。俺が生まれ育った村ではまず見ない人種の人々であった。
音大ではないにも関わらず、そこの楽団からはプロの奏者もけっこう出ているので、レベルの高い楽団ではあったようだ。
俺は初めて、自分が環境面で恵まれていなかったことを実感した。
これは住む場所の問題だけではなく、家庭環境の問題でもあるだろう。しかし小学生のうちから子供にバイオリンをやらせるような環境や、全国大会に出るような活気のある部活動などは、
俺の住んでいた村にはほとんど存在できないものだ。それらはやはり、ある程度の規模以上の都会にしか存在できない。今にして思えば、これこそが都会と田舎の格差であった。
結局俺は、他の団員たちの話に付いていけず、疎遠になり、半年ほどで楽団をやめてしまった。それ以来俺は、音楽活動はしていない。
今は都会に住んでおり、近くには楽器店やコンサートホールなどもあるが、もうどうでも良くなってしまった。
もし俺が打ち込もうとしたのが、地元の伝統芸能とか自然の中での屋外活動のような、地方にアドバンテージがあることであればこうはならなかっただろうと思う。
書き直し。
ダラダラと、曲への思いを書きました。谷川俊太郎の詩による合唱曲ふたつ…曲:三善晃「生きる」と曲:木下牧子「ネロ」についてのとても個人的な感慨。最初の方、書けなくて意図的に主語を拔いてるので読みにくくてすみません。ていうか、無駄に長いので読まなくていいですごめんなさい。
全部谷川俊太郎って演奏会を明日やるんだけど、中の2曲が自分の経験に強く結びついててちょっとだけ抱えるのがしんどい。
去年の夏、子供の誕生日にお祝いを頂いたのでお礼の電話をした。子供からもお礼を言って、その時に「また遊びに行くね、今家族で音取りしてる曲があるんだ、遊びに行ったらみんなで歌うから聴いてね」なんて言っていた。
数日後、会社で仕事をしていたら人事から電話があった。なんだろうと出てみたら配偶者から代表電話にかかったのを取り次いでくれたのだった。
数日前に電話したばかりなのに、亡くなったのだと聞かされた。家事支援のヘルパーさんが発見してくれたということだった。電話を切ってから自分の携帯を見ると配偶者からたくさん着信があったとわかった。
会社は早退して駆けつけた。
病院ではなく自宅でだったので、そのあと警察署で手続きやら葬儀社の互助会の書類探しやらで、気がついたらその日にあった合唱団の練習は無断欠席していた。
「生きる」だった。
ちゃんと予習してなかったのでぶっつけでの参加だったけど、タイトルからして親しい身内を亡くしたばかりの自分には重そうだなあ、そんなことを思いながら歌い始めた。
うちの団はパート練習はなくて、音取りは自力でできるのが前提なのだけど、実は私にはそこまでの力はない。♯や♭が多くなりリズムが複雑になるとキーボードを叩くのもたどたどしく実用性がない。その代わり楽譜を見ながらの耳コピは割と速いので、既に歌えている周囲を聴きながら声を出していった。
曲は「生きる」。まあ、三善晃だし、ソプラノはそんな難しくはない(難しいけど)。
……谷川俊太郎の詩によって、「生きているということ」がどんなことか、語られていく。
それはのどがかわくということ
木もれ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
孤独を感じる曲に影響されてか、詩の内容が全部亡くなった人を思い出させる。のどの渇きも、木漏れ日の眩しさと、くしゃみが出そうなムズムも、亡くなってしまった人は感じないことだ。だけどほんの少し前には感じていたのだ。あの人も。
くしゃみをすること、手をつなぐこと
と続く。
「くしゃみをすること」までは生きていること一般の話だったのが、急に、自分の手と存命中のあの人の手をつなぐイメージにおそわれて、───しかし私は一度も手をつないだことはなかった、これからも、もう決して手をつなぐことはないのだ……。
これから介護があるのだろうとぼんやり思っていた。長生きの家系だから、私の今後15年程は、あの家で、あの人と身体をふれあわせて暮らすのだろうと思っていた。
そうはならなかった。
寂しがりなところがある人だったから、一緒に住みたいとおそらく願っていたと思う。
そうはならなかった。
私が選ばなかったからだ。選ばないまま、亡くなってしまったからだ。
私は亡くなった人と手をつないだことがない。
曲はまた、「生きるということ」のいろいろな姿を歌っていく。自然や科学や芸術や…歌詩に出てくるミニスカートは何かな、生命力?若々しさ?を歌う。
あの人はもう、新しく美しいものに出会うことはできない。最後の電話で話した、子供たちの歌にも出会ってもらえないままになってしまった。
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこが揺れている、揺れているということ
いま、いまが過ぎてゆくこと
不穏な曲調で産声や兵士の傷が突きつけられ、それをぶらんこの往復運動が包み込み、ただ時間が過ぎる静けさに着地する。
生も死も同じ時間の中にある。
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
生き物の、自然の、あるがままの姿を歌った流れで「人は愛する」なんて、谷川俊太郎ずるいよね。あぁそうなんだと思わされる。
もちろん、愛さない人もいる。羽ばたかない鳥も轟かない海も這わないカタツムリも存在する。けれどできてない個体のことは今は措く。
それができている個体はなんと尊いことか。生きるということの意味を、「人は愛するということ」ととらえられる、かもしれない。もし私が愛さない人間でも、愛する可能性がある希望。
そして曲はまた、
あなたの手の
あなたの手のぬくみ
生きるという生きるということ
「あなたの手」に戻ってきて、命とはなにか、生きるとはなにか問いかけるように終わる。
私が繋がなかった手のぬくみ。
一人暮らしだった家は空き家になった。夏のことで、風を通したり、植木鉢やあとから頂いた供養の花に水やりをしなければならず数日おきに通った。
空き家にはピアノがあり、風通ししている間の時間で音取りをした。難しい音階を苦労して弾いた。
子供が小さい頃みんなで遊びに行くと、いつも初見でなんでも伴奏を弾いてくれたあの人がいたときのままの部屋で。ピアノには練習していたらしい楽譜が開きっぱなしだ。胸が苦しい。
亡くなった直後のショックや悲しみは今は薄れている。
でも練習で歌うたびに、空き家に風通しに行くたびに、拙く練習したのが思い出される。
去年の夏の、古い家特有の湿り気のある空気やあまりワット数の高くない蛍光灯の薄暗さ。
今日はリハーサルで明日が本番だから、終わったらしばらく歌うことはなくなる。
もう去年の夏を思い出すこともなくなるのか、いや曲を聴くたび一生思い出すのか…。
これはまた、ストレートな死の歌で、主人公の「ぼく」が子犬の「ネロ」を亡くした経験を歌っている。
しかも
もうじきまた夏がやってくる
(中略)
おまえはたった2回ほど夏を知っただけだった
と、「夏に親しい者を亡くす」という、私の経験ととてもリンクするシチュエーションなのだ。
主人公は「もう十八回の夏をしっている」とあるから、若者だ。それは私とは違うけれど、私の子供たちとはとても近い。
何でもかんでも自分と関係があるように捉えるのは無理筋ではあるけれど、私にはこの曲はうちの子たちが別れをどう受け止めたのか、の追体験のif…みたいに感じられる。
今、6月だ。もうすぐ本格的な夏が来る。
もうじき又夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ
去年の演奏会には来てくれた人が、今年はもういない。
お盆あたりには親戚が集まっていたあの家で、今年は新盆をどうしようか、コロナもまだ猛威をふるっているから集まるのは無理だろうか。
去年の夏、せっせと通って水やりをした植木鉢も、一年草はみんな枯れて、鉢から抜いてゴミに出して、鉢も片付けてしまった。
曲は、しかし喪失を嘆くものではない。疾走感とともに「新しい夏」の到来、「新しいいろいろのことを知ってゆく」ことを歌う。
たびたび出てくる「知る」という営為。
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろうと
主人公は何を知りたいのだろう?
なぜネロは死んだのかを?
私にはそんな凡庸な問いしか想像できないが、案外それも全くの的外れでもない気もしている。
詩のなかで飛び飛びに3連に渡って繰り返しネロを思い起こし、
それは死せるネロとともにあるようだけれど、決して停滞ではない。ネロを胸に抱いたまま、
もうじき又夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる
そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏を迎え 秋を迎え 冬を迎え
春を迎え 更に新しい夏を期待して
そこには若さがある。喪失を抱えていても新しいものを貪欲に取り込む力強さ。
(願わくはうちの子たちもそうあれかしと思うけれどそれは親のエゴというもの、彼らには彼らの受け止めかた、歩みかたがあろう…)
私自身は、「全く別の夏」というところからまだ身動きできないでいる。
冬場からこちら空き家に通う頻度も減ったが、また雑草の伸びる季節になって、草を引くたびに「この家を高齢でよく維持していたものだ」と感慨にふける。
家の中はまだ手つかずで存命の頃と何も変わらない。カレンダーの書き込みもそのまま。去年、子供の誕生日のお祝いを送るためのメモ書きも、電話の横のメモ帳にそのままある。ただ留守を預かっているだけ、という感覚から動けない。
それなのに全く別の夏が来てしまう。記憶が上書きされてしまうのが切ない。感傷だ。感傷だが、血縁ではない私とあの人は、客観的に見ればけっこう長い年月、長い時間を一緒に過ごしていたわけだ。
まだもやもやと引きずってはいくけれど、そういうものなんだろう(ああ、しょうもないまとめになってしまった)。
(「あの人」と書いているのは配偶者の母ですが、普通に表記するとちょっと生々しくて書けなかったので…表記で距離を置かないと吐き出しにくい)
前に耳コピのコツを増田に連載しようと思って書き始めたけどまったく反応がなかったので(ブグマ0トラバ0)1回で辞めたの思い出した。
Check out A Nursery Ojisan Around Fourty on #SoundCloud
https://on.soundcloud.com/QAzCP
タイトルについて
今までふんわり理解してたつもりになってたスケールとコードの違いを完全に理解した
今まで音楽と真剣に向き合ってこなかったことをこどおじはわからせられた
ギターはコード譜見て押さえ方見てじゃらーんできれば(できない)それで良かったし、ピアノはピアノ譜見てぽぽぽぽーんと弾く(弾けない)のでスケールとかコードなんて意識すらしなかった
空気公団の「歩く」が四苦八苦の耳コピの末についさっきDのミクソリディアンビバップ(ビバップドミナント)スケールだと分かり、それについて調べだしたらもうまじで出てくる情報の全部が面白くて、今ドーパミンがドバドバ出てるのを実感してる
元増田に食いついたのは完全に直感だったけど、何でもやってみるもんだ
今日明日とスケールとコードについて勉強して、歌詞の雰囲気と合うスケール・コードを探す
メロディは早くても木曜からになりそう、忌野清志郎戦法を採用したい(適当)
あとGarageBandも習熟したい
AirPodsとかでビート聴きながら歌を録音できるんだよな、たぶん
クラップと一緒に歌を録音すると後でいじくるのが面倒だと分かったので、トラックの概念をちゃんと覚えて少しでも品質の良いものを作りたい
昼休みにちょうど親がいなかったので(こどおじのリアルな事情)、これ幸いと録音の確認したついでに、SoundCloudに3曲アップした
歌ったのは空気公団の「歩く」「旅をしませんか」とJanis Joplin の「Mercedes Benz」
どのへんにスマホ置けばシャウトしたときに音割れしないかとか、環境音入らないか、入ったとして消せるかの確認をしてた
↓が俺の垢です
https://on.soundcloud.com/u72EL
Pixel6標準の録音アプリで録音したんだけど、ピアノの近くに冷蔵庫があって不定期でファンが回りやがるので、やっぱり独唱になっちゃうかも
ノイズカットのアプリ使ってみたら、ファンの音は全然違消えないわ俺のチキンボイスがノイズ判定食らってカットされるわで散々だった
エレキとアコギも持ってるんだけど、弦高高かったりそもそも弦張り替えないとだったりしてすぐに使えない
まあ聴いてみてくれ、なんかツッコミくれると嬉しい
な?こんなん親に聴かせたくないやろ?
コード進行について
オリジナル曲のアウトロで合わせるためにピアノで「歩く」の耳コピをしてたらどうしてもコードがうまくハマらないメロディがあって、色々調べてみてD(あれ、Aだったっけ?忘れた)のミクソリディア旋法なのかな、となった
Wikipediaによると結構ポピュラーな旋法で、Hey Judeのアウトロとかで使われてるらしい
ふーん
フリーフォームハードコアを聴きながら脳内でオリキャラを戦闘させたりオリキャラでMV作ってる。
どうせならオリキャラのテーマを作って、その上でMV作りたいからハードコア作曲の練習してるけど、明らかにコードってよりもシンセのつまみをいじったりして音楽作ってる。紛い物ばかりが生まれてしまうから、耳コピして分析をしようとするも音程がわからない、もしくは音程にこだわらなかったりするし、それっぽい音色にする技術がない。そもそも、音楽理論も知らないことが多い。
仕方がないので、狙った音を作ったり、耳コピすることから始めようということでメロディーがききとりやすいゲームの街のbgmだとかを耳コピしてる。普通にこういうのも好きだし楽しいけどいつ自分好みのハードコアを作れるのか、目指したい道から逸れないか不安になる。紛い物であっても作った方がいいかもしれない。後で聞いてると結構悪くないと思うし。