はてなキーワード: 怨念とは
書いてる本人も女憎しで知能下がってよく分かんなくなっちゃってるんだと思うんだけど
記事で引っ張り出されてるデータの中でマトモなものだけ読むならタイトルみたいな結論になるんだよな。
ここに反論できるやつ居るのか?
ブコメとか見てもミクロ・マクロの話以前にだいたい「すきなひとと結婚したから幸せです!!」みたいな、アホな筆者の煽りにアホな脊髄反射しただけの自称反論で埋められててキツい。
(社会科学系研究のレビューをやったことがない50過ぎのオジサンが募らせた怨念の勢いそのまま、つぎはぎの記事を生産し続けてしまう悲しみみたいなものはどうでもいいので全部横に置いて考えろ)
7/1
夏になると思い出す。
多分この頃の私はまだ頑張って学校に行こうと必死になっていて、起きた時の良くわからない感覚を引きずったまま制服を着ていたと思う。
授業の内容も友達との会話も何一つ覚えていないけど、その感覚だけ異常に頭にこびりついていて、寝たのに寝ていないような、夜明かしして正常に働かない時の頭でずっと生きていたから、自分が自分じゃないような、いつでも陣がどこにいるのか何をしているのか何を話しているのかわからなかった。
夏服を着て身軽になったけど学校の前の横断歩道、あそこに立っていると木の葉の影のはずなのにじめじめと暑くて、ベストを着るのはやめればよかったと毎日思っていた気がする。
入学して3か月ほど、学校に行けることが普通になっていて、私もようやくまともになれたと思っていた。勉強も人間関係も何も困っていなかった。行きたくないとも思わなかったのに、夏休みが明けた日から私はまた家を出られなくなった。
今となればあの時の私が何を考えて生きていたのか知りたくなるほどに記憶がなくて、ただ死んだように生きていたことだけがわかる。
すべてが憎しみの対象で、理解を示してくる人間の浅さとわかっていることばかり教えを説いてくる人間の多さに常に気が経っていると同時に、悪意のないそれを素直に受け入れることの出来ない自分にも絶望していた。
終わりが見えず、気づけば朝、お母さんが先生と話す電話の声から逃げるように眠って、気持ちばかりの明日の準備を起き抜けの夜にしていたけど、結局は行きたいのに行けないというポーズのための安易な行動でしかなくて、本当は何の気休めにもならず、制服はほとんど新品のようにきれいなことが私を責めるための存在に見えて、わざとしわをつけたり、リボンのパッチン留めを壊したりと、ささやかな犯行で自我を保つことが精一杯の日々を、結論2年半送ったが、今の私はその時の私と変わった気がしなくて、なぜかというと厳密にいえば多少はましになったけれども、時折あの頃の私が顔を出して、お前の本質はこちらだと言い聞かせてくるので、そのたび私は引っ張られて、こんな文を書きなぐる羽目になるのだから救えない。
恋も友情も私にとっては取るに足らないことで、別にそれ自体に何かを左右されたりはしない。ただもっと奥深くの人間としての在り方が根本的に違うことを感じるたびに、絶望するあの瞬間をこれまで何度も繰り返してきて、人と関わることそれはすなわち私にとって絶望だと思わされて、そうなると私は他者の存在がすべて私を苦しめるためだけのものに思うから、となると誰の言葉も、声も、姿も、感情も、どれにも触れたくなくて、行きつくところは持って生まれた破壊衝動に従うしかなくなってしまう。
けれどもそんな自分をこんな言葉で表現できる時点で私も結局その程度の人間でしかなくて、要するに私はずっと自分という人間のくだらなさ、つまらなさに振り回されているだけの生き物で、私以上に面白みのない人間も存在しないだろうと思いいたるのが常である。
苦しまないと何も生み出せない私のような凡人は、自分から傷付きにいかなければ何一つとして形に残すことも出来ず、その割に心を削って書く、描くことは自分を空っぽにすることと同義であるから、私は何も埋まらない、満たされないまま生きていくだけだとわかりきっていて、底の見えた入れ物に価値はないのに、私自身が一番そうだなんて、どれだけ皮肉は私を好くのだろうかと思う。
私以外の誰かと共有した歌を、絵を、作品を、私に語るな。
私だけで完結する世界を求める無謀さ、無知さ、その点に関してだけは私はいつも人一倍底が知れない。
醜くても、目も当てられなくても、恥でも、形にすれば芸術になることが唯一救いだった。自分に酔っていると言われても、肯定出来た。自分を表す、曝け出すなんて正気では出来ないから、それなら私は自分に酔っているだけの馬鹿者でよかった。
だから私は早く私を完成させたくて、こんな言葉ではなく、もっと頭以外に響くものを作りたくて生きてきたのに、私という人間は生きれば生きるほどつまらなくなっていて、思春期特有のモラトリアムというような、あの頃が私の人生の、まさしく春だったのだと気付いて、それはまた青春なんて輝かしいものではなくとも、私もそんな時期を過ごしていたのだと、呪いだらけの日々が少しだけいとおしく思える一瞬が、時たま訪れたりする。
学校までの各駅電車、3駅分も乗っていられなくて、泣きながら電車を降りる惨めさ、どうしても「普通」をこなせない焦り、しかし同時にそれがアイデンティティとなっていく歪み、どこにも当てはまらないのに形だけ集めたパズルのピースの群れ。
あの時の私も今の私も、ただ気持ちが追い付かず、心だけがずっと学校の教室の一番後ろに取り残されたまま、大音量で流したロックのギターの音や、行き場のなかった寂しさだけがいまだに私を縛り付けている。
誰かに理解されたら、私は私の苦しみの価値がなくなると信じて生きてきたから、一人でいい。孤独こそが私の救済だと思っていたのに、今私は人を理解しようとももがいたり、人と向き合うことを選んでいて、それは私の今までの生き方や人生を否定することになるのではないのかと思う気持ちより、人と触れ合うことのうれしさ、喜び、たとえ傷付いてもそれさえも大切なことだと認識し始めていて、
悔しい。プライドの高さも、見合わない才能も、すべてが。それだけだった。
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7/2
いつも最後に行きつくのは悔しいという感情一つなのに、それに気づくまで時間がかかりすぎるのはいつだって自分の分析に夢中で主観的なその時抱いた気持ちを無視してしまうから、自分を理解しようとするあまり、結果的にいつも遠いところに答えを探そうとしてしまう。
他人のことで悩めるうちはまだ余裕があるけれども、自分の持っている内面的な孤独や自他との境界線の曖昧さ、他者に対する意識について考え始めると、私は家族、友達、恋人すべての関わりを持つ人たちを無視して全くの一人になりたくなる。
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7/3
器用だねと言われることもあれば、不器用だねと言われることもある。
冷静だねと言われることもあれば、落ち着きがないと言われることもある。
堂々としていると言われることもあれば、おどおどしていると言われることもある。
行く先々や関りの人々の中で、自分の印象や性格がことごとく極端に言い表されることの多さに私は悩んでいて、これはつまり、どちらにも属していると同時にどちらにも属していないと言うことが出来、また人と関わるうえで、その人に都合のいい人間を演じているから、こうして私という人間のイメージが極端になるのだと思うと、それは私のいじめを受けた過去が大きく影響していると思われて、私は今でもまだあの時期に取り残されているようで、そのたび、本当に心に影が落ちる感覚を味わう。
私の存在の一貫性のなさ、本質、どこにでもありそうでどこにもなく、見つけようとすればするほど何かを演じてしまい、結局のところ私はそういう生き方しか出来ない、芯もなく、他者という存在を常に意識しながら、囚われもがくことを背負って生まれてきたような、そんな果てのない人格を求めるだけの生き物に思われて仕方がなく、苦しみ、最後に自分を傷付けるのは誰でもなく私自身だと気が付き腹が立ち、また同時にむなしさ、やるせなさ、悲しみが襲ってくる。
誰にでも優しいようで優しくない自分がまとわりついてくる。
救急車のサイレンに、道のホームレスに、汚れたペットボトルに、路地裏の殴り書きに、胸を痛められない人間がなぜ博愛主義を気取って生きられるのか。
シャットアウトすることを覚えなければ生きていけないと、その夜の苦しみや怨念を線引きして根拠のない基準で優劣をつけて身を守るそのずるさ、汚さ、私には何一つ許せない。
私はすべての苦しみに、怨念に敏感でありたく、また鈍っていく感受性をそのたび研いで、心の中に隠し持ち、いつか尖らせてナイフのようになったそれで誰かを刺したい。
意味のないことに、意味を見出そうともがく人生は嫌いではなく、すれ違った学生、隣の席のサラリーマン、もう二度と会うことのない人間たちの生活に思いを馳せて、そこに私という人間が溶け込み交わって生きることの出来る隙間を探して、その繰り返しで私は明日も生きていく。
というのを最近感じる。実際にマウントを取ってる事例も多いと思うけど、見分の限りでは、それより遥かに多くのケースで「単純に嬉しかった出来事があったのを周囲に自慢したかった」程度のを「マウント取られた」と悪意に取ってるように見える。
ネット上の「マウント」とされる会話の事例を見てても、単なるちょっとした自慢とか惚気程度のを「マウント取られた!」と被害者ぶってる人がめっちゃ多いしね。
本来は「自慢」だけじゃなくて「自分が優位であることを、相手に認めさせようとする」が入るはずなんだけど、ネット上のマウント事例ですら「自慢とか惚気とかその類であって、あなたに祝って欲しいとか認めてほしいの感情の発露では」と思うものが非常に多い。もちろん、嫌らしい言い方で誇示された事例もあるだろうけど、「マウントされた」ツイートをする人に限って、プロフとか他ツイート見るとやたら現実への怨念あふれてる人多いし、本当にマウント取られたというより被害者意識あり過ぎだろと言いたくなることも非常に多い。
そういう人は「自分で自分を不幸にしてる」んじゃないかなと思うので、「こいつはマウントをとってくる嫌な奴」と認定する「心の癖」がある人、「自分の思い込みかも」と時々でも疑ってみて欲しい。
元々、ネットネタとしての京都人いじりは大概うんざりしてたんだよね。もちろん、県民ネタはある種テンプレ化したやり取りを楽しむって側面もあるから一概に悪いとは言えないけど、ネット上の京都人ミームは特に性格上の「悪い点」にフォーカスして弄るのが多すぎる。年配のごくごく一部でやる人がいるかもしれない(俺は遭遇したことないけども)ぶぶ漬け伝説やら、やっぱり一度も聞いたことがないピアノ上手ならはったなあとか。それでもネタならいいんだけど、花街関連のツイートでついでとばかりに京都人叩きまで始める「性格悪い」ツイートを多数見てで吐き気がする。京都人に差別的な発言を平気でする人がどの口で人権を語れるのか。ちなみに、本題じゃないけど、舞妓さんとどうこうは大抵の京都人は興味もないし体験もしたこともなかろう(俺も別に特に興味なかった)ってのが正直な実感。さすがに高級キャバクラ的な側面はあるよねってくらいのことは皆肌感で知ってるし、だからこそ行く人も多くないから実態もあんまり知らないのだけど。
もちろん、京都人だって人間だから、性格悪い人もいい人もいるし、婉曲に言う人もストレートに言う人もいる。地域や生まれによってドロドロした内面を持っている人だっている。でも、それは日本人全体で色々な人がいるのと同じ話でしかない。なんでこう京都人を特別攻撃したがる怨念深い人がいるのか。京都人が~とネットで叩いている人の方が「よっぽど」地域差別主義者で陰険で性格悪いじゃんかと思う。
京都が好きな京都っ子の一人として言いたいんだけど、京都に居て「嫌味な人」に出会ったのなら、それは「その人が嫌味」なのであって、別に京都人が総じて嫌味なわけでもない。逆に素直に言ってくれる人に出会っても「京都人「でも」こういう人がいるんだ」じゃなくて、単にその人が素直なだけなんだよ。地域バイアスというか、ネット上の真偽定かならぬ情報が広まって都市伝説を一部事実と思っちゃう人がいるのは仕方ないけど、自分たちが地域で人を差別するという陰湿なことをしているのはそろそろ気づいて欲しい。
その上で、あえて「京都人」なるものを語るなら、一つにはいわゆる洛中・洛外みたいな区別はある。ただ、昔(肌感では70 overくらいでそう思ってる人はたまにいる)ならいざ知らず、現代っ子(俺は30台だけど)だと、北は北大路通、南は八条通(京都駅)まで(東西は人によって見解が異なると思う)、それより北とか南になると「単に風景が違う」からなんとなく「別の区画」って認知してるだけ(同高出身の友人と以前に語ったんだけど、思春期に洛中とか洛外とかいう意識はなかったけど、「風景が違う」ことは同じように認識してた)。あとは市内中心部(たとえば二条駅近く)とかはアクセスがいいから「便利だなー」って意味で「羨ましいなー」みたいな会話が繰り広げられることはあるけど、基本的にはそれだけ。地域でマウント取り合ってるとかそういう深読みしてる人もネットにいるんだなと思うけど、それはその人が日常的にマウント取りあってる性格悪い人なんじゃないかと思う。
京都市以外は京都と認めないみたいなお話もあれは外の人から見た偏見であって、単純に「市内」と「それ以外の京都府」だと風景が違い過ぎるから同じに見られないというだけ。東京都でわかりやすいように言うと、23区とそれ以外をなんとなく地理感覚として区別するだけの話かな。たとえば、宇治は行政区画上は「京都府」だけど一度も行ったことがなくて、そこにある風景が肌感としてわからない。宇治出身の人に、「宇治てどんなとこです」と聞いたら「過疎化してますねー」とかえってきたことがあるんだけど「なるほど、宇治は過疎化してるのかー」と思うだけで、そもそも宇治の風景を知らないから語りようがないんよ。これが、市外の人からすると「見下されてる」という思い込みにつながるんだろうなとも感じるけど。
あとまあ、日本有数の観光地だけあって、コロナ禍前は観光客多すぎてうんざりみたいな地元話はあるけど、こういうのもどこにでもある話よね。でも、別にそれは陰湿であるとかそういう話ではなくて、地元で観光業に関わる人でなければ、人増えすぎて日常生活が阻害されるからしんどいってだけの話でしかないんよ。
洛中に住んでるとかドヤ顔でいう人は(リアルではまず見ないけど)どうもネットの一部には棲息してるのは確かだけど、リアルでそんな時代錯誤なふるまいを取る人に遭遇したら間違いなく仲間内では「やな感じの人だよねー」って話になるよ。結局、京都人といっても現代日本に住んでるし、しかも比較的都市部だから大枠では現代日本人だし、嫌味な人に遭遇したらそら嫌味だなって感想にしかならない。
もう一つだけ、京都人、特にいわゆる洛中区画に居る人の特殊性が一つあって。いわゆる洛中って地域として超狭いから、そこに住んでるだけで「お互い結構ご近所にいる」って感覚なのよね。だから、その地域にある地名とかは一発でお互いに通じるし、京都の外でその辺の人に会ったら「ご近所さんだな」という感覚にもなる。だから、その地域にいる人ならすぐ通じる話とかあって内輪で盛り上がる習性は少なからずあるのは間違いない。この辺とかも、外から見ると「洛中出身の人が外の人にマウント取ってる」みたいな感覚になるのかもしれないけど、もう端的に言って誤解。もしマウント取ってる人がいたら、やっぱり「あの人やな感じよねー」となるだけよ。
ちなみに、個人的なエピソードを語ると、俺はチェーン店より個人経営の飲食店が好きでよく行くんだけど、基本的には美味しかったら、素直に「このカレーとっても美味しかったです。また来ますね」みたいに褒めた方が喜ばれるし、嫌味に取る人なんぞ遭遇したことがない。というか、そう素直に褒めるだけで、次から顔覚えてて挨拶してくれるいい店主が多いくらい。一方、京都市内ってとにかく狭いから周りに迷惑かけないようにマナーに敏感な人は(これは偏見じゃなくて)多くて、周囲の人に迷惑をかけないように張り紙してる人とか多いけどね。地方都市の割に「狭いところに多くの人が住んでいる」故に神経質だったり繊細な人が多いのは京都人に多い気質かもしれない。
京都人を差別的に見ている人に、「京都人といっても普通の現代日本人だよ」という感じが少しでも届けばと思ってちょっと書いてみることにした。
追記:
洛中洛外の差別意識を自覚してないとか、宇治を差別してるとかいう人がいて、なんで普通に読んでくれないんだろうなと悲しくなるよ。
東京(墨田区)に一時期住んでたから、別の地域でわかるように書くと、亀戸と錦糸町は駅としては隣接してるけど駅付近の雰囲気は違うなーと思ったことはあるわけだ。たとえば、亀戸はやっぱ年配の方が多い気がするなーとか、遊べるところは少なめだなとか、街としてはおとなしめだなとか。一方、錦糸町はより栄えてて、駅北は家族連れ多くて全然雰囲気違うなーとか。そういう感覚で「いわゆる」洛中と洛外の雰囲気の違いはあるなと感じるというお話。亀戸の人はどうだとか錦糸町の人はどうだとか論じたらダメだけど、街としての違いを論じたら差別とかいうのは暴論もいいとこでしょうに。
■そりゃ当時の文化は大嫌いだったけどね。
それへのカウンターが嫌韓や女叩きってさ、結局は「俺たちの麻生」みたいな政治に利用されただけじゃなかったかね。
マスメディアの代わりに2chとSNSでの中傷と侮蔑がえげつなく使われただけじゃなかったかね。
パソナや電通は憎むのに、それを重用する政策を批判しきれないのはどうしてかね。
陰謀論化の果てに、現在、韓国人の建物に放火するような、またはフェミ叩きに耽溺するモンスターたちを生み出しただけじゃないかね。
長い衰退と腐敗を固定化させるのに一役かっただけじゃないかね。
俺たちがやってやった感を出しているけど、あんたらろくなもの作れなかったじゃないかね。
この人はマスメディアを憎んでるけど、私はこういう人らの方をおぞましく思う。
今さら言うことでもないけど、いわゆるボカロ曲は他人がそれを歌ったり替え歌を作ったりすることが許されるような文化がある。
紅白で歌われた「命に嫌われている。」なんかもまふまふさんの歌ってみたが大人気だし、にじさんじの笹木咲が替え歌を歌ったのも有名だと思う。
みんな割と好き放題に作るからどういう替え歌ならいいかなんて基準はないけど、果たしてそれはどこまで許されるべきなのだろうか、ということをこの動画を見つけて考えてしまった。
【替え歌】作者に嫌われている。
タイトルから分かるように「命に嫌われている。」の替え歌で、歌詞としては「ぼくたちは勉強ができない」っていうジャンプでやってた漫画でうp主の推しキャラの扱いが酷かったということを訴えてる。
作者への誹謗中傷というよりは推しキャラの境遇への怒りや悲しみを吐き出してる内容なので、法的にどうこうという感じではないと思うけど、とはいえ攻撃性は結構高い。
替え歌はボカロ文化を豊かにしているものの一つだと思っているので基本的に制限してはいけないと思うけど、他人の曲を使ってこんな動画を作ることは制限しなくていいのかなと考えた。
ぼく勉は単行本全巻持ってるくらいには好き。アンケートも結構入れてた。
命に嫌われている。はまふまふさんから入ったにわかだけど原曲のほうも繰り返し何度も何度も再生したくらいには大好き。
なのでどっちのファンの気持ちも分かるんじゃないかと思ってる。
愛がない二次創作は駄目という格言がある。ではこの動画はどうだろうか。
こう書くとどっちのファンにも叩かれそうだけど、ぼく勉にも命に嫌われている。にもそれなりに思い入れがある身としては、どちらに対しても少なからぬ愛の込められた動画だと感じた。遊び半分で愉快犯的に作ったものではないと思った。
ぼく勉についてだけど、歌詞とか投コメにあるブログのコメントとかを見た感じ、きっとうp主は筒井先生がYouTubeでいつかうるかちゃんのその後のことを描いてくれるんじゃないかって期待してたんだと思う。
だけど半年前からぼく勉のことを描かなくなったからもうダメなんだと気づいて、それでやり場の無い思いを大好きな曲に預けて発表したかったんだと私は感じた。
愛憎半ばっていうのかな。フルで作ってるのにそれでも全然足りそうにないくらいの怨念に満ちた動画だけど、この動画で歌われている恨みはそのまま愛とイコールなんだと思う。
そういう愛憎籠もった歌詞なんだけど、原曲の文字数に合わせてたり歌詞を変えずに使ってるところも結構あったりして、聞いていて意外と違和感は少ない。
MVの再現具合もなかなかしっかりしてて、スクロールの速度もだいたい合わせてるし、文字がランダムで切り替わりながら歌詞が出てくるのとか、他の替え歌動画見てもあんまりやってないことやってる。
動画は作ったことないから詳しくないけど、そこ再現してるのあんまり見ないからきっと再現するの結構大変なんだと思う。それでも手間を惜しまずなるべく原曲に寄せたかったんだろうなと思うと、そこには少なからず愛があるんだろうと私は思う。
こういう動画を作るのはマナーとしてはいただけないことだと思うけど、自分の大好きな作品に対する思いを昇華するために、大好きな曲をどうしても使いたかったんだと思うと理解できる部分は正直少なくない。愛も恨みも大きいから、同じくらいの気持ちで好きな曲でないと釣り合わないのは正直分かる。
個人的には動画が法的に問題あるという感じはしないし、しっかりとした愛があって作られたものだと思う。うp主の怒りも恨みも決して理不尽なものではなく、そう感じて当然のことだと思う。
だけどそれでもこういった攻撃的な替え歌は許されるべきじゃないと私は思う。
もちろん表現の自由とか大切なんだろうけど、そういう法律や規約以前のマナーの問題として、コミュニティの発展のために攻撃的な歌詞は受け入れないとかそのくらいの基準はあってもいいんじゃないかと思う。
自分の曲を面白く替え歌してくれるのが嫌な人はそんなにいないだろうけど、自分の曲を攻撃的な替え歌に使われるのはほとんどの人が嫌なはず。実際単なるファンでしかない私でもこの歌を聞いてうp主に同情するのと同時に悲しい気持ちになった。
それに攻撃的な替え歌を許容するようになってしまうと、そんなふうに使われるのが嫌だと思う人が動画をアップするのをためらうようになってしまうかもしれない。そうするとボカロ文化の衰退にもつながってしまう。
例えば「たべるんごのうた」ブームのときに煽り要素のあったウィーアー!の替え歌をうp主が自主的に削除したことも、ブームが持続した原因の一つと言われてる。
個人の表現の自由も大事だとは思うけど、コミュニティが持続していくためには一定の制限が必要なんじゃないかと思う。他人の曲を使うのであれば、せめて攻撃的な歌詞にはしないという基準があってもいいんじゃないだろうか。
だからもしこの増田をうp主が見ることがあったら、どうか動画を削除して欲しい。
あなたの怒りも恨みも同じ作品と音楽のファンである私には届いた。どうかそれで十分だと思ってもらえないだろうか。
うp主はきっと何か目的があって動画をアップしたわけじゃないと思う。ただただやりきれない気持ちを発散したかっただけなんだと思う。
だからどこかの誰かにではなく、少なくとも私には届いた。それで満足して終わらせてくれないだろうか。
この増田はあなたに届けばいいなと思って書いた面もあります。広まるかも届くかもわからないけど、もしそうして貰えるなら同じ作品と曲のファンとしてこれ以上嬉しいことはないです。