はてなキーワード: 不謹慎とは
twitterに写真が流れ、それを見て不謹慎厨が日本を憂う流れ。
命を大切にしないだとか、現代社会の闇だとか。
じゃぁ新宿で首をつっている人が居た時の正しい行動って何なのか。
手を合わせて拝む?急いで救うために走る?できるだけ見ないようにして歩く?何をしても批判されそうな気がする。
現代社会の闇なのは、ネットの奥で批判して正しい事をした気になってる人たちじゃないの。
現代人は命を大切にしないとか聞く度に、おばぁちゃんの命に対する向き合い方とか、インドの映像とか、戦地の体験談、江戸時代のさらし首が頭をよぎる。
祖母は田舎生まれ田舎育ちで、家ごとに鶏やウサギを育てて食ってた世代だった。そういう人たちにとって、命というのはあくまで道具で、守るべき大切なものじゃない。
腹が減ったら鶏を絞める、ねずみが居たら岩に投げつけて殺す。
インドには道端に沢山死体が転がってるが、周囲の人は平気で歩く。戦地で人が死んでも10日で慣れる。江戸時代は晒し首が見物だった。
現代人は命というものに鈍感すぎると思う。スーパーには元の形を想像できないほど細切れにされた肉しか並ばない。
その鈍感になった結果が、「命を大切にする」という価値観を生み出した。ヴィーガンが増えてるのも、そういう理由だろう。
昔の人は兎に角命を大切にしない。子供は病気になったらすぐ死ぬし、大切にしてたら美味しい肉も食べれない。
死に向き合えば向き合うほど、人は命を大切にしなくなる。
僕には死体をカメラで撮って喜んでる連中の方が、幾分死や命というものをわかってると思う。
死んだらただの肉だ。人に見えるところでわざわざ死ぬのは迷惑野郎だ。
死んだ後にかける同情なんて無意味だ。生きてるときに同情をかけてない奴が死んだ後に同情するな。
スーパーの食肉を平気で眺めてる奴が、人型になった途端騒ぐな。
死を当たり前ととらえる人間にとって、文明人は嫌悪感を抱くのは当然の摂理かもしれない。
だけど「本来の命の価値」は、心の隅に置いておくべきだと思う。
所詮極東の島国で敗戦国のアジア人が死んだだけ、って部分に活動の限界と言いますか、「そうは言ってもさすがに俺らんとこにまで落とすような土人はいねえだろう」みたいな侮りを感じざるを得ないんですよね
いっぺんてめえの頭の上で炸裂しなきゃわかんねえんだろうなとか、不謹慎なことを考えちゃいそうになるくらいには
戦争が起こりそうです。まさか自分が生きている時に第三次世界大戦が現実味を帯びるとは考えていませんでした。
自分は今21歳。まさに出兵世代です。おそらく徴兵制がこの国に導入されたとしたら、出兵することになるのでしょう。
よく友人と、「出兵するか、足を切って逃れるかどちらを選ぶ?」という話をします。大変不謹慎なのかもしれませんが。
そうするといろんな意見が出ます。「国のために出兵する」「敗北して屈辱を味わうのなら死んだほうがまし」「足を切って逃れたい」
平和、平和、平和。戦争反対、戦争反対、戦争反対。そういう声でしか教育されてこなかった私達には戦争は逆に現実からかけ離れたものです。
むしろ、自らの国を被虐的に見てきた教育は、敗北の屈辱を私達世代に押し付けてきたのかもしれません。
誤った愛国心だと言う人もいるかもしれません。あなたが人を殺すことになるんだと非難する人もいるでしょう。
それでも私は、この国という形と国に住む多くの大切な人のために盾になることもあるでしょう。
だからこそ、願います。決して無駄な命が消えていかないように。
今一度戦争について、この国について、愛国心について考える時期ではないでしょうか。
中身ない戦争反対は、何も生まないことを知るべきです。
精神だとそもそも電車に乗って通勤するのが体調(精神)的に厳しいから通えなかったとかはないやろか?
体調が思わしくない時は、幻聴がしたり、被害妄想や加害妄想が出やすいとかあるやろ?
それが満員電車だと体調のせいなのかガチなのか分からんくなるやん?
非常に不謹慎なことをいうと精神の場合は新たな設備を用意する必要がないんだよね
あと重篤な病気や身体の障がいと違って会社で死んだりする可能性が少ない
なのでダイバーシティのアピールをしたい会社であれば設備投資しないで雇えるので
なんとか通勤ができれば職があると思うんだ
あとやっぱり親戚の誰かや知人の誰かは鬱なり精神系のなんかになったりするご時世なので
純粋に力になりたいって方々もおるで
大変だと思うが諦めないで欲しい
竹島:あの頃は人間扱いしてくれなかった。エベレストに登らされたとき、この仕事を請けたのは失敗だと思いました。
この時の『Mの活劇』の撮影について、Mのスタントである竹島秋雄はこう語ります。
竹島:監督のこだわりと言えば聞こえはいいですが、どちらかというとワガママでしょうね。たった十数秒のシーンのために、わざわざ実際に登る必要はなかった。
監督:初期の『Mの活劇』はショート作品だったので、とにかくインパクトが大事だと考えていました。
この制作スタイルはシーズンごとに落ち着き、起承転結を意識した構成になっていきます。
監督:脚本が完成しないんです。大まかなプロットは複数あって、ストックも常にあります。しかし、それを物語として構築する作業にとても時間がかかりました。
脚本家:1話ごとの放送時間が延びたのが主な原因でしょう。通常、こういう作業には複数の脚本家がチームを組んでやるのですが、元はショート作品だった『Mの活劇』では監督との二人三脚なんです。
そうして完成しても、予期せぬ障害が発生したことも珍しくありません。
監督:意図せず時事ネタになってしまった時は頭を抱えました。編集も終わってた段階だったので、かなりショックでしたね。
そう苦笑しながら、お蔵入りとなった台本と記録媒体を我々に見せてくれた。
監督:この話自体が、当時放送できなかったフィルムを探すって話だから皮肉なもんです。
そのストーリーとは、諸事情で封印された「幻のエピソード」を現スタッフたちが追い求めるというもの。
なんとかフィルムは見つかるのだが、火の不始末によって燃えてしまう。
中身を見ることなく、結局は「幻のエピソード」となってしまうという展開でしたが、このシーンが問題視されました。
監督:現実で、とあるスタジオがマジで火事になっちゃって、不謹慎だからって放送局に拒否されましたよ。
脚本家:そこまではいかずとも、周りで話題になっていることと制作中のテーマが似てしまうなんてのはよくありました。
監督:こちらとしては乗っかっているつもりはないし、そういう風に思われたくもないから時期をズラしたりしてるのに、なぜか再燃して結局はカブるという。
そうした予定外から生まれる急ピッチ制作は、作品の質にも表れます。
テーマが前のめりすぎたり、尻切れトンボなエピソードが出来ました。
監督:枚挙に暇がないけど、くどいというか説教臭いというか。主張がセリフに落とし込めていない感じが今でもする。
脚本家:特に試行錯誤していた中期は、その傾向が強い気がしますね。
他にも課題はありました。
役者たちとの連携が上手くとれず、現場では何度か不和も起きたといいます。
それが世間に認知されたのは、出演者の一人が書いた暴露本でした。
「それ面白い?」
「少なくとも眠くはならん」
皆は口々に「えー」と声を洩らす。
これを持ってきた時、既に年を越していたのが問題だった。
時計の短針は1の数字を指しており、食べるタイミングとしては完全に手遅れだ。
「別に年を越した後に食ってもいいんじゃないかって思うんだよね。“年越し蕎麦”って呼ばれてるんだからさ。年を越す前に食べるか、後に食べるかなんて、この名前だけじゃ確定しない」
そんなこと言い出したら年越し蕎麦自体、どうしても食わなきゃダメってもんじゃない。
しかし出された以上、食わないわけにもいかないので、俺たちは番組を尻目に麺をすするしかなかった。
どうやってやるんだろうねあれ。
まあ本人は苦しいだろうし実際困ることもあるからそういうの不謹慎なのかもしんないけど、なんかコツがあるのかなとは思う。
すごいのだと知らないはずの言語を操ったりとかするんでしょ…?
自ジャンルで肩身が狭い。
頻繁に荒れるからです。オタクたちが。公式相手に。それが怖い。
とはいってもこれオタク側がヤバイ人たちなのかっていうとそんなことはなくて、ごく普通にコンテンツを楽しみたかったごく普通のオタクなんですよね。
だから怖がってるのはたぶん私と、もしかしたらいるかもしれない私と似たようなタイプの人だけだろうなあ、という話。
先に言っておくとこれは自分語りというか感情整理なので一介のオタクの日記にミリも関心がない人は読んでもおそらく時間の無駄です。
自ジャンル。具体名は伏せますが、読む人が読んだら一瞬でわかってしまう気がします。
数年ほど続いてるジャンルで、原作はCDです。アニメ化もしたし舞台化もしました。人口が今どれくらいいるのかはわかりませんが、まあたぶんそれなりにいるのかなあ……私が思ってるよりは知名度が高いのかも、と時折思います。
で、このコンテンツ。まあやり方が下手くそで……こりゃ怒り買ってもしょうがないぞとちょいちょい思うんですよ。
クリエイター側というか、キャラとか声優さんとかストーリーとか役者さんとかイラストレーターさんとか曲を作る方々とか、そういう人たちは全部素敵なんですけど、如何せん公式のやり方が心配になるくらい下手なんですよ。
大事なことを何故か公式からアナウンスしないことが本当に多い。しても遅い。発売予定とかね……大事だと思うんですけど……遅れるなら諸事情で遅れていますって一言いうだけで落ち着く人、そこそこいると思うんです。それがないから……偉い人から口止めでもされてるんですか……?と思うくらいにはその辺の話をしない……かといって公式ツイッターが動いていないかというとそんなこともなく、企画とかコラボカフェとかの話は意気揚々としてるから……偉い人から口止めでもされてるんですか……?と思う……
あと二次元と2.5次元の混線が多い。これ、私は全然平気なんですけど苦手な人はほんとに絶対無理だと思うので……やめてあげたほうがいいんじゃないかなあ……と常々思います……それでキレてる人定期的にお見かけしますよ……
他にも多分いろいろあるんでしょうね。対応面とか……脚本の解釈問題とか……私はそこまではわかりませんが……ただ公式として些か不誠実だな、と思うことは確かにあります。どうかなあ……と思うことは。
あるんですけど、思うところというほどのものがあるかっていうと、ない。
これはどちらかというと個人的な性格とか、こういったコンテンツとの付き合い方の問題なんだと思います。
私は公式に甘いタイプのオタクです。喜怒哀楽の怒の感情がたぶん比較的希薄で、なんていうか、自分のことなのでやや乱暴な言い方をすると、無責任なファンです。
公式が正直客観的(になったつもり)で見ても問題が多いことを認識した上で、はあそうですか、くらいの感情しかない。
平和に生きていたいんですね。植物のようにと言うべきか。穏やかでありたい。そのほうが楽なので。
だから、感情をはっきり吐露しているオタクを見ていると、胃がキリキリするし、怖い。
これほんとに向こうには非はないんです、正直正当な怒りだと思います。でも怖い。
怒っている人がとにかく苦手です。その対象が自分の知っているもので、自分が許容しているものだとなお胃が痛い。
本当に何も気にしてないオタクなんです。
発売が遅れようと。その間は別のジャンルにいたり、一応文を書いたりしてるのでのんびり書いてみたり、それこそ公式ツイだとか、企画系の新規絵や安定して動き続けてる舞台を楽しんでみたり。のびのびやっています。
でも、公式に思うところがある人というのはたぶん、そこそこいる。(観測範囲が狭いのでなんとも言えませんが)
原作が動かないのに派生のものや舞台版は動いてることを複雑に思う人。
派生や舞台も好きだけど、原作が動いてないのに……と思うと素直に喜べないという人。
初期にあった設定がいつの間にかなかったことになっていることを疑問に思う人。
いろんな人がいますし、どれもおかしなものでは無いと思っています。
ほとんど何も気にしてない私のほうが妙なのかもしれない、と思うくらいには。
それでも推しがいるから離れられない、という人もそこそこ見かけました。推しを人質に取られている、と。
言わんとしていることはわかります。でも怖い。
自分と違うものを恐れるという心理があります。それに近いのかもしれない。頭で理解しているつもりでも、反射的になんでそんなに怒るんだろう、って思ってしまう。
物言いが過激というか、些か攻撃的な言葉を使う人が一番苦手です。だめってわけじゃないです!Twitterなんだから好きにつぶやいていいんです、企業でもあるまいし。匿名で何事か言ってる人間のことなんてないものとしてカウントしたほうがいいです。
言い方が不謹慎で非常に申し訳ないのですが、こういうコンテンツのことで体調崩すレベルで怒ったり嘆いたりできる人、すごいな……と思います。あのほんとに揶揄する意図はなくて、感情が豊かだな……と思って……
二次創作をやっているひとは少なからず気が狂っているといいますが、まあそれは確かにそうだろうなと思います。
私も一応は書き手の端くれなので、ツイッターにも二次創作をやっている人は多い。で、たぶんそういう人って、コンテンツについてめちゃくちゃ考えてるんですよ。
(ROM専の人がそうではないということではないですし、書き手が必ずそうというつもりもないです。現に私はそのあたりがとてもゆるい書き手なので……)
コンテンツのことが好きだから、コンテンツの先行きを憂いているから、好きという気持ちが公式への怒りとか、悔しさとか、悲しさに変わってしまうのかな、と思っています。
私はそういうのがない。出てきたものをわーいって言いながら素直に楽しんで、何もないときは何も言わない。それだけ。コンテンツのことはシンプルに好きだなってそれだけだし、公式への感情はそれ以上は特にない。
グッズとか買うのだってただ欲しいからでしかない。応援したいからとか続いてほしいからみたいな殊勝な理由はない。だからお金がどこに流れてるのかなんて気にしたこともない。
設定のブレもそれほど気にならない。これおいしいな、と思うとこだけ適当に拾って食べてる。
要は、私が勝手に肩身が狭いような気がしているっていうだけなんです。被害妄想みたいなもの。
みんないろんな思いを抱えてるのに、脳天気にゆるく楽しんでるのなんか悪いなあ、と思うことがある、それだけ。
別に自分ないし相手のスタンスが嫌なわけじゃなくて、向き合い方はひとりひとりにあるんだからそれはそれでいいんじゃん?と思っていますが、それはそれとして周りが怒ってる中ひとりで普通にしてるのはちょっと心苦しい。
かといって無理に抱いてもない感情に同調するのはどう考えても不毛でしかない。
結果的に、どうでもいいようなことを呟いたり静観したり、という形に落ち着いていく。
とはいえ怒りの感情を眺めていると私は辛くなってくるタイプなので、結果TLからは足が遠のく。
不当なものではないよなあと認識できるからこそ辛いんですよね。同調できないから。同調することが必ずしも是ではないけれども。
モノが出なかろうが何しようが私は別にまあいつか出たらいいなと思うし死んだらその時はその時よね、みたいな感じなんですけど、ただオタクたちがそれで荒れるのを見ているのがただキツい。
そういう意味で、少なくとも公式とファンの間はそこまで荒れないジャンルのこと、たまに羨ましくなります。
でもやめてなんて絶対に言えない。そういうのは自由なので。十中八九ないと思いますがこれ見てやめようとか思ったりしないでください。責任持てないので。
自分のこととはいえこの辺はなかなか変えられないし正直あんまり変える気もないし、まして他の人に関してはもっとそうなので、たぶん公式がちゃんとなるか私の飽きが来るかまでは今の姿勢を取り続けるんだと思います。
おわり。
一番迷惑をこうむるのは、リンチされている人物が認識した敵だ。
このケースだけをとってみれば、Hagex氏にもそれなりに、煽った責任があるように思える。
しかし、一般化していえば、報復行為は、煽った事実がない人間を【黒幕】として誤想して行われる可能性もある。
ちょっとしたことで、俺とある人物がそいつのブログで論争を始めるようになった。その野次馬見物の場所が2chであった。
俺はただ、そいつが四方八方から叩かれているのをときおりウォッチしているだけだったが、次第に俺に敵意をむき出しにするようになった。
俺は黒幕じゃない、といっても理解してもらえず、次第にエスカレートした相手が俺の個人情報を見つけ出し、2chに晒すようになった。
妄想気味にあることないことを書き連ね、名誉棄損を行うに至った。
一方、野次馬の視点からすると、そいつが妄想に取りつかれたように俺を敵視して誹謗中傷する様が、面白おかしくみえるのだろう。
見物している連中が燃料を投下し続けたため、スレが更新され続け、30回を超えてもやむことはなかった。
自分の本名が毎日毎日ネットで晒され、罵倒されているかと思うと、気が散って仕事に支障がでてくるほどだった。
それだけではなく脅迫めいた個人的なメッセージもメールなどの媒体で確認していたので、生活圏に侵入される恐れもあるかもしれないと、じわじわとした恐怖感も生まれていた。
2chの野次馬連中が飽きて書き込みをやめるのを待つほかなかった。
幸いなことに、おそよ2ヵ月で鎮静化した。
この時の教訓は、燃料投下している野次馬を止めることはできないということと
案外と黙っていれば鎮静化するものだな、ということだった。
それは、要するに俺はブロガーには向いていないんだな、ということだった。
不謹慎なのだろうが、本当の意味で、ホッとしたのはこの時からだ。
そいつの追悼文をきっかけに俺のブログの更新は滞り、やがて停止した。
ブックマークによるコメントはストレス解消に、しばらく続けていたが、それもやめてしまった。
Hagex氏の事件を参照すると、当時のことがどうしてもフラッシュバックされてならない。
不思議なことに、その当時の恐怖感が呼び起こされるというよりは、そいつに対する当時の俺のいら立ちがむしろ呼び覚まされてくる。
終わってよかった、と思う反面ね。もう奴は死んでるのに、理不尽な目にあわされ、許しがたいと思う感情がじわりじわりと蘇ってきてしまう。
自然に消えていく感情もあれば、普段は全く意識しないけれども、ふとしたきっかけでよびもどされる残る感情もあるんだな。
正直、今となっては、全く必要のない感情だ。それなのにふと思い出してしまう。恐らく、報復する側にとっても似た感情が熟成されていくのだろう。
一方、Hagex氏殺害事件の場合、加害者の妄想に終止符が打たれた、というわけではない。そこはやはり注意を払う必要があるだろう。
「ま、俺には関係のないことだが」といいたいところだが、誰しも書き込みをした時点で関与を免れないと認識すべきなのかもしれない。