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「リーゼントというのは前頭部の髪型(ポンパドール)ではなく後頭部の髪型(ダックテイル)のことだ」って本当なの?
だいたいの前回のまとめ。
さて、今回の記事の主眼は、前回の記事でも書いた「ポール・グラウス」という人物は何者か、というところにあるのだが、そのまえに増田英吉が戦前から「リーゼント」を施術していたという証拠を提示しておきたい。というのも国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ1936年の広告を見つけたのである。
スタア 4(21)(82) - 国立国会図書館デジタルコレクション
「ゲーブル」というのは俳優のクラーク・ゲーブルのことだろう。
などがこれでわかる。
なおインターネット上で「リーゼントの命名者」とされるもう一人に尾道の理容師・小田原俊幸がいるが、彼が「リーゼント」を発表したのは昭和24年=1949年だというので遅すぎる。おそらくは既にあったリーゼントを独自にアレンジしたとかそういう話なのだろう。
さて、では増田英吉や小田原俊幸とは違って、ググっても検索結果に引っかかりすらしない「ポール・グラウス」とは何者なのか。あらためて調べてみると、1931年にイギリスで刊行された『The Art And Craft Of Hairdressing』という書籍にその名が掲載されていることがわかった。
7ページ(16 of 700)より。
PAUL GLAUS, Past President, Academy of Gentlemen’s Hairdressing (London), a former Chief Examiner in Gentlemen’s Hairdressing, City and Guilds of London Institute.
ポール・グラウスは、ロンドンの「Academy of Gentlemen’s Hairdressing」の前会長であり、かつては「City and Guilds of London Institute」の紳士向け理髪の主任試験官でした。
同姓同名同職の別人の可能性もなくはないが、おそらくはこの人が「ポール・グラウス」なのだろう。ただし、この書籍の著者はGilbert Foanという人物で、ポール・グラウスは「Special Contributor」としていくつかの記事を寄稿しているだけである。
そして驚くべきことに、この『The Art And Craft Of Hairdressing』では「リーゼント(Regent)」についても解説されているのである。「リーゼント」は和製英語であると思われていたが、やはり由来はイギリスにあったのだ。
118ページ(146 of 700)より。
One of the most artistic and distinguished of haircuts, the Regent has been worn by elderly society gentlemen for many years. Then it was always associated with long hair, in most instances nice natural wavy white or grey hair. Since the present writer first decided to cut this style shorter, but in exactly the same shape, the style has been in great demand.
リーゼントは、最も芸術的で格調高いヘアスタイルのひとつで、長年にわたり、年配の社交界の紳士たちに愛されてきました。当時、リーゼントは長い髪、それも自然なウェーブのかかった白髪や白髪の髪によく似合う髪型でした。筆者がこのスタイルをより短く、しかし全く同じ形にカットすることに決めて以来、このスタイルには大きな需要があります。
Rub the fixative well into the hair, spreading it evenly, but do not make the mistake of using so much that it runs on to the face and neck. Then, when the hair is saturated, draw the parting and comb the hair in the position required, sideways, going towards the back of the ears.
整髪料を髪によく揉み込んで均一に広げます。顔や首に流れるほど使いすぎないよう注意してください。髪に馴染んだら、分け目を作り、耳の後ろに向かって横向きに髪をとかします。
「リーゼント」の解説を読むかぎり、そしてイラストを見るかぎり、その前髪には分け目があり、側面の髪を横向きに撫でつけて、襟足はバリカンでV字に刈り上げていたようだ。どうやら前髪を膨らませるわけではなさそうである。また、この書き方だと、もともと「髪の長いリーゼント」が存在しており、それから「筆者」によって「髪の短いリーゼント」が生み出されたらしくはある。具体的なところは不明だが。
追記。鮮明な画像を見つけたのでリンクを張る。ダックテイルのように左右の髪を流して後頭部で合わせているのがはっきりとわかる。
https://www.pinterest.jp/pin/59672763786345196/
ちなみに、この書籍の281ページ(316 of 700)では「Duck-Tailed Pompadour」という髪型も紹介されている。おおっ、と思ったがこれは女性向けの髪型で、いわゆる「エルビス・プレスリーの髪型」とは異なるように見える。しかし、後頭部をアヒルのお尻に見立てる発想や、それとポンパドールを組み合わせる発想は、まず女性向けに存在していて、それが1950年代にアレンジされて男性にも適用されるようになった、ということなのかもしれない。
ややこしいことに、このスキャンされた『The Art And Craft Of Hairdressing』は1958年に発行された第四版なので、どこまでが改訂の際に追加された内容かわからない。1936年にポール・グラウスが日本でリーゼントを紹介した、という話があるからには、少なくともリーゼントは1931年から存在していたと思うのだが…。
追記。Google Booksにあった1931年版に「The Regent Haircut」が記載されていることを確認した。
『The Art And Craft Of Hairdressing』はイギリスで30年以上にわたって改訂されつつ出版されていた名著らしいので、当時のイギリスの理容師のあいだでは「リーゼント」はそれなりに広まっていたのではないかと思うのだが、現在では「リーゼント」という言い方はぜんぜん残っていないようだし、それどころか英語圏でさえ「リーゼント」は和製英語だと書かれていたりするのも謎ではある。
ともあれ推測するに、まず1930年代以前にイギリスで「リーゼント」という髪型が生まれ、1936年ごろにイギリス人のポール・グラウスが日本に「リーゼント」を紹介し、その「リーゼント」を見た増田英吉が日本人に合うように「前髪を膨らませるかたち」にアレンジして広告を打った、という流れなのではないかと思われる。
というわけで大枠の結論としては前回の記事と変わらないが、いくつかのディテールが明らかになったことで状況の理解度は上がったと思う。こちらからは以上です。
子どもの頃から地元があまり好きではなくて、大学進学で上京してからはずっと東京に住んでいる。
9年前、毎年テレビで見ていたあのお祭りのような成人式(成人祭)には普通の振り袖を着て参加した。
会場で会った高校の同級生たちはみんな普通の格好だったけど、小中学校の同級生にはやっぱり派手な格好をしている子たちもいた。
小学生の時に片想いしていた男の子が30センチくらいのリーゼントに金ピカの袴を着ている姿を見たときは、少しだけ胸がぎゅっと切なくなったのを覚えている。
東京に戻ってからは、友人たちに会場で撮った写真を見せながら「修羅の国の成人式」を紹介して笑い話にした。
地元が北九州であることは変えられないのだから、自虐のつもりで、せめて笑い話にしようと思っていた。
あれから何年も経った今、自分の出身地が「修羅の国」呼ばわりされているのを見るのがつらくなっていることに気づいた。あの頃、自分もそう呼んでいたのに。
思えば、あの日の成人式は確かに「派手」ではあったけれど、決して荒れてはいなかった。
「修羅の国」は発砲事件や手榴弾などが見つかっていた当時の治安を指して言われ始めたことなのだろうけど、だとしても、あの街の治安と成人式の派手さは関係がないのではと思うようになったので、「修羅の国の成人式」という紹介にモヤモヤするようになった。
思えば、あれは一種のコスプレイベントのようなもので、オタクが年に2度コミケで思い切ったコスプレをするのと趣旨は同じで、方向性が違うだけなのだろう。
なんなら、コロナ前の渋谷のハロウィンの方がずっと荒れていたと思うけれど、渋ハロは別に「修羅の国」なんて呼ばれない。東京だもんね。
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった
以前から行きつけの床屋があったのだが、そこの人気が出てきて予約もできないため、日によってはカットまで2時間ぐらい待たされることもあった。
その点、今通っている美容院はLINEで予約ができ、場所も自宅からほど近い場所にある。美容院なんて床屋の上位互換だし、美容院に行っても良いじゃないかと思っていき始めたが、難しさを感じている。
私は髪型だとかには無頓着で興味がなかったので、床屋に行くのはただただ伸びてきた髪をカットし、毛量を少なくするためだと考えている。むしろ、おしゃれな髪型になって目立ってしまうことを避けていると言ってもいい(まぁリーゼントとかにしない限り、そこまで目立つこともないだろうが)
以前の床屋では、店員さんに「全体的に短めで。」というだけで丁度いい毛量になった。
ただ、最近行き始めた美容院では「全体的に短めで。」というと店員さんが言外の意味を汲み取ってしまい、おしゃれな髪型になってしまうことが多くなった。店員さんの注文に対する解像度やカットに対する表現力が高いことで生じてしまった問題な気がする。
おそらく、美容院での注文の仕方を覚えて「横の部分はバリカン何mm、頭の頂点付近は何mm、後ろ髪ははさみだけで。」等と注文すればよいのだろうが、言葉通りに「全体的に短め」なカットにする良い方法は何かないだろうか。
4、5部は8月に同時上映みたいなのどっかで見た気がするんだけど
アレ?と思って調べたら上映始まってた
でも調べたら上映館少ねーのな
まぁ4部から見始める人は少ないだろうし減るのは仕方ない…
ん?でも1部上映してるとこも少ないから元々困難なのか?
よくわからん…
まぁ仕方なく遠出して観に行った
ただ、1は良かったけど2、3はやっぱり混戦だと分かりにくかったり、観賞後に謎の頭痛に襲われたりしたのでちょい心配
でもtとかだと概ね好評なんだよな
今観に行ってる奴なんてよく訓練された富野信者だろうからアテにならんけど
ガンダムだからG席で観るとか言っててアホかと思ったけどワテもG席で観ちゃったりして
・クンパ大佐もランニングするんだ…!と微笑ましく観てたらレイハントン家の人だった
・女医先生と目が小さくてやたらいい声の人、いい人かと思ったらやべー奴らだった
でも助かったのは良かった
注射いる?
・艦長聖人レベルでいい人なんで人間爆弾にされてマジで心配しちった
・ジット団、爆弾は偽物だったりそれなりの良識はあるっぽいけど警察(名前忘れた)は普通に撃ってんだよな
昔はチッカラのが好きだったけどツインテール(名前忘れた)の方がかわいく見える
あのアプサラスっぽいやつ強そうだし強いだろうけどどうなんだろ
キア隊長死ぬところ、不覚にもウルッと来ちゃったけど、でもお前が空けた穴やん…?さっきまで戦闘優先してたやん…?というのがちらつく
今女学生が大量に乗ってきてしかもワイの座ってる長シートごとスルーされてんのな
売店あるし
・マニィは普通にいいやつだけど
巨大MS鹵獲はどうかと思う
てか、キャスト観るまでラ・グーのボーカリストが子安と気付かんだ
・フォトントルピード怖…アイツ月光蝶よりヤバくねー?人殺し呼ばわりもやむなしつーか普通に虐殺…立ち直り早いのはいいのか悪いのか
バララの前でマニィとイチャつくのはどうかと思う
・エンディング、普通にGの閃光でよくねと思ったり思わなかったり
まぁ最終章でやるんだろうけど
でもなんだかんだ戦闘シーンはいいしキャラも魅力的だから楽しかったれす(調教済み)
こないだ、たまたま図書館でGレコの本見て、富野のエッセイみたいなんかなと思ったらガッツリ設定語っててたまげた
実はどれがクレセントシップでどれがフルムーンシップかよくわかってなかったり
ガランデンってどうなったんだっけ…?