はてなキーワード: 蔑称とは
何かを開放することと何かを規制することだ。
例えば人種差別。
米国のベースボールの世界でも昔は黒人がプレーヤーになることが出来なかったと聞く。
しかし、そういった差別(暗黙の規制)を開放することで社会はよりよい形へと変革させることが出来る。
改革開放というやり方がある。
中国なんかは比較的貧しい国だったが鄧小平が改革開放路線で経済特区のなかで規制を開放して経済活動を出来る仕組みを作った。
こんなふうに世の中を変革するのに開放というやり方は有効である。
一方で世の中を変えるためには規制を導入することが肝要であると考える人達がいる。
ルールというのは行き過ぎた開放による弊害が出たときの最小限の規制であるべきだと思うからだ。
基本的に人は自由だ。人による表現の自由が保証されることと同程度に自由である。
とはいえ人間社会というのは人の自由をそれほど保証してこなかった。
人類がその社会を運営していく中で様々なルールや因習というものを積み重ねていった結果として人は様々なものに縛られる結果となった。
そういったものを「開放」することを目指した結果としてあらゆる人種やあらゆる性別が社会に進出して活躍する世の中を実現しているのが現代社会である。
しかし、何かを「規制」するというのはその方向性と真逆であることの危機を察知できない人たちがいる。
それは文化というものが変化するということで、その変化がこそがまさに人類の発展である。
しかし、ある特定の価値観を強く主張して物事に対して規制をかけようとする考えを持つ人達は、ある価値観による社会の固定化を望む人たちだ。
そういった社会は結局のところ、新しい差別や新しい因習を育むための土壌にしかならない。
別に駅のど真ん中にポルノを置くのが望ましいとは僕だって思ってはいない。
でも、それでも駅のど真ん中にポルノを置ける世の中のほうが僕は望ましいと思っている。
そもそも駅のど真ん中にポルノを置けない社会だったのだ日本は。
なんと破廉恥な!と昭和初期の社会であれば否定されていただろう。
そういった「正しくない」考えを持つ人々のことを「オタク」という蔑称で差別したのである。
そういった歴史があるのだ。
もしオタク文化を気に入らない人たちが、どんどんと「規制」をかけていったのなら今の日本の文化は随分と違ったものとなっているだろう。
サッカーおたく(サッカーオタク/サカおた/サカオタ)という表現は電子掲示板2ちゃんねるのみで使われていたと言っても過言では無いくらい利用される環境が限られていた蔑称だった。
別サービスで使われることもあったがほぼ2ちゃんねる用語みたいなものでリアルでサッカー好きへ「サッカーおたくなんですね」なんて言うと決まって言われた方のサッカー好きは不機嫌になったものだ。
特にその不機嫌となる傾向は国内サッカーだけでなく欧州サッカーをもフォローしているようなサッカーへ深い理解を持っているサッカー好きほど強く、何ならサッカーおたくと言われたサッカー好きは暴言を返すまであった。
その当時の国内サッカー普及度を考えれば欧州サッカーを知ってるサッカー好きなんてサッカーおたく以外なにものでも無いのだが自身がオタクであることを決して認めないどころか怒り狂うほどオタクと呼ばれるのを毛嫌いしたのだ。
ちなみに野球好きはどうなのよ?と思うかも知れないが、“野球おたく„なんて言葉が登場する前から“野球狂い„や“虎キチ„“ドラキチ„などという“野球おたく„の上位互換のような表現があったので、そのように呼ばれる野球好きは別に怒り狂うなんてことはなかった。
野球狂いなんて呼ばれても不機嫌になる人も居たが極少数だった。“アンチ巨人„なんてむしろ誉れくらいに思ってる人が居るような文化だったのだ。
今はTwitterなどでサッカーおたくやサカオタなどと検索すると普通に自称しているヒットするようになっており時代は変わるもんだなぁとしみじみ思う。
約30年前はサッカー部員が、というよりも運動部員がオタクをいじめてたりもしてたわけだけど、20年くらい前、2ちゃんねる登場以降から状況が変わり始めて、今やサッカー好きもサカオタですよ。
そう言えば女子も“ジャニーズ女おたく„なんて言われると嫌がってたなぁ。
あぁそうそう“おたく„って当時は男性詞だったのよ。男性詞だったから女性のおたくは“女おたく„だったわけ。
そんなことを考えると、これから10年20年も経てば“フェミニズムおたく„って表現が一般化したりしてね。
フェミオタの皆さん、同じオタク同士仲良くしようぜ?サカオタだってコチラ側に来たんだからフェミニズムもオタク趣味の一部になれるよ。
https://anond.hatelabo.jp/20221127203636
ロリエロ、漫画もアニメも構わないけど、公共の場には出してくれるなというのが、現在娘をもつ親の率直な気持ちなんだが、これはお気持ち案件、表現の自由をどーのこーのになるのかね…
そりゃなるでしょ…
もううんざりだよ…
相手もそうだと思うよ…
売る側は人の欲につけ込んでるし、
それはあらゆる広告がそうでしょ
いや否定はしてるだろ
公共やそれに近い場ではやめてくれよという話なんだけどな…
あのさあ
真面目に話すつもり(かそれを装ってるつも)ならさあ
きちんと話の筋を通しなさいよ
あんたのやってるのって
・初手被害者意識チラつかせ
・「やめてくれよ」というふわふわな指示
という
誠実さを読み取れる箇所が一か所もねえ雑言なんだわ
昔の南部の白人が「ニガーはもろもろわきまえてくれ」と言ってるのと差がないレベル
「うんざり」という言い方してるってことはその手のお気持ちクレーム何度もやってるってことでしょ?
それなら「まずきちんとしたラインや定義を示してくれ」ってのも絶対言われたことあるはずだよ何度も
どうしてそこだけはなんとしても迂回したいの?
まともな規制議論のために相手に提示された最低限のハードルすら迂回して
何度も何度も同じ無理押しトライしてるんだから同じようにエラーし続けるし
そりゃウンザリもするでしょうよ
それって相手のせい?
こうやってワンセンテンスごとに蔑みと偏見を抑えられないような人間が
まともな話し合いや建設的議論をしようとしてる・してきたとか言う主張は
公正性に照らして1ミリも受け入れることが出来ない。
言ったら白人と黒人の話し合いで白人がずっとぶつぶつNワード吐いてるようなものでしょ?
こういうの見る限り「対立は主に白人のせいなんだな」って判断せざるを得ないんだけど。
え、じゃあ諦めなさいよ。
でも諦めずにずーっと言い続けてるんだから
と言ってるだけでしょ?
そうやって「なんとかなんの責任もなしに人の権利を制限したい」というトライを繰り返す時間で
きちんと「どのような表現をどのような場で規制するのか」の条文を模索すべきだったのではと思うけど。
さっぱりわからないんだわ。
「子供を被写体にした映像ソフトを規制せよ」なら範囲が分かるし
けど絵だぜ?
相手から見れば「こいつは仕事があんまできないか相当不誠実かその両方」と思われる。
これじゃ相手が乗れるわけないよね。
それで細かく定義とか…しんど…
ええ…
あのさあ!
ねえ!ガキじゃねえんだからさ!
追記2
まーここでは仕方ないか
そういう最低限のことを問われると「しんどい」「萎える」でマッハで被害者ポジ
なにか突っ込まれると論理的応答ではなく相手へのレッテル貼りや蔑みでしのごうとする
「ここでは」じゃなくて逆にどこの世界でこういう人が通用するのか知りたい
議論の通用しない狭いサークルで力持ってる側だと恐ろしい人になりそうだけど
・場の定義
のような最低限が揃わないまま規制求めてるので
こんなの「反対」とかいうより「吟味不可能」「書類不備却下」 でしょって思う
ちなみに当該ソシャゲやってないしあの絵になんの魅力も感じないことを申し添えておく
(感じてる人でもこれと同じことを言ってなんの問題もないとは思うんだけど)
今公立の学校に通ってる子供とかその保護者とかに盛大に流れ弾当てといて「だって自分は公立の学校通ってたんだから動物園だって言う権利あるもん!(←それを言う権利があるのは「自分の在学当時に自分が通ってた学校」だけでは? 自分の彼氏がDVカスだからって「私の彼氏はDV男だったから男は全員DVゴミオスだって言う権利あるもん!」って言ってるのと同じでは?)」とか、「だって動物園は綺麗に管理されてるし蔑称じゃないもん!(←なら日本国とかコミケなんかはまさに国家(運営)によってとても良く管理の行き届いた動物園ですね! 外国人や非オタのマスコミなんかに「日本は動物園」「コミケは動物園」とか言われても差別だとか侮辱されたとか思っちゃダメだよ!)」とか、まあまあよう言い訳するわって感じ。
まあそんなに現在の日本国の小学生98%と中学生92%(東京限定ですら81%)を治安と学習環境の崩壊した動物園に通う動物だとdisりたきゃあこれまで通り勝手にやったらいいと思うけど、こんだけの数の子供とその親を、自分が通ってたウン十年前当時の学校への恨みを理由にでっけえ主語でdisるってツイフェミもびっくりなヘイトしぐさじゃありませんかね。
そういう蔑称(最初からさげすみのニュアンスを含んでいるくくり言葉)は使わないことにしている。
表現の自由戦士とか。もちろんウヨとかパヨとかチャンコロとかも。
そういう言葉が使われた意見は、その時点で「私はものごとを色眼鏡で見ています。この論評には客観性がなく、偏っています」と自ら宣言しているようなものだと思う。
それに賛同するのはせいぜい「同じ色眼鏡をかけている人々」だけだよね。
同じ意見の仲間にしか共鳴せず、意見を異にする集団に対しては反感しか生まないような言葉で、果たして建設的な議論なんて成立するだろうか?
もちろん私とて、意見を異にする人に対する反感はある。
でも、そういう個人的な感情はいったん棚上げして客観的に問題の本質を掘り下げられるのが理知的な人物だと思う。
なので私は使わない。
自動車乗りって、「道路で違反をしてるのは主に自転車乗りだ」って頻繁に主張してくるよね。チャリンカスとか蔑称まで作って。
「自転車も免許制にしろ」とかもよく言うよね、あたかも免許取ってる自分たちは順法意識が高いとばかりに。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/max358japan2/status/1583549038506307584
大半のドライバーが犯してる「速度超過」を違反にカウントしてないレベルの意識みたいだから。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1967517
なんで「法律違反の取り締まりを回避するためのグッズ」が堂々と量販店で売られているの?誰か説明できる?
免許制にしたって順法意識が高まらないことを証明してるだけじゃないか。
速度超過が10km/hでも同じだよ。
免許講習では「10Km/hなら速度オーバーしてもいいよ」って教えてるの?んなわけないよね?
挙句の果てには「流れに乗るのが大事なので速度制限の方が間違ってる」とかいう始末。なら法改正してから言え。
100歩譲って「車道に自動車しかいない」なら流れが大事かもしれないけれど
速度の異なる自転車も同じ車道を走ってるんだよ。平均速度が10km上がったらそれだけ衝突された自転車の被害が増えるに決まってるだろ。
この状況を無視して、よくも自転車乗りに責任押しつけてくるよな。
「反LGBT法」ロシアで成立へ 報道や映画、ほぼ全面禁止の恐れ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASQBW6SJZQBWUHBI02R.html
東京都⼈権部が飯山由貴のアート作品を検閲か。小池百合子都知事の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への態度も影響した可能性
1.そもそも表現の自由という非常に大事なものを蔑称に使うのは不適切ではないか?表現の自由のために戦うのは当然ではないか?
2.表現の自由戦士とは具代的にどのような人物を指しているのか?
3.表現の自由戦士がだんまりしていたというのはどういう根拠に基づくのか?
4.なぜ真っ先に批判する相手がプーチンや小池百合子及び東京都人権部ではなく表現の自由戦士なのか?
対抗するための本を紹介。
リュドミラ・ウリツカヤ『緑の天幕』(新潮クレスト・ブックス)
スターリン死後の1953年からソ連崩壊後の1996年までを描く大河小説。作者はこう語っている。
「自分自身の青春時代、つまり1960-1970年代を再確認してみようと思ってこの小説を書いていたのですが、書き終えたら、アクチュアルなテーマの作品だったことに気づきました。最近我が国では意図的に個人崇拝の復活が進められています。(略)
専制的な体制によって挫折させられた『緑の天幕』の主人公たちの運命が、ソビエト時代を良い時代だったと懐かしむ人々への警告となることを願っています」
リュドミラ・ウリツカヤは十年以上反政府運動に加わっている。今回の侵攻を受けて祖国を離れた。
「一人の人間とその忠実な助手たちの狂気に国の運命が左右されている。現下の状況には痛み、恐怖、恥を覚える。激化する戦争を止め、国のプロパガンダの嘘に抵抗すべきだ」と訴えている。
加藤直樹 『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(ころから)
関東大震災で起こった朝鮮人虐殺について多くの証言と資料を用いて解説した本。
震災前から日本人が朝鮮人に抱いていた差別感情、歪んだ正義感による暴行、軍や警察の加担、加害者たちへ同情的の世論……決して忘れてはならないことを伝えている。
加藤直樹はチームを組んで「「朝鮮人虐殺はなかった」はなぜデタラメか」http://01sep1923.tokyo/という虐殺否定論のデタラメを指摘するサイトを作っている。こちらも必見。
追記:言いたいことがふわっとしてしまったかもだけど、ASDとカミングアウトしたりプロフに書いてる人はここで書いてるような「擬態」をやって来てる可能性が極めて高いので、概して普通にコミュニケーションは取れるし、妙な垣根は設けて欲しくないかなとは思う。
最近は、一般書はもちろんのこと色々なWebページで発達障害について書かれるようになってきたので、これを見てる人のほとんどが発達障害については聞いたことがあるだろうし、なんなら身近にそういう人もいると思う。ただ、当事者としては発達障害、特にASD(旧称アスペルガー)については発達障害専門でもない医師などによる誤解が蔓延してて、ひどくめんどくさい。てわけで、当事者目線から見たASDへの誤解について書いとこうと思う。一応、正式な診断はないけどWAIS-IV知能検査は受けてて、ADHDよりはASDの方が傾向強めという感じで言われたくらいだとは書いておく。
幼い頃って意味ではかなり正しいんだけど、結構多くのASDが思春期辺りで「あれ?俺ってなんか浮いてる?」てことに気づいて「擬態」という形で定型発達の模倣をするようになる。成人して社会に溶け込めてる発達当事者は擬態をかなりの精度でやってのけるから、字面のまま受け取るタイプのASDは存外少ない。むしろ、擬態がうまいタイプは相手の言葉をかなり疑り深く分析してることも多い。発達当事者の多くは擬態をやってることに自覚的で「擬態」の他にも「ASD修正パッチ」、「模倣」とか色々な言葉で表現するのだけど、近年の発達障害研究でようやくこの模倣行動が知られるようになったみたい。参考: https://www.city.himeji.lg.jp/bousai/cmsfiles/contents/0000020/20708/zidou3.pdf ここで「カモフラージュ」て書かれてるやつのことね。カモフラージュ行動が記されるようになったのは発達研究でもかなり新しいらしく、まだまだ当事者にとっては当然のことでも知られてないことが多いと感じる。
性質が悪いのは「ASDへの配慮として」字面通りに受け取ってあげましょうとか、率直に言ってあげましょうみたいなマニュアルが一部で出来上がってることで、思春期から訓練してむしろ「字面通りに受け取らないように」してるタイプにしてみればそういうマニュアルで行動されるのはたまったものじゃない。TwitterでプロフにASDと書いてる人に「字面通りに」伝えたり、相手の言葉を受け取ったりして当事者の神経を逆撫でするなんてのも見たことがある。
前述の擬態を過剰にやるタイプだとむしろ、(たぶん)定型だと普通やらんだろってくらい相手の意図を深読みしたりもする。人間って案外その時点での感情を意識してないことが多いのだけど、このタイプの人は滅茶苦茶深い精度で理屈で考えて他者の感情を読み取るから、すっごい気遣いさんになることも多いし、頭いいタイプのASDだとこの予測精度は定型より高いことも多い。
知る限りでは、これは全く事実に反しているのだけど何故かそう思ってる人は多い。もちろん、共感能力が低いASDも少なくないけど、むしろ極めて高いタイプもいて、弱者に対して普通以上に思いやれる人も多い。それゆえに普通そこまでやる?くらいの自己犠牲型になることもあったり。この辺は今だ未解明ではあるけど、ASDであるかどうかと共感能力については直交概念じゃないかなあ。
もちろん、「傾向としては」そういうのが見られる人も多いんだけど、それはASDの症状というより成長過程で社会不適応に気づけなかった結果として現れる感じ。
じゃあ、ASDの本質とは何よって言われるとこれはまだ研究途上で色々難しいんだけど、「物事をパターンで把握したがる」傾向じゃないかなあってのが個人的な仮説。ゆえに、
みたいなのが表面上現れる感じ。ただ、これも擬態してる人は元来の傾向を理性で巧妙にセーブしてたりするから、そもそも発達当事者と気づかれないことも多い。周囲から見た時に、「なんかこの人、毎日同じような行動をしてるなあ」とか、多人数での飲み会なんかだと無口になってたり消極的になってたりして「ちょっと人付き合いが苦手なのかな」程度に見えることも多いってのが実感。
他の問題として、知的障害と発達障害がしばしば混同されるというのがある。知能が一定水準を切るといずれにせよ「空気が読めない」ので外から見ると発達障害と区別がつかないのだろうけど、とある発達当事者の精神科医のツイートを見る限り、このケースは結構多いらしい。実際、巷で「発達」「アスペ」と呼ばれてるタイプの人(こういう蔑称は好きじゃないけど)は知的能力が低いというか境界知能じゃないか?レベルのケースが散見されてて、それが発達障害、特にASDへの偏見を増す結果になってるなあと思う。
さらには、精神疾患と発達障害の混同、パーソナリティ障害と発達障害の混同なんてケースもある。これは発達障害のせいでイジメや親からの虐待を食らってその結果精神疾患を患ったみたいなケースもあるので、あながち無関係とも言えないのだけど、二次的な障害と元来の傾向による苦労が混同されるのもややこしいことだなあと。